2025年10月25日土曜日

ただ一つの慰め

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り
主を仰ぎ望んで喜びを得
その宮で朝を迎えることを。

旧約聖書 詩編 27編 4節

シニア合唱団に加わり、70代・80代の方々と懐かしい歌を月2回、平日の午後に練習しています。歌が好きなら聖歌隊に入ったら、と言われそうですが、聖歌隊の練習は礼拝前に行われることが多いようで、朝に体調が整わない私には難しいのです。

シニア合唱団の発表会で「翼をください」を歌いました。私が高校生だった19712月に<赤い鳥>というグループが発表した曲です。何年かして学校の音楽教科書に採用されたことから、年代を問わず多くの人に親しまれているようです。

〽 いま私の願いごとが叶うならば、翼がほしい
この背中に鳥のように、白い翼つけてください
この大空に翼を広げ、飛んでゆきたいよ…… 〽

上の歌詞をクリスチャンの目から眺める時、二つのことが思い浮かびます。
一つはハイデルベルク信仰問答の問一と、答えの冒頭部分です。

Q:生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。
A:わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。

(出典=『ハイデルベルク信仰問答』(竹森満佐一訳、新教新書、1961年)

そしてもう一つが、冒頭に掲げた詩篇の言葉です。ここを読んで私がよくする祈りは「イエス様、あなたに救われた時に与えられた新しい命で、あなたと共に歩み、あなたを崇めることを喜びとし、これからもずっと、あなたのそばにいられるようにしてください!」というもので、口にするだけで喜びに溢れ、力が漲ります。私にとって信仰の友とは、このような思いを心の底から共有できる人のことです。

(H.M. 70代)



2025年10月18日土曜日

長く生きる意味は

死ぬことなく、生き長らえて主の御業を語り伝えよう。

旧約聖書 詩編 118編 17節

ローマの哲人セネカの言葉にこんな一文があります。「誰かが白髪であるからと言って、あるいは顔にしわがあるからと言ってその人が長生きをしたと考える理由はない。彼は長く生きたのではなく、長くいただけの事なのだ。」

80歳を過ぎ毎日をただ漫然と過ごしている自分にセネカの言葉が突き刺さります。私たちは長生きするためにいろいろなことを試みます。食べ物に気をつけたり運動をしたり時にはサプリメントを使用するなど、いろいろと努力をしています。しかし何のために長生きするのかを自らに問うこともなくただ一日でも長く生きるために努力しているように思います。

そんなことを考えている時、冒頭の詩人の言葉に出会いました。これまでも何度も読んできた言葉ですがこの年になって初めて自分への語りかけの言葉として響いてきました。 詩人の言葉は「キリスト者にとって生きる意味は神を喜ぶこと」というよりももっと具体的に今の自分の生きる意味を示してくれているように思い励まされます。

(K.O. 80代)



2025年10月11日土曜日

神さまへの信頼

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

新約聖書 ペトロの手紙一  5章 7節

職場の聖書研究会でご一緒させて頂いたOBの方から、一人のカトリック信徒のご婦人を紹介されました。職場で不動産に関わる仕事に従事していたこともあり、ご婦人の不動産活用についての相談のためでした。

必ずしも健康という方でなく、常に体調を気使う必要があり、その日その日の体調と向き合いながらも、一日一日を感謝して過ごされていました。

ご自宅を訪問の際は、不動産の話については勿論、通われているカトリックの聖イグナチオ教会のこと、神父との学び会のこと等信仰の話が中心になっていました。最後には、必ず祈りの時を持ちました。

この15年の間、ご婦人は体調や経済面で、困難が続いていたにもかかわらず、祈りのテーマは、ご自身の健康が支えられること、日々の生活が守られること、そして神さまの御心に沿った歩みができることでした。

どんな状況でも、神さまに全き信頼を寄せ、委ね、神さまと共に生きる信仰の姿に触れ、私自身も励まされ、祈りを分かち合う恵みを頂きました。

(H.K. 60代)



2025年10月4日土曜日

中村哲さんのこと

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

新約聖書 ヨハネによる福音書  12章 24節

私の尊敬する人の一人は中村哲さんです。中村哲さんがアフガニスタンで凶弾に倒れ、もうすぐ6年になります。長年、特に用水路建設では陣頭に立ち、かの地で人道支援に尽力されたことは皆さんの知るところです。

中村哲さんは登山隊の帯同医師として険しい山岳地帯に赴きますが、貧しい山麓の村に医師はなく、村人が医療と薬を求めて押し寄せたと聞きます。その様子は病を癒してもらおうとイエスさまに群がる人々を連想させます。

中村哲さんはありったけの薬を村に置きたかったでしょうが、登山隊の健康管理を任務とすれば村人に為す術もなく、どんなに悔しい思いをされたかと想像します。

中村哲さんは医療が十分に届かない地での現実を前に 病をなくすには、まずきれいな水だ、と用水路整備を始めたのです。安全な地ならいざ知らず、武装集団の活動のおそれがある地で身を守る一番の武器は無武装である、と中村哲さんは常に丸腰で活動に臨み、しかし最後には凶弾に倒れました。

イエスさまは、旅に出る弟子に、何も持って行ってはならないと諭し宣教に遣わし、そして遂には私たちの罪のために十字架にかかりました。しかし、その後に復活の希望がありました。

中村哲さんは召されましたが、蒔いた種は着実に多くの実を結びその意志はアフガニスタンの人々に引き継がれ、活動は今も継続しています。イエスさまの教えそのままを、私は中村哲さんに見ます。

イエスさまは今も生きて働いておられ、私たちも、平和の種をまき朽ちることなく広がるように、神さまのご用のために遣わされた場で生かされるよう祈ります。

(E.I. 60代)