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2026年9月12日土曜日

子供のように?

心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。

新約聖書 マタイによる福音書  18章 3節

独身時代の私は子どもが苦手で、聖書の「子どものようにならなければ天の国に入れない」という御言葉を、素直に心から受け入れることができませんでした。    

しかし結婚後、親戚も友人もいない土地で、初めての子育てが始まりました。必死に育児日記をつけ探究の日々でしたが、ある時、娘の姿を通して神様のメッセージの意味をやっと理解させていただきました。 

ある日、私は娘の行動を叱りました。叱った側の私は、数時間経ってもまだ心の中で怒りを根に持っていました。ところが娘は、まるで何事もなかったかのような満面の笑顔で、「ママー!」と私に抱きついてきたのです。大好きなママに叱られて一番辛かったはずの娘が、親の私のわだかまりをも溶かすように、ただ無条件で飛び込んでくるのです。

そしてまた、いつも娘は「ママー!」と私を求めて来てくれるのです。 「子どものようになる」とは、過去に囚われず、相手をありのままに信頼して受け入れることなのだと、娘の姿を通して教えらた気持ちでした。 自分の小ささを知ると同時に、神様が私たちをありのままに愛し、いつでも両手を広げて待っていてくださる恵みの深さを、子育てを通して学ぶことができました。 

(60代)



2026年8月15日土曜日

髪の毛一本を拾う今日にしたい

あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。

新約聖書 マタイによる福音書 10章 30節

教会に来たことのない7歳の小学生に、「神さまは、○○ちゃんの髪の毛の一本一本までも全部知っているんだよー」と話したときの、あの驚いた表情を今でも忘れられません。まさに目を丸くして、驚きと不思議が入り混じった顔で私を見つめてくれました。

その瞬間から、この御言葉と○○ちゃんは、私の中でセットとなっています。そして○○ちゃんは、私が日々祈りに覚えている大切な人のひとりです。

プレッシャーのかかる日の朝、与えられている務めを果たせるか不安になるとき、○○ちゃんのことを祈りながら、この聖書の言葉を思い出します。

――神さまは、私の髪の毛一本一本までも知っていてくださる。その神さまは、人の目にどう映るか、私が上手くできるかどうかよりも、私の心がどこに向いているかに目を留めておられる。今日という日を神さまのためにささげようとする、その小さな思いを喜んでくださる。

不安ばかりが心に広がりそうな日こそ、部屋に落ちている髪の毛を一本拾うように、本当に小さなことでも神さまの前に誠実でありたいと願います。誰の目に留まらなくても、神さまだけが見ていてくださることを信じて、神さまが微笑んでくださるような一日を歩みたいです。そう願いながら、勇気を出して毎朝家を出ます。

(30代)

2026年7月4日土曜日

祈ること

だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、
隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、
隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

新約聖書 マタイによる福音書  6章 6節

日常生活の中で祈るとき、お願いごとばかりが多いように思います。
もちろん感謝のお祈りもしますが、朝夕の祈り、食前の祈りもあります。
家族や友人の病気や困難を知った時は必死に祈ります。
複雑なことがらはブツブツ独り言のように祈るときもあります。
あれもこれもお願いします、お願いします、と。

み言葉の中に「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」、とあります。
どの部屋ですか?? と、思ってしまいます。

それは、心騒がせ、表面的にくどくど祈るのではなく、心の奥深い部分に入って、その奥深い部分をさらけ出して祈った時に、神様からの平安となぐさめ、力や知識を与えられると知りました。
その奥深いところに神様はいてくださり、そして神様は、私達が願う前から私たちに必要なものはご存じなのです、とのみ言葉です。

日常のお祈りをきいていただきながら、心の奥深いところの自分の正直な、ありのままの思いを神様にお伝えしようと思っています。

(M.N. 70代)


2026年5月16日土曜日

終末の徴

「人に惑わされないように気をつけなさい。・・・」

新約聖書 マタイによる福音書 24章 4節以下

マタイ・マルコ・ルカ三福音書が多くの言葉を使って、「終末の徴」について記録しているのは、弟子をはじめ当時の人達の大きな関心事であったからだと思います。現代の世界においても、各地に天災が起こり、地球上で戦争が絶えない現況に、同じような緊張を感じます。

誰でも恐怖を感じると冷静でいられなくなります。しかし、どうして良いかも分かりません。ただ、それに続くマタイ25:31~46のみ言葉に希望をみます。

人の子(イエス様)の裁きは、「さぁ、わたしの父に祝福された人たち」と、呼びかけ「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と、永遠の命に預からせてくださる道が告げられているからです。

どのような時にも、人に惑わされる事なく、主を見上げ、祈りつつみ言葉に生かされて行きたいと思います。

(M.I. 80代)


2026年1月31日土曜日

一年の初めにすること・一日の初めにすること

体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。

新約聖書 マタイによる福音書 6章 22節~23節

新年にはカレンダーや日記を新しくするだけでなく、デボーション(霊的黙想?)用の本も新調します。実際のデボーションでは、数冊の本の該当日の記述をゆっくり読みながら霊的な体操をした後、教会作成の「聖書日課」の聖書個所に目を通します。締めくくりは、5年前からつけだした「祈りのノート」をめくり、課題のいくつかについて順番に祈りを捧げます。これは私が毎朝、つまり一日の初めに行うことです。旅行するときも必要なものを印刷して持参し、この習慣を守っています。

手持ちの十数種類の聖書の中で、中心的に使っているのは『現代訳聖書』(尾山令仁訳)で、冒頭に掲げた個所(この訳は新共同訳)は現代訳では次のようになっています。 

「体の明かりは目です。それで、もしあなたの目が澄んでいて、困っている人を見た時、すぐに恵んでやれるほど健全であるなら、あなたの全身は明るいのですが、もし目が悪く、困っている人を見ても、あわれみの心を閉じるようであれば、あなたの全身は真暗です。その暗さは、どれほどひどいものでしょうか」(下線は本記事作成者による)。これは、聖書原文の意味するところをわかりやすくするための敷衍訳と言ってよいでしょう。

敷衍訳を一切受け付けない人もいるようですが、私には大変参考になります。もちろん、それを鵜呑みにせず、他の聖書にも目を通します。そして当該聖句の前後の箇所も読んだ上で(つまり文脈を意識して)、訳文が適切か否か判断します。

冒頭の聖書箇所に関して最も興味深い訳は岩波文庫の『新約聖書 福音書』(訳者・塚本虎二)です。他の訳はほとんどこの二つの節だけをまとめ、「体のともし火は目」のような小見出しを付けているのですが、塚本訳で前後を意識し、マタイ福音書6章19~24節をひとまとめにとらえて「宝を地上に積むな」と見出しを振り、次のように訳しています。文脈を強く意識した、ユニークな訳業です。

「このように、何事も天の父上相手でなければならない。たとえばあなた達は衣魚(しみ)や虫が食い、また泥坊が忍び込んで盗むこの地上に宝を積まず、衣魚(しみ)も虫も食わない、また泥坊が忍び込むことも盗むこともない天に、宝を積んでおきなさい。そうでないと、心が天に向かないであろう。宝のある所に、あなたの心もあるのだから。目は体の明りである。だからあなたの目が澄んでおれば、体全体が明るいが、目が悪いと、体全体が暗い。だから天に宝を積まないため、もしあなたの内の光である目、すなわち心が暗かったら、その暗さはどんなであろう。わたし達の心は天か地かに引かれる。だれも同時に二人の主人に仕えることは出来ない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎(うとん)じるか、どちらかである。あなた達は神と富(マモン)とに仕えることは出来ない。」

このように複数の聖書を読み比べたり、祈りの対象である事柄に思いを馳せていると、朝の1時間はあっという間に過ぎ去ります。自由な時間が持てる幸いを神に感謝するしだいです。

(H.M. 70代前半)


2025年8月17日日曜日

まだ赦せない、でも、赦せたら楽だとは理解している

七の七十倍まで赦しなさい。

新約聖書 マタイによる福音書 18章 22節

マタイによる福音書18章21~35節の聖書の言葉を心にかけています。

ペトロが「兄弟が私に罪を犯したら、何度まで赦すべきでしょうか。七度までですか」と尋ねたとき、イエス様は「七度どころか、七の七十倍まで」と答えられました。

「私には無理だな」と思ってしまいます。私は昔から、変なことにこだわり、固執しやすいです。「赦したほうが楽になれる」「自分のためにも手放したほうがいい」のかもしれませんが、追いつきません。

すごく親しい人との関係で許せないことが起きました。イライラしたり悲しくなったりします。今後の関係性も悩ましいです。

このたとえ話の後半に出てくる「赦された者が赦せなかった話」もまた、興味深いです。

神さまに何度も赦されてきたのに、人に対しては一度の過ちすら赦せずにいる――それでも尚、「赦せました!」とはとても言えず、「赦せたらいいのかもしれないね」程度です。

この正直な気持ちを神さまに隠さず、いつか「赦すことを喜べる心」をいただけるように。

お祈りしながら、歩んでいきたいと思います。                                 

(S.K. 30代)




2025年7月27日日曜日

神はすべての人を愛する

あなたがたが祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置いて、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を捧げなさい。

新約聖書 マタイによる福音書 5章23~24節

神から大きな悔い改めを迫られ、私がイエス・キリストを心に受け入れた時、想像を超える大きな平安が与えられると同時に、こんな私を愛してくださる神は、私以外のすべての人も愛し、救いに導こうとされていることを理解しました。

その頃、私には大嫌いな人物、Sがいました。Sは妻の親しい友人で、私は結婚式にSを絶対に呼ばないでと妻に言ったのですが、妻は気にせずSを招待し、私とSはその日、大喧嘩をすることになります。表立って他人と喧嘩をしたことのない私ですので、Sのことがよほど嫌いだったのだと思います。

救われてから、このSと和解しなければならないという思いが私に強く迫りました。神はすべての人を愛しているからです。

どうすればできるか。電話や手紙で謝る勇気はなく毎日祈っていると、トワ・エ・モアの歌のように「ある日突然」、我々夫婦が出席したキリスト教家庭集会にSの姿があるではありませんか。Sは学生時代の私と同様、クリスチャンになるなんて考えられない人物なのに。

目が合った瞬間、私とSは歩み寄り、「あの時はすまなかった」と互いに謝り、神に感謝を捧げつつ和解の涙を流していました。Sは私と仲たがいした日に大きな衝撃を覚え、やさしさ溢れる私の妻のようになりたい一心で教会につながり、この日の家庭集会を知ったとのことでした。

以上は、私に信仰が与えられた40年以上前に起こった出来事で、それからの信仰生活の大きな励ましになった経験です。冒頭の聖書の言葉を目にするたびに、いくぶんニュアンスは異なりますが、この時のことを思い出すのです。

(H.M. 70代)


2025年6月22日日曜日

自分を迫害する者のために

あなたがたも聞いている通り、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

新約聖書 マタイによる福音書 5章43~44節

私は、学生の時、この聖書の箇所に初めて出会い、とても驚きました。こんなことが本当にできるのかと思いました。大人になり何十年も経ちましたが、私はほとんど変わっておらず、やはり、どのようなシチュエーションでも苦手な人がいる、嫌な感情が出てしまう、という現実は何も変わりません。そんな弱い私です。ただ、最近ほんの少しだけ気づいたことがあります。

「隣人を愛する」、当たり前に過ごしている毎日の中に、相手を少しでも思いやる気持ちをもつことが、神様が私たちひとりひとりを愛して下さっていることへの「応答」が大事なのではないかということです。

また、苦手な人が自分にどのような態度を取ろうとも、神様が御創りになった大切な存在として見ること、これは私たちの力だけでは決してできないことであり、神様からの「恵み」によって初めてできるようになるのだということです。神様にお祈りはしても、私だけでどうにかしようと思っていたことが大きな間違いでした。

相手のために祈り、その思いを神様に明け渡し、憎しみを手放し、祈りを通して、私たちは自分だけの視点から離れ、神様の大きな視点から状況を見つめ直すことができるのだと思います。相手のために祈ることは、すぐに赦しに繋がらなくても、赦しへと向かう大事な第一歩だと思います。神様はその祈りを聞き、弱い私たちに良い道を与えてくださると信じています。

(E.O. 40代)




2025年6月8日日曜日

祈りの輪の中で

あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

新約聖書 マタイによる福音書 18章19節

毎晩まじめに聖書を読んで祈り、自分でも努力したのに願いどおりの結果とならなかったとき、私たちは神様に期待した分、大きな失望を感じるのではないでしょうか。

以前そのような経験をした私は、祈った分また期待してしまうのが怖くなり、そのことについてはすっかり祈ることをやめてしまいました。

数ヶ月が経ったある日、いつも私のことを気にかけてくれるある方とお話しする機会がありました。それまで私は、本当の祈り課題を人に話すことはあまりなかったのですが、時間をかけて信頼関係ができていたその方から心の内を探られた私は、思わず自分の状況を話してしまいました。

すると、それはぜひ祈りましょう、と言って、その場で一緒に祈ってくれました。そのときから私は、一人でも再び本当の祈り課題を神様へ打ち明けることができるようになりました。

祈ったからといって、望んだとおりの結果が得られるとは限らないし、再び落ち込んでしまうことへの怖さもありましたが、そのときはまた、祈りの仲間に素直に話して一緒に祈ってもらおう、そうすれば神さまが支えてくれるだろう、と思えるようになりました。祈りの輪の中にいることの安心感が、一人で祈るときにも恐れから解放してくれることを思わされた出来事でした。 

(M.K. 30代)



2025年6月1日日曜日

愛のあるところに神あり

はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。

新約聖書 マタイによる福音書 26章40節(口語訳)

子供たちと、ロシアの文豪トルストイ著「靴屋のマルチン」の絵本を読みました。マルチンは妻と息子を亡くし寂しい思いをしていた靴屋です。ある日マルチンは「わしが行くから往来を見ておれよ」との声を聞きました。寒いロシアの冬です。マルチンはサモワール(給湯器)に火をいれシチューをこしらえ、靴屋の仕事をしながら往来に目を配っていました。すると店先には極寒の中、雪かきをするおじいさん、赤ちゃんを抱えた夏服姿のお母さん、りんごを盗んだ子供を叱るおばあさん、が次々と現れました。これらの誰もが靴を買いにきたわけではありません。マルチンは、それぞれに温かい食べ物や上着を差し出し、叱られた男の子を優しく諭しました。マルチンはまた声を聞きました。「わしがわからないかね?わしだよ。」マルチンは毎日聖書を読んでいました。イエスさまが「飢えている時に食べさせ、裸の時に着させ、牢にいた時訪ねてくれた。」と言っておられたのに気づきました。別名「愛のあるところに神あり」で知られるこの民話は、何気ない日常の中で、愛の使者として人に仕え、社会に送りだされる私たちへのイエス様からの励ましのようであります。 

(E.I. 60代)


2025年5月25日日曜日

丸太のたとえ

あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。

新約聖書 マタイによる福音書 7章 3~4節

「貴女は自己憐憫ばかりだ、神様はこんなに私たちを愛してくださっているとどうしてわからないんだ!」
「神様は全てをよいものにしてくださるのにどうして信じられないの?」

決して穏やかな「信仰生活」を送ってきていない私に、何度となくかけられた言葉だ。言われるたびに「またか」という気持ちと、「余程ご自分の目が澄んでいるとお思いなのだな」と思うのももう慣れた。人を裁くなと聖書にはある、裁いている自覚もある。最早自分は神のしもべではないと思うことの方が多い。
(やはり信仰に目に見えて燃えている人を神は選ぶのだろう)
(私の目には丸太が刺さっている。でもそう言ってくる人にはおが屑はないのだろうか)
(神の平等って、何なのだろうか)

 神様、私の目には丸太があります。でも引っこ抜いたらきっと他の人のおが屑が気になります。どうすればいいんでしょうか。

あー、この繰り返しが私の信仰生活なのか。 

(R.I. 40代)


2025年4月27日日曜日

祈れる恵み

よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。

新約聖書 マタイによる福音書 18章 19~20節

感謝な事に、私の家庭はクリスチャンホームです。自分がクリスチャンである事を友人達にまたSNSでも伝えています。

自分や家族の事もそうですが、我が家には、祈らなければならない事が伝えられると必ず一緒に祈ります。もちろん自分一人で祈る事もありますが、緊急事態を知らされた時などは、必ず夫と2人で祈りそののち家族皆でその課題を祈り続けます。海外の友人からも祈って欲しいと連絡をいただくと、細かに誰がどのような状態なのかを聞いて、すぐに夫に共に祈りを求めます。

祈れる特権を私たち信仰者は与えられています。主は尊い命を差し出してまで私たちに、イエス様の御名を通して神様に祈れる特権を与えてくださいました。私は罪深い貪欲な人間だけど、2人で心を合わせるなら、と主は仰っています。だから、信じ続け祈ります。祈れる恵みを感謝しています。

(S.K. 60代)


2025年4月13日日曜日

二人で

どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二入または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。

新約聖書 マタイによる福音書 18章19~20節

何故二人が願い求めるならなのでしょうか。何故二人または三人が集まるところなのでしょうか。願い事は、人に知られたくないと思う場合もあるし、独りで問題を解決しなければならないという場合もあるはずです。それでも二人または三人なのは、独りでいてはいけないということなのだと思うのです。

独りでは、気持ちのゆとりが持てず、身勝手な思いに駆られてしまうかもしれません。「孤独に悩んでいないで、誰かと語り合って、前向きになりなさい。」ということなのだと思えるのです。

教会では、教会員のお互いを兄、姉と呼び合います。教会に集う家族として、話を聞き祈ってくれます。それが心強い支えとなることは確かです。

(H.K. 70代)


2025年3月2日日曜日

御心のままに

父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。

新約聖書 マタイによる福音書 26:39

父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。

新約聖書 ルカによる福音書 22:42

わたしの心の中にいつもあるイエス様の祈りです。自分本位になりそうなとき、怖くてたまらないとき、心が暗闇に襲われるとき、この祈りがわたしの光となっています。

ちょっとこれ嫌だな、憂鬱だな、なんていうレベルではなく、心身が壊されるような辛苦に耐えなければならないとき、イエス様のこの祈りがわたしの支えでした。

友に裏切られ、十字架に釘付けにされる前の夜、神の子であるイエス様は「できることなら、この杯(苦しみ)を取り除けてください」と祈られました。イエス様でさえ、苦しみを取り除けてくださいと祈られた、このことがどんなにわたしに力を与えてくれたか。今、現在苦しみを強いられることも辛いです。しかし、そのような日が先の未来に必ずあるとわかっているときもあります。「大切な人の死」はその一つかもしれません。「その日が来ませんように」、「できるならば、この苦しみを取り除けてください」、誰もがそう願うと思います。

イエス様の祈りは続きます。「わたしの願いではなく、御心のままに」。

苦しみに引き裂かれていたわたしの心を守り、支えてくれたのは、イエス様のこの祈りです。今日も明日もいつもこの祈りがわたしの心を導き、守ってくださると信じています。

(Y.S. 30代)



2025年2月9日日曜日

迷い出た羊

ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。

新約聖書 マタイによる福音書 18章 12節

私たち1人1人は本当に小さな者です。毎日曜に教会に通って祈りを捧げているクリスチャンというのは「品行方正で高潔な人」のように思われるかもしれませんが、そんなことはありません。人間である以上、誰もが小さな罪を心の中に抱えています。でも神様だけはそれを全てご存じです。ご存じの上で、いつも1人1人を心にかけ、いつでも憐れみと赦しをもって私たちを迎え入れてくださいます。

たとえ一時的に神様の元を離れてしまい、御心に背く生活をしていたとしてもです。この聖句にあるように、神様はご自分の群れを離れた一匹を根気よく捜し出し、見つかれば心から喜んで迎え入れてくださいます。

実は私の家族の1人も、神様の家族としていただきながら、ここしばらく教会を離れてしまっています。でも「神様だけは何もかもご存じで、いつでも喜んで迎えてくださる」ことを伝えられたら…そのためにこれを読んでくれないかな、と秘かに願い、祈っています。

 (N.N. 60代)



2024年11月3日日曜日

思い悩むな

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

新約聖書 マタイによる福音書 12章 34節

20年くらい前の礼拝説教で、クリスチャンは長生きする人が多い。頌栄教会も、元気な高齢信徒が多いと言われたことを覚えている。その時の礼拝出席者を眺めまわすと、80歳代、90歳代の人が姿勢も良く説教に聴き入り、立ったり座ったりして唱和したり賛美歌を歌ったり、かなりの運動量をこなしておられる。健康を維持していくためには、長い積み重ねがあってのことではあるが、肉体的なことばかりではない。心の健康に聖書のどの部分を読んでも教えられ、気づかされることが多い。

この聖句は取り越し苦労しやすい自分の性格に警鐘を鳴らし「私が一緒にいるのに、何を心配しているの? 」と言ってくださっていることに気がついた。それ以来、私に必要なものは神様が御存知で、神様が用意して整えてくださると信じているので、この言葉に支えられて、日々歩んでいくことが出来ている。 

(H.K. 70代)



2024年9月8日日曜日

力と勇気を与えて下さる神様

だから人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

新約聖書 マタイによる福音書 7章12節

今も私にはテサロニケ5章17~18の絶えず祈りと感謝が必要な日々ですが、最近歳をとり、ストレスや思うように動けなくなってきました。そんな時、歳をとったらお互い助け合いよ、と言ってくれる幼い頃からの友人達、教会の友人達、多くの友人を与えてくださった神様に感謝です。私がしてもらいたい事と言うより、自分だったら大変で嫌だな、と思うことを出来る範囲で、支え会う事ができれば、幸せだなと思う日々です。

(F.S. 70代)


2024年8月25日日曜日

地の塩、世の光 

あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、なんの役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は隠れることができない。

新約聖書 マタイによる福音書 5章 13~14節

この言葉を選んだのは、高3の自分が、とある大学のサイトで見つけたのがきっかけです。地の塩、世の光はそのサイトで見つける前から読んだことはあるのですが、深く考えたことはありませんでした。これを機にちょっとどういうことかと調べてみました。

地の塩、地はこの世のことだそうです。塩と聞いて最初に浮かぶのは調味料です。調味料がメインになることはありません。「何か」に味をつけるんです。わざわざ塩自体が美味しいとはあまり言いませんよね。だから目立たないながら人や社会を支えるようなものだと私は思いました。

世の光は人々が歩けるよう導くような光だと思いました。イルミネーションのような見てすごい、ではない、これも誰かのためのものです。

私はこれを自分の夢に当てはめられるな、と思いました。私の夢はマーケターです。人が当たり前に望むものを提供する地の塩、そして自分が先立って望みを越えるような新しいアイデアを出して社会を先導する世の光。そのために何をするかはまだ自分の課題ですが、この役割を下さったのは神様です。歩くべき道を用意して下さいました。この聖句はその道をどのように進むか、楽しみに思わせてくれた聖句です。

(S.I. 10代)

2024年8月18日日曜日

イジメられた相手のための祈り

敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

新約聖書 マタイによる福音書 5章44節後半

昨年(2023年)の秋、大阪で開かれた小・中学校の同窓会に出席しました。集まったのは二人の恩師と二十数名の仲間。十代前半の昔と古希の今との風貌の違いに驚きつつも、懐かしさに浸れたひとときでした。

残念なのは“ガキ大将”が現れなかったこと。当時、野球に似たキックボールをよくしたのですが、自分が蹴ったボールが受けとめられアウトになると怒り出す変な奴で、私もののしられ嫌な思いをしたことが何度かあります。60年経ってどんな爺さんになったか確認したいし、何より昔の無礼を詫びてもらわなければなりません。しかしそれは、喜寿同窓会に持ち越されたのでありました。

上記と関係して、私がキリスト信仰をもった四十数年前、とても感動した話があります。ドラえもんのジャイアンのようなガキ大将A君にいじめられるので学校に行きたがらない息子に、クリスチャンの父親が「いっしょに祈ろう」と言います。すると息子は「今日A君に会わないようにしてください」とか「A君が病気になりますように」と祈りだします。これを聞いた父親は、「A君と仲良くなれますように」と祈ったらどうだろうと諭すのです。

話を読みながら冒頭のイエスの言葉が頭に浮かびました。他の福音書の並行箇所では「……敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(ルカによる福音書6章27節後半)とあります。社会情勢が変化し悲惨なイジメ事件が頻発する世の中ですが、クリスチャンの祈りの基本姿勢として、上記の逸話は今も心に残っています。

(H.M. 70代)


2024年6月23日日曜日

人にしてもらいたいと思うこと

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

新約聖書 マタイによる福音書 7章 12節

私は長年ホスピタリティに関わる仕事をしてきています。聖書にはホスピタリティのヒントになる聖句がいくつか示されています。その一つがこの聖句です。

私自身接客をする際は「人にしてもらいたいと思うこと」を人にすることを意識して心がけていました。一方で自分がされて嫌だと思った接客はしないようにしていました。この聖句も見方を変えれば「人にしてもらいたいと思わないことは、人にしてはならない」と考えることができるのではないでしょうか。自分がされて嫌なことはしない。

そして、自分が相手にしたいと思うことをするのではなく、自分がしてもらいたいと思うことをする。これがホスピタリティの基本的な考え方です。

この聖句は私にホスピタリティの基本を示してくれた大切な箇所の一つです。

(K.I. 50代)