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2026年10月24日土曜日

まかない種は生えない

涙と共に種を蒔く人は
喜びの歌と共に刈り入れる。

旧約聖書 詩編 126編 5節

上の言葉、キリスト教書店に置いてある本のしおりなどにもよく用いられるので、クリスチャンなら目にしたことがあるでしょう。しかし、その意味を正しく理解しているでしょうか? 恥ずかしながら私は、「種まきが苦しくても、豊作の時には喜びに変わる」ぐらいの受け止め方をしていた気がします。

詩編を読むとき、私は羽鳥明著『今日の詩篇 明日の詩篇』(いのちのことば社)を手元に置いて参照するのですが、この個所に関する羽鳥先生の次の解説には目を開かされました。(*注:羽鳥本で引用されるのが新改訳聖書のため、新共同訳が用いる「詩編」ではなく「詩篇」という字が使用されています)

  ……「蒔かぬ種は生えぬ」、これこそ原則中の原則ではないでしょうか。
  ですから、涙とともに、いのちの種、愛の種、親切の種、祈りの種を
  蒔き続ける人だけが、やがて喜びながら刈り取ることができるのです。
  蒔かないかぎり、生えないのです。……

私だけかもしれませんが、考えさせられました、「いのちの種、愛の種、親切の種、祈りの種」をまくとは。「蒔かないかぎり、生えない」という結びも効いているじゃないですか。最近他界した女優・岸惠子の自伝の副題「卵を割らなければ、オムレツは食べられない」や、誰が言ったか知りませんが、「宝くじは、買わんと絶対に当たらんのや」を思い出しました。後者は大阪弁なので漫才師かもしれません。大阪人の私の造語も並べておきましょう。「試験は受けんと絶対に受からんもんなんや」。―― こんなことに頭を巡らしていると、ローマの信徒への手紙10章14節以下が浮かんでくるのですが、……浮かばない人は聖書を開いてみてください。

(70代前半)


2026年10月17日土曜日

振り返ることのできる日まで

バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた。

旧約聖書 詩編 137編 1節

バビロン捕囚を体験した人々の心情を歌う詩編137が今日の聖書日課でした。

「流れのほとりに座り」という言葉から、穏やかな川の岸辺を思い浮かべました。しかし、その流れのほとりに座る人々の心は、深い絶望の中にあったのです。

私は大きな喪失感を抱え、ごく当たり前と思える日常生活を送ることが難しい時期がありました。当時は、清々しい青空や四季の美しさを目にすると、かえって自分だけがこの世界から切り離されたところにいるような、自分がどこにいるのかもわからない―そんな感覚がありました。

今日この詩編を読み、当時の感覚がふとよみがえってきました。同時に、この詩編は「(あのとき)わたしたちは泣いた」と過去を振り返る祈りであることに気づきました。この詩編の作者は、絶望と失意の底に座り込むしかなかったときの涙を覚えているけれども、今は(あのとき)から距離をおき、語ることのできる日にいるのです。

そう気づいたとき、私も“あのとき”を振り返ることのできる日にいることに気づきました。私が自分の形を自分で保てない日々も、私が気づかないところで、神さまが私を保ち、支え、今日まで運んでくださったのだ、と。

静かに振り返ることのできる日もあれば、(あのとき)と距離が縮まり、まだまだ癒えていない痛みが疼く日もあります。だからこそ、過去の涙を静かに振り返る祈りと、今なお続く嘆きの祈りとが複雑に重なり合う詩編137の御言葉に、やさしい希望を感じました。

どんな日も、どんな祈りも私のありのままの思いを受け止めてくださる神さまが今日も私を導いてくださっていることを思います。

(30代)


2026年6月6日土曜日

イエス君はいとうるわし

あなたは人の子らのだれよりも美しく あなたの唇は優雅に語る。あなたはとこしえに神の祝福を受ける方。

旧約聖書 詩編 45編 3節

讃美歌166「イエス君はいとうるわし」は私の大好きな讃美歌です。歌詞もメロディも素朴であると思いますが、なんの飾り気もないような歌曲がイエスさまを崇高に歌い上げ高らかに賛美しています。「花より美しく、月よりさやけし、風より香し、雪より清けし」とあるとおりです。

初めてこの賛美に出会ったのは、教会に通い始めて間もない中学1年生の時でした。私は教会学校でゲームをするよりも、賛美を歌ったり、説教を聞いたりすることに関心があり、この賛美に出会ったときも、「あめつちの主、神の御子で、人の子」であるイエスさまとはいったい何者なのだろうか、と大いに興味を持ちました。それは今でも変わりありません、いや、むしろますますわからなく、深く知りたいと思うようになりました。

イエスさまについて研究することは専門の方に譲るとして、私は詩編45編で歌われているように主を私の冠として、日々感謝をもって歩んでいけることに喜びを感じます。同じ思いが人々にいきわたり、栄光を自らにではなく主において謙虚と正義を駆って進軍することで平和が築き上げられることを祈ってやみません。

(E.I. 60代)


2026年3月7日土曜日

愛し、究めてくださる方

主よ、あなたはわたしを究め
わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り
遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け
わたしの道にことごとく通じておられる。
わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに
主よ、あなたはすべてを知っておられる。
前からも後ろからもわたしを囲み
御手をわたしの上に置いていてくださる。

旧約聖書 詩編139編 1~5節

天の神様は、私が生まれる前から私を知り、守り愛して導いてくださっています。

これまで、数えきれないほど多くの願いを祈り求めてきました。

祈りは必ず聞かれています。すぐに神様からのお返事がいただけるもの、しばらく待たされるもの、忘れた頃にようやくお返事をいただけるもの、様々ありますが、すべての祈りは聞かれています。

かなり前から祈り求めていた祈りで、そのお返事がよくわからなものがありました。最近になってあらためて思い返し、もしかしたら私の努力が足りないのか?何か私の方に要因があるのでは?と思いめぐらしていました。

そこで気づいたのです。主は私のもっと奥底の、私自身認識していなかった、ずーっと奥深いところにくすぶっていた、私の「真の願い」の方を見ていらしたことを。

もともとの私が願っていた通りになっていたら、きっと、この「真の願い」に気づかず、いつまでたっても、得体のしれない、ドロ沼にはまったままのような、重く暗いものを胸に抱えたままだったかもしれません。

正に、天のお父様はわたしを究めてくださっていました。そして、私が意識していなかった「真の願い」へと私を導いてくださいました。そのことに気づいてから、いつも振り子時計の大きな振り子が左右に揺れるように不安定だったわたしの心に小さな芯ができたように感じました。

祈り求めるとき、いつも思うのは、わたしがベストだと思っていることが本当にベストとは限らない、主は常に主のベストをわたしに与えようとしてくださっている、ということです。

結果が思い描いていたものと違っていたとしても、私を私自身よりも究めてくださっている主を信じてゆだねていけることを幸せに思います。日々、主の愛を感じるたびに、感謝と讃美が心からあふれてとまりません。ハレルヤ!

(N.T. 60代)


2026年2月21日土曜日

黄金比と呼ばれるもの

あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。 月も、星も、あなたが配置なさったもの。

旧約聖書 詩編 8編 4節

天地創造主なる神がすべてをお創りになったことは理解していたつもりでも、恥ずかしながら「そうなんだ」くらいの感覚であった私が、まことに神の御業だと信じたのはほんの小さなきっかけからでした。それを思い出したのは、今開催されている冬季オリンピック開会式の解説で誰かが言っていたのを聞いたからです。芸術の宝庫と言われるイタリアでの開催だけに、様々な芸術作品を彷彿とされる仕掛けがありました。その中で「黄金比」という美しい数列があって、それはフィポナッチというイタリア人が発見したものだということを聞きました。黄金比は絵画や建造物、花の並びにもみられるということです。

そこで思い出したのは、私が犬の散歩途中で植え込みや花壇の花をよくみると実にうまく花びらや葉が並んでいることに感心したことでした。ひまわりの種の並びや様々な花びらや葉が見事に調和され「これは人間が考えてできることではない」とシンプルに思ったことで神の御業と信じるに至ったのです。月も星も神が配置されたもの、花びらひとつとってもこれほどの美しさを醸し出すのは神の指の業であるに違いありません。神の創造された自然の中で、このフィポナッチという人が秩序と調和を見出し、それに数学的見地から黄金比というものに気がついたのだろうな、と思いました。難しいことはわかりませんが、これからも神さまのお創りになった美しいものに気がつくことのできる感性を磨きたいです。

(E.I. 60代)


2025年10月25日土曜日

ただ一つの慰め

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り
主を仰ぎ望んで喜びを得
その宮で朝を迎えることを。

旧約聖書 詩編 27編 4節

シニア合唱団に加わり、70代・80代の方々と懐かしい歌を月2回、平日の午後に練習しています。歌が好きなら聖歌隊に入ったら、と言われそうですが、聖歌隊の練習は礼拝前に行われることが多いようで、朝に体調が整わない私には難しいのです。

シニア合唱団の発表会で「翼をください」を歌いました。私が高校生だった1971年2月に<赤い鳥>というグループが発表した曲です。何年かして学校の音楽教科書に採用されたことから、年代を問わず多くの人に親しまれているようです。

〽 いま私の願いごとが叶うならば、翼がほしい
この背中に鳥のように、白い翼つけてください
この大空に翼を広げ、飛んでゆきたいよ…… 〽

上の歌詞をクリスチャンの目から眺める時、二つのことが思い浮かびます。
一つはハイデルベルク信仰問答の問一と、答えの冒頭部分です。

Q:生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。
A:わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。

(出典=『ハイデルベルク信仰問答』(竹森満佐一訳、新教新書、1961年)

そしてもう一つが、冒頭に掲げた詩篇の言葉です。ここを読んで私がよくする祈りは「イエス様、あなたに救われた時に与えられた新しい命で、あなたと共に歩み、あなたを崇めることを喜びとし、これからもずっと、あなたのそばにいられるようにしてください!」というもので、口にするだけで喜びに溢れ、力が漲ります。私にとって信仰の友とは、このような思いを心の底から共有できる人のことです。

(H.M. 70代)



2025年10月18日土曜日

長く生きる意味は

死ぬことなく、生き長らえて主の御業を語り伝えよう。

旧約聖書 詩編 118編 17節

ローマの哲人セネカの言葉にこんな一文があります。「誰かが白髪であるからと言って、あるいは顔にしわがあるからと言ってその人が長生きをしたと考える理由はない。彼は長く生きたのではなく、長くいただけの事なのだ。」

80歳を過ぎ毎日をただ漫然と過ごしている自分にセネカの言葉が突き刺さります。私たちは長生きするためにいろいろなことを試みます。食べ物に気をつけたり運動をしたり時にはサプリメントを使用するなど、いろいろと努力をしています。しかし何のために長生きするのかを自らに問うこともなくただ一日でも長く生きるために努力しているように思います。

そんなことを考えている時、冒頭の詩人の言葉に出会いました。これまでも何度も読んできた言葉ですがこの年になって初めて自分への語りかけの言葉として響いてきました。 詩人の言葉は「キリスト者にとって生きる意味は神を喜ぶこと」というよりももっと具体的に今の自分の生きる意味を示してくれているように思い励まされます。

(K.O. 80代)



2025年8月31日日曜日

羊を感じた日

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

旧約聖書 詩編 23編 1節

私にとって、この箇所は思い出があります。その思い出はつい最近できたものです。それは大学受験のこと。面接で、面接官が聖書の特定の場所を読み、私たちはその場所を開いて、どういうことを言っているか説明する、というものがあります。場所は旧約聖書も新約聖書もあらゆるところから出ます。しかし過去の情報を見ていると旧約聖書は創世記か出エジプト記だし、どれも超有名なところ。新約聖書も同じように有名なところ。詩篇はまぁ出ないだろうと思って私はほとんど対策をしていませんでした。それで、この箇所がタイトルになっているということはまぁ...出たという事なんですね。

それは面接の待ち時間のこと。かなり待ち時間が長く、初めて会う受験生たちと話すようになり、どこ対策した?なんて話になりました。そこで一人の子がここ有名だよね!とこの詩篇23篇を出してきたわけです。私はえ?どこそれ?と場所を教えてもらい一応頭に入れておきました。そしてそのあと丁度そのあと面接でそこが出て、答えられたわけです。羊飼いは当時最も階級が低い人の仕事で、常に羊を守っています。神様は手の届かない存在ではなくて、ずっとそばで見守って、助けてくださったんだなと思った瞬間でした。                                

(S.I. 10代)


2025年5月11日日曜日

すべての国のすべての民と共に

すべての国よ、主を賛美せよ。
すべての民よ、主をほめたたえよ。
主の慈しみとまことはとこしえに
わたしたちを超えて力強い。
ハレルヤ。

旧約聖書 詩編 117編 1~2節

神さまは、すべての国々のすべての民を顧みて、愛してくださっています。神さまは、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださいます。(新約聖書 マタイによる福音書5章45節) 神さまの私たち人間への慈しみと真実は、私たちの想像を超えていて、とても大きなもの、力強いものなのです。

だから、私は祈ります。今、神さまを信じている人々と共に祈ります。世界のすべての国々のために、世界のすべての民族のために、神さまの慈しみと真実にすがって祈ります。実際、どんな人でも、神さまの愛と憐れみがなければ生きていけないのですが、そのことに目が開かれることを願い、とりなして祈ります。神さまは私たち人間を大切なものとして造ってくださり、愛していてくださり、どこまでも善い神さまなのです。本当に素晴らしいお方です。その偉大な神さまを、世界中の人々と共に仰ぐことができたらと願います。

(K.T. 50代)


2025年4月20日日曜日

職業人として

深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。

旧約聖書 詩編 130編  1節

讃美歌をオルガンで弾いていると、「なるほど!!」と、思うことがあります。50代に突入し、最近仕事や私生活で、よく読み違えたり言い間違えたりします。認知機能も衰えワーキングメモリも低くなっているのに、最近、定年が先延ばしにされ、徒競走のゴールテープが見えてきたのに取り上げられた気分で嫌気が差していました。

60歳で定年したら今まで支えてもらっていた先輩方のように再任用で後輩に仕える予定だったのに、「責任が重いまま働き続けるなんて!」と嘆いていました。でも、この聖句の讃美歌258を弾くと、『おのれの業には少しも頼らず、ひたすら恵みの力をたのみて〜のぞみてゆるがじ。』とあります。

「そうかぁ、自分はだめでも、いいのか!」、むしろ「そんな事気にしないで働けってことか!」と納得することが出来ました。

確かに、私の職場は優秀な人材に囲まれて私はいつもフォローされています。 なんて私は幸せなんだと気付かされました。

(M.E. 50代)


2025年2月16日日曜日

日々の生活の中で

主はあなたを見守る方
あなたを覆う陰、あなたの右にいます方

旧約聖書 詩編 121編 5節

ある日公園で行っているラジオ体操の時、どんよりした空から雨が降り出してきました。濡れないよう大きな木の近くに移り体操を始めました。途中空を見上げた時に木の葉が雨をさえぎってくれている様子に、神様もこうして大きな御手で私たちを守ってくださっていると気づきました。普段の生活の中でふとした時に主の御臨在を感じられることに感謝します。

 (M.A. 60代)


2025年1月12日日曜日

人生の締めくくりの言葉

いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。

旧約聖書 詩編 32編 1節

人は、どんな言葉で、人生を締めくくるでしょうか。  

夫の父は、子どもがキリスト者になっても全く反対せず、認めていました。しかし、自分が信仰に入る事は、長くありませんでした。 

ところがある日、「自分達も洗礼を受けようと思う。」と、電話で決心を伝えてきました。両親共に60代で受洗し、教会に繋がり、母は教会を通って帰天しました。その後、我々は遠く離れていましたからサポート出来ず、父は自己管理を徹底し独居生活をしていました。

その父の最期の頃、手伝いに行くと、食前の感謝で、「神さま、私がこんなに幸いなのは、全てあなたからの恵みです。恵みです、恵みです・・・」と繰り返し、涙が溢れて絶句し、アーメン!と祈りました。 

87歳までの人生が駆け巡ったのでしょうか。広島の原爆の日に、人のミスで爆心地に行けず奇跡的に原爆に遭わなかった事。子供2人を幼い内に亡くした事、病や生活の労苦にも神の慰め支えがあり、全てが神さまの守り導きの内であったと感謝と賛美になったのでしょう。

「いかに幸いなことでしょう」、私も感謝し賛美したいと願います。

(M.I. 80代)



2024年8月11日日曜日

扉を打ち砕いてくださる神さま

主は青銅の扉を破り 鉄のかんぬきを砕いてくださった。

旧約聖書 詩編 107編 16節(口語訳)

「絶望などしない」などと強がりを言っている自分ですが、どうしても不安や心配が先に立って、目の前に立ちはだかるものを乗り越えられない時があります。そのような時には、壁を乗り越えるというより、乗り越える先につながっている、この扉を主が打ち破ってくださる、という力強いみ言葉に救われています。主は慈悲深く、扉を内側から優しく開けてくださる時もありますが、このように、鉄のかんぬきを砕くかのように私を鼓舞してくださる時もあります。そうして私は幾多の困難を乗り越えてきました。乗り越える必要がない、と主が思われるときは、扉はそのままです。それでいいのです。主は私の全てを知っておられ、私は主にお任せしているのですから。

(E.I. 60代)

2024年8月4日日曜日

恵みを数えて

わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。

旧約聖書 詩編 103編 2節(口語訳)

私たちを、いつも温かい眼差しで見守り、愛して下さっている神さまは、日々の歩みを守り導いて下さっています。

日々たくさんの恵みを与えられているにもかかわらず、その事を忘れ、他人と比べて自分にないものを羨んだり、物事がうまくいかないと、不平・不満をもらすことも少なくありません。

一日の終わりに、その日を振り返ると、神さまから与えられた恵みの数々に気が付きます。神さまに守られ導かれ、愛されている現実を感謝し、神さまを賛美せざるを得ません。

(H.K. 60代)


2024年7月21日日曜日

恵みと慈しみに包まれた生涯

命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。

旧約聖書 詩編 23編 6節

私の母はクリスチャンで、主と共に歩み、85歳でその生涯を終えました。母の人生、特に晩年の姿を思うたびに、私は聖書のこの言葉を思い起こします。いつも穏やかで、神さまに信頼して歩んでいた母は、どんな時も、私の心の支えとなってくれる存在でした。つらいことや苦しいことがあっても、神さまに委ねて前向きに生きている母を見ていると、私の心も安らぎました。神さまの恵みと慈しみの中に、私も憩うことができました。

やがて時が移ろい、老いや病を経験するようになっても、信仰によって恵みのうちに生きる母の姿は変わりませんでした。晩年の母は車椅子の生活となりました。不自由なことも増えました。最期の病においては痛みと闘いました。けれども、母は不平やつぶやきに陥ることはなく、日々の歩みの中に与えられている主の恵みと慈しみを感謝していました。そして、母は、これ以上ないくらい平安のうちに、神さまの御許へと召されていきました。このように母の生涯を恵みと慈しみで包んでくださり、天国へと迎え入れてくださった神さまは、なんとも優しいお方だと思います。

(K.T. 40代)






















2024年4月14日日曜日

導き

あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。

旧約聖書 詩編 119編105節

受洗の喜びと嬉しさ、緊張で迎えた礼拝の招きの詞。

受洗までの長い道程、気づかずにも御言葉によって導き支えられてきたと思います。

悩んだり迷ったり自分一人で答えをだそうとしていたことに気づかせてくださったり、神様どうしてですか?と思う時もその時々に与えてくださる御言葉に励まされ心強く安心し支え助けていただいていると思います。

御言葉によってわたしたちの道、歩みを照らし導いてくださる神様に信頼し歩んでいかれることに感謝です。

(H.O. 60代)


2024年4月7日日曜日

恵みと慈しみはいつもわたしを追う

命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う
主の家に私は帰り
生涯、そこにとどまるであろう。

旧約聖書 詩編 23編 6節

詩編23編1節~6節全体は、さまざまな情景を絵画のように思い描けるように感じられる箇所だと思います。

神様は、私たち人間を、とても大切に思っていて下さいます。私たち人間には到底知りえないところまで、ともにいてくださいます。疲れた魂を生き返らせてくださり、私たち人間が災いと感じられる場面でも、神様はともにいて、励ましてくださるのです。

その神様は、私たちに恵みと慈しみが「私を追う」ほどに、あふれるほど与えて下さる方なのです。そのような神様のもとで、生涯、過ごすことができるとは、なんというお恵みなのでしょう。

私たち人間は、ついつい自分のことを中心に考えがちです。私もそうです。今、こうしていることも当たり前ではなく、すべて神様のお恵みなのです。神様のお恵みに感謝し、毎日を大切に、感謝して歩んで行きたいと思います。

(E.O. 40代)




2023年12月31日日曜日

山々が生まれる前から

山々が生まれる前から
大地が、人の世が、生み出される前から
世々とこしえに、あなたは神。

旧約聖書 詩編 90編 2節

山々が生まれる前から、大地と人の世界が生まれる前から、とこしえからとこしえまで、神さまは神さまとして存在しておられます。その神さまの永遠に比べると、人の一生は、朝は花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれて枯れていく草のようです。そんな私たちは自分の生涯の日々がどれほど残されているのかも知りません。

しかし、そんな私たちのはかなさの自覚は、神さまに依り頼む歩みへと導くのではないかと思います。つい先日、私は長年一緒に暮らしてきた大切なうさぎを守ってあげられず、その死に直面しました。どれほど悔いても、悔いても、悔いきれない。しかし、そんな悲しみの中で、この聖書の言葉が心を慰めてくれているようです。

私の信頼している神さまは、とこしえからとこしえまで神であられ、大地と人の世界を、そして、小さなうさぎのいのちをさえも慈しみ、愛してくださるお方なのです。私の小さな歩みも、私の大切なうさぎの小さな歩みも、神さまの恵みに満ちた配慮の中、確かに覚えられ、支えられてきたのだと思うのです。そして、やがて、死も悲しみもない永遠の世界へと導き入れてくださるのだと思うのです。

(K.T. 40代)



2023年11月5日日曜日

右の手を覆う陰

主はあなたを見守る方
あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。

旧約聖書 詩編 121編 5節

もう本当にだめだと感じていた時に歌を通して語られた言葉です。

献身して教会で仕えていた頃、自分で人を助けるいい人になろうとして、その反面プライドによって盲目になり、自分の罪が見えなくなり、がんじがらめになって罪から抜け出せない状態になりました。

救われて、新しくされたはずだったのに、そうではなかったのだろうか?!と思うような日々。まるで墜落してゆく飛行機のように絶望的でした。

そんな時、この詩編121編を歌詞にした曲を韓国の方に教えていただいて、それを歩きながらふと思い出したのです。

”主はあなたを守る方
右の手を覆う陰
日も月もあなたを打つことはない。

主はあなたを守る方
全ての災いから
あなたをとこしえに守ってくださる。

目を上げ、山を見よ
助はどこから・・・
天地を造られた主から来る。”

その瞬間、人っ子一人いない丘を下っていた私の右手には、あたたかい陽があたっていて、主が私の横にいて一緒に歩いていてくださる感覚が、肌で感じられました。

あまりにも罪に取り込まれていたために、罪深いことをすら素直に認められなくなっていた私でしたが、その時突然、こんな私でも、主は捨てないでくださる、こんな私になっていても、今でも共にいてくださるんだ、ということが信じられて、久々に心がとかされて涙が後から後から出てきました。

そしてその時初めて「主よ、私は間違っていました」ということができたのです。それはまるで新しい発見のように、落雷のように、私の目を開き、心を変え、自由にし、私の歩みを新しくしてくれました。

神様の慈しみに再度出会った、今でも心に残る大好きな歌です。

(A.O. 40代)



2023年8月20日日曜日

日ごとの糧

あなたの御言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯。

旧約聖書 詩編119編105節

私は今、改めて聖書の通読を行っています。今回は新約聖書から始めて、現在は新約を終え旧約聖書に入っています。まず「主の祈り」を捧げ、祈り、聖書、解説書、祈りの順に進め、1日に2章。少しずつですが聖書の御言葉を読み続けることで神様の御心、聖書全体が伝えようとしていることを受け取れるのだと思います。ただ読むだけではなく、また独りよがりの解釈をするのでなく、正しくわかりながら読むことが大事だと考えて、牧師さんの解説書を手引きとして利用している訳です。

「人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイによる福音書 4:4)という、前半部分はクリスチャンでなくても聞いたことのある有名な御言葉があります。私たちには身体を健康に維持し活動するためのエネルギーとして食物が必要です。しかし同時に、或いはそれ以上に大切なのが精神の糧、私たちの魂を生かす食物、すなわち神の言葉だと言うのです。神様の御言葉は聖書の中にあります。ですから私は日々聖書を読み、御言葉を受け取って生活の中に適用して行きたいと思っています。その励みになっているのは冒頭に掲げた御言葉です。

(70代)