2026年7月25日土曜日

知らなくていい

風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。

新約聖書 ヨハネによる福音書 3章 8節

この聖句をきちんと認識したのは、高校生の頃、高校の礼拝の時間にこの聖句の近くの箇所が読まれていて、この箇所は読まれませんでしたが、わたしはこの聖句が目に留まりました。なんだか言語化できないけれど、惹かれる何かがありました。

そしてこの文章を書くにあたって取り上げた今、この聖句に何を思うんだろう、と考えてみたら、こう世の中とか人生を表すような言葉だなあと思いました。

この世は色々なもので溢れていて、その全部を知るはずもない、自分のことだって全ては知らない、神様のことも。風側も私のことは全く気にかけていないわけです。これだけだと冷たいイメージですが、でも同時にこの聖句は全てを知ろうとしなくていいんだ、と、考えすぎなくていいんだと言われているようです。

そんな儚さと心強さにきっと高校生の私は惹かれたのでしょう、自分の過去の謎が解け、生きやすさのヒントももらい、うーん、良かったです。

(S.I. 20代)


2026年7月18日土曜日

すべてのわざには時がある。

神のなされることは皆その時にかなって美しい。

旧約聖書 伝道の書 3章 11節(口語訳)

6月に梅雨の晴れ間をぬって北アルプスの蝶が岳(2677m)に登って来ました。

沢の音を聞きながら、雪解けと同時に咲き始めた色とりどりの可憐な高山植物や新緑の美しさに背中を押される様に、順調に登っていきました。

登山道は良く整備され危険な個所もないのですが、山頂までの残り一時間が地獄の階段の連続。3時間半登ってきた脚にはとても辛いものでした。

休みつつも最後の力を振り絞って山頂に着くと、青空をバックに残雪と新緑のコントラストが見事な槍ヶ岳から穂高連峰の大パノラマが広がっていました。

その美しさに心をひかれつつも、疲労困憊の私は小屋裏のベンチに座り込んでしまいました。気が付けば小一時間!そうしている間に、さっきまでの青空は噓のように雲に覆われた景色の中へ。暫く待つ時間が続きましたが、青空になることはありませんでした。

自然が刻々と姿を変え、一瞬たりとも同じ景色がないように、私たちの人生にも晴れの日があれば、雲に覆われて先が見えなくなる日もあります。そのことを思いながら、私は旧約聖書、伝道の書の言葉を思い出しました。

「すべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」(3章1節)、そして「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」(3章11節)。青空にも曇りにも、それぞれ意味があるように、私たちの歩みにも神さまが備えてくださる「時」があります。目の前が開けている時だけでなく、先が見えず待つ時にも、神さまは働いておられます。

だからこそ、日々の歩みの中で神さまから与えられる恵みを見逃さず、神さまに思いを向け、祈りながら一日一日歩んでいきたいと思わされました。

(H.K. 60代)


2026年7月11日土曜日

愛と距離の間で

愛は忍耐強い。……

新約聖書 コリントの信徒への手紙一  13章 4節

 コリントの信徒への第一の手紙13章の「愛は忍耐強い」という言葉を読んで、私は自分には忍耐が足りないと感じている。普段の生活では、イライラしたり、人間関係で距離を置きたくなったりすることがある。また、私は自分自身を守るため・幸せにするためには、時には諦めることも必要だと考えている。無理をして我慢し続けることが、良いことだと思わないからだ。

 以前、親しかった友人に信頼していた気持ちを裏切られたと感じた出来事があった。それ以来、私は人を信じないようになり、その友人とも必要以上に関わらないようにしている。自分を守ることができなければ他人を守ることもできないと考えているからだ。

 ただ、この聖書の言葉を通して、忍耐とは自分を犠牲にして耐え続けることではなく、相手を大切に思う心を失わないことなのではないかと感じた。距離を置くことや諦めることが必要な場面はあるが、相手を憎み続けたり、仕返しをしたりするのではなく、その人にも事情があるかもしれないと考えようとする姿勢も、愛の一つなのかもしれない。

 今すぐ考え方を変えることは難しいが、それでも、「愛は忍耐強い」という言葉を心に留め、自分を大切にしながらも、相手への思いやりを忘れない人になれるよう努めていきたい。

(S.K. 40代)


2026年7月4日土曜日

祈ること

だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、
隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、
隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

新約聖書 マタイによる福音書  6章 6節

日常生活の中で祈るとき、お願いごとばかりが多いように思います。
もちろん感謝のお祈りもしますが、朝夕の祈り、食前の祈りもあります。
家族や友人の病気や困難を知った時は必死に祈ります。
複雑なことがらはブツブツ独り言のように祈るときもあります。
あれもこれもお願いします、お願いします、と。

み言葉の中に「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」、とあります。
どの部屋ですか?? と、思ってしまいます。

それは、心騒がせ、表面的にくどくど祈るのではなく、心の奥深い部分に入って、その奥深い部分をさらけ出して祈った時に、神様からの平安となぐさめ、力や知識を与えられると知りました。
その奥深いところに神様はいてくださり、そして神様は、私達が願う前から私たちに必要なものはご存じなのです、とのみ言葉です。

日常のお祈りをきいていただきながら、心の奥深いところの自分の正直な、ありのままの思いを神様にお伝えしようと思っています。

(M.N. 70代)


2026年6月27日土曜日

伴ってくださる神

神御自身、『わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました。

新約聖書 ヘブライ人への手紙 13章 5節

イスラエルの民は神の恵みを受け喜びの生活をしているうちに自分たち人間中心の生活に陥り神から離れ裁きを受け、また悔い改め神中心の生活へと導かれる。そしてまたしばらくすると神から離れる。旧約聖書を読むとそれの繰り返しの記事で時々うんざりすることがあります。

翻って自分の信仰生活はどうか。日々聖書のみ言葉に聞き祈る毎日を過ごしながら、一方でいつの間にか自分の思いのままに過ごして行き詰ってしまう。そしてまた神さまに向かう。これの繰り返しをしている。まさに僕自身もイスラエルの民そのものではないか。こんなことで神さまを信じていると言えるのか、救われるのかと思い悩む。

そのような中で冒頭の聖書のみ言葉に出会いました。僕のような罪深くいい加減な信仰者をも神さまは見捨てられることなく、どんな時にもそばにいてくださると言われます。ずっとこのみ言葉に支えられています。

教会の交わりに加えられ多くの兄弟姉妹に支えられている現実はそのことなのだとしみじみと思わされています。

(K.O. 80代)


2026年6月20日土曜日

朝ドラの力・福音の力

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 1章 18節

NHK連続テレビ小説(通称「朝ドラ」)のファンで、最新のものと旧作の再放送を夫婦でよく見ます。昨年再放映された『カーネーション』の主人公(役名=小原糸子)のモデルは、ファッションデザイナーであるコシノ三姉妹の母親で、その晩年を夏木マリが好演しています。活気あふれるドラマの中で、以下の場面が特に印象深いです。

自分が通院する大阪・岸和田の病院から糸子は、患者を楽しませるために企画中の看護師ファッションショーを助けてくれないかと相談されます。興味を抱いた糸子は、看護師だけでなく患者もショーに出演させてはと持ち掛けますが、患者が体調をくずしては大変と看護師長は申し出を断固拒否します。そこで糸子は、次のように話して彼女を説得するのです。

「おたくらは医療の力信じて毎日仕事してはるやろ。うちは洋服の力信じて仕事してきましたんや。洋服には、もの凄い力があるんですわ。ほんまにええ服には人を慰めることも、勇気づけることも、元気づけることもでける。うちは自分の洋服でおたくらの力になりたいだけや。患者さんにええ服着て、ライト浴びて歩いてほしい。それをほかの患者さんらに見てほしい。医療と何の関係もないと思うかもしれへん。けど、ほんなことが人に与える力を、うちはよう知ってるんですわ。半分、いや三分の一、いや一人でもええわ。希望する患者さんを参加させちゃってください。このとおりや(と糸子が深々と頭を下げるところにエンディングテーマが流れ、<つづく>のテロップが出る)」。

糸子の堂々たる“演説”を聴きながら私は、クリスチャンは何の力を信じて生きているのだろうと思いました。それは、冒頭に記した「十字架の言葉」ではないでしょうか。子供用のリビングバイブルではこの聖書個所を次のように訳しています。「『イエス様は私たちを救うために死んでくださった』ということばが、滅びゆく人々にはどんなに愚かに響くか、私(=伝道師パウロ)にはよくわかっています。しかし、救われた私たちは、これが神の力そのものであると認めるのです。」

糸子が「洋服」の伝道師なら、クリスチャンは「十字架の言葉」の伝道師です。その伝道が力を発揮するには、「十字架の言葉」に神の力があることを体験的に知り、心底それに信頼している者として語る必要があります。上に引用した朝ドラの一場面が改めてこのことに気づかせてくれました。

(H.M. 70代前半)


2026年6月13日土曜日

帰り道の電車で祈ること

ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください
わたしが清くなるように。
わたしを洗ってください
雪よりも白くなるように。

旧約聖書 詩編 51編 9節

帰りの電車では、最寄り駅に着く4駅ほど前から、ほぼ確実に座ることができます。ホッと座席に腰を下ろすと同時に、心の中で最初に祈るのは「わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように」。その後、詩編51編全体を静かに祈ります。

頌栄教会の日曜日の礼拝では、前半に「罪の告白」として詩編51編を牧師と会衆が口語で唱えます。私にとっては、日曜日だけでなく、最寄り駅までの4駅が、毎日「罪の告白」の時間です。

「言わなくていいことを言ってしまった」「上から目線の態度をとってしまった」「人より自分を優先してしまった」「自分の苛立ちを人のせいにしてしまった」・・・。電車の椅子に腰を下ろすとき、体の重さだけでなく、心についた泥の重さも一気にのしかかってきます。

幼い頃、東北に住む祖父母との雪遊びを毎年楽しみにしていた私は今でも「雪」が好きです。「雪」に憧れます。

東京では、あまり歓迎されない「雪」ですが、それでも、雪に覆われた景色を見ると、神さまの創造はなんて美しいのだろうと思います。

幼い頃に祖父母と一緒に見た、美しく清らかで、楽しかった雪景色を思い出しながら、毎日毎日、真っ白な心になりたい、軽やかな心になりたい、切実にそう祈る私の帰り道の電車です。

(30代)