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2026年10月10日土曜日

十人のうち九人が神様への感謝を忘れている

そこでイエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。他の九人はどこにいるのか。この外国人のほかに神を賛美するために戻ってきた者はいないのか。」それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

新約聖書 ルカによる福音書 17章 17~19節

イエス様はエルサレムに上る途中で、遠くから叫ぶ十人の重い皮膚病を患う人たちの求めに応じ癒して清くされましたが、戻って来てひれ伏し感謝を示したのは一人だけでした。その時のイエス様の言葉です。

その個所を読んだときに私が思ったことは「私はイエス様への感謝を忘れている九人の一人ではないか。」ということです。思い起こせば感謝しかない奇跡の連続で今ここに生かされているのに、いつも心は感謝を忘れ不安や心配事で一杯で、お祈りはお願い事ばかりになっています。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」というイエス様の言葉が心に刺さりました。

十人のうち九人が神様への感謝を忘れてしまうのが人間の信仰の現実であることをこの個所は伝えているように思いますが、戻ってきた一人がこの世の希望になるのだと思いました。この一人から始まる感謝と信仰を受け取り受け渡す人になりたいと思います。

(60代)


2026年10月3日土曜日

見失った羊を私は捜せるだろうか

あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう。

新約聖書 ルカによる福音書 1 5章 4~5節

先日、テレビで羊が放牧地から夕方、牧舎にもどる様子が映し出されました。初夏に生まれた子羊も一緒の群れにいました。ところかそのうち4頭の子羊が群れの中にいないことに気づいた羊飼いが、牧羊犬と一緒に捜し歩き、成長した羊たちも一緒になって辺りをうろうろする映像が流れました。羊は視野がひろく、振り向かなくても後方界隈をみることもでき、さらに群れの一頭一頭の顔を認識できるのだそうです。(最後に無事,柵の陰に隠れていた子羊たちを見つけたとテロップが流れました。)

人間はどうだろうか、と考えました。感覚的に、もしかしたら思考的にも視野の狭い人間が、失意や困難の中で自暴自棄になっている人、あるいは喜びで有頂天になり我を忘れている人、神さまとの関係が崩れかけている人、そんな迷える人たちを、捜して見つけ出し連れ帰ることができるだろうか、私にはできないなぁと思いました。だから、私たちの髪の毛の一本一本もご存知の神さまがいらして、頼りにするほかないのだ、と自分なりの解釈で思いました。

羊は群れとなって、まさに共同体として過ごしています。私たち、人間の共同体はどうだろうか、互いに愛しあい、助け合い、手を差し伸べあっているだろうか、と災害の多い昨今、悲しいニュースの多いこの頃、思い巡らす日々です。

(60代)


2026年9月26日土曜日

神さまからの預かりもの

神は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われた。

新約聖書 ルカによる福音書 12章 20節

この聖句は、8月31日の聖書日課で示された言葉です。

イエス様は譬えを話されました。
「愚かな者よ」と言われている金持ちは、真面目に働いていた結果、その年は豊作に恵まれました。その豊作で得たものは、「私(自分)の物」と考えました。分かち合うことはせず、蓄えておく倉を建て、これから先、生きていくだけの蓄えも出来たと満足していました。このような考え方は、ごく普通に思えます。

ところが神は、「今夜、おまえの命は取り上げられる」と言います。
人は、自分の命が思い通りになるものでないことを知っています。明日のことすら分からないのです。私たちの命は、神様から与えられいます。また、私たちに与えられたものは、すべて神様からの預かり物に過ぎません。この「愚かな者よ」と言われた金持ちは、「私のもの」だと抱え込んでしまいました。

私たちを愛し、導いて下さっている神様は、私たちに必要なものを必要な時に与え、一日一日を生かして下さっています。その神様に信頼し、愚かな者でなく、賢い者となって生きるとは、神様から与えられているものを、自分だけのものとせず、喜んで他者に分け与えるように、持っているものを必要としている人のために用いていくことです。なかなか実践していくことは難しいですが、少しでも神様に喜んで頂ける様に祈りつつ歩んでいきたいと思います。

(H.K. 60代)


2026年8月29日土曜日

御言葉に慰められ、戒められ


人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。

新約聖書 ルカによる福音書 9章 25節

日々過ごす中で、私は職場や家庭で、「言い過ぎたのではないだろうか」「上から目線だったのではないだろうか」「あの対応でよかったのだろうか」などど、反芻します。寝る前に聖書日課を開くのは、ひとつには、そのような自分に対して、慰めの御言葉を探したいからです。この聖書日課の接し方が正しいのかわかりませんが、必ず毎日の御言葉の中から自分にあてた神さまからの呼びかけに気づくことができるのです。

その日も、家族に対して、きつい言葉を発してしまいました。聖書日課より与えられた、御言葉がこれです。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」自分が全世界をコントロールするがごとく、自分を第一に最優先にした言動で、結局は一日中、自分自身が嫌な気持ちでいました。折しも、主日礼拝のメッセージで「人は、自分の思い通りになるよう、ほかの人を支配しようとする傾向があるが、まずはキリストが私に仕えてくださっている、私を赦し受け入れてくださっていることに気づき、互いに仕え合うことに思いを向けなさい」と教えていただきました。AIに励ましの言葉を尋ねるでもなく、オンラインセミナーで心の平安を探すのでもなく、ただ聖書を手にとるだけで、その御言葉によって慰めや戒めを受け取る幸いを感謝します。

(60代)


2026年5月23日土曜日

AIでどこまで聖書が学べるか

どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。

自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。

新約聖書 ルカによる福音書 12章 15節, 21節

冒頭に一部を示した「愚かな金持ちのたとえ」全体をAIの助けを借りて説明するとこうなります。「ある金持ちの畑が豊かな収穫を得ました。彼は、収穫物をしまう場所がないため、古い倉を壊して新しい大きな倉を建てようと計画します。そして、『これで何年分もの蓄えができた。安心して食べて飲んで楽しもう』と自分自身に言い聞かせます。しかし、神は彼にこう告げます。『愚かな者よ、あなたの魂は今夜、あなたから取り去られる。そうしたら、あなたが用意した物は、いったい誰のものになるのか』。結果として、彼は富を蓄えただけで、神の前に豊かな者ではありませんでした。」

じゃ、富を蓄えることと神の前で豊かな者であることとは、どういう関係なのか。AIの答えはこうです。「この話は、富そのものが悪いのではなく、富に対する人の心構えと生き方を問題にしています。 どれだけ財産を築いても、命が終わればこの世の富は無意味になります。明日の命は誰にも保証されていません。重要なのは、この世で自分のためだけに富を蓄えることではなく、神が喜ばれる形で富を用い、神との関係を築くことです。聖書では、地上の所有物は神からの預かり物であり、私たちはその管理者であると教えています。このたとえ話は、人々が物質的な富に心を奪われず、『神の前に富む』こと、すなわち神の御心に従って生きることの重要性を説いています。」

深い学びができますね。聖書を学ぶ上でAIに限界はないのでしょうか。AI自身に答えてもらうとこうなります。「 AIはテキストを分析し、パターンを認識することは得意ですが、人間の深い感情、共感、霊的な経験を理解することはできません。聖書には人間の苦悩、喜び、希望といった感情的な側面が多く含まれており、これらを真に理解するには、人間特有の感情的なつながりが必要です。聖書は特定の古代の歴史的、文化的、地理的背景の中で書かれました。AIは膨大なデータから情報を抽出できますが、その時代の複雑なニュアンス、口承の伝統、象徴的な意味合いを完全に把握することは困難です。解釈には深い文脈理解が不可欠であり、解釈によって意味が大きく変わる場合もあります。聖書の理解は、個人的な信仰、霊的な探求、啓示といった主観的な体験と密接に結びついています。AIはデータに基づいて動作するシステムであり、人間のような信仰心や意識的な体験を持つことはできません。AIは倫理的なガイドラインや法的枠組みに基づいて動作するよう設計されていますが、聖書が提示するような複雑な善悪の判断や道徳的なジレンマに対して、人間のような深い洞察や責任ある判断を下すことはできません。AIによる解釈のプロセスは複雑で、その判断の根拠が人間にとって完全に理解できないブラックボックスになることがあります。聖書の解釈においては透明性と説明責任が重要ですが、AIではこれが保証されにくい場合があります。 結論として、AIは聖書研究のための強力なツールとして、例えばテキストの執筆者特定の分析や情報検索などに役立ちますが、聖書の全体的な意味合いや霊的な真理を完全に理解し、解釈することには限界があります。最終的な解釈と判断は、人間の役割として残ります。」(下線と太字は本記事作成者による)

すごいですね。冒頭の「愚かな金持ち」よりAIのほうが賢い。自分の限界をこれだけ理解しているわけですから。AIが示してくれた限界に心をとめ聖書の学びに取り組みたいと思わされたしだいです。

(H.M. 70代前半)


2026年5月9日土曜日

恵み多き劣等生

弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。

新約聖書 ルカによる福音書 8章 24節

人生には「おぼれそうになる」時があります。多忙、災難、失敗、etc.風吹きすさび荒波となる時がある。

イエス様と一緒に船出する人生、湖は自分が暮らしていく世の中、その世の中を渡るについて荒波となれば人生沈没かと危うくなる。そんな時、イエス様は風と荒波を叱り凪にして下さる。しかし、それだけならただのご利益信仰、自分に都合のいい益を得るだけ。それは恵みではない。

凪になった後、イエス様は「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(ルカによる福音書8章25節)と従う厳しさを問われる。しかし、神様に完璧、完全に従う、あるいはそのように日々努められるほど立派な優等生にはなれない。

そんな劣等生にさえ、振り返れば、神様の備えがあった。辛くて、逃げもし、放り出しもし、でもその時の経験が後に与えられた人生の役割にあって自らが意図していない支えになっている。

救われて、救われて、でも神様に完全に従い生きることができない。この繰り返しが救い主イエス・キリストが在ることを揺ぎ無く確信させてくれます。このことこそ神様の恵みと受けとめています。

(T.M. 70代)


2025年12月20日土曜日

受洗後初めてのクリスマス

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光がまわりを照らしたので彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

新約聖書 ルカによる福音書 2章 8~12節

私のクリスマスのイメージは北欧や北アメリカの真っ白な雪景色、暖かい暖炉の前のもみの木に飾られたクリスマスツリー、その周りに置かれたプレゼントの数々そして現実にはあり得ないトナカイに乗ってプレゼントを配るサンタクロースでした。50年以上前の雪深いカナダでのクリスマスの体験は絵本で知っているクリスマスそのものでした。

クリスマスは救い主イエス様の誕生をお祝いする日。

でもイエス様がお生まれになったのはヨセフとマリアが住民登録をするためにガリラヤの町ナザレから上って行ったベツレヘムのダビデの町でした。およそ雪景色とはほど遠い砂漠のような荒れ野。

ルカによる福音書によるとイエス様誕生の喜びの知らせを一番に受けたのは野宿をしながら夜通し羊の番をしている羊飼でした。この知らせを聞いた羊飼いたちは主が知らせて下さったこの出来事をすぐに見に行こうと出掛けました。

そしてマリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てその光景を見て羊飼いたちは、その幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせました。神様が私たちのためにお遣わし下さった救い主御子イエスキリストは馬小屋の飼い葉桶に寝ていらっしゃいました。両親であるヨセフとマリアが住民登録をするための旅の途上でしかも泊まるところもなくておそらく馬小屋で初めての子を出産しなければならなかったマリアはどんなに不安だったことでしょう。

天使からイエス様誕生の知らせ「あなた方のために救い主がお生まれになった」というこの喜びを知らされたのは一番貧しい羊飼いでした。またイエス様は一番貧しい弱い状態でお生まれになられました。

クリスマスはすべての人々に与えられた大きな喜びでありイエス様が人として一番貧しい弱い状態でお生まれになった事に大きな意味があると知りました。

今年のクリスマスは私にとって特別のクリスマスになりました。

(S.K. 80代 )



2025年12月13日土曜日

クリスマスの思い出

いと高きところには栄光、神にあれ。
地には平和、御心にかなう人にあれ。

新薬聖書 ルカによる福音書 2章 14節

私がものごころついた頃のクリスマスの思い出は、戦後4年ぐらいだった頃だと思う。東北の田舎の冬は北風が強く、もと米倉だったといわれている教会の建物は時々ギシギシと音をたてていた。そんななかでもクリスマスは本当に楽しかった記憶として残っている。特に今まで見たことがなかったきれいなクリスマスカードにびっくり、これらのカードはアメリカの教会からメッセージの部分は切り取ったカードだったそうだ。そしておみやげは赤い色で、取っ手のついた小箱の中に入っていたおやつだった。中身は覚えていないが今まで食べたことがないおやつだったと思う。両親がキリスト者だったせいもあるが、とにかくイースターの卵や、卵のカードを開くとひよこが出て来るカード等がうれしくて、私の宝箱は、教会学校のカードでいっぱいになっていた。

しかし、中学生になると両親にも反抗し、いつのまにかその宝箱も捨ててしまったと思う。高校三年生になった頃は商店街もクリスマスセールで明るくなり、我が家でもショートケーキが食べられるようになったし、友達とも仲良く過ごしていた日々だったが、なぜか虚しさを感じ始め再び教会へ通うようになった。もうその時には、強い北風にギシギシという音がしない会堂だった。

♪私たちが 暗闇にとどまることのないように キリストは光として世に来られた♪

(I.I. 70代 )


2025年12月6日土曜日

初めてのクリスマス祝会の思い出

いと高きところには栄光、神にあれ。
地には平和、御心にかなう人にあれ。

新薬聖書 ルカによる福音書 2章 14節

私は大学1年の時、学生ホールでのクリスマス祝会担当を任されたことがあります。礼拝とはまた違う、学生同士が集まってクリスマスを楽しむ時間です。1年生だった私は、係の先輩たちと一緒にいろいろな企画をしました。その年の祝会は今でも心に残る大切な思い出です。準備することは山ほどありましたが、ワクワクした気持ちがありました。祝会の準備は、決して一人ではできませんでした。忙しい授業の合間をぬって、先輩たちと一緒に企画しました。祝会は学生に一任されていたので、「この讃美歌にしましょう。」「このみことばはこういう意味なんだよ。カードの御言葉はこれにしましょう。」「当日のクリスマスプレゼントの買い出しに行きましょう」。と、先輩たちと話し合い、選び、作成し、過ごした準備の時間は、本当に神さまがくださった大切な交わりでした。その先輩のおひとりは、クリスチャンホームで育った方で、何も知らない私に教会のことや聖書のことを教えて下さった方です。大学卒業後の今でもお付き合いがあります。その時の神様のお導きに感謝しています。今でもクリスマスが近づくと、あの学生ホールのあたたかな光景を思い出します。あれは確かに神様が共にいてくださった時間でした。天使たちの歌った言葉は、今も変わらず私の心を励ましてくれています。「地には平和、御心にかなう人にあれ。」その平和が、今年もまた私たちの歩みにそっと注がれますように。

(E.O. 40代 )


2025年9月6日土曜日

主に委ねる

「私は主のはしためにすぎません。何もかも主のお言いつけどおりにいたします。どうぞ、いま言われたとおりになりますように。」マリヤがこう言うと、天使は見えなくなりました。

新約聖書 ルカによる福音書 1章 38節(リビングバイブル)

「確かにあの祈りは聞かれた」と思うことも多々ありますが、「あの祈りのせいで、逆にこうなってしまった」と思う事も何度もあります。

その度に、神さまを信頼し、神さまに身を委ねる信仰の基本的な事が実は出来ていないと思います。

このルカによる福音書の「受胎告知」の箇所を読んだ時に、マリヤの言葉に、信仰の深さを初めて感じました。聖書の中では、石打ちにより殺される事がよく出てきます。彼女自身も例外ではないのです。それも分かったうえで、あのセリフを言えたマリアは、「やはり神さまに選ばれた信仰者なんだなぁ」と思います。

私もしっかりと信仰の土台を据えたいと思いました。                                

(Y.S. 40代)


2025年8月10日日曜日

平和への祈り

彼は答えた。「 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とあります。

新約聖書 ルカによる福音書 10章 27節

小学生のとき、広島の「原爆の子の像」佐々木禎子さんの本を読みました。小学生だった私は、原爆を落とした国への怒りを感じました。

20代のとき、隠れキリシタンの歴史を学びたくて、大学の社会人夜間学校に通いました。その繋がりで、長崎に行った際、永井隆先生の記念館を訪れ、永井先生のことを初めて知りました。永井先生は、長崎大学の医師でカトリックの方です。永井先生は、佐々木禎子さんと同じ白血病に罹患されました。私は約60年後に同じ病気になり、いま生かされています。

永井先生の当時の治療内容、体温・採血データの推移を見て、涙がとまりませんでした。また、永井先生の信仰と、実践力に、涙がとまりませんでした。

永井先生がお書きになった本に、「平和をことさらにこわそうとたくらむ人があるように見えますが、その人々を敵にまわして憎んではなりません。相手を憎む心が起ったら、もう自分も平和を願う権利を失ったものになります。」

毎年、この時期になると、いろいろなことを思います。

聖書の隣人愛の御言葉を思います。

日々、私たちができることは、ほんのわずかではありますが、いま、この時代に生かされている役割を考え、祈りつつ、歩みたいと思います。                                 

(E.O. 40代)



2025年3月2日日曜日

御心のままに

父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。

新約聖書 マタイによる福音書 26:39

父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。

新約聖書 ルカによる福音書 22:42

わたしの心の中にいつもあるイエス様の祈りです。自分本位になりそうなとき、怖くてたまらないとき、心が暗闇に襲われるとき、この祈りがわたしの光となっています。

ちょっとこれ嫌だな、憂鬱だな、なんていうレベルではなく、心身が壊されるような辛苦に耐えなければならないとき、イエス様のこの祈りがわたしの支えでした。

友に裏切られ、十字架に釘付けにされる前の夜、神の子であるイエス様は「できることなら、この杯(苦しみ)を取り除けてください」と祈られました。イエス様でさえ、苦しみを取り除けてくださいと祈られた、このことがどんなにわたしに力を与えてくれたか。今、現在苦しみを強いられることも辛いです。しかし、そのような日が先の未来に必ずあるとわかっているときもあります。「大切な人の死」はその一つかもしれません。「その日が来ませんように」、「できるならば、この苦しみを取り除けてください」、誰もがそう願うと思います。

イエス様の祈りは続きます。「わたしの願いではなく、御心のままに」。

苦しみに引き裂かれていたわたしの心を守り、支えてくれたのは、イエス様のこの祈りです。今日も明日もいつもこの祈りがわたしの心を導き、守ってくださると信じています。

(Y.S. 30代)



2024年12月1日日曜日

神の大きな計画に用いられる喜び

わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者というでしょう、
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。

新約聖書 ルカによる福音書 1章 47~49節

ある日、イエス・キリストの母となるマリアのもとに天使が来て、「あなたは身ごもって男の子を産む」と言いました。マリアはまだ結婚していなかったのに、神さまの力によって、男の子を身ごもるのです。大変不思議なことですが、このことのゆえに、マリアは神さまをほめたたえました。その言葉の一部を冒頭に掲げました。 

これは、「マリアの賛歌」という歌として伝えられています。「マリアの賛歌(マニフィカート)」は、J.S.バッハなど、いろいろな作曲家が曲にしています。私はパイプオルガンを習っているのですが、「マリアの賛歌」を弾いたことがあります。大きな喜びを表す、生き生きとした曲です。

では、なぜマリアは神さまをほめたたえ、神さまを喜んでいたのでしょうか。それは、神さまがナザレという小さな村に住むマリアを顧みてくださったからです。マリアを通して、イエス・キリストの誕生という、神さまの大きなご計画を実現してくださるからなのです。マリアは、神さまが小さな私に目を留めてくださって、神さまの大きなご計画のために用いてくださることがわかり、大きな喜びで満たされていたのでした。

私にとっても、神さまが小さな私に目を留めてくださっていることを日々知ることは、深い安心感とともに大きな喜びです。また、神さまの大きなご計画のために、この私が用いられることは、不思議さを感じるとともに大きな喜びとなります。このような喜びは、すぐに消えてなくなるような喜びではありません。永遠に残る喜びです。そして、永遠に残る喜びは神さまから来るのです。

(K.T. 50代)


2024年7月28日日曜日

12弟子のユダでさえ

しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。

新約聖書 ルカによる福音書 22章 3節

イエスの弟子のひとりとして選ばれたユダの中にサタンが入った、という衝撃的なことが記されています。12弟子という主イエスに最も近くにいた者さえ、サタンの誘惑に落ちています。歴史的にユダは裏切り者の代名詞のように言われていますから、そのような先入観で何の抵抗もなくこのところを読んでしまいますが、冷静に考えるとこれは驚くべきことではないでしょうか。

主イエスに彼ほど近くにいなく、むしろ遠くにいる自分などはもっとサタンが攻略しやすいところに置かれていることに改めて気づかされ、身も心も引き締まる思いをしています。このことをいつも心にとめていなくてはならない、と日々思わされています。

(K.O. 80代)


2024年5月12日日曜日

羊飼いの信仰

羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

新約聖書 ルカによる福音書 2章 20節

救い主にお会いした羊飼いたちが「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」という姿は、聖書を読み始めた頃は、少し不思議な思いがしました。救い主にお会いしたのなら生活が一変して劇的な人生を歩むはず…なのに、あっけなくこれまでの生活に「帰って行った」からです。でも信仰生活を続けていくうちに、自分も羊飼いと同じなのだ、と感じるようになりました。洗礼を受けても、日常生活は変わりません。日曜日に礼拝を捧げても、月曜日からはこれまでと同じ仕事、同じ生活を送っています。あの羊飼いたちも救い主に出会ったあと、これまでと同じ過酷な羊飼いの生活に戻って行きました。でも、その生活は「救い主が共にいてくださる」、その永遠に変わらない喜びと確信に支えられる生活へと変えられたのだと思います。

日常の生活の中で不平や虚しさ、徒労感を感じることがあります。そんな時、あの羊飼いたちの姿を思い起こします。私も、羊飼いたちと同じ「救い主が共にいてくださる」という喜びの信仰を共有しているのだということを思い起こします。

(H.K. 50代)





2024年5月5日日曜日

『ベン・ハー』はクリスチャンになってから観る映画……かな

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

新約聖書 ルカによる福音書 23章 34節

『ベン・ハー』をご存知ですか。ウィリアム・ワイラー監督、チャールトン・ヘストン主演で1959年に公開された名作です。同年のアカデミー賞を11部門(!)で受賞しています。

初めて観た中学生の時はノンクリスチャンだったので、奴隷船と海賊船の激戦、馬を束ねた多数の馬車による競走などがおもしろかったのですが、クリスチャンになって観返すと、この映画のテーマは「赦し」ですね。

舞台はローマ帝国に支配された1世紀初頭のユダヤ。誕生から十字架上の死に至るまで、イエス・キリストが時々登場しますが、ドラマ本体は母と妹を重い皮膚病(字幕では「らい」)にさせた宿敵メッサラに対するベン・ハーの憎悪を中心に展開します。

ドラマ終盤、十字架上のイエスを見入るベン・ハーは、自分を十字架につけたユダヤ人を「父よ、彼らをお赦しください。何をしているかわからないのです。」と弁護するイエスの深い愛に感動し、それとともにメッサラへの憎悪が消えてしまったことに気づきます。帰宅したベン・ハーを皮膚病から癒された母と妹が待ちうけます。そして三人が激しく抱き合うところで大団円。

パンフレットには、「……彼の悲劇が始まった家へと帰った。すると不思議や、母と妹の不治の病がいつの間にか癒えていた。そして、ベン・ハーもまた、今まで握りしめていた怒りと憎しみの剣が消え失せ、……」とあります。怒りと憎しみは三人の再会前に消え失せていたと私は受け止めました。最後の場面、あなたの目にはどう見えるでしょうか。

(H.M. 70代)

ベン・ハーのポスター

左からメッサラとベン・ハー

2024年3月31日日曜日

からし種一粒ほどの信仰があれば

使徒たちが「わたしどもの信仰を増してください。」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」

新約聖書 ルカによる福音書 17章 5~6節

先日、7,8年前の手帳に当時の心境が思い出されるようなメモ書きを見つけました。当時の不安や苦しさと再会したようで懐かしかったのですが、懐かしいと思える今の自分を思うとき、聖書のみことばに導かれて、少しずつ物事の見方、考え方が変えられてきたのだと思いました。

信仰の弱い自分にダメ出しばかりしていましたが、自分でも気ずかぬうちにイエス様からの恵みを受けていたことに気づかされました。「からし種一粒ほどの信仰があれば」とイエス様は言ってくださいました。からし種一粒ほどの信仰を持ち続け、その種を大きな木に育てていただけるように祈り求めたいと思います。

(S.O. 60代)


2024年3月17日日曜日

主のまなざし

・・・まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が泣いた。主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『今日鶏がなく前に、あなたは三度私を知らないというであろう。』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

新約聖書 ルカによる福音書 22章60節~62節

主のご受難を覚えるこの季節、いつもこの聖書の言葉に心をとらえられます。主の予告通りペテロは主を裏切った。そして主が言われた通り鶏が鳴いた時ペテロは激しく泣いたと記されています。その時ペテロはどんなに打ちのめされたことだろうかと思います。ここで聖書は「主は振り向いてペテロを見つめられた。」と記しています。ここに僕は大きな慰めと救いを見ます。まさに今主ご自身が十字架にかけられようとしている時、自分の罪に気付いて打ちのめされているペテロを主は慈しみの目をもって見つめ、見捨てられませんでした。ペテロに自分を重ねてみるとき、主の十字架はまさに僕のためであったと気づかされます。

(K.O. 80代)



2024年3月3日日曜日

私と出会ってくださる主イエス

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」

新約聖書 ルカによる福音書 19章 5節(聖書協会共同訳)

新約聖書の福音書には、イエスさまが人々と出会ったエピソードがたくさん記されています。ルカによる福音書19章1節から10節には、徴税人ザアカイとイエスさまの出会いの場面が描かれています。ザアカイは、イエスさまがどんな人かを見ようとしたのですが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができませんでした。そこで、ザアカイは、イエスさまを見るためにいちじく桑の木に上ったのでした。すると、なんと、イエスさまが木の上にいるザアカイを見上げて、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」と声をかけてくださったのでした。私は、この場面が大好きです。

 聖書によれば、私たち人間は「失われた人」です。神さまによって造られたにもかかわらず、神さまの心を悲しませるようなことをして、神さまと共に歩んでいないからです。イエスさまは「失われた人」を捜して救うためにこの世に来られました。

 「失われた人」であったザアカイに個人的に出会って、友となり、救いとなってくださったイエスさまの姿はとても慈しみに満ちていたと感じます。そして、私にも、イエスさまは個人的に出会ってくださり、日々、イエスさまと共に歩む幸いへと導き続けてくださっています。

(K.T. 50代)


2023年12月10日日曜日

ページェントを通して・・・

「いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適う人にあれ。」

新約聖書 ルカによる福音書 2章 14節

もうすぐページェント(キリスト聖誕劇)の季節がやってきますね。

頌栄教会のページェントは、見る側も演じる側も楽しくなるように、教会のいろんな人たちが携わり、その年ごとに合ったものをみんなで作り上げています。一度でも観た事がある人、演じたことがある人はページェントにそれぞれ色々な思い出があるのではないでしょうか。

クリスマスにページェントが行われるようになったのは、私が小学生の頃だったかと思います。舞台で使うような大掛かりな背景やきらびやかな衣装、おごそかな小道具、本格的な演出と台本に心が躍ったのを今でも覚えています。

それから数年後、私が教会学校の幼稚科スタッフとして奉仕を始めた時、羊役の幼稚科さんを可愛く見せるために色々と思案し、スポーツ用品店に行って赤白帽を購入。そこに綿とフェルトを付けてモコモコにしようと試行錯誤し、遅い時間まで校長先生と綿の貼付作業をしたことを懐かしく思います。

兵隊役が増えた年には、ゲームの設定集を見ながらデザインを考えて、盾を作ったこともありました。その盾をTさんが鮮やかに色付けしてくれたり、赤ちゃんイエス様が入る飼い葉おけをFさんが手作りしてくれたり…小道具を見るだけでも、いろんな人の手作業が思い起こされます。

ページェントを神様にお捧げしているつもりが、ページェントを通して、神様から様々なものを頂いていたのだなと、改めて思わされました。

(K.N 50代)