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2024年11月10日日曜日

望みを抱く

重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。

新約聖書 マルコによる福音書 1章 40節

イエス様に願う。絶望の底にいる人が「願い」をもつことができるのか。

願ってもかなえられることはない――願うことすら愚かに思える。そんな境遇に置かれたことが幾度となくあります。

病のせいで汚れているとみなされ、蔑まれ、社会から排除されたところで生きていたこの重い皮膚病の人。人としての尊厳と権利をことごとく奪われていたこの人は、イエス様のところに来て「願った」。わたしが当時の社会で重い皮膚病を患っていたら、この人のように「願う」ことはできない気がします。イエス様と出会えず、「願う」こともできず、地上の生を終えた人々がいたこともまた想像するに難しくありません。

「イエス様」の噂をこの人はどこかで聞いたのだと思います。その「御名」が「望む力」を与えたようにわたしは感じます。希望する力、生きようとする力、交わりを求める力、自分は神に見捨てられていないと信じようとする力。

わたしが日々生きるこの街にも、希望を失っている人がたくさんいると思います。わたしもその中の一人です。

イエス様の御名が、望みをもてないすべての人の耳に届きますように。

そして、イエス様の御名の力を共に知ることができますように。

(Y.S. 30代)


2024年3月24日日曜日

御心に適うように!

「アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

新約聖書 マルコによる福音書 14章36節

この聖句は、イエスさまが、十字架に架けられる前に、ゲッセマネというところで、弟子たちから離れ、一人で神さまに祈られた聖書の箇所です。

私たちの罪を贖い、私たちに代わって十字架にかかる為でした。

イエスさまは、十字架にかかる時を前にして、「イエスはひどく恐れてもだえ始め、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈って、」とこの聖句の前に書かれているほど、恐れや苦しみの中にありましたが、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。

この場に及んで、何という神さまに対しての「信頼」でしょう!

イエスさまは、十字架の死後三日目に復活されました。十字架の死の先に、人が経験したことのない神さまによる「復活」という希望があることもイエスさまは、知っていたことと思います。

私たちは、時には、絶望的と思える様な出来事に遭遇することもあります。しかし、神さまは、そのような時にも、いつも私たちのことを心に留め、いつも守り支え、私たちの歩みを「絶望から希望」へと導いて下さっています。私たちのことをいつも愛して下さっている神さまを信頼し、自分自身を委ねて、「御心に適うことが行われますように!」と祈り歩んで行きたいと思います。

(H.K. 60代)



2022年7月24日日曜日

最も重要な掟

第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。

新約聖書 マルコによる福音書 12章 29節~ 31節

「主を愛し、隣人を愛す。」言葉にすれば、単純で簡単に思えますが、実際はなんと難しいことでしょうか。

困っているときや苦しいときは、神様に真剣に祈り求めますが、それが過ぎれば当初の感謝を忘れてしまいます。遠くで起こる争いごとをニュースで見れば、愚かしく思いますが、自分の近くにいる人との小さな諍いや利害に、いつまでも恨んだり根に持ったりしています。「人間は自分では変えることはできない。主に変えていただくのだ」と聖書に書かれています。「心を尽くして主を愛し、隣人を愛する人に変えてください」と、祈り求めたいと思います。

(S.O. 60代)



幼な子

だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこに入ることは決してできない。

新約聖書 マルコによる福音書 10章 15節(口語訳)

お父さんが牧師である友達が10才位の頃小学生のための日本語のバイブルクラスに誘ってくれました。毎回み言葉カードが渡され、次回まで暗記し一人ずつ立って言わなくてはならず、それがイヤでやめてしまいました。中学生になるとその友達が今度は英語のバイブルクラスに誘ってくれましたが、全部英語で全くわからず、すぐやめてしまうと、彼女は今度はお父さんの教会に誘ってくれました。それから私は教会にいくようになったのです。

後に彼女と再会した時にどうして何度も私を誘ってくれたのと聞くとお父さんが友達を誘いなさいといったからといいました。もし彼女が大人だったら集会、教会に一度誘って断られたら2回目がないのが普通です。誘われた私も大人だったら一回行っていやだったら2〜3回目はありません。いろいろ口実を作ったでしょう。友達も私も幼い故に純真でそのまま素直に受けとめていたのです。忘れている幼な子の心を今一度持ちたいものです。「心をいれかえて幼な子のようにならなければ天国に入ることは出来ないであろう」(マタイによる福音書18章3節)

(S.T. 80代)



2022年4月17日日曜日

沈む心が出会った言葉

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。

新約聖書 マルコによる福音書 4章 35節

私には目標や目的がわからない時期がありました。仕事や人との関わりに自信を失くしていました。表面的には、人と関わり、時には笑い、変わらずに過ごしていましたが、心のなかでは「何をやってもダメだ。何もかも中途半端な私だ。」と毎日思っていました。「周囲の人たちは人生の中で何かを得ているのに私には何もない。」情けない惨めな自分しかありませんでした。「今まで何をしてきたのだろう。」と、愚かな自分を感じるばかりでした。何処に向かって行けばよいか何をしていけばよいか、すっかりわからなくなっていました。そのような毎日のなかで、「向こう岸に渡ろう」という言葉に出会いました。「渡れ」ではなく、「渡ろう。」

一緒に渡ってくださるその言葉に私は、「主が一緒に居てくださる。安心して歩きだそう。」と思うことができました。今もこの言葉は、私に勇気を与えてくれています。 

(K.O. 50代)


2021年10月31日日曜日

叔母からのハガキ

 「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 

新約聖書 マルコによる福音書 9章  24節後半

 

叔母が認知症と診断されました。毎晩「叔母の認知症がこれ以上悪くなりませんように」と祈りました。

何ヵ月かが経って、姉が「見て、これ!」と、一枚のハガキを見せてくれました。それは叔母から届いたハガキでした。とてもきちんとした内容と、整ったきれいな文字で、一時の叔母の状態では考えられないものでした。叔母は良くなったのです!

私は自分を恥じました。「これ以上悪くならないように」と祈っていたのは、「まさか良くなんかなりっこない」と決めてかかっていたからです。

神さまは私の思いを越えて、良いものを与えてくださるお方なんだ、と改めて示されました。 

(M.H. 50代)