2026年6月13日土曜日

帰り道の電車で祈ること

ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください
わたしが清くなるように。
わたしを洗ってください
雪よりも白くなるように。

旧約聖書 詩編 51編 9節

帰りの電車では、最寄り駅に着く4駅ほど前から、ほぼ確実に座ることができます。ホッと座席に腰を下ろすと同時に、心の中で最初に祈るのは「わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように」。その後、詩編51編全体を静かに祈ります。

頌栄教会の日曜日の礼拝では、前半に「罪の告白」として詩編51編を牧師と会衆が口語で唱えます。私にとっては、日曜日だけでなく、最寄り駅までの4駅が、毎日「罪の告白」の時間です。

「言わなくていいことを言ってしまった」「上から目線の態度をとってしまった」「人より自分を優先してしまった」「自分の苛立ちを人のせいにしてしまった」・・・。電車の椅子に腰を下ろすとき、体の重さだけでなく、心についた泥の重さも一気にのしかかってきます。

幼い頃、東北に住む祖父母との雪遊びを毎年楽しみにしていた私は今でも「雪」が好きです。「雪」に憧れます。

東京では、あまり歓迎されない「雪」ですが、それでも、雪に覆われた景色を見ると、神さまの創造はなんて美しいのだろうと思います。

幼い頃に祖父母と一緒に見た、美しく清らかで、楽しかった雪景色を思い出しながら、毎日毎日、真っ白な心になりたい、軽やかな心になりたい、切実にそう祈る私の帰り道の電車です。

(30代)



2026年6月6日土曜日

イエス君はいとうるわし

あなたは人の子らのだれよりも美しく あなたの唇は優雅に語る。あなたはとこしえに神の祝福を受ける方。

旧約聖書 詩編 45編 3節

讃美歌166「イエス君はいとうるわし」は私の大好きな讃美歌です。歌詞もメロディも素朴であると思いますが、なんの飾り気もないような歌曲がイエスさまを崇高に歌い上げ高らかに賛美しています。「花より美しく、月よりさやけし、風より香し、雪より清けし」とあるとおりです。

初めてこの賛美に出会ったのは、教会に通い始めて間もない中学1年生の時でした。私は教会学校でゲームをするよりも、賛美を歌ったり、説教を聞いたりすることに関心があり、この賛美に出会ったときも、「あめつちの主、神の御子で、人の子」であるイエスさまとはいったい何者なのだろうか、と大いに興味を持ちました。それは今でも変わりありません、いや、むしろますますわからなく、深く知りたいと思うようになりました。

イエスさまについて研究することは専門の方に譲るとして、私は詩編45編で歌われているように主を私の冠として、日々感謝をもって歩んでいけることに喜びを感じます。同じ思いが人々にいきわたり、栄光を自らにではなく主において謙虚と正義を駆って進軍することで平和が築き上げられることを祈ってやみません。

(E.I. 60代)


2026年5月30日土曜日

福音を届けるパイオニア

信仰とは、望んでいる事柄を確認し、見えない事実を確認することです。

新約聖書 ヘブライ人への手紙 11章 1節

1937年、「福音商会電機製作所」という、一風変わった社名の企業が誕生しました。「福音」と「電機」。全く異なる世界の言葉のようですが、創業者でありキリスト者の松本望さんは「製品の目的は、音を出すことではない。音によって人に喜びを届けることだ」と経営の理念をかかげました。音を通して、心に光と希望を届けたい。それは、まさに聖書が語る信仰者の姿です。

後に社名は「パイオニア(開拓者)」へと変わりました。その時、松本望さんはこう考えたそうです。「信仰者とは、道のないところに道を造る者である。」その象徴的な出来事として、世界で初めてレーザーディスクを開発した時の話が残っています。製品は全く売れず、社内に不安が広がりました。しかし彼は言いました。「全くの新製品なのだから、売れなくて当たり前だ。慌てるな!」彼には『まだ見えない可能性』が見えていたのではないでしょうか。(「回顧と前進」パイオニア(株)HPより)

それはまさに、ヘブライ人への手紙11章で語られる信仰者達の姿そのものです。

アブラハムは、行き先を知らずに旅立ちました。ノアは、雨一滴降っていない時に箱舟を造りました。信仰とは、今見えている状況が可能性を示しているかどうかではなく、「神は可能にしてくださる」と信じる歩みです。松本望にとって事業とは、信仰を『見える形』にした証でした。まさに信仰とは、心の中にしまい込んでおく理念ではなくて、生活の中に宿り、働きの中に現れ出てくるものです。神さまが与えてくださる、目には見えない心の喜び・希望・平和を形にしていくことです。目には見えないけれど、確かに与えられている神の愛を『福音の担い手、道を切り拓く者(Pioneer)』として、届ける者でありたいと思います。

(H.K. 60代)


2026年5月23日土曜日

AIでどこまで聖書が学べるか

どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。

自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。

新約聖書 ルカによる福音書 12章 15節, 21節

冒頭に一部を示した「愚かな金持ちのたとえ」全体をAIの助けを借りて説明するとこうなります。「ある金持ちの畑が豊かな収穫を得ました。彼は、収穫物をしまう場所がないため、古い倉を壊して新しい大きな倉を建てようと計画します。そして、『これで何年分もの蓄えができた。安心して食べて飲んで楽しもう』と自分自身に言い聞かせます。しかし、神は彼にこう告げます。『愚かな者よ、あなたの魂は今夜、あなたから取り去られる。そうしたら、あなたが用意した物は、いったい誰のものになるのか』。結果として、彼は富を蓄えただけで、神の前に豊かな者ではありませんでした。」

じゃ、富を蓄えることと神の前で豊かな者であることとは、どういう関係なのか。AIの答えはこうです。「この話は、富そのものが悪いのではなく、富に対する人の心構えと生き方を問題にしています。 どれだけ財産を築いても、命が終わればこの世の富は無意味になります。明日の命は誰にも保証されていません。重要なのは、この世で自分のためだけに富を蓄えることではなく、神が喜ばれる形で富を用い、神との関係を築くことです。聖書では、地上の所有物は神からの預かり物であり、私たちはその管理者であると教えています。このたとえ話は、人々が物質的な富に心を奪われず、『神の前に富む』こと、すなわち神の御心に従って生きることの重要性を説いています。」

深い学びができますね。聖書を学ぶ上でAIに限界はないのでしょうか。AI自身に答えてもらうとこうなります。「 AIはテキストを分析し、パターンを認識することは得意ですが、人間の深い感情、共感、霊的な経験を理解することはできません。聖書には人間の苦悩、喜び、希望といった感情的な側面が多く含まれており、これらを真に理解するには、人間特有の感情的なつながりが必要です。聖書は特定の古代の歴史的、文化的、地理的背景の中で書かれました。AIは膨大なデータから情報を抽出できますが、その時代の複雑なニュアンス、口承の伝統、象徴的な意味合いを完全に把握することは困難です。解釈には深い文脈理解が不可欠であり、解釈によって意味が大きく変わる場合もあります。聖書の理解は、個人的な信仰、霊的な探求、啓示といった主観的な体験と密接に結びついています。AIはデータに基づいて動作するシステムであり、人間のような信仰心や意識的な体験を持つことはできません。AIは倫理的なガイドラインや法的枠組みに基づいて動作するよう設計されていますが、聖書が提示するような複雑な善悪の判断や道徳的なジレンマに対して、人間のような深い洞察や責任ある判断を下すことはできません。AIによる解釈のプロセスは複雑で、その判断の根拠が人間にとって完全に理解できないブラックボックスになることがあります。聖書の解釈においては透明性と説明責任が重要ですが、AIではこれが保証されにくい場合があります。 結論として、AIは聖書研究のための強力なツールとして、例えばテキストの執筆者特定の分析や情報検索などに役立ちますが、聖書の全体的な意味合いや霊的な真理を完全に理解し、解釈することには限界があります。最終的な解釈と判断は、人間の役割として残ります。」(下線と太字は本記事作成者による)

すごいですね。冒頭の「愚かな金持ち」よりAIのほうが賢い。自分の限界をこれだけ理解しているわけですから。AIが示してくれた限界に心をとめ聖書の学びに取り組みたいと思わされたしだいです。

(H.M. 70代前半)


2026年5月16日土曜日

終末の徴

「人に惑わされないように気をつけなさい。・・・」

新約聖書 マタイによる福音書 24章 4節以下

マタイ・マルコ・ルカ三福音書が多くの言葉を使って、「終末の徴」について記録しているのは、弟子をはじめ当時の人達の大きな関心事であったからだと思います。現代の世界においても、各地に天災が起こり、地球上で戦争が絶えない現況に、同じような緊張を感じます。

誰でも恐怖を感じると冷静でいられなくなります。しかし、どうして良いかも分かりません。ただ、それに続くマタイ25:31~46のみ言葉に希望をみます。

人の子(イエス様)の裁きは、「さぁ、わたしの父に祝福された人たち」と、呼びかけ「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と、永遠の命に預からせてくださる道が告げられているからです。

どのような時にも、人に惑わされる事なく、主を見上げ、祈りつつみ言葉に生かされて行きたいと思います。

(M.I. 80代)


2026年5月9日土曜日

恵み多き劣等生

弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。

新約聖書 ルカによる福音書 8章 24節

人生には「おぼれそうになる」時があります。多忙、災難、失敗、etc.風吹きすさび荒波となる時がある。

イエス様と一緒に船出する人生、湖は自分が暮らしていく世の中、その世の中を渡るについて荒波となれば人生沈没かと危うくなる。そんな時、イエス様は風と荒波を叱り凪にして下さる。しかし、それだけならただのご利益信仰、自分に都合のいい益を得るだけ。それは恵みではない。

凪になった後、イエス様は「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(ルカによる福音書8章25節)と従う厳しさを問われる。しかし、神様に完璧、完全に従う、あるいはそのように日々努められるほど立派な優等生にはなれない。

そんな劣等生にさえ、振り返れば、神様の備えがあった。辛くて、逃げもし、放り出しもし、でもその時の経験が後に与えられた人生の役割にあって自らが意図していない支えになっている。

救われて、救われて、でも神様に完全に従い生きることができない。この繰り返しが救い主イエス・キリストが在ることを揺ぎ無く確信させてくれます。このことこそ神様の恵みと受けとめています。

(T.M. 70代)


2026年5月2日土曜日

恐れで身動きがとれなくなるとき

あなたを造られた主は 今、こう言われる。
恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。

旧約聖書 イザヤ書 43章 1

私は他者に対する恐怖に蝕まれ、どうしていいかわからなくなってしまうことが度々あります。しかし、神さまはそんな私に何度も「恐れるな」と語ってくださいます。

以前、仕事のプロジェクトに参加するかどうか、とても悩んだことがありました。参加者の中に、私に冷たい態度をとる年上の方がいたからです。顔を合わせるたびにきつい言葉を受け、次第にその方が怖くなり、「自分はいない方がいいのでは」と思うほど心が疲れていきました。

それでも、プロジェクトに参加すれば私に与えられた役目があり、本当は挑戦してみたい気持ちもありました。けれど、その方に対する恐怖に打ち勝てず、参加の有無について返事をできずにいました。

最終的に、そのプロジェクトには参加しました。参加を決めた理由は、「神さまは恐れによって導く方ではない」この確信にたどり着いたからです。

誰がどう言おうと、私は神さまのもの。役に立つかどうかではなく、神さまが名を呼んでくださる、この私。恐れを抱いている自分を認めながら、しかし、恐れから生じる感情で選択するのではなく、神さまが私を呼ばれる方へ歩いて行ける私になりたいです。

( 30代)


2026年4月25日土曜日

「The Terrible Twos」と「善悪の知識の木」

主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

旧約聖書 創世記 2章 16~17

数年前、知り合いの家族と車で出かけました。その家族には2歳くらいの女の子がいました。寒い冬の日で、ちょうど家に帰ろうとした頃に雪が降り始めました。女の子のお母さんが娘に「さあ、外に出るわよ。コートを着なさい」と言いました。すると女の子は「コートなんていらない!」と答えたのです。

2歳児はとても手がかかるものです。自分が親よりも自分のことをよく知っていると思い込んでいるのです。親は子どもが安全で健康に過ごすために何をすべきかをよく知っているにもかかわらず、子どもは親の言うことを聞こうとしないことがあります。日本ではこれを「反抗期」と呼び、英語では “The Terrible Twos”と呼びます。

私たちは皆、2歳児のようなところがあると思います。神は私たちが健康で平和な人生を送るための最善の方法をご存知です。人生に必要な基本的な原則はすべて聖書に書かれています。しかし私たちは、自分たちの方が神よりも物事をよく知っていると思い込んでいる。私たちは神が何を言おうとも聞こうとしない。

創世記に記されているアダムとエバの物語は、その理由を説明しています。神はアダムとエバをエデンの園に置き、「園にあるどの木の実も自由に食べてよい。しかし、善悪を知る木の実だけは食べてはならない」と告げました(創世記2:16b-17a)。蛇はエバを誘惑し、「神は、あなたがたがそれ(善悪を知る木の実)を食べると、目が開けて、善悪を知るようになり、神のようになることを知っている」と言いました(創世記3:5)。

アダムとエバは善悪を知る木の実を食べることを選びました。そうすることで、彼らは神に「私たちは自分たちで神になりたい。何が自分たちにとって良いことで、何が悪いことかを自分たちで決めたい。あなたのやり方ではなく、自分たちのやり方で物事を進めたい」と告げたのです。言い換えれば、彼らは2歳児のように振る舞うことを選んだのです。アダムとエバ以来、人類は2歳児のように振る舞い続けています。それが、歴史の始まり以来、世界に苦しみが存在する理由です。私たちが神の道が私たちの道よりもはるかに優れていると認識するまで、その苦しみは続くでしょう。

(C.M. 70代)


2026年4月18日土曜日

主の前に静まる

恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。

旧約聖書 出エジプト記 14章 13

長い人生で順境もあれば逆境もあります。いざ逆境に至れば、思い悩み、未来に対する恐怖が生まれます。私も数々の逆境で心を乱し、未来に対する恐怖にさいなまされてきました。しかし、私が味わったものなど遥かに凌駕する恐怖を味わった人々がいました。エジプトを脱出したイスラエルの民です。

エジプトで奴隷のような生活をしていたイスラエルの民はモーセに率いられてエジプトを脱出し、新たな土地に向かいました。しかし、エジプト王の追っ手に追いつかれ、前は海、後ろは敵の軍勢という逃げ場のない絶体絶命の状況に陥りました。このときに、主は言われたのです。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」と。そして、有名な「葦の海の奇跡」(モーセが海の水を割った奇跡)を見ることとなります。こんな誰もが絶望するような状況でも、神は「恐れるな」、「落ち着け」と言ってくださり、そうすれば、主の救いを見せてくださると宣言されたのです。

この聖句に出会ったとき、私の未来への恐怖は、大きく緩和されました。忙しい日々の中、あえて神の前で静まり、神が私に起こそうとしている救いを落ち着いて見つめる。これこそが私にとって、五里霧中でも一歩踏み出す原動力となっています。

(R.K. 40代)


2026年4月11日土曜日

イースターのグリーティングカード

イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 11章 25

今年のイースターを前に、ポストの中に一通の懐かしい風景のハガキを見つけました。それは、かつて私が信仰の基礎を学んだ母校から届いたイースターのグリーティングカードでした。

カードに記された力強いみことばを読み返しているうちに、私は学生のときを思い出しました。教会で「復活と命」の約束を初めて知った時の感動がありました。そのときの記憶が、あたたかい春の光とともによみがえってきたのです。

卒業以来、環境は変わり、時間の流れの中でたくさんのうれしいこと、大変と感じることも経験してきました。しかし、主が与えてくださる「命」は決して色あせることがないと教えて下さっています。むしろ、日々の生活の中で何度も立ち止まり、弱さを覚えるその度に、この「復活」の力によって新しく生かされ、今日まで運ばれてきたのだと感じます。

母校からのカードは、私にとって、神様の変わらぬ愛を再確認させてくれる、神様からの温かいプレゼントだと思います。今年もイースターを共にお祝いできることを神様に感謝致します。 

(E.O. 40代)





2026年4月4日土曜日

キリストの体と、その部分

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一  1章27

私たち人間が「キリストの体」って…??若い頃に初めて読んだ時には何かピンときませんでしたが、年を経て、人間関係においてもいろいろな経験を積むうちに、「ああ、こういうことなのかな」というのが少しずつ見えてきた気がします。

直前の12節~26節にあるように、私たちは目鼻口や手足など働きの異なる各部分が集まって一人の体を構成しているのと同様、一人一人それぞれ個性豊かな人間が集まって社会を構成しています。体を構成する部分はそれぞれ大きさも形も働きも異なっていて、どれ一つとして「なくてもよい」部分がないのと同様に、私たち一人一人もまた、見た目はもちろん性格も能力も皆異なっているけれども、誰一人として「いなくてよい」人はいません。しかも体の各部分がそうであるように、それぞれが協調して働かなければ、主の教えを具現化する「体」としての社会が機能しない、ということなのでしょう。そして「体」の一部である私たち一人一人が、キリストによって「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(13節)

世界を見渡せば人種や文化や宗教が異なる多様な人たちがおり、また地球全体を見れば数えきれないほど多様な生物がいて、誰にも(どの生物にも)かけがえのない役割や働きがあります。私たちはキリストによって皆一つに結ばれ、それぞれの賜物を生かして与えられた恵みをお返しするため共に働くことによって、神の国が実現するのですね。

今でいう「インクルーシブ」などという概念がおそらくなかった2000年も前に、主の恵みについてこのようにわかりやすく手紙に書いてくれたパウロさんにも心から感謝です。 

(N.N. 60代)


2026年3月28日土曜日

クリスタルのような空気

生き物の頭上には、恐れを呼び起こす、水晶のように輝く大空のようなものがあった。

旧約聖書 エゼキエル書 1章 22

日々のつまらないストレスや心がズタズタになるような出来事にさいなまれ、心に嵐が荒れ狂った時、ふと神様の持っておられる、より崇高な目標、より偉大な目的、より高い使命を思った。その瞬間に、そこに水晶のようにクリスタル・クリアな、どこまでも澄んだ、全く微塵の風もない清涼な世界があるのを感じた。それは私の近くに存在し、そこにいることが可能なのだということを感じた。

そのピュアすぎるほどにピュアな空色の空気はそこにあり、全く揺るがされない。それ以来、それまであまり好きでなかった水色や空色が少し好きになった。神様のもとに心を上げ、神様の持っておられる壮大なご計画、高い召し、栄光に心を留め、その高度に生きられることを思い出させてくれるから。

(A.O. 40代)


2026年3月21日土曜日

季節ごとの神様の恵み

神のなされることは、すべて時にかなって美しい。

新約聖書 伝道者の書 3章 11節 (新改訳)

日ごとに暖かさが増してきました。ふと気づいたら、冬の時期、一見して枯れていたように見える紫陽花に、新芽が顔を出していました。この季節になると、自然と心に浮かんでくる歌があります。讃美歌21の575番「球根の中には」です。冬の間、何も起こっていないように見えます。しかし、土の下では神様が私たちのしらない間に、静かに、やさしく準備をして下さっていました。

私たちは、時として、冬のように動きが止まって感じる時期があると思います。しかし、新芽のように、神様は私たちの「目に見えない時間」の中に、様々なやさしい準備をして下さっています。

私たちがこうして新芽に目を留めることができるのも、神様の慈しみの中に生かされているからだと思います。 歌詞の中に「いのちのおわりは いのちのはじめ」ということばがあります。私たちが何かの限界を感じる時にこそ、神様は良いものを準備して下さっていると思います。目に見える花だけでなく、その下にある神様の深い準備に感謝したいと思います。

(E.O. 40代)


2026年3月14日土曜日

逃れる道の温かさ

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一  10章 13

今までの歩みを振り返ると、苦しい時期というのは幾度かありました。その都度、心はだいぶ痛みました。「一体、なぜ、そのようなことが起こるのか」と、苦しみの意味がわからず、そのことがまた苦しみとなったりしました。苦しみの中で、「神さまは私を守ってくださらなかったのではないか」という思いになったこともありました。神さまを見失ってしまったのです。それでも、神さまはいつも人を備えてくださり、どんなに苦しくても私が生きていけるようにしてくださっていました。だから、今があります。

ある人は、その時の私に必要な言葉をかけてくださいました。また、別の人は、とにかく私の怒りや悲しみに耳を傾け、混乱した私を受け止めてくださいました。そして、一緒に祈ってくださいました。または、何かを私に言ったりはしなくても、私と一緒に心を痛めてくださっていることが、その存在から伝わってくる人もいました。私の知らないところで、私のために祈っていてくださっていた人も何人もいたことでしょう。神さまは確かに、試練に耐えられるように逃れる道をも備えていてくださいました。

また、ある時は、天からの平安としか言いようのない平安で包まれたこともあります。天の喜びを垣間見せてくださったこともありました。不思議なことですが、苦しみのさなかにおいても、このような平安や喜びは与えられるのでした。今、見えていることがすべてではなく、神さまにはすべてのことが見えていることも、深い慰めとなりました。そして、聖書の言葉から、希望をもって待ち望むことを教えられました。

これらの経験から、苦労することは悪いことではないことを知りました。私は試練を通して、まわりの人々の愛に支えられていることを知り、神さまの愛を知りました。

(K.T. 50代)



2026年3月7日土曜日

愛し、究めてくださる方

主よ、あなたはわたしを究め
わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り
遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け
わたしの道にことごとく通じておられる。
わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに
主よ、あなたはすべてを知っておられる。
前からも後ろからもわたしを囲み
御手をわたしの上に置いていてくださる。

旧約聖書 詩編139編 1~5

天の神様は、私が生まれる前から私を知り、守り愛して導いてくださっています。

これまで、数えきれないほど多くの願いを祈り求めてきました。

祈りは必ず聞かれています。すぐに神様からのお返事がいただけるもの、しばらく待たされるもの、忘れた頃にようやくお返事をいただけるもの、様々ありますが、すべての祈りは聞かれています。

かなり前から祈り求めていた祈りで、そのお返事がよくわからなものがありました。最近になってあらためて思い返し、もしかしたら私の努力が足りないのか?何か私の方に要因があるのでは?と思いめぐらしていました。

そこで気づいたのです。主は私のもっと奥底の、私自身認識していなかった、ずーっと奥深いところにくすぶっていた、私の「真の願い」の方を見ていらしたことを。

もともとの私が願っていた通りになっていたら、きっと、この「真の願い」に気づかず、いつまでたっても、得体のしれない、ドロ沼にはまったままのような、重く暗いものを胸に抱えたままだったかもしれません。

正に、天のお父様はわたしを究めてくださっていました。そして、私が意識していなかった「真の願い」へと私を導いてくださいました。そのことに気づいてから、いつも振り子時計の大きな振り子が左右に揺れるように不安定だったわたしの心に小さな芯ができたように感じました。

祈り求めるとき、いつも思うのは、わたしがベストだと思っていることが本当にベストとは限らない、主は常に主のベストをわたしに与えようとしてくださっている、ということです。

結果が思い描いていたものと違っていたとしても、私を私自身よりも究めてくださっている主を信じてゆだねていけることを幸せに思います。日々、主の愛を感じるたびに、感謝と讃美が心からあふれてとまりません。ハレルヤ!

(N.T. 60代)


2026年2月28日土曜日

向こう岸へ渡ろう

神は言われた。「私は必ずあなたと共にいる。この事こそ私があなたを遣わすしるしである。」

旧約聖書 出エジプト記 3章 12

2/15の礼拝説教で、マルコによる福音書4章35~41節が読まれました。有名なところなのに、なぜ私は気が付かなかったのか?と思っています。35節でイエス様は「さあ、今から向こう岸へ渡ろう」と言うのです。

豚を飼っているゲラサ人、つまり異邦人の土地、ユダヤ人にとっては汚れた豚のいる土地、そこへ今から行こうというのです。もう夕方なのに、船に乗るというのです。おそらく天気もどうだろう?

弟子の中には数人漁師がいるので、海のプロ、つまり風や、天気を見て良いか悪いか分かるはず。つまり状況が悪い方へ今から行こうと言うのです。普通なら「はぁ?今からですか?あそこへ?」って言いそうなものだ。

でも、ここでYesと言ってついていくか、Noと言ってついていかないか、道が分かれます。出エジプト記で、神はモーセに「私は必ずあなたと共にいる、この事こそ私があなたを遣わす、しるしである」と言われました。この時も、普通なら「イスラエル人は、とんでもない人数ですよ。あの大勢の人々をどうやって連れ出すの?!無理でしょう!」って言いそうなもの。でもモーセは、主が導くなら、状態が悪く見える時でも、主の言葉に従い、ついていきました。なぜなら、主がなされる時、主があなたを導く時、遣わす時は絶対に普通じゃ起こり得ない主の助けが、大きな力が働くからです。そこに信仰が見えるようになります。ハレルヤ主を讃えます。

(Y.S. 40代)


2026年2月21日土曜日

黄金比と呼ばれるもの

あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。 月も、星も、あなたが配置なさったもの。

旧約聖書 詩編 8編 4節

天地創造主なる神がすべてをお創りになったことは理解していたつもりでも、恥ずかしながら「そうなんだ」くらいの感覚であった私が、まことに神の御業だと信じたのはほんの小さなきっかけからでした。それを思い出したのは、今開催されている冬季オリンピック開会式の解説で誰かが言っていたのを聞いたからです。芸術の宝庫と言われるイタリアでの開催だけに、様々な芸術作品を彷彿とされる仕掛けがありました。その中で「黄金比」という美しい数列があって、それはフィポナッチというイタリア人が発見したものだということを聞きました。黄金比は絵画や建造物、花の並びにもみられるということです。

そこで思い出したのは、私が犬の散歩途中で植え込みや花壇の花をよくみると実にうまく花びらや葉が並んでいることに感心したことでした。ひまわりの種の並びや様々な花びらや葉が見事に調和され「これは人間が考えてできることではない」とシンプルに思ったことで神の御業と信じるに至ったのです。月も星も神が配置されたもの、花びらひとつとってもこれほどの美しさを醸し出すのは神の指の業であるに違いありません。神の創造された自然の中で、このフィポナッチという人が秩序と調和を見出し、それに数学的見地から黄金比というものに気がついたのだろうな、と思いました。難しいことはわかりませんが、これからも神さまのお創りになった美しいものに気がつくことのできる感性を磨きたいです。

(E.I. 60代)


2026年2月14日土曜日

弱いところに働いてくださる神様

弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」 

新約聖書 ヨハネによる福音書 9章 2節~3節

私はずっと自分の弱い所を自分自身に責め続け、また母が私の悪いところばかりを指摘するから自分に自信が持てなくなったと、母まで心の中で責めていました。       

 先日、教会の礼拝後の勉強会で「教会には神様の働きが現わされるために弱い人たちも集められています」というお話がありました。その言葉を聞いた時、私がクリスチャンになったのは、神様が私の弱いところに働いてくださることを、私にも回りの人にも示してくださるためかもしれないと思いました。

 祈れない日があったり、他のことに気が散ったり、何もする気がおきなかったり、神様から離れそうになる時もあるのですが、その度に神様は私を引きもどし、離れないようにしてくださっているように感じています。私の中に頑なな心や思い込み、見えていない真理がまだまだたくさんありますが、神様が私に働いてくださることを信じ楽しみにして、神様に向き合う心を失くさずに生きていきたいと思います。

(S.O. 60代)


2026年2月7日土曜日

元気を出しなさい

しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。

新約聖書 使徒言行録 27章 22節

「元気を出しなさい」それはパウロの力強い言葉でした。

パウロは逮捕され囚人としてローマに向かう航海の途中、激しい暴風に巻き込まれました。船は揺れ、積み荷を投げ捨て、誰もが「もう助からない」と感じていました。そのような極限状況で、囚人であるパウロが船の中央に立ち上がり「元気を出しなさい」と告げます。不思議な言葉です。自由を奪われた身で、しかも船を動かす権限もないパウロが、なぜ、人々を励ますことができたのでしょうか。それは、彼の拠り所が状況ではなく、「神の約束」にあったからです。パウロは語ります。「神が私と共におられる。乗っている者は誰一人失われない」。彼の信仰は、乗組員の命を飲み込もうとする嵐の中で、静かな灯のように人々の心を照らしました。

パウロは特別だから励ませたのではありません。彼は恐れない人ではなく、神に信頼して立ち続けた人でした。彼の内側にあったのは、「神が共におられるなら大丈夫だ」という確信です。だからこそ囚人という弱い立場でも、人々の支えとなり、嵐の船を導く声となれたのです。

人生にも嵐があります。病、喪失、失敗、人間関係の行き詰まり・・・。そんなとき、私たちは自分の弱さを責め、励ますどころか落ち込んでしまいます。しかし嵐の中のパウロは語ります。「弱いからこそ、神の力が働く」と。私たちも欠けがあってもいいのです。囚人のパウロが希望を語ったように、どんな立場でも、神さまの約束に支えられて生きるなら、誰かに光を届ける人へと神さまは、導いて下さいます。「元気を出しなさい」という言葉は、私たちにも向けられています。神さまは共におられ、失われる者は一人もいません。「主が共におられるから大丈夫だ」と神さまにより頼む信仰を与えて下さいと祈る毎日です。

(H.K. 60代)


2026年1月31日土曜日

一年の初めにすること・一日の初めにすること

体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。

新約聖書 マタイによる福音書 6章 22節~23節

新年にはカレンダーや日記を新しくするだけでなく、デボーション(霊的黙想?)用の本も新調します。実際のデボーションでは、数冊の本の該当日の記述をゆっくり読みながら霊的な体操をした後、教会作成の「聖書日課」の聖書個所に目を通します。締めくくりは、5年前からつけだした「祈りのノート」をめくり、課題のいくつかについて順番に祈りを捧げます。これは私が毎朝、つまり一日の初めに行うことです。旅行するときも必要なものを印刷して持参し、この習慣を守っています。

手持ちの十数種類の聖書の中で、中心的に使っているのは『現代訳聖書』(尾山令仁訳)で、冒頭に掲げた個所(この訳は新共同訳)は現代訳では次のようになっています。 

「体の明かりは目です。それで、もしあなたの目が澄んでいて、困っている人を見た時、すぐに恵んでやれるほど健全であるなら、あなたの全身は明るいのですが、もし目が悪く、困っている人を見ても、あわれみの心を閉じるようであれば、あなたの全身は真暗です。その暗さは、どれほどひどいものでしょうか」(下線は本記事作成者による)。これは、聖書原文の意味するところをわかりやすくするための敷衍訳と言ってよいでしょう。

敷衍訳を一切受け付けない人もいるようですが、私には大変参考になります。もちろん、それを鵜呑みにせず、他の聖書にも目を通します。そして当該聖句の前後の箇所も読んだ上で(つまり文脈を意識して)、訳文が適切か否か判断します。

冒頭の聖書箇所に関して最も興味深い訳は岩波文庫の『新約聖書 福音書』(訳者・塚本虎二)です。他の訳はほとんどこの二つの節だけをまとめ、「体のともし火は目」のような小見出しを付けているのですが、塚本訳で前後を意識し、マタイ福音書6章19~24節をひとまとめにとらえて「宝を地上に積むな」と見出しを振り、次のように訳しています。文脈を強く意識した、ユニークな訳業です。

「このように、何事も天の父上相手でなければならない。たとえばあなた達は衣魚(しみ)や虫が食い、また泥坊が忍び込んで盗むこの地上に宝を積まず、衣魚(しみ)も虫も食わない、また泥坊が忍び込むことも盗むこともない天に、宝を積んでおきなさい。そうでないと、心が天に向かないであろう。宝のある所に、あなたの心もあるのだから。目は体の明りである。だからあなたの目が澄んでおれば、体全体が明るいが、目が悪いと、体全体が暗い。だから天に宝を積まないため、もしあなたの内の光である目、すなわち心が暗かったら、その暗さはどんなであろう。わたし達の心は天か地かに引かれる。だれも同時に二人の主人に仕えることは出来ない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎(うとん)じるか、どちらかである。あなた達は神と富(マモン)とに仕えることは出来ない。」

このように複数の聖書を読み比べたり、祈りの対象である事柄に思いを馳せていると、朝の1時間はあっという間に過ぎ去ります。自由な時間が持てる幸いを神に感謝するしだいです。

(H.M. 70代前半)


2026年1月24日土曜日

イエス様の歩み

「見なさい、あなたの母です。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 19章 27節

イエス様は十字架を背負って、ゴルゴダへと歩まれました。鞭打たれ、服もはぎとられて。目指す先は刑場でした。

小学校の時に『天路歴程』を読み、すっかり虜になりました。病で長期に学校を休んだ日々の遊びは、天路歴程ごっこでした。庭にクローバーに覆われた小さな丘があり、そこが天国。花が咲いている所は平和の道、裏玄関からの巡、、礼の道…天国への道を空想し、辿り着いた丘では母の作ったお弁当を食べるのです。

その体験からか、本の影響からか、「道」を気にする性分になり、聖書の中でも、イエス様の歩み、どこに向かわれるのか、どんな道なのかを探すようになりました。辛く、重いゴルゴダへの道です。

それでもイエス様は十字架のそばにいる母を気遣い、弟子の一人に、母を指して言うのです。

「あなたの母です」と…何度触れても、涙がこぼれます。

イエス様の示される道を進んでいけますように。

(M.Y. 70代)


2026年1月17日土曜日

今、世界が必要としているものは

どうか、主があなた方を、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなた方を愛しているように。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 3章 12節

私の大好きな曲に、”What the World Need Now is Love/ Burt Bacharach”があります。タイトルはこの曲からとったものです。歌詞を読んで、「世界と愛」について、感じたことを少し書いてみます。歌詞の一部を抜粋しますね。

 Lord, we don't need another mountain,
・・・Enough to last 'til the end of time.

そして、次のように続きます。

What the world needs now, is love, sweet love,

神さまに試練を語るときには主語が「私たち」、しかし、愛を語るときには主語は「世界」に変わっています。

そしてわたしも皆様にたがわず、日頃から初めて会う方々や、周りの方々の愛を沢山感じています。

欠点も失敗も受け入れられた時、ある時はお月さまの下でふうっと息をついて安らぎを感じる時。

時には「世界中を愛で満たしてください」とお祈りすることがあります。

神さまとお話をするとき上に書いたような、わたしたちが世界の一部であり、それぞれの人の愛、普遍的な愛に包まれていることを「一瞬で」強く意識することができます。

この歌詞で「今、世界が必要としているものは」も、テサロニケで先に引用した箇所「互いの愛とすべての人への愛で満たされること」も、どちらも等しく日常を丁寧に過ごす中で育まれるのでしょう。

タイトルにある「今、世界が必要としているもの」は、神さまの愛だと思います。

しかしその愛が私たちの中で満ちあふれるためには、受け取る器である私たち自身の心が整えられる必要があります。

この歌詞が問いかけるように、外側にある山や海(試練)は私たちの周りに十分にある一方、世界に足りないのは「優しい愛」です。だからこそまず静かに心を開いて、愛を受け取り、受けた愛をおのずと他へ返していく器になりたいと思った次第です。

(Y.T. 50代)


2026年1月10日土曜日

神様の愛を受け取ることについて

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 5章 8節

彼らの苦難を常に御自分の苦難とし御前に仕える御使いによって彼らを救い愛と憐れみをもって彼らを贖い昔から常に彼らを負い、彼らを担ってくださった。

旧約聖書 イザヤ書 63章 9節

先日友人から、祈りの時間のためにとキャンドルをプレゼントしてもらいました。

クリスチャンというと、熱心に聖書を読み、祈り、礼拝は欠かさないというような姿を思い浮かべる人もいるかと思います。私はまったくそのようではなく、日々の忙しなさにいつも流されています。しかし、このキャンドルをきっかけに、神様に心を向ける時間をもちました。

ふと「愛を受け取るって、何を思い起こせばいいんだろう」と思いました。私はつい嬉しかったことなどを思い浮かべてしまいますが、それでは良いことがなかったときにはどうしたらいいのでしょう。

思うべきは、イエス・キリストが十字架にかかってくださったことであり、幸福な時も苦悩の時も、神様がともにいてくださっているということなのだと思います。

自身の生活だけでなく、国際情勢をみるにつけ、「神様、なぜ黙っているの」という思いが止まらなくなることがあります。しかし、神様は無関心でおられるのではなく、いつも必ずともにおられるということを改めて思い起こしました。

(30代)


2026年1月3日土曜日

希望をもって忍耐する

あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 1章 3節

パウロは、聖書に登場する人物で、イエス・キリストの教えを世界中に広めた人です。彼が書いた手紙は、当時の教会や人々に宛てた、励ましと助言に満ちた心温まるメッセージでした。

当時の人々は、深刻な迫害の中で暮らし、来週また生きて会えるかどうかも分からない、不安で先の見えない日々を送っていました。パウロは、そんな人々を心に留め、温かい励ましの思いを寄せています。

私たちの歩みにも、困難や忍耐が求められる時がこれからもあるかもしれません。しかし、希望を持って一日一日を過ごすことで、少しずつでも道が開かれていくと信じることができます。神さまは私たちにすべてを委ね、希望をもって生きることを許してくださり、私たち一人ひとりを変わらず深く大切に思ってくださっています。

そのことを心に刻み、希望を胸に抱きながら、力強く歩み続ける者でありたいと思います。

(R.M. 40代)