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2026年8月8日土曜日

すべて神様が創造し、良しとされた

神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。

旧約聖書 創世記 1章 11~12節

ある時、田舎の道路脇に茂った雑草1つの葉の美しい形に見入ってしまった。人間にとっては、刈り取らなければならない邪魔な雑草だが、神様はこの葉の形をこんなにも美しく造られたんだと何か感動を覚えた。

真暗闇の深海の小さな生物の生態をテレビで見た。微生物や、魚の死骸の分解されたものを食べて生きている。この密やかに生きている生物も神様が造られて良しとされて生きていると思うと愛おしく感じた。

聖書に、神様は天地創造の後、これらすべてを支配するようにとご自分に似せて人間を造られたと書いてある。人間は、神様が造られたものから、食料を得、家を造り、生活に役立て、探求し、芸術を造ったりしてきたが、破壊もしてきた。「支配せよ」とは「よく管理せよ」という意味であるのに、私物化してきてしまったのではないか。

神様が造られたものは、どんなに小さなものも等しく大切で、そのどれもが欠けてはいけないものとして造られたのだと気付かされた日常のふとした体験だった。

(S.O. 60代)


2026年4月25日土曜日

「The Terrible Twos」と「善悪の知識の木」

主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

旧約聖書 創世記 2章 16~17節

数年前、知り合いの家族と車で出かけました。その家族には2歳くらいの女の子がいました。寒い冬の日で、ちょうど家に帰ろうとした頃に雪が降り始めました。女の子のお母さんが娘に「さあ、外に出るわよ。コートを着なさい」と言いました。すると女の子は「コートなんていらない!」と答えたのです。

2歳児はとても手がかかるものです。自分が親よりも自分のことをよく知っていると思い込んでいるのです。親は子どもが安全で健康に過ごすために何をすべきかをよく知っているにもかかわらず、子どもは親の言うことを聞こうとしないことがあります。日本ではこれを「反抗期」と呼び、英語では “The Terrible Twos”と呼びます。

私たちは皆、2歳児のようなところがあると思います。神は私たちが健康で平和な人生を送るための最善の方法をご存知です。人生に必要な基本的な原則はすべて聖書に書かれています。しかし私たちは、自分たちの方が神よりも物事をよく知っていると思い込んでいる。私たちは神が何を言おうとも聞こうとしない。

創世記に記されているアダムとエバの物語は、その理由を説明しています。神はアダムとエバをエデンの園に置き、「園にあるどの木の実も自由に食べてよい。しかし、善悪を知る木の実だけは食べてはならない」と告げました(創世記2:16b-17a)。蛇はエバを誘惑し、「神は、あなたがたがそれ(善悪を知る木の実)を食べると、目が開けて、善悪を知るようになり、神のようになることを知っている」と言いました(創世記3:5)。

アダムとエバは善悪を知る木の実を食べることを選びました。そうすることで、彼らは神に「私たちは自分たちで神になりたい。何が自分たちにとって良いことで、何が悪いことかを自分たちで決めたい。あなたのやり方ではなく、自分たちのやり方で物事を進めたい」と告げたのです。言い換えれば、彼らは2歳児のように振る舞うことを選んだのです。アダムとエバ以来、人類は2歳児のように振る舞い続けています。それが、歴史の始まり以来、世界に苦しみが存在する理由です。私たちが神の道が私たちの道よりもはるかに優れていると認識するまで、その苦しみは続くでしょう。

(C.M. 70代)


2025年12月27日土曜日

素直に嬉しい?

また、あなたの子孫があらゆる国々の人々を祝福するようになる。それは、あなたがわたしの言葉に素直に従ったからである。

旧約聖書 創世記 22章 18節(現代訳聖書)

ウクライナ出身のお相撲さん、安青錦(あおにしき)が九州場所で初優勝を果たしました! 来場所から大関になることも確定し、日の出の勢いです。優勝後のインタビューで「今のお気持ちを」と促され、「すなおに嬉しいです」と答えていました。

素直に嬉しい? 日本人も頻繁に使っていますが、どうも不自然です。先生の言うことを素直に聞く、与えられた課題に素直に取り組む、素直に白状する、……。動詞が続くと自然ですね。形容詞が続くとダメなのか? 素直に嬉しい、素直に悲しい、素直に楽しい、素直においしい、……。どうやらそうみたい。

こんなことを考えていた時、少し前に読んだ冒頭の聖書個所を思い出しました。アブラハムの信仰姿勢を神がよしとし、祝福してくださる場面です。「素直に従った」から神の祝福を得たのです。いやいや従っただけなら、どうなっていたのでしょう?

よく利用される新共同訳聖書ではここは「~。あなたはわたしの声に聞き従ったからである」です。他の訳もほぼ同様で、「素直に」を加えてあるのは現代訳だけのようですが、とても明快です。なぜなら、世の中には、「形だけ従う」ことがいくらでもあるからです。素直に従ったから神の祝福を得た、としっかり認識することは重要なことではないでしょうか。

上記と関連して、私が大事にしている聖句「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言えない」(コリントの信徒への手紙一 12章3節後半。訳は新共同訳)のことにも触れておきます。昔、キリスト信仰を理解できない友人が、そんなこと普通に言えるよと、「イエスは主である」と私の面前で言い放ったことがあります。だから聖書は変だと付け加えて。これは曲解ですが、どうしてそんなことが起こるのか考えてみるのも一興です。私が知る限り、この部分が最もわかりやすいのはリビングバイブルで、「聖霊様の助けがなければ、だれも、ほんとうの意味で、『イエスは主です』と告白できない」となっています。子供用の聖書ながら、あっぱれではないでしょうか。聖書の中には「ほんとうの意味で」とか「心から」を補った方が理解を促進する個所がいくつもあると私には思えます。

(H.M. 70代前半 )



2025年8月3日日曜日

登山が教えてくれた神さまの恵み

神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。

旧約聖書 創世記 1章 31節

この度、北アルプスの女王と呼ばれる燕岳に登る機会が与えられました。頂上近くには、泊まってみたい山小屋ナンバー1の「燕山荘」があり、そこに泊まるのも楽しみの一つでした。

ところが、北アルプス三大急登の一つと呼ばれる視界のきかない樹林帯の尾根歩きは、「辛いな」「きついな}「下りたいな」とネガティブな思いにさせられました。それでも自分を奮い立たせて登ること6~7時間、「燕山荘」までたどり着いた途端に視界が開け、目の前に広がる立山から槍ヶ岳・奥穂高岳まで連なる北アルプスの山々、さらに南アルプス連山、富士山まで360°の大パノラマが。また、一面に広がるこまくさの大群落、刻一刻とオレンジ色に染まっていく日没の光景、プラネタリウム以上の満天の星空、ご来光とともにピンク色に染まる朝焼けの槍ヶ岳等々。初めて見る光景に、心が豊かになっていくのを感じました。

「燕山荘」の夕食時には、「自然界では、何一つ同じものがないこと。」「魂の感動は心・身ともに即座に蘇生すること。」「感動することで細胞がリラックスしてエネルギーが全身に入ること。」等々、山登りでの小屋主自身の経験を通した講和を聞くことが出来、一層自然の懐の深さを知ることが出来ました。

今回の登山で、天地創造された神さまの偉大さを改めて実感し、神さまを崇め、賛美する機会となりました。神さまの創られた大自然に感動し、心身共に癒された山旅でした。 ハレルヤ!                                  

(H.K. 60代)



2025年1月19日日曜日

それでも神は赦し守って下さる

カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。

旧約聖書 創世記 4章 16節

アダムとエバは神の言葉を守らず善悪の知識の木から取って食べ、アダムは「女が、木から取って与えた」と女(エバ)は「蛇がだました」と神に答えた。

善悪の知識は責任転嫁を人にもたらし、アダムとエバは汗を流してパン(食べ物)を得ねばならないエデンの東の地に移された。

アダムとエバの子、兄カインは弟アベルを嫉妬し殺した。主はアベルとその献げ物に目を留め、カインとその献げ物には目を留められなかったからである。

汗を流して食べ物を得ることは自己承認欲と欲が充たされず嫉妬することを人にもたらした。カインは汗を流して耕しても作物を産み出すことはない地に移され、さまよい、さすらう者とされた。カインが「さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺す」と言うと、神は「だれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられ」、カインは「エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ」。

古今東西、人はみな、アダムとエバそしてカインの末裔、責任転嫁もする、自己承認欲もあって、嫉妬もする。それでも神は、汗を流して耕しても実りのない地にある私達を、赦し、守って下さる。

責任転嫁をせず、何事も誰かに認められるために行わず、妬むこともしない、どれも難しい。が、少しでも出来たら、出来た分だけ気楽になれる。

(T.M. 60代)


2024年4月21日日曜日

私は絶望しない

神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

旧約聖書 創世記 1章 31節

私は、この聖句に希望と励ましを頂いている。世界は話し合いと和解や友情の上でなく、力によって、かろうじて平和という仮の名前でバランスを保っているようにみえる。しかし、その平和は世界のそこここで、もろくも崩れ、憎しみと兵器に支配されてしまっている。自然環境もまた、取り返しのつかない様相を呈しているようにみえる。世界に目を向けるまでもなく、自分を取り巻く家庭、職場、学校、社会でもあきらめてしまいたいような現実がある。私は、神のご計画を知る由もないが、少なくとも神は、心がへこみかけている時にも限りない憐れみを注いで下さっているのを知っている。神は、その目に極めて良い全てをお造りになったのだ、そして、皆に「見よ」と高らかに呼びかけたのだ。困難や苦難の中で、忍耐を覚え、そして平和や問題解決の道を追求する誠実さを神は人に授けてくださった。だから私は、神の「見よ」の呼びかけに応え、全てを良しとされた場に希望を持ち絶望しない。

(E.I. 50代)




2023年7月9日日曜日

光あれ!と祈る神さま

神は言われた。 「光あれ。」 こうして、光があった。 神は光を見て、良しとされた。

旧約聖書 創世記 1章 3~4節

この宇宙、世界を造られた、神さまが発した第一声は何か?ご存知ですか?

旧約聖書の創世記には、神さまが天地を創造された様子が、記されています。神さまの第一声は、「光あれ!」でした。地は混沌であって、闇が深淵の面にある中で、「光あれ」と仰って下さいました。闇の中に光を与えてくださいました。

私たちの日々の歩みは、山あり谷あり。一寸先は闇。時として出口が見えず、霧の中。真っ暗闇の出口の見えないトンネルの中で佇み、不安や恐れを感じたり、時には「お先真っ暗!」、絶望的と思える様な出来事に遭遇することもあります。しかし、神さまは、そのようなネガティブに思える様な時も、いつも私たちのことを心に留め、いつも守り支え、私たちの歩みを良い方向へと導いて下さいます。

「光あれ!」と仰る神さまは、私たちにも「光あれ!」と祈って下さっているのです。

神さまが、私たちのため、私のために祈っていて下さるなんて、何と心強い事でしょう!そんな神さまに期待して、これからも歩んで行きたいと思います。

(H.K. 60代)


2022年7月31日日曜日

いつも共にいて下さる神様

神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。」

旧約聖書 創世記 21章 17節

自身の信仰生活を振り返るたび、その不真面目さが嫌になります。祈ることができなくなり、神様をとても遠くに感じます。そのようなとき、神様が奴隷ハガルとその子イシュマエルとずっと共にいて、彼らが跪いて祈ったわけではないときにも、その泣き声を祈りとして聞いていてくださったことを思い出します(主日礼拝説教ブログより「泣く声さえも祈りとなる」http://shoeichurch.blogspot.com/2013/07/)。

先日、愛犬を亡くしました。この子は、私が最も孤独なときに出会い、犬を飼うことは絶対に禁止であったにも関わらず、家族となりました。たくさんの幸福な時間を過ごし、年老いてからは、「この子が眠りにつくときには、どうか私の腕の中で」とずっと願ってきました。亡くなる日、幾つもの偶然が重なって腕の中で看取ることができました。今となっては、神様がそのようにしてくださったのだと思います。

(A.S. 20代)