2022年2月27日日曜日

主をほめたたえよ

わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

旧約聖書 詩篇103篇2節(新改訳)

皆さんは、楽しかった事や、幸せだった事をよく思い出したりしますか?それとも逆に、怒った事、傷ついた事を思い出したりしますか?

人それぞれ違いますが、私は怒った事、辛かった事を思い出す時期が多くありました。不思議な事に、ほとんどが主に出会う前の若い頃が多く、思い出すたびに辛くなったり、怒ったりしていました。でもそれは、サタンを喜ばせるだけなのです。怒り、憎しみはサタンのパワーとなります。でも逆に、主が私にしてくれた良い事を思い出す時に、私のパワーとなるのです。「主を喜ぶ事は私の力です。」だから何度でも人を許し心の中の悪い思い出を薄くし、神が良くしてくださった思い出、助けて下さった事に目を止めましょう。よく考えたら、あの事は偶然じゃなかったと思う事が色々あるはずです。主で心を満たす事、感謝する事で辛い毎日が、少しずつ幸せな毎日へと変わります。

(Y.S. 40代)



心に残る贈り物

神のなされることは皆その時にかなって美しい。

旧約聖書 伝道の書 3章11節(口語訳)
(新共同訳聖書では「コヘレトの言葉」)

この言葉は、いつも、きちんと和服をお召しだった先輩の方から戴いたものです。折に触れて聖書の言葉を色紙に書いてくださいました。夏になると、新しいうちわに聖書の言葉を書いてくださったこともありましたが、たくさんいただいた中で、上記の言葉が一番心に沁みたものです。

この箇所は現在多く用いられている新共同訳聖書では「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」と、なっています。「時宜にかなう」ということは「美しい」のでしょう。そして、それは人間の思いをはるかに超えたもの。

その先輩は、戦時中、ご主人が官憲の圧力で牧師をやめたことを辛い思い出としていらっしゃいましたが、鬱屈していた私を見てこの言葉をくださったのだと思います。 

(K.N. 80代)


2022年2月20日日曜日

初めて覚えた聖書の言葉

自制の力は町を占領するにまさる。

旧約聖書 箴言 16章 32節後半

この聖句は私が恵泉女学園の入園式(74年前)で、当時園長先生でいらした河合道先生からお祝辞で、「今日のお祝いに貴女方に聖書の言葉を贈ります。覚えてください。」とおっしゃられた聖句です。私は何の意味かさっぱりわかりませんでしたが、覚えなくては、と思い暗記しました。当時の聖書の言葉では「おのれの心を治る者は城を攻め取る者に勝る。」となっていました。

あれから今日にいたる迄、たくさんの聖書のみ言葉に支えられて生きてまいりましたが、この聖句は私が初めて覚え、ずっと支えになってきた心に残る聖書のみ言葉です。 

(K.N. 80代)



放蕩息子の兄

「しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』」

新約聖書 ルカによる福音書 15章 29~30節

日常の人間関係のなかで、放蕩息子の兄の姿が思い浮かび、嫉妬していまいか、人に対し神に対し認められようと優等生になろうとしていないか、自分を顧みることが度々あります。そして、自分に思い当たる節があります。「ごめんなさい」と幾度も祈ります。が、改まらない。それでも、兄をたしなめはしても側から追放していない父の姿が、今も私を信仰にとどめ歩ませてくれています。 

(T.M. 60代)



2022年2月13日日曜日

主に造られたもの

わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。

旧約聖書 イザヤ書 46章 4節

20年以上前、一人暮らしを始めて、ゆっくりと聖書の通読をしていた私は、この聖句に出会い、その瞬間いきなり号泣してしまいました。言いようのない温かさに包まれ、言いようのない安心感が心から溢れてくるのを感じました。涙があとからあとから溢れ出して、天の神さまを思いました。この時からでしょうか、天の神様を“天のお父様”と呼べるようになったのは..。20年前と今とでは、私の歳も日々の暮らしもすっかり変わりましたが、今もこの聖句を読むたび、同じような温かく安らかな気持ちが体の底から溢れてきます。あの頃も、今も、天のお父様の愛は変わらず温かく、優しいのです。私は“主に造られたもの”の幸せに満たされます。 

(N.T. 50代)


つながっていて下さるイエス様

わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。

新約聖書 ヨハネによる福音書 15章4節~5節

私は教会付属の幼稚園に入ってキリスト教と出会いました。以来、教会学校に通い高校生の時にイエスキリストの救いを信じて洗礼を受けました。受洗から50年以上たちましたが、人生の様々な場面で多くの聖書の言葉に教え諭され、慰め励まされてきました。ですから私を支えた聖書の言葉はこれだと絞り切ることはできません。しかし洗礼を受けるきっかけとなった言葉はあります。それはヨハネによる福音書15章4~5節の言葉です。「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう」と言われたイエス様のこの言葉を受け止めて受洗を決意しました。教会にはずっと通っていましたし、聖書を読みお祈りもして神様を信じてきたつもりでした。しかしそれはただキリスト教に触れていただけで、キリストにつながっていることにはならないと分かったからです。これからの人生も最後まで強くキリストにつながっていようと思います。

(70代)



2022年2月6日日曜日

私を導いた聖句

だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。

新約聖書 マタイによる福音書 5章41節

私を支えた聖書の言葉は、1951年、中学一年生になった初夏、頌栄教会日曜学校中等科に転入して間も無く、礼拝か分級にて出遭った、マタイによる福音書5章41節の「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」(人もし汝に一里ゆくことを強ひなば、共に二里ゆけ。)でした。是は修学時代・奉職時代を通じて、何時も夜道の先に燈る外灯でした。今、此の機会を与えられ、久々に改めてゆっくりと是を音読してみて、此の一緒に行くように強いた“だれか”は、実はイエス様そのお方であった事が、告げられました。主よ、向後も是まで同様、あなた様と一緒に行かせて下さい。

(S.K.  80代)




見失った一匹

あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

新約聖書 ルカによる福音書 15章 4節

20代半ばの時、私は自分の生きる道を見失い、極めて破滅的な生活を送っていた。元々宗教に対しては非常に抵抗感があったが、あの手この手を使っても闇から抜け出せず、 もはや失うものがなかった私は、ある日からイエス・キリストに人生を賭けてみることにした。それからというもの、私は他の何物にも代え難い満たしと、人生の闇から光への変化を体感している。

どんなに精神的に、社会的に堕ちたとしても、神様だけは見捨てないで、必ず探し出してくれると私は実体験を元に信じている。

(S.T.  30代)