2022年5月29日日曜日

行く道は神様が決めて下さる

何事にも時があり 
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
(中略)
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時。

旧約聖書 コヘレトの言葉 3章 1節~ 8節

30年以上前のことです。一念発起して自宅で事業を始めようと奔走していた矢先に、高熱に見舞われて2ヶ月間の入院となり、出鼻をくじかれた思いでした。ベッドの上でもどかしい気持ちもあったのですが、家にある資料を全部持ってきてもらい、片っ端から読んではアンダーラインを引き、準備すべきものを書き出し、退院して半年後に無事スタートさせられました。

「ろくに準備もせずに突っ走ってはダメだよ。」と神様に言われたのだと思いました。それから10年間、転勤で移動するまで続けることができました。

7年前に夫を亡くし、広すぎるマンションを持て余していた頃、孫の為に何かできないか、と考え始めました。すると今度は1階を仕事場に、2階を住まいにするのに丁度いい家が手に入り、知人に預けていた道具類が手元に戻り、良い協力者も見つかって、「これは神様からのゴーサイン!」と確信して、以前と同じ事業を再スタートさせて、今に至っています。

今は、どんな形で「そろそろ辞めなさい。」というメッセージが来るのか、耳を澄ませている所です。

(A.N. 70代)


人生の導きから信仰の導きへ

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

新約聖書 マタイによる福音書 7章 7節

受洗する何年も前20代前半の頃、頌栄教会の礼拝に来ました。その日は霊南坂教会の元牧師・飯先生のお説教の日でした。そのお説教での聖句です。この箇所はよく人生訓として解釈されることが多いそうで、当時生意気にも悩んでいた私もそういった解釈をしていたのだと思います。でも、何かしら目の前が開けた気がしたのも事実です。飯先生は「必ず与えられる。必ず見つかる。必ず開かれる」と話されました。今ではこの箇所が信仰への導きであることを学んでいます。何度も何度も頭の中で思い出しイメージし、私の信仰生活を支えている聖句です。

(R.M. 50代)



2022年5月22日日曜日

インマヌエル

見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、「神は我々と共におられる」と言う意味である。

新約聖書 マタイによる福音書 1章 23節

私が全寮制の短大に入学し、そこで朝晩礼拝のある生活が始まり、日々聖書に触れながらも多くの疑問を持ったり、抵抗をしたりしていました。

聖書とは何?イエス様は何?と思っていた時に出会った聖句でした。

遠い存在と思っていた神様、そしてイエス様がお生まれになると言う不思議。
その聞きなれない「インマヌエル」と言う言葉の意味は「神は我々と共におられる」と明らかにされて、初めてイエス様を身近に感じ、心強く思えた事でした。

その1年後に洗礼へと導かれました。それから50年余り経ちますが、神様が共にいて下さると言う事にただ感謝の日々です。 

(Y.T.70代)



旧約聖書の新約聖書関連記事

彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

旧約聖書 イザヤ書 53章 5節

この聖句は表記の通り、旧約聖書のイザヤ書の聖句です。簡潔明瞭にキリスト教信仰の本質を表現しています。旧約聖書について若干間違った解釈をしていたのかも知れないのです。旧約聖書はイエス様の生まれるより以前のずっと昔のことが中心で、イエス様が生まれて活動された時代の記述はほとんどないと思っていました。
これを機会にもう一度旧約聖書に挑戦してみようかと考えています。

(K.N.80代)



2022年5月15日日曜日

見えないものに目を注ぐ

わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 4章 18節

目に見えないものって何だろうと考えた時に、子どもながらに感じたことがあったので書いてみます。

小学6年の時、国語の時間に作文を書きました。机に原稿用紙をしまいましたが、帰りがけに作文がないのに気づき担任の先生に相談しました。

次の日クラス皆で手分けして探したら、出てきました、焼却炉から。私の作文はくしゃくしゃでした。

理由は分かりませんがその作文を私は提出しませんでした。先生も提出しなさいとはおっしゃいませんでした。

後日、お友達の作文が代表で読まれましたが、それは私の書いた文章そのままでした。考えた末、結局担任の先生にだけは本当のことを話しました。

「彼女が私の作文を書き写した」ことは事実として目に見えましたが、私は彼女がそのようなことをした理由を色々考えざるを得ませんでした。

またその一方で、神様のことを考えました。神様は彼女の苦しい(人の作文を焼却炉に喜んで入れるとも思えないので)気持ちをご存じなので彼女を許すだろう。また、神様は彼女がしたことについてもご存じなのだから、私は黙って彼女を見ていようと思いました。

その直後はお互いに話しかけることもありませんでしたが、卒業式の頃には普通に喋れるようになっていました。

この出来事は、目に見えないもの、お友達の気持ちを真剣に考えたり、神様の愛について考えるきっかけになったように思います。

今でも彼女を思い出します。彼女の上に、神様からの豊かな祝福がありますように。

(Y.T. 50代)

 
 



大事なことは?

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

新約聖書 ルカによる福音書 10章 38節~ 42節

「なんで毎日こう忙しいのか、なんで私だけこんなに働くの?」と周りに文句を言いたくなった時、このマルタのやり取りに触れて気持ちが楽になりました。

「マルタ、マルタ」という呼びかけからはじまるイエス様の言葉は、①「一歩引いて物事を見て優先順位をつけなさい」、②「よく生きる(イエス様の言葉を聞く)ことが一番大事です」、③「他人の信仰のあり方を尊重しなさい」の3点を指すと私は思います。

大事なことが何かを自分がきめていたら、忙しさの意味が全く変わりました。そしてまた、正解を決めつけないで他の人の大事なことも尊重しなければと思いました。これからもこの言葉に支えられながら生活していきたいです。

(A.S. 40代)




2022年5月8日日曜日

絶えず祈りなさい

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 5章 16節~18節

この聖書のことばに何度も何度も元気づけられました。苦しかったり、困ったときばかりではなく、うれしかったときもそうでした。教会学校の牧師先生は、「神さまはいつもとなりにいてくださる。」と教えてくださいました。わたしたちを守ってくださる神さまにすべてを委ね、迷ったときも祈ることにより、神さまはすすむべき道を与えてくださいます。祈りをきいてくださいます。

喜び、感謝の祈りをささげる。これからもそのような日々を過ごしていきたいと思います。 

(H.K. 60代)


試練と共に逃れる道も

神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 10章 13節

この聖書のみ言葉に支えられて生きてきました。私は満州で生まれ、母は栄養失調の私と姉を連れ、やっとの思いで引き揚げてきました。その後は健康にも恵まれました。長い人生の中、いろいろありました。結婚後すぐ家を与えられ、私は3人の子供を保育園に預け、十年間共働きをしました。子供が小学校に通うようになり、会社を辞めた時、4人目の妊娠を知り、「また子育てをするのですか?」と神にすがる思いでした。父が脳梗塞で倒れ、商売をしていましたので、従業員の事、事務所の後始末、借金、母の引っ越し。神が不思議な力を持って解決させてくださったことを証しすることができます。その後大きな試練はありませんが、日々神が恵みと励ましを持って導いてくださっていることを感謝いたしております。 

(M.T. 70代)


2022年5月1日日曜日

神は私を光に導かれる

たとえ倒れても、わたしは起き上がる。
たとえ闇の中に座っていても
主こそわが光。

旧約聖書 ミカ書 7章 8節

私はかつて、ある人によって深く傷つけられたことがありました。その相手が一方的に悪いことをしたという出来事でした。その影響で私は何年間も悲しみと怒りを抱えながら生きてきました。その経験を通して気づいたことがありました。それは、人は傷つくといろいろな反応をしてしまうのですが、そのような反応の中で、私は罪ある反応や行動もしてきてしまったということでした。まさに傷は傷を再生産し、痛みは連鎖するのだと思います。

しかし、それでは、悪に負けてしまうことになります。その出来事によって倒れたまま、闇の中に座り続けたままになります。そうではなく、それらの罪を神さまの前に悔い改めた時、私の心は自由にされました。神さまが私を光に導かれました。

(K.T. 40代)



ゆだねて進む

心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。

旧約聖書 箴言 3章 5節~ 6節

この箇所は、大学の聖書研究会で未信者の方々を導く際の御言葉の1つとして示されました。私達が置かれている最近の困難な状況において、改めていま自分自身でかみしめています。

転勤の多い家庭に育ち、環境が度々変わる中、自分の考えや価値観が問われる場面が今日まで多々ありました。

そんな中、移動した先々の教会で、その時にふさわしい神様の励ましと支えが与えられてきました。どこにいてもどんな時にも目指すところはただ一つです。そこに向かってこれからも歩んでいきたいと思っています。 

(R.M. 60代)