2023年10月29日日曜日

新しい可能性

しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。

新約聖書 ルカによる福音書 6章 27節~29節a

この御言葉と出会ったのは、10代の終わりです。当時のわたしの世界観には、頬をぶたれたら、防御するか・逃げるかの二択しかありませんでした。心身とも虚弱体質だったため、応戦するという選択肢も持ち合わせてはいませんでした。しかし、イエス様は防御するでもなく、逃げるでもなく、応戦するでもなく、自分の頬を打つ者に「もう一方の頬をも向けなさい」と言われる。なぜか「そんなことしたらもっと痛いじゃない!」「それじゃ負けてしまう」などとも思いませんでした。単純に「新しい」と感じました。わたしの中には全くなかった選択肢だったからです。

この世的に見たら、イエス様の言葉に従うならば、それは敗北であり、屈辱的なことだと思います。理不尽な目に遭えば、抗いたくなるし、自分の正しさを証明したくもなります。それでも、イエス様が示してくださった、この世にはない「新しい可能性」があることをいつも思い出します。わたしは、イエス様が歩まれた道を選び取りたい。どんなにそれが難しくとも、人間の思いを超えた仕方で平和を与えてくださったイエス様を信じ、歩んでいきたいです。  

(Y.S. 30代)



2023年10月22日日曜日

父の家

わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。

新約聖書 ヨハネによる福音書 14章 2節

愛した、愛してくれた人たちが主の御許にいる…この聖句を思うとき、希望と喜びで満たされます。

思い浮かべる一人に、10年前に召された友がいます。元気で活発な友でした。急に足に痛みを覚え、病院で調べてもらうと、言われたことは思いがけないものでした。生きられて、後数ヶ月ですと。入院、でも週末は自宅に戻り、整理、書き残すこと、用意しておきたいことに、没頭します。それができたのは3ヶ月だったでしょうか。家には帰れなくなり、さらに3ヶ月で召天しました。斎場、参列の顔ぶれなどなど、いろいろなことに指示、注文がありました。半年後の孫の七五三の着物も用意していました。彼女のこうした日々を思うと、神さまの御心を感じます。神さまは、彼女の性分を理解され、愛しみ、そのための時間を与えられたのです。彼女らしさを私たちの心に残してくださったのです。  

(M.Y. 70代)


2023年10月15日日曜日

教会にいく資格

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

新約聖書 マタイによる福音書 9章 12節~13節

「教会にいく資格」
そんなものがあるなら、私は真っ先に門を閉ざされる人間だろう。口を開けば文句やとげのある言葉が出るし、常に愛をもって接するなんてとても難しいと思っている。キラキラしている(ような?)周りを見て思わず、「あなたたちは救われたじゃないですか」(野田サトル作「ゴールデンカムイ」より)と呟く。そして一緒に上記の聖句を思い出す。

あー、そうか。病人なんだもんな。罪人なんだもんな。着飾って御前に出る余裕なんざ、これっぽっちもないんだもんな。自分ではどうしようもない、両手を挙げて認めるしかない。目にする度、耳にする度、
「何故お前のような奴がクリスチャンなんだ」
「そうだよ、資格もないし立派でもない。だから神の御心だけで引っ張り上げてもらうんだろ?」

 誰かも知らぬが脳内で、そんな会話がいつも聞こえる。  

(R.I. 30代)



2023年10月8日日曜日

弱さのゆえに

わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。

旧約聖書 ヨシュア記 1章 9節

私は、困ったり怖くなったり、とにかくいっぱいいっぱいになると、全身がピタッと止まってしまいます。まさに『停止する』という表現が合っていると思います。思考も止まってしまい、どうしたらいいのか、状況を落ち着いて理解したり、次に進むための考えも浮かんでこなかったりします。若い頃に比べ、物事への順応や適応にも時間がかかるようになっています。

そんな自分が情けなくて、鬱々と、悶々とし、さらに動けなくなってしまう時、いつも背中をぐぃっと押してくださる方がいます。

天のお父さまの力強い腕を感じながら、その腕に重い身体をゆだね、少しずつ自分の足に力がもどってくるのを感じます。

「そうだ。私には主がいてくださる。このままで良いと言ってくださる方がいる!」
こうして、また立ち上がります。
私の人生はこの繰り返しです。

私自身は心も体も弱いけれど、そのおかげで、主の力強さをこんなにも実感することができます。だからこそ、賛美と感謝が心にあふれてくるのです。ハレルヤ!  

(N.T. 50代)



2023年10月1日日曜日

さすが神様、やっぱり万事が益となる!

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章 28

息子家族に二人目が与えられたという朗報を聞いたのは、夫が余命宣告されて間もなくのことでした。私は手伝ってあげたいという思いを抑えて、お祝いの言葉だけを伝えました。それから数カ月、夫が「俺は食べるものがあれば何とかなるが、あっちは何ともならんだろう。行ってやれよ。」と言い出し、娘も協力してくれるということで、手伝いに行きました。息子からカードと鍵を渡され、少しでも母親が休めるようにと、毎日2歳になる孫を買い物や公園に連れ出し、家事全般をこなし、いつでも食べられるよう食事を用意して、精一杯のことをしたつもりだったのに、ある日公園から戻ると家には誰もいません。慌てて戻ってきた息子が探し回った結果、母子で親せきの家に家出していたことが分かりました。無事に戻ってはきたものの、彼女は上の子を私に取られてしまいそうで、鬼のように感じていたことが分かったのです。次の日曜日、最寄りの教会での御言葉がこれでした。すぐには受け入れられず、家に戻る気にもなれず、デパートを歩き回り、美味しいものと彼女へのプレゼントを買って帰りました。数日後、娘の付き添いで夫が新幹線で孫の顔を見に来ることになり、2~3日後に私も一緒に帰宅しました。帰りの新幹線の中で彼女から「親よりもよくしてもらってありがとう」というメールを受け取り、生まれたばかりの孫を抱いてから1か月余りで夫は天に召されました。

(A.N. 60代)