2024年9月29日日曜日

吉永小百合さんから受けた質問を再考する

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

新約聖書 コリントの信徒への手紙 13章 4~5節

吉永小百合さんのご主人が最近永眠された記事を読み、吉永さんとお会いした日のことに思いを馳せました。2016年1月15日の昼、場所は品川のプリンスホテルのひとつだったと記憶します。

『母と暮らせば』(監督=山田洋次、主演=吉永小百合、二宮和也)の公開に先立ち、舞台となる長崎で吉永さんの原爆詩朗読会が催され、私と仕事上関わりのあった宣教師(キャロル・サック)がハープ伴奏者に選ばれたのです。上記ホテルではリハーサルがありました。私は、日本語の上手なキャロルさんの“通訳”と偽って同行を許されました。

練習後、吉永さんが私たちのテーブルにお茶とお菓子を運んでくださり、少し言葉を交わしました。ご親戚に海外でキリスト教宣教に携わっている方がいらっしゃると吉永さんがおっしゃったとき、とても親しみを覚えたものです。

話の途中に「恨み」という言葉を吉永さんが発し、外国人には難しいと思われたか、”通訳“の私に目を注がれました。咄嗟によい訳が浮かばず、「ウーン」と唸っただけでお茶を濁したのですが、今考えても、「恨み」「恨む」を一語で英語に置き換えるのは難しい気がします。

8年経った今、初心者向けの英語で有名な聖書を開くと、冒頭の「(愛は)恨みを抱かない」は”love does not keep a record of wrongs”となっています。「嫌なことをいつまでも根に持たない」という意味でしょうが、吉永さんがあの日ご使用になった「恨み」には、もっと複雑な意味が込められていたように思います。

嫌なことをいつまでも根に持たない、それを心からできるようにしてくださるのは、私のうちに住むイエスの霊以外にありません。あの時はそのことを吉永小百合さんに伝えるべきでした。また会えるならそうしたいのですが、そんな機会は二度と訪れないでしょう。来年(2025年)3月に傘寿を迎える吉永小百合さんの変わらぬご活躍を期待するしだいです。

(H.M. 70代)

長崎ブリックホールで原爆詩を朗読する吉永小百合さん ©長崎新聞社

2024年9月22日日曜日

例外の人々

主のもとに集ってきた異邦人は言うな  
    主は御自分の民とわたしを区別される、と。 
宦官も、言うな  
    見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。

旧約聖書 イザヤ書 56章 3節

洗礼を受け救われ、有頂天になっていた頃、私の次の課題は「どうしたら神様に喜ばれるクリスチャンになるか」でした。

教会生活の中で出て来る答えは、「良い学校に行き、良い仕事をして、良いクリスチャンホームを作ること」です。しかしそれは、考えれば考える程疑問でした。

本当に神様は、そのような、銀のスプーンを咥えて生まれて来たようなクリスチャンだけを愛されるのだろうか?生まれ付き他の人には無い特徴やハンディがあったり、過酷な生育環境で育って来た人は、「普通」に近付かないと神様に愛されないのだろうか?

聖書はそう言ってはいません。一般的に、旧約聖書の時代にはユダヤ人の男性ばかりが重んじられていたが、イエス様が世に来られて、サマリア人、徴税人、不貞の女など「例外の人々」にも心を留められたと考えられがちですが、そうではありません。

旧約聖書でも、宦官、他宗教の王に仕える側近、遊女など、様々な人々が神様に出会っています。特に、このイザヤ書56章3節以降の御言葉では、神様ははっきり「例外の人々」をも愛することを宣言されています。

私自身、この疑問に答えを求め、HIV/AIDS への理解と支援の活動に飛び込みました。神様は、「例外の人々」が世間で言う「普通」にならなければ愛されないなら、自分の活動もすぐに挫折すると信じました。もう20余年続けています。

私は医療従事者ではありません。だから、LGBTQ、ドラッグユーザー、セックスワーカーなどの人々と「仲間」として共にいる時、あるいは性差別や人種差別に反対する活動の時、“普通の正しさ”を重んじる人々に「徴税人や罪人の仲間だ」と言われたイエス様が「例外の人々」を愛された、その愛を感じています。

(K.O. 60代)



2024年9月15日日曜日

欲しいものと、与えられるもの

願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。

新約聖書 ヤコブの手紙 4章 3節

「あれが欲しい」「これが欲しい」、欲しいものは尽きません。何かを手に入れれば、次のものが欲しくなる。その繰り返しをしながら生きてきた、と改めて感じます。欲しいと願っても、手に入らないことも多々あります。“モノ”ではない、技術や能力もそうです。また、願ってもいないものが手に入ることもあります。思いがけない苦労や、悲しみなどです。

この聖句を読むと、自分の欲だけを願い求めてしまっていることを感じさせられます。神さまが与えてくださるのは、私にとって必要なもの。時には、あまり欲しくない、願ってもいないものが与えられるかもしれません。けれども、それらは神さまが必要だと思い、与えられるもの、そこには意味が必ずあると信じて、受け取っていきたいと思います。

(R.M. 40代)


2024年9月8日日曜日

力と勇気を与えて下さる神様

だから人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

新約聖書 マタイによる福音書 7章12節

今も私にはテサロニケ5章17~18の絶えず祈りと感謝が必要な日々ですが、最近歳をとり、ストレスや思うように動けなくなってきました。そんな時、歳をとったらお互い助け合いよ、と言ってくれる幼い頃からの友人達、教会の友人達、多くの友人を与えてくださった神様に感謝です。私がしてもらいたい事と言うより、自分だったら大変で嫌だな、と思うことを出来る範囲で、支え会う事ができれば、幸せだなと思う日々です。

(F.S. 70代)


2024年9月1日日曜日

主の御手の中で

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 10章13節

私は元々精神的に弱く、変化に弱い性質です。そんな私に立て続けに、父の突然の闘病と召天、家族同然だった愛猫の死、母が難病になり暮らしが立ち行かなくなる、という出来事が起こりました。その時はなぜ?と悲嘆に暮れながら必死で対応していました。今、振り返るとコロナの前に父と愛猫を直接看取る事ができた事は恵みだったのだなと。コロナ禍の中で母の面倒をみていた時も、私自身の健康は守られ、適宜助けが与えられ、進む道が備えられていました。今は母と夫と三人家族で暮らしています。本当に逃れの道は用意されています。

(Y.S. 40代)