2024年10月27日日曜日

不思議な言葉

わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。

新約聖書 ヤコブの手紙 1章 2節

なんとも不思議な言葉です。私たちの通常の考えでは、試練は喜びにはつながりません。しかし、聖書は、「いろいろな試練に出会うときには、この上ない喜びと思いなさい。」と勧めるのです。

なぜなら、試練によって信仰が試されることは悪いことではないからなのです。信仰が試される時、私たちは忍耐をしなければならないのですが、神さまはその忍耐を尊いものと見てくださいます。そして、試練によって培われる信仰による忍耐を通して、神さまは私たちに素晴らしいものをくださいます。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」(ヤコブの手紙1章12節)

試練を喜びと思うことは、試練の先に神さまが用意してくださっている祝福を見て、希望を持つことなのかもしれません。この聖書の言葉は、人間の常識にはない不思議な言葉ですが、苦しい時に私が慰めを感じた言葉でした。この言葉によって私は、試練の意味を信仰によって捉える次元があるのだということを示されました。 

(K.T. 40代)


2024年10月20日日曜日

立ち上がらせてくださる方

怠け者よ、いつまで横になっているのか。いつ眠りから起き上がるのか。

旧約聖書 箴言 6章 9節

この聖句をいつも手帳の最初のページに書いています。新しい手帳に変わる時も、まず最初にこの聖句を書き写します。

いつも自分のことばかりで、気がつくと天の神さまではなく、自分中心の生活をしてしまう私です。しかも、体調を崩すと、休むのはいいと思うのですが、だんだんと本当に体調が悪くて横になっているのか、それとも単に怠け者の性格によるものなのか自分でも判断できなくなってくる時があります。自分自身を疑いながらも、つい自分に甘く弱さに目をそらせて過ごしてしまいます。

そんな時、改めてこの聖句を目にするといつもドキっとします。真実を見る主のまっすぐな目を感じるのです。

主に隠し事はできません。なんでもご存知で、私のずるさや弱さもすべてご存知の方の目は、意識するともう避けることはできません。

主のまなざしと声を感じながら、次第に冷静に自分を見ようと、自分の姿勢をきちんと正したいという意識が戻ってきます。この聖句によって、何度弱い自分を直視し、「立ち上がろう」という気力を与えられたことでしょう。

私を「支える」というよりも「叱咤激励し、手を引っ張り、背中をぐっと押して起き上がらせてくれる」大切な聖書の言葉です。

(N.T. 50代)


2024年10月13日日曜日

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。

新約聖書 ヨハネによる福音書 1章 16節

教会員の方から、一冊の本を頂きました。『みことばの糧 日々新たに』(O.ハレスビー著 日本キリスト教団出版局)という本です。

聖書を読むことさえできないときがありました。それは、洗礼を受けた後、自分の罪深さを実感する、私にとって大きな出来事がいくつかあったからです。そんなとき、この本の最初に書かれていた御言葉が目に留まりました。

このような私にも、神様は、恵みを与えて下さっています。教会員の方を通して。本を通して。礼拝のお話を通して。様々な方法で、神様は手を差し伸べて下さっています。

恵みの上に、更に恵みを受けた。

たとえ、人間が失ったと感じる時でさえも、絶え間ない恵みを神様は与え続けて下さっている(過去も、今も、未来も)と語りかけて下さっています。それにふさわしいから受けるのではなく、神様が日ごとに新しい恵みと慈しみを運んでくださいます。神様のなさることを信じ、ゆだねて歩んで行きたいです。

(E.O. 40代)


2024年10月6日日曜日

より清く

もし、私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、全ての悪から私達をきよめて下さいます。

新約聖書 ヨハネの手紙一 1章 9節

前の1:8に「もし、罪はないと言うなら、私達は自分を欺いており、真理は私達のうちにありません。」と書いてありますが、実際悪い事はしてないし、それなりに正しく生きているなぁ、と思っていました。でも実はまだ罪がある事に気がつきました。それは心の中にあるもので、ずっとずっと昔の事なのに、未だに親に対して憎しみが残っていたり、怒りが込み上げたり悪口を思ったり、嫉妬したり、他者に対してもありました。

つまり、きっと生き続ける限り、悪い話を聞けば怒りが込み上げたりするもので、一生罪がないって事はないと思ったのです。

毎日お風呂で体を洗うように、キリストの贖いは必要なのでしょう。「私は今日は外に出ていないし、汗をかいてないから綺麗なの」と1ヶ月、体を洗わなかったら、いくら外に出歩かなくてもさすがに臭いがするのでは?と思います。

私達には贖いという神の恵み、神のシャワーを浴びる特権があるので、むしろ欲張って綺麗にしてもらおうではありませんか。

神の前に立った時に、汚くて恥ずかくて立てないなんて嫌ですよね。いつも綺麗にしてもらって、堂々と立てる自分でいたい。

私達の心を洗い清める事が出来るのは、神様しか出来ないので、もう全部、心の全てを裸のように神の前にさらけ出す、私達ができるのはそれだけだし、それで充分なのです。

(Y.S. 40代)