2025年4月27日日曜日

祈れる恵み

よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。

新約聖書 マタイによる福音書 18章 19~20節

感謝な事に、私の家庭はクリスチャンホームです。自分がクリスチャンである事を友人達にまたSNSでも伝えています。

自分や家族の事もそうですが、我が家には、祈らなければならない事が伝えられると必ず一緒に祈ります。もちろん自分一人で祈る事もありますが、緊急事態を知らされた時などは、必ず夫と2人で祈りそののち家族皆でその課題を祈り続けます。海外の友人からも祈って欲しいと連絡をいただくと、細かに誰がどのような状態なのかを聞いて、すぐに夫に共に祈りを求めます。

祈れる特権を私たち信仰者は与えられています。主は尊い命を差し出してまで私たちに、イエス様の御名を通して神様に祈れる特権を与えてくださいました。私は罪深い貪欲な人間だけど、2人で心を合わせるなら、と主は仰っています。だから、信じ続け祈ります。祈れる恵みを感謝しています。

(S.K. 60代)


2025年4月20日日曜日

職業人として

深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。

旧約聖書 詩編 130編  1節

讃美歌をオルガンで弾いていると、「なるほど!!」と、思うことがあります。50代に突入し、最近仕事や私生活で、よく読み違えたり言い間違えたりします。認知機能も衰えワーキングメモリも低くなっているのに、最近、定年が先延ばしにされ、徒競走のゴールテープが見えてきたのに取り上げられた気分で嫌気が差していました。

60歳で定年したら今まで支えてもらっていた先輩方のように再任用で後輩に仕える予定だったのに、「責任が重いまま働き続けるなんて!」と嘆いていました。でも、この聖句の讃美歌258を弾くと、『おのれの業には少しも頼らず、ひたすら恵みの力をたのみて〜のぞみてゆるがじ。』とあります。

「そうかぁ、自分はだめでも、いいのか!」、むしろ「そんな事気にしないで働けってことか!」と納得することが出来ました。

確かに、私の職場は優秀な人材に囲まれて私はいつもフォローされています。 なんて私は幸せなんだと気付かされました。

(M.E. 50代)


2025年4月13日日曜日

二人で

どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二入または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。

新約聖書 マタイによる福音書 18章19~20節

何故二人が願い求めるならなのでしょうか。何故二人または三人が集まるところなのでしょうか。願い事は、人に知られたくないと思う場合もあるし、独りで問題を解決しなければならないという場合もあるはずです。それでも二人または三人なのは、独りでいてはいけないということなのだと思うのです。

独りでは、気持ちのゆとりが持てず、身勝手な思いに駆られてしまうかもしれません。「孤独に悩んでいないで、誰かと語り合って、前向きになりなさい。」ということなのだと思えるのです。

教会では、教会員のお互いを兄、姉と呼び合います。教会に集う家族として、話を聞き祈ってくれます。それが心強い支えとなることは確かです。

(H.K. 70代)


2025年4月6日日曜日

主よ、早く来てください

モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです。」

旧約聖書 出エジプト記 32章 1節

イスラエルの民は神の声を聞きに山に登ったモーセがなかなか帰ってこないので新しい神々を造るようにアロンに迫った、ということが書かれています。確かに40日も何の音さたもなく帰ってこないのでこのような気持ちになってしまうのもわかるような気がします。

自分たちは捨てられたのではないか。モーセの言う神はいないのではないか。様々な疑念がわいてきたのでしょう。

主イエスは「私はすぐに来る。」といって天に昇られました。その言葉を信じて私たちは主の再臨を待ち望んでいます。私たちの希望はそこにあります。しかし、あれから40日どころか2千年もたちましたが未だにその気配がみられません。世界の悲惨な現実を目にするたびに私たちもイスラエルの民と同じようにつぶやいてしまいそうです。

聖書には、神にとって千年は1日のようだ、とも書かれていますからもしかしてまだ2日しかたっていない計算になるのかな、と思ったりもします。信仰と不信仰の狭間で、「主よ早く来てください!」と叫んでいる自分がいます。 

(K.O. 80代)