2022年11月27日日曜日

「受容」すること

キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 15章 7節

「受容」とは、社会福祉の基本原則である。「受容」、そして「共感」は、学生の頃に叩きこまれ、現場で働き始めて以来、常に意識するよう努めてきた。

十数年前、耳鳴りがひどくなった。耳鼻科では特に異常はなく、安定剤が処方された。服用しても耳鳴りは治らなかった。原因として思い当たることがあった。相談業務で2時間近く利用者の方の話を聴いてから、ひどく疲労を覚えていた。その方にとっては切実な相談であった。私はひたすら傾聴し「受容」に努めた。私の耳鳴りは、どうもその翌日から始まったらしかった。さらに良くないことには、相談を聴くたびに吐き気をもよおすようになった。その時はじめて、私は(もうこれ以上は受容できない)と思った。キリストには出来ても、人間の出来ることではない、と私は思った。  

私は自身の限界を知り、無力を知ってからも、傾聴し続け「受容」に努めているが、以前よりも、「謙虚」ということを少しは意識するようになった。そして、どこか相談の質が違ってきた気がすると同時に、気持ちにも余裕が生まれたように思う。いつのまにか、耳鳴りも吐き気もどこかへ消えていた。おそらく、神様は最初からわかっていたのだろう。人間の無力をわかったうえで、あえて「相手を受け入れなさい」と言われたにちがいない。

(H.T. 40代)



2022年11月20日日曜日

心の糧

あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。

旧約聖書 詩篇 119編 105節

私(87歳)の日課は朝起きて、初めににぼしを5,6本40秒チンしてカリカリにし、前の晩に水につけておいたコンブと一緒にその水を飲みながら食べます。30年くらい続けています。元気で一人暮らしです。娘が「わたしもお母さんのようにまねしてみたけど、まずくて三日しか続かなかった!」と言っています。

もう一つの日課は一日の家事の始まりの前に、旧・新約聖書を1日1章(全部読み終わるのに約3年くらいかかります)、1990年から読み始めて今年で11回目になりました。読み返すたびに日付と赤線の引いてあるところが増えてゆきます。悲しかったこと、うれしかったことが短く書いてあり、こんなことがあったのだと思いだされます。このあと何回読み返すことができるのかと思いつつ聖書の言葉を心の糧に、にぼしを体の糧に残り少なくなった人生を感謝しつつ過ごしています。

(K.N. 80代)



2022年11月13日日曜日

愚かな者になりなさい

 本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 1章 18節

私にはこの言葉が単に知恵をひけからさず謙虚であれという諭しには聞こえてこないのです。もちろん謙虚さに欠け反省しきりです。一方、この言葉で『愚かな者』になればいいのだとほっとします。どう愚かかというと、キリストの十字架と復活を愚直に信じることに決めたのです。このことを知恵で納得や論破するのは辛いです。確かに知恵は生きていくのに欠かせません。が、続く19節には『神は、知恵のある者たちを/その悪賢さによって捕らえられる』とあります。知恵は使い方次第で自分を『悪賢さ』へ向かわせます。また自分が『悪賢さ』に騙されるのもいけない。いずれにせよ手前で止まることができたとき、それは自分の内に住んでいる神の霊が引き止めた証です。それを救い主がともにあることへの愚直な信仰が気づかせてくれています。

(T.M. 60代)



2022年11月6日日曜日

真理とはイエスなり

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 8章 31~32節

国立国会図書館に「真理がわれらを自由にする」という銘が掲げられている。求道中に知り、「国会図書館に聖書の言葉!」と感動したものだが、信仰が与えられてから該当箇所を読むと、明らかに誤用とわかる。和食レストランが「人はパンだけで生きるものではない」と看板を出すほうが、まだ罪がないというか、ジョークとして好ましい。

聖書が言う「真理」とはイエス御自身である。この御方は「道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6a)。それゆえ、聖書を読む際はイエスを念頭に、十字架と復活の福音と関連づけて理解する必要がある。信仰の道に迷ったら常にここに立ち返り、イエス御自身に支えられて再出発したいものだ。

(H.M. 60代)