2023年4月30日日曜日

生き生きとした希望

わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。

新約聖書 ペトロの手紙一 1章 3節~ 5節

かつて私の伯父は人生最後の病の床において洗礼を受けました。この言葉は、その洗礼式において読まれた聖書の言葉です。伯父の人生は苦労が多く、悲しみも多かったことと思います。そして、病の床において伯父は寝たきりとなっておりました。そのような中、伯父の魂は神さまを求めていました。伯父は、自分は「弱い」と言い、「洗礼を受けたい」と言うようになりました。そして、伯父の人生の残りの日が少なくなった2月のある日、伯父は念願の洗礼を受けました。洗礼を受けたその瞬間、伯父は涙を流しました。

さて、伯父の洗礼式で読まれたこの聖書の言葉ですが、「生き生きとした希望」という言葉がとても印象的です。「生き生きとした希望」とは、病によっても奪われることのない希望、死を突き抜ける希望のことです。神が伯父に「生き生きとした希望」を与えてくださったこと、そして、私も今、「生き生きとした希望」によって生かされていることを心から感謝しています。

(K.T. 40代)




2023年4月23日日曜日

信じる根拠

このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

新約聖書 マタイによる福音書 26章 56節

なんとも衝撃的な記事です。あれだけ深くイエスと共に行動し、様々な癒しの業もみてきた弟子たちがイエスが捕らえられると、なんと、皆イエスを見捨てて逃げてしまった、と記されています。しかもその後自分たちにも危険が及ぶかもしれないということで隠れます。

ここで終わっていたら、キリスト教はなかったし、僕自身もキリスト者になることもなかったわけです。しかしながら、あのイエスを見捨てた弟子たちは、今度は死をも恐れずにイエスによってもたらされた福音の宣教に生涯をささげました。何が彼らを180度変えさせたのか。聖書には彼らが復活のイエスに出会ったことが記されています。

よく、あなたがキリスト教を信じる根拠は何ですか、と問われます。聖書を読み、関連の書物も読み、信仰の先達者たちの話を聞いてもなかなか自分の信仰の確信が持てませんでした。そういうなかで、ふと気づきました。あのイエスを見捨てて逃げた弟子たちが、180度人生を変えられて、宣教に命を懸けさせたものは何か。聖書に記されているように、復活のキリストに出会ったこと以外説明するものはありません。

難しいことは何もわかりませんが、僕にはこれ以上の信ずるに値する根拠は見当たりません。またこれほど僕を支えてくれる出来事もありません。

(K.O. 70代)






2023年4月16日日曜日

新たな希望

あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない。見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる。

旧約聖書 イザヤ書 43章 18~19節(口語訳)

若い時には将来の自分を想い、夢や希望を持って、それに向かって日々努力したものです。しかし、自分の努力が報われない現実に直面することが、年を重ねる毎に多くなって来ます。更に、よりどころとしていたものや人、能力、健康等、自分を支えていたものが少しずつ失われていくことをも経験します。夢も希望も、わずかな自信をも失い、お先真っ暗!口から出てくるのは、不平・不満ばかり・・

そんな私たちに、神さまは、「新しいことをなす」と、仰って下さいます。

新共同訳聖書では、「やがてそれは起こる。」の箇所は、「今や、それは芽生えている。」と訳されています。「いつの日か?起こる」でなく、「すでに芽生えている」と仰って下さっています。この神さまに、期待し、自分の人生を委ねて生きる時、新たな希望を持って、神さまから与えられている恵みに感謝し、賛美の日々を過ごしていきたいと願います。

(H.K. 60代)




2023年4月9日日曜日

共に礼拝する恵み、喜び

見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。

旧約聖書 詩編 133編 1節

以前、あらゆることが虚しく感じられる日々が続きました。教会の礼拝には出席しました。神さまに何かを問いたい思いがありました。けれども心が動かず、神さまを賛美することも祈ることもしたくないのです。礼拝堂の中でただ座り、ただ立っていました。そして、ただ目を閉じて周囲の人たちの歌う声と祈りの声を聞いていました。後ろのほうからひときわ大きな声で主の祈りを唱える青年の声が聞こえました。いつもは突飛に聞こえてしまう彼の声が、その時は励ましの声に聞こえました。耳を傾け続けていると、美しい声で、優しい声で、どっしりと重厚な声で、讃美歌を歌う声が私を取り囲み、「支えられている」と気付きました。―私が歌えなくても祈れなくても、他の人たちがそれをしてくれるー。私は沈黙したままそれらの声に自分の心を重ね合わせるようにして神さまを礼拝しました。それ以来、讃美歌も祈りも、周囲の声に自分の声を重ね合わせるようになりました。

あの時、私に一番必要なものを神さまは与えてくださいました。詩編133:1の言葉を実際に経験できるようにしてくださったのです。

(H.K. 50代)




2023年4月2日日曜日

主がともにいてくださるよろこび

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

新約聖書 マタイによる福音書 28章 20節

讃美歌298番「信頼」やすかれ、わがこころよ、主イエスはともにいます。~主イエスのともにませば、たええぬ悩みはなし。

一番好きな讃美歌です。もともと、亡くなった父が好きな歌でありました。まだ受洗前、その父の前夜式で聞いたのが初めてでした。その後私自身もこの歌が好きになりました。主がともにいてくださるよろこび・安心・幸福、そのことへの「信頼」というメッセージがダイレクトに伝わって来る気がします。讃美歌の歌詞には難しいものが多いと感じるのですが、この298番の歌詞はとても分かりやすいと思います。メロディもとてもシンプルですし、構成も単純な3回繰り返しです。日々、多くの悩みや不安や苦しみがあります。自分自身の力不足を痛感させられることばかりです。信仰においてもまだまだ迷うことがたくさんあります。そのような私にとっても、主がいつもともにいてくださる、私達の毎日が主の祝福のうちにある、そのよろこびをこの讃美歌に感じつつ、仕事に向かう朝などに歩きながら歌っています。

(R.M. 50代)