父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 父を見た者は一人もいない。
新約聖書 ヨハネによる福音書 6章 45節後半~46節前半
子供の頃過ごしていた福島の会津のその場所には川が流れていて、小学生だったわたしと友人二人で夜の川沿いを歩いたことがありました。夏でした。1980年代末のその場所の夜空には天の川が見えており、無数の星々が紺青の空に散っていたのです。
「あれが、さそり座。」
わたしと同じく関東から転校してきた素性の友人が突然言いました。
「あの赤い星が一等星、アンタレス。」
彼が指差す方向に微妙な赤色の点光が瞬いて眼に見えます。
アンタレスは地球からおよそ554.5光年離れた一等星。つまりは、わたしたちは554.5光年前の過去に発された光を見ていたのでした。わたしたちは今を見ているようでいて、実は今を見ることは決して出来ない、そんな視覚を持っています。
それから年を経て、東京で大学生となったわたしは死ぬことにしました。自殺するつもりだったのです。世の中というものがどうにも不可解で、おそろしく、感覚的に言うと、人間の世界の中に独りわたしという幽霊がなぜか混じっており、その幽霊であることをひた隠しにして、でもどうにか人間世界に馴染まなければならない、馴染みたい。だが、その手がかりがまるで掴めない、という感覚。20代のはじめになるとそんな不可能性にも似た困難な感覚はいよいよ昂じてつらさとなり、わたしは圧し潰され、独り部屋で睡眠薬を二瓶煽ったのです。(わたし一人が生きていることの意味は無いのだから)そのように感じて。
それが死ぬこともなく、意図せずに回復しつつある意識の中、猛烈な頭痛と嘔吐感にさいなまれる中、ぽつんと言葉を感じました。
《どうせ死ぬのなら、死ぬ前に、君がしたいと思う事をしてみてから死になさい》
自分の部屋に独りだったのです。音で聞いたのではありません。でも、それは確かにわたしの外から不意に入って来て、関わって来て、わたしに働きかける言葉でした。
それから20年後。わたしは妻との出会いから初めて聖書を読むようになりました。幾度も読みながら過ごしておりますと、やはりある日不意に、最初に挙げましたイエス・キリストの語られた御言葉がいつもと違って感じられるようになりました。
『父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。』
そして、20数年前の出来事を思い起こしました。あの時には何なのか分からなかった、不思議な言葉との関わりを。
(ああ)
(あの時にふいに関わってくださった方はあなただったのですね)
わたしはそう感じたのでした。やはり、ある日突然に。繰り返しになりますが、実はその箇所は暗記したくなって幾度も幾度も読んで覚えてすらいたのです。でも、それまでそんな風な感じ方をしたことはありませんでした。
【聞く】こと。それは、どうやら外から入ってくる言葉がこちらの深くに存在し働きかけてくる、双方の結びつきの事らしいのです。わたしたちの耳から、目から、言葉はたくさん入って来ます。では、この結びつきがわたしたちの中に常に発生するのかと言えばそうではない。この【聞く】という事は、確かに《わたし以外の何か》の働きかけがあって初めて生じるらしいのです。
目で見ることはできない、しかし聞くことは出来るー。挙げた聖書箇所で、イエスキリストは、わたしたちと神との関わりの在り方を言われていることを知りました。
世の問題は多く、生活の難題もあり、そしてまず自分の定まらなさに悩む時が多くあります。そんな時、
《わたしがあの時にあなたにしたことを忘れたのか》
《わたしが居ないと言えるのか》
こんな言(ことば)が、今ではわたしの中で働きかけてくださいます。わたしを支えてくださいます。そして、確かに、聖書へとわたしを向かわせ、イエスキリストの御言葉のもとへ向かわせるのです。
『父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。』
と語られた通りに。
(A.T. 40代)
