2026年4月25日土曜日

「The Terrible Twos」と「善悪の知識の木」

主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

旧約聖書 創世記 2章 16~17

数年前、知り合いの家族と車で出かけました。その家族には2歳くらいの女の子がいました。寒い冬の日で、ちょうど家に帰ろうとした頃に雪が降り始めました。女の子のお母さんが娘に「さあ、外に出るわよ。コートを着なさい」と言いました。すると女の子は「コートなんていらない!」と答えたのです。

2歳児はとても手がかかるものです。自分が親よりも自分のことをよく知っていると思い込んでいるのです。親は子どもが安全で健康に過ごすために何をすべきかをよく知っているにもかかわらず、子どもは親の言うことを聞こうとしないことがあります。日本ではこれを「反抗期」と呼び、英語では “The Terrible Twos”と呼びます。

私たちは皆、2歳児のようなところがあると思います。神は私たちが健康で平和な人生を送るための最善の方法をご存知です。人生に必要な基本的な原則はすべて聖書に書かれています。しかし私たちは、自分たちの方が神よりも物事をよく知っていると思い込んでいる。私たちは神が何を言おうとも聞こうとしない。

創世記に記されているアダムとエバの物語は、その理由を説明しています。神はアダムとエバをエデンの園に置き、「園にあるどの木の実も自由に食べてよい。しかし、善悪を知る木の実だけは食べてはならない」と告げました(創世記2:16b-17a)。蛇はエバを誘惑し、「神は、あなたがたがそれ(善悪を知る木の実)を食べると、目が開けて、善悪を知るようになり、神のようになることを知っている」と言いました(創世記3:5)。

アダムとエバは善悪を知る木の実を食べることを選びました。そうすることで、彼らは神に「私たちは自分たちで神になりたい。何が自分たちにとって良いことで、何が悪いことかを自分たちで決めたい。あなたのやり方ではなく、自分たちのやり方で物事を進めたい」と告げたのです。言い換えれば、彼らは2歳児のように振る舞うことを選んだのです。アダムとエバ以来、人類は2歳児のように振る舞い続けています。それが、歴史の始まり以来、世界に苦しみが存在する理由です。私たちが神の道が私たちの道よりもはるかに優れていると認識するまで、その苦しみは続くでしょう。

(C.M. 70代)


2026年4月18日土曜日

主の前に静まる

恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。

旧約聖書 出エジプト記 14章 13

長い人生で順境もあれば逆境もあります。いざ逆境に至れば、思い悩み、未来に対する恐怖が生まれます。私も数々の逆境で心を乱し、未来に対する恐怖にさいなまされてきました。しかし、私が味わったものなど遥かに凌駕する恐怖を味わった人々がいました。エジプトを脱出したイスラエルの民です。

エジプトで奴隷のような生活をしていたイスラエルの民はモーセに率いられてエジプトを脱出し、新たな土地に向かいました。しかし、エジプト王の追っ手に追いつかれ、前は海、後ろは敵の軍勢という逃げ場のない絶体絶命の状況に陥りました。このときに、主は言われたのです。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」と。そして、有名な「葦の海の奇跡」(モーセが海の水を割った奇跡)を見ることとなります。こんな誰もが絶望するような状況でも、神は「恐れるな」、「落ち着け」と言ってくださり、そうすれば、主の救いを見せてくださると宣言されたのです。

この聖句に出会ったとき、私の未来への恐怖は、大きく緩和されました。忙しい日々の中、あえて神の前で静まり、神が私に起こそうとしている救いを落ち着いて見つめる。これこそが私にとって、五里霧中でも一歩踏み出す原動力となっています。

(R.K. 40代)


2026年4月11日土曜日

イースターのグリーティングカード

イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 11章 25

今年のイースターを前に、ポストの中に一通の懐かしい風景のハガキを見つけました。それは、かつて私が信仰の基礎を学んだ母校から届いたイースターのグリーティングカードでした。

カードに記された力強いみことばを読み返しているうちに、私は学生のときを思い出しました。教会で「復活と命」の約束を初めて知った時の感動がありました。そのときの記憶が、あたたかい春の光とともによみがえってきたのです。

卒業以来、環境は変わり、時間の流れの中でたくさんのうれしいこと、大変と感じることも経験してきました。しかし、主が与えてくださる「命」は決して色あせることがないと教えて下さっています。むしろ、日々の生活の中で何度も立ち止まり、弱さを覚えるその度に、この「復活」の力によって新しく生かされ、今日まで運ばれてきたのだと感じます。

母校からのカードは、私にとって、神様の変わらぬ愛を再確認させてくれる、神様からの温かいプレゼントだと思います。今年もイースターを共にお祝いできることを神様に感謝致します。 

(E.O. 40代)





2026年4月4日土曜日

キリストの体と、その部分

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一  1章27

私たち人間が「キリストの体」って…??若い頃に初めて読んだ時には何かピンときませんでしたが、年を経て、人間関係においてもいろいろな経験を積むうちに、「ああ、こういうことなのかな」というのが少しずつ見えてきた気がします。

直前の12節~26節にあるように、私たちは目鼻口や手足など働きの異なる各部分が集まって一人の体を構成しているのと同様、一人一人それぞれ個性豊かな人間が集まって社会を構成しています。体を構成する部分はそれぞれ大きさも形も働きも異なっていて、どれ一つとして「なくてもよい」部分がないのと同様に、私たち一人一人もまた、見た目はもちろん性格も能力も皆異なっているけれども、誰一人として「いなくてよい」人はいません。しかも体の各部分がそうであるように、それぞれが協調して働かなければ、主の教えを具現化する「体」としての社会が機能しない、ということなのでしょう。そして「体」の一部である私たち一人一人が、キリストによって「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(13節)

世界を見渡せば人種や文化や宗教が異なる多様な人たちがおり、また地球全体を見れば数えきれないほど多様な生物がいて、誰にも(どの生物にも)かけがえのない役割や働きがあります。私たちはキリストによって皆一つに結ばれ、それぞれの賜物を生かして与えられた恵みをお返しするため共に働くことによって、神の国が実現するのですね。

今でいう「インクルーシブ」などという概念がおそらくなかった2000年も前に、主の恵みについてこのようにわかりやすく手紙に書いてくれたパウロさんにも心から感謝です。 

(N.N. 60代)