2026年2月14日土曜日

弱いところに働いてくださる神様

弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」 

新約聖書 ヨハネによる福音書 9章 2節~3節

私はずっと自分の弱い所を自分自身に責め続け、また母が私の悪いところばかりを指摘するから自分に自信が持てなくなったと、母まで心の中で責めていました。       

 先日、教会の礼拝後の勉強会で「教会には神様の働きが現わされるために弱い人たちも集められています」というお話がありました。その言葉を聞いた時、私がクリスチャンになったのは、神様が私の弱いところに働いてくださることを、私にも回りの人にも示してくださるためかもしれないと思いました。

 祈れない日があったり、他のことに気が散ったり、何もする気がおきなかったり、神様から離れそうになる時もあるのですが、その度に神様は私を引きもどし、離れないようにしてくださっているように感じています。私の中に頑なな心や思い込み、見えていない真理がまだまだたくさんありますが、神様が私に働いてくださることを信じ楽しみにして、神様に向き合う心を失くさずに生きていきたいと思います。

(S.O. 60代)


2026年2月7日土曜日

元気を出しなさい

しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。

新約聖書 使徒言行録 27章 22節

「元気を出しなさい」それはパウロの力強い言葉でした。

パウロは逮捕され囚人としてローマに向かう航海の途中、激しい暴風に巻き込まれました。船は揺れ、積み荷を投げ捨て、誰もが「もう助からない」と感じていました。そのような極限状況で、囚人であるパウロが船の中央に立ち上がり「元気を出しなさい」と告げます。不思議な言葉です。自由を奪われた身で、しかも船を動かす権限もないパウロが、なぜ、人々を励ますことができたのでしょうか。それは、彼の拠り所が状況ではなく、「神の約束」にあったからです。パウロは語ります。「神が私と共におられる。乗っている者は誰一人失われない」。彼の信仰は、乗組員の命を飲み込もうとする嵐の中で、静かな灯のように人々の心を照らしました。

パウロは特別だから励ませたのではありません。彼は恐れない人ではなく、神に信頼して立ち続けた人でした。彼の内側にあったのは、「神が共におられるなら大丈夫だ」という確信です。だからこそ囚人という弱い立場でも、人々の支えとなり、嵐の船を導く声となれたのです。

人生にも嵐があります。病、喪失、失敗、人間関係の行き詰まり・・・。そんなとき、私たちは自分の弱さを責め、励ますどころか落ち込んでしまいます。しかし嵐の中のパウロは語ります。「弱いからこそ、神の力が働く」と。私たちも欠けがあってもいいのです。囚人のパウロが希望を語ったように、どんな立場でも、神さまの約束に支えられて生きるなら、誰かに光を届ける人へと神さまは、導いて下さいます。「元気を出しなさい」という言葉は、私たちにも向けられています。神さまは共におられ、失われる者は一人もいません。「主が共におられるから大丈夫だ」と神さまにより頼む信仰を与えて下さいと祈る毎日です。

(H.K. 60代)


2026年1月31日土曜日

一年の初めにすること・一日の初めにすること

体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。

新約聖書 マタイによる福音書 6章 22節~23節

新年にはカレンダーや日記を新しくするだけでなく、デボーション(霊的黙想?)用の本も新調します。実際のデボーションでは、数冊の本の該当日の記述をゆっくり読みながら霊的な体操をした後、教会作成の「聖書日課」の聖書個所に目を通します。締めくくりは、5年前からつけだした「祈りのノート」をめくり、課題のいくつかについて順番に祈りを捧げます。これは私が毎朝、つまり一日の初めに行うことです。旅行するときも必要なものを印刷して持参し、この習慣を守っています。

手持ちの十数種類の聖書の中で、中心的に使っているのは『現代訳聖書』(尾山令仁訳)で、冒頭に掲げた個所(この訳は新共同訳)は現代訳では次のようになっています。 

「体の明かりは目です。それで、もしあなたの目が澄んでいて、困っている人を見た時、すぐに恵んでやれるほど健全であるなら、あなたの全身は明るいのですが、もし目が悪く、困っている人を見ても、あわれみの心を閉じるようであれば、あなたの全身は真暗です。その暗さは、どれほどひどいものでしょうか」(下線は本記事作成者による)。これは、聖書原文の意味するところをわかりやすくするための敷衍訳と言ってよいでしょう。

敷衍訳を一切受け付けない人もいるようですが、私には大変参考になります。もちろん、それを鵜呑みにせず、他の聖書にも目を通します。そして当該聖句の前後の箇所も読んだ上で(つまり文脈を意識して)、訳文が適切か否か判断します。

冒頭の聖書箇所に関して最も興味深い訳は岩波文庫の『新約聖書 福音書』(訳者・塚本虎二)です。他の訳はほとんどこの二つの節だけをまとめ、「体のともし火は目」のような小見出しを付けているのですが、塚本訳で前後を意識し、マタイ福音書6章19~24節をひとまとめにとらえて「宝を地上に積むな」と見出しを振り、次のように訳しています。文脈を強く意識した、ユニークな訳業です。

「このように、何事も天の父上相手でなければならない。たとえばあなた達は衣魚(しみ)や虫が食い、また泥坊が忍び込んで盗むこの地上に宝を積まず、衣魚(しみ)も虫も食わない、また泥坊が忍び込むことも盗むこともない天に、宝を積んでおきなさい。そうでないと、心が天に向かないであろう。宝のある所に、あなたの心もあるのだから。目は体の明りである。だからあなたの目が澄んでおれば、体全体が明るいが、目が悪いと、体全体が暗い。だから天に宝を積まないため、もしあなたの内の光である目、すなわち心が暗かったら、その暗さはどんなであろう。わたし達の心は天か地かに引かれる。だれも同時に二人の主人に仕えることは出来ない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎(うとん)じるか、どちらかである。あなた達は神と富(マモン)とに仕えることは出来ない。」

このように複数の聖書を読み比べたり、祈りの対象である事柄に思いを馳せていると、朝の1時間はあっという間に過ぎ去ります。自由な時間が持てる幸いを神に感謝するしだいです。

(H.M. 70代前半)


2026年1月24日土曜日

イエス様の歩み

「見なさい、あなたの母です。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 19章 27節

イエス様は十字架を背負って、ゴルゴダへと歩まれました。鞭打たれ、服もはぎとられて。目指す先は刑場でした。

小学校の時に『天路歴程』を読み、すっかり虜になりました。病で長期に学校を休んだ日々の遊びは、天路歴程ごっこでした。庭にクローバーに覆われた小さな丘があり、そこが天国。花が咲いている所は平和の道、裏玄関からの巡、、礼の道…天国への道を空想し、辿り着いた丘では母の作ったお弁当を食べるのです。

その体験からか、本の影響からか、「道」を気にする性分になり、聖書の中でも、イエス様の歩み、どこに向かわれるのか、どんな道なのかを探すようになりました。辛く、重いゴルゴダへの道です。

それでもイエス様は十字架のそばにいる母を気遣い、弟子の一人に、母を指して言うのです。

「あなたの母です」と…何度触れても、涙がこぼれます。

イエス様の示される道を進んでいけますように。

(M.Y. 70代)


2026年1月17日土曜日

今、世界が必要としているものは

どうか、主があなた方を、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなた方を愛しているように。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 3章 12節

私の大好きな曲に、”What the World Need Now is Love/ Burt Bacharach”があります。タイトルはこの曲からとったものです。歌詞を読んで、「世界と愛」について、感じたことを少し書いてみます。歌詞の一部を抜粋しますね。

 Lord, we don't need another mountain,
・・・Enough to last 'til the end of time.

そして、次のように続きます。

What the world needs now, is love, sweet love,

神さまに試練を語るときには主語が「私たち」、しかし、愛を語るときには主語は「世界」に変わっています。

そしてわたしも皆様にたがわず、日頃から初めて会う方々や、周りの方々の愛を沢山感じています。

欠点も失敗も受け入れられた時、ある時はお月さまの下でふうっと息をついて安らぎを感じる時。

時には「世界中を愛で満たしてください」とお祈りすることがあります。

神さまとお話をするとき上に書いたような、わたしたちが世界の一部であり、それぞれの人の愛、普遍的な愛に包まれていることを「一瞬で」強く意識することができます。

この歌詞で「今、世界が必要としているものは」も、テサロニケで先に引用した箇所「互いの愛とすべての人への愛で満たされること」も、どちらも等しく日常を丁寧に過ごす中で育まれるのでしょう。

タイトルにある「今、世界が必要としているもの」は、神さまの愛だと思います。

しかしその愛が私たちの中で満ちあふれるためには、受け取る器である私たち自身の心が整えられる必要があります。

この歌詞が問いかけるように、外側にある山や海(試練)は私たちの周りに十分にある一方、世界に足りないのは「優しい愛」です。だからこそまず静かに心を開いて、愛を受け取り、受けた愛をおのずと他へ返していく器になりたいと思った次第です。

(Y.T. 50代)


2026年1月10日土曜日

神様の愛を受け取ることについて

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 5章 8節

彼らの苦難を常に御自分の苦難とし御前に仕える御使いによって彼らを救い愛と憐れみをもって彼らを贖い昔から常に彼らを負い、彼らを担ってくださった。

旧約聖書 イザヤ書 63章 9節

先日友人から、祈りの時間のためにとキャンドルをプレゼントしてもらいました。

クリスチャンというと、熱心に聖書を読み、祈り、礼拝は欠かさないというような姿を思い浮かべる人もいるかと思います。私はまったくそのようではなく、日々の忙しなさにいつも流されています。しかし、このキャンドルをきっかけに、神様に心を向ける時間をもちました。

ふと「愛を受け取るって、何を思い起こせばいいんだろう」と思いました。私はつい嬉しかったことなどを思い浮かべてしまいますが、それでは良いことがなかったときにはどうしたらいいのでしょう。

思うべきは、イエス・キリストが十字架にかかってくださったことであり、幸福な時も苦悩の時も、神様がともにいてくださっているということなのだと思います。

自身の生活だけでなく、国際情勢をみるにつけ、「神様、なぜ黙っているの」という思いが止まらなくなることがあります。しかし、神様は無関心でおられるのではなく、いつも必ずともにおられるということを改めて思い起こしました。

(30代)


2026年1月3日土曜日

希望をもって忍耐する

あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 1章 3節

パウロは、聖書に登場する人物で、イエス・キリストの教えを世界中に広めた人です。彼が書いた手紙は、当時の教会や人々に宛てた、励ましと助言に満ちた心温まるメッセージでした。

当時の人々は、深刻な迫害の中で暮らし、来週また生きて会えるかどうかも分からない、不安で先の見えない日々を送っていました。パウロは、そんな人々を心に留め、温かい励ましの思いを寄せています。

私たちの歩みにも、困難や忍耐が求められる時がこれからもあるかもしれません。しかし、希望を持って一日一日を過ごすことで、少しずつでも道が開かれていくと信じることができます。神さまは私たちにすべてを委ね、希望をもって生きることを許してくださり、私たち一人ひとりを変わらず深く大切に思ってくださっています。

そのことを心に刻み、希望を胸に抱きながら、力強く歩み続ける者でありたいと思います。

(R.M. 40代)