2025年12月27日土曜日

素直に嬉しい?

また、あなたの子孫があらゆる国々の人々を祝福するようになる。それは、あなたがわたしの言葉に素直に従ったからである。

旧約聖書 創世記 22章 18節(現代訳聖書)

ウクライナ出身のお相撲さん、安青錦(あおにしき)が九州場所で初優勝を果たしました! 来場所から大関になることも確定し、日の出の勢いです。優勝後のインタビューで「今のお気持ちを」と促され、「すなおに嬉しいです」と答えていました。

素直に嬉しい? 日本人も頻繁に使っていますが、どうも不自然です。先生の言うことを素直に聞く、与えられた課題に素直に取り組む、素直に白状する、……。動詞が続くと自然ですね。形容詞が続くとダメなのか? 素直に嬉しい、素直に悲しい、素直に楽しい、素直においしい、……。どうやらそうみたい。

こんなことを考えていた時、少し前に読んだ冒頭の聖書個所を思い出しました。アブラハムの信仰姿勢を神がよしとし、祝福してくださる場面です。「素直に従った」から神の祝福を得たのです。いやいや従っただけなら、どうなっていたのでしょう?

よく利用される新共同訳聖書ではここは「~。あなたはわたしの声に聞き従ったからである」です。他の訳もほぼ同様で、「素直に」を加えてあるのは現代訳だけのようですが、とても明快です。なぜなら、世の中には、「形だけ従う」ことがいくらでもあるからです。素直に従ったから神の祝福を得た、としっかり認識することは重要なことではないでしょうか。

上記と関連して、私が大事にしている聖句「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言えない」(コリントの信徒への手紙一 12章3節後半。訳は新共同訳)のことにも触れておきます。昔、キリスト信仰を理解できない友人が、そんなこと普通に言えるよと、「イエスは主である」と私の面前で言い放ったことがあります。だから聖書は変だと付け加えて。これは曲解ですが、どうしてそんなことが起こるのか考えてみるのも一興です。私が知る限り、この部分が最もわかりやすいのはリビングバイブルで、「聖霊様の助けがなければ、だれも、ほんとうの意味で、『イエスは主です』と告白できない」となっています。子供用の聖書ながら、あっぱれではないでしょうか。聖書の中には「ほんとうの意味で」とか「心から」を補った方が理解を促進する個所がいくつもあると私には思えます。

(H.M. 70代前半 )



2025年12月20日土曜日

受洗後初めてのクリスマス

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光がまわりを照らしたので彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

新約聖書 ルカによる福音書 2章 8~12

私のクリスマスのイメージは北欧や北アメリカの真っ白な雪景色、暖かい暖炉の前のもみの木に飾られたクリスマスツリー、その周りに置かれたプレゼントの数々そして現実にはあり得ないトナカイに乗ってプレゼントを配るサンタクロースでした。50年以上前の雪深いカナダでのクリスマスの体験は絵本で知っているクリスマスそのものでした。

クリスマスは救い主イエス様の誕生をお祝いする日。

でもイエス様がお生まれになったのはヨセフとマリアが住民登録をするためにガリラヤの町ナザレから上って行ったベツレヘムのダビデの町でした。およそ雪景色とはほど遠い砂漠のような荒れ野。

ルカによる福音書によるとイエス様誕生の喜びの知らせを一番に受けたのは野宿をしながら夜通し羊の番をしている羊飼でした。この知らせを聞いた羊飼いたちは主が知らせて下さったこの出来事をすぐに見に行こうと出掛けました。

そしてマリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てその光景を見て羊飼いたちは、その幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせました。神様が私たちのためにお遣わし下さった救い主御子イエスキリストは馬小屋の飼い葉桶に寝ていらっしゃいました。両親であるヨセフとマリアが住民登録をするための旅の途上でしかも泊まるところもなくておそらく馬小屋で初めての子を出産しなければならなかったマリアはどんなに不安だったことでしょう。

天使からイエス様誕生の知らせ「あなた方のために救い主がお生まれになった」というこの喜びを知らされたのは一番貧しい羊飼いでした。またイエス様は一番貧しい弱い状態でお生まれになられました。

クリスマスはすべての人々に与えられた大きな喜びでありイエス様が人として一番貧しい弱い状態でお生まれになった事に大きな意味があると知りました。

今年のクリスマスは私にとって特別のクリスマスになりました。

(S.K. 80代 )



2025年12月13日土曜日

クリスマスの思い出

いと高きところには栄光、神にあれ。
地には平和、御心にかなう人にあれ。

新薬聖書 ルカによる福音書 2章 14

私がものごころついた頃のクリスマスの思い出は、戦後4年ぐらいだった頃だと思う。東北の田舎の冬は北風が強く、もと米倉だったといわれている教会の建物は時々ギシギシと音をたてていた。そんななかでもクリスマスは本当に楽しかった記憶として残っている。特に今まで見たことがなかったきれいなクリスマスカードにびっくり、これらのカードはアメリカの教会からメッセージの部分は切り取ったカードだったそうだ。そしておみやげは赤い色で、取っ手のついた小箱の中に入っていたおやつだった。中身は覚えていないが今まで食べたことがないおやつだったと思う。両親がキリスト者だったせいもあるが、とにかくイースターの卵や、卵のカードを開くとひよこが出て来るカード等がうれしくて、私の宝箱は、教会学校のカードでいっぱいになっていた。

しかし、中学生になると両親にも反抗し、いつのまにかその宝箱も捨ててしまったと思う。高校三年生になった頃は商店街もクリスマスセールで明るくなり、我が家でもショートケーキが食べられるようになったし、友達とも仲良く過ごしていた日々だったが、なぜか虚しさを感じ始め再び教会へ通うようになった。もうその時には、強い北風にギシギシという音がしない会堂だった。

♪私たちが 暗闇にとどまることのないように キリストは光として世に来られた♪

(I.I. 70代 )


2025年12月6日土曜日

初めてのクリスマス祝会の思い出

いと高きところには栄光、神にあれ。
地には平和、御心にかなう人にあれ。

新薬聖書 ルカによる福音書 2章 14

私は大学1年の時、学生ホールでのクリスマス祝会担当を任されたことがあります。礼拝とはまた違う、学生同士が集まってクリスマスを楽しむ時間です。1年生だった私は、係の先輩たちと一緒にいろいろな企画をしました。その年の祝会は今でも心に残る大切な思い出です。準備することは山ほどありましたが、ワクワクした気持ちがありました。祝会の準備は、決して一人ではできませんでした。忙しい授業の合間をぬって、先輩たちと一緒に企画しました。祝会は学生に一任されていたので、「この讃美歌にしましょう。」「このみことばはこういう意味なんだよ。カードの御言葉はこれにしましょう。」「当日のクリスマスプレゼントの買い出しに行きましょう」。と、先輩たちと話し合い、選び、作成し、過ごした準備の時間は、本当に神さまがくださった大切な交わりでした。その先輩のおひとりは、クリスチャンホームで育った方で、何も知らない私に教会のことや聖書のことを教えて下さった方です。大学卒業後の今でもお付き合いがあります。その時の神様のお導きに感謝しています。今でもクリスマスが近づくと、あの学生ホールのあたたかな光景を思い出します。あれは確かに神様が共にいてくださった時間でした。天使たちの歌った言葉は、今も変わらず私の心を励ましてくれています。「地には平和、御心にかなう人にあれ。」その平和が、今年もまた私たちの歩みにそっと注がれますように。

(E.O. 40代 )


2025年11月29日土曜日

喜び待つアドベント

その日には、人は言う。
見よ、この方こそわたしたちの神。
わたしたちは待ち望んでいた。
この方がわたしたちを救ってくださる。
この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。
その救いを祝って喜び踊ろう。

旧約聖書 イザヤ書 25章 9

クリスマス前のアドベントの時となると、教会も家庭も街中も、クリスマスの飾り物で、美しく賑やかになります。

毎年、同じように忙しく迎えていたアドベントでしたが、ある年、アドベントの原点に立たされました。

この時期、教会学校では、聖誕劇の練習で大忙し、次週はクリスマス本番、ガンバロウと別れた翌日、教会員の一婦人が、自宅で何者かに殺害されたのです。テレビニュースで知って、牧師や教会員数名が駆け付け、衝撃の中にも葬儀の備えがなされました。

夫人の夫も教会員であり町内会の副会長でした。自宅で町内会長夫妻が彼を慰め支えていました。

葬儀の直前に犯人が自首しました。犯人は町内会長の息子でした。自首する前に犯行を知らされた両親は、悲痛にも即、自死したのです。悲しみと嘆きの渦巻く中で、迎えるクリスマス。暗い雲に覆われた気持ちで、ご降誕を喜んで祝えるだろうか。

しかし、子ども達は笑顔で溢れています。ハッと気づかされました。御子は暗い世に誕生してくださった。悲しみ、嘆き全てを引き受けて下さるために。

アドベントは忙しいと呟くのでなく、喜び待つ原点に立つ時と!

(M.I. 80代 )


2025年11月22日土曜日

競争を走り抜く

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。

新約聖書 ヘブライ人への手紙 12章 1

ヘブライ人への手紙は全体に熱い内容ですが、12章は特に熱いです。

日本人は温和な民族なのは良いですが、信仰も「柔和」「謙遜」「平安」が中心のようです。競争であれば、「参加出来るだけで十分」「後ろからついてくだけ」みたいなものを感じます。

そのためか、現代日本のキリスト教美術や音楽ではワーシップソングに触れても、下手ではないけれどサークル活動の発表会のようで、何だか心に響かない事が多いです。

キリスト教の芸術ってそんなものかと思っていた所、最近、YouTube で海外(特にアメリカ)のワーシップソングを聴いて「何だこれは!」でした。プロが歌っていると思いますが、超人的な歌の上手さと、英語があまり得意でない私が聴いても感動で涙する表現力に圧倒されました。キリスト教国、半端ないと思わされました。

日本のクリスチャンはただでさえ少ない上、更に減少傾向だそうですが、これは、日本特有の「この程度で十分」信仰も影響してるんじゃないかなと思います。

もちろん、カルトのような、収入の大半を献金したり、人の迷惑顧みず布教したりの洗脳の熱さとは違います。

自分はどうだろう、定められた競争を全力で走っているか、「この程度で十分」になっていないか、考えさせられる日々です。

(K.O. )


2025年11月15日土曜日

神様が与えてくださること

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 5章8

暑い夏が過ぎ、やっと秋になりました。秋というと、幼少期から文化や趣味に関することに集中していたことを思い起こします。最近は、「推し活」が流行り、季節を問わずに個人が好きなことに集中できることは、良いことだと私は捉えています。私の「推し活」は、もう数十年前からになります。ヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」です。この本や・ミュージカルが持つ精神性は、「赦し」と「愛」がテーマになっています。主人公ジャン・バルジャンは、パンを盗んだ罪で19年の厳しい刑に服し、世の憎しみに満ちた状態で仮釈放されます。そんな彼を、司教は温かく受け入れます。しかし、バルジャンは司教の銀の食器を盗んで逃走し捕まります。この時、司教はバルジャンをかばい、銀の食器だけでなく、銀の燭台まで彼に与えました。この司教の行為は、神様の恵みであると受け止めています。

聖書では、私たちが罪人であるにもかかわらず、一方的な神様の愛と赦しによって救われると教えられています。バルジャンは、この司教の無条件の愛と赦しによって、「古い自分」を捨て、「新しい自分」として生きる決意をしました。まさにイエス様によって新しく創ってくださる私たち人間の姿を映していると思います。この場面は、何度みても感動の涙なしに見ることはできません。(レ・ミゼラブルの話を書き出すと止まらないのでこのあたりで止めておきます。詳しい方がいたらぜひ、共有させて頂きたいです。)

「レ・ミゼラブル」は、日本語訳では「あわれな」「みじめな」という解釈ですが、悲劇だけのお話ではないと思っています。私たち一人ひとりが神様の前に弱く罪深い存在であること、しかしそれでもなお、神様の愛と赦しによって新しく生きる望みを与えられていることを教えてくれる、希望の物語であると私は信じています。

(E.O. 40代)