体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。
新約聖書 マタイによる福音書 6章 22節~23節
新年にはカレンダーや日記を新しくするだけでなく、デボーション(霊的黙想?)用の本も新調します。実際のデボーションでは、数冊の本の該当日の記述をゆっくり読みながら霊的な体操をした後、教会作成の「聖書日課」の聖書個所に目を通します。締めくくりは、5年前からつけだした「祈りのノート」をめくり、課題のいくつかについて順番に祈りを捧げます。これは私が毎朝、つまり一日の初めに行うことです。旅行するときも必要なものを印刷して持参し、この習慣を守っています。
手持ちの十数種類の聖書の中で、中心的に使っているのは『現代訳聖書』(尾山令仁訳)で、冒頭に掲げた個所(この訳は新共同訳)は現代訳では次のようになっています。
「体の明かりは目です。それで、もしあなたの目が澄んでいて、困っている人を見た時、すぐに恵んでやれるほど健全であるなら、あなたの全身は明るいのですが、もし目が悪く、困っている人を見ても、あわれみの心を閉じるようであれば、あなたの全身は真暗です。その暗さは、どれほどひどいものでしょうか」(下線は本記事作成者による)。これは、聖書原文の意味するところをわかりやすくするための敷衍訳と言ってよいでしょう。
敷衍訳を一切受け付けない人もいるようですが、私には大変参考になります。もちろん、それを鵜呑みにせず、他の聖書にも目を通します。そして当該聖句の前後の箇所も読んだ上で(つまり文脈を意識して)、訳文が適切か否か判断します。
冒頭の聖書箇所に関して最も興味深い訳は岩波文庫の『新約聖書 福音書』(訳者・塚本虎二)です。他の訳はほとんどこの二つの節だけをまとめ、「体のともし火は目」のような小見出しを付けているのですが、塚本訳で前後を意識し、マタイ福音書6章19~24節をひとまとめにとらえて「宝を地上に積むな」と見出しを振り、次のように訳しています。文脈を強く意識した、ユニークな訳業です。
「このように、何事も天の父上相手でなければならない。たとえばあなた達は衣魚(しみ)や虫が食い、また泥坊が忍び込んで盗むこの地上に宝を積まず、衣魚(しみ)も虫も食わない、また泥坊が忍び込むことも盗むこともない天に、宝を積んでおきなさい。そうでないと、心が天に向かないであろう。宝のある所に、あなたの心もあるのだから。目は体の明りである。だからあなたの目が澄んでおれば、体全体が明るいが、目が悪いと、体全体が暗い。だから天に宝を積まないため、もしあなたの内の光である目、すなわち心が暗かったら、その暗さはどんなであろう。わたし達の心は天か地かに引かれる。だれも同時に二人の主人に仕えることは出来ない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎(うとん)じるか、どちらかである。あなた達は神と富(マモン)とに仕えることは出来ない。」
このように複数の聖書を読み比べたり、祈りの対象である事柄に思いを馳せていると、朝の1時間はあっという間に過ぎ去ります。自由な時間が持てる幸いを神に感謝するしだいです。
(H.M. 70代前半)
