2021年9月26日日曜日

弱い時こそ見える、本当のこと

わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときこそ強いからです。 

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 12章 10節


聖書には謎のような言葉がたくさんあって、最初に読んだ時は意味がわからない、でも、ある時ふと、腑に落ちることがあります。ああ、これだったのか、と。もしかしたらそれは正しい解釈ではないかもしれない。でも、いつかわかる時が来るまで、小さな謎を含んだまま大切に心にしまっておこう。そう思うようにしています。 

人は、上手くいっている時は何でも楽しくて、自信に満ちて、幸せでいられます。そして、上手くいっていない人、要領が悪い人、みっともない人を軽蔑したりします。努力が足りないからそうなるんだと、社会から排除しようとすらします。でも、弱く惨めな時こそ、人や社会の本当の姿が見えてきます。

辛くて嫌な体験はできればしたくない。でもそれこそがかけがえのない財産だ。聖書のこの言葉で、そんなふうに思えるようになりました。

(F.K. 50代)

私が慰められた聖書の言葉

苦しみにあいたりしは我によきことなり。これによりて我なんじのおきてを学びえたり。

旧約聖書 詩編 119編 71節 (文語訳)

 

これは私が初めて触れた聖書の言葉です。私は10代の後半に病気をしたのですが、その頃、母が親しくしていたクリスチャンの方から頂いたお見舞いの葉書に、この言葉が記されていました。私は病床で何度もその葉書をながめ、「全くその通り」と思っていました。というのは、聖書の伝える神様は私の苦しみを知っていてくださるお方で、苦しみを通しても何かを語りかけてくださるお方だと思ったからです。私たち人間には苦しみの意味は分からなくても、神様には神様のお考えがあるということを思い、私は深い慰めを感じました。 

(M.T.  80代)

2021年9月19日日曜日

必要なことはただ一つ

マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。

新約聖書 ルカによる福音書  10章  41節


家に招いたイエス様の話に聞き入っているマリアに対し、客をもてなすために忙しく立ち働いている姉のマルタがイエス様に「マリアも手伝うように言って下さい」と頼んだ時のイエス様の言葉です。

「多くのことに思い悩み、心を乱している。」これは私の頭の中だと思いました。特に「しなければならない」と思ってしまう心の持ち方は、自分自身を縛ってきたように思います。かえって気力も萎え、本当に必要なことや、したいことが見えなくなっていました。このイエス様の言葉に立ち返り、今本当に必要なことは何かを祈り尋ね求めながら日々生活し、心の中の混乱から抜け出して、喜びの中で生きていけるようになりたいと思っています。

(S.O. 60代)


いつも共にいてくださる神さま

恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。 驚いてはならない、わたしはあなたの神である。 わたしはあなたを強くし、あなたを助け、 わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。

旧約聖書 イザヤ書 41章 10節(口語訳)


思い通りにならない山あり谷ありの我が人生、その時々は、「何故?」「どうして?」と自問し、落ち込むことの繰り返しです。しかし、後で振り返ると、その一つ一つの出来事が、神さまの導きにより、実に恵み深いものであったか、またどんな時にも神さまが共にいて下さったかを知り感謝に溢れます。

高校卒業後、医学部目指し浪人生活を重ねて来ましたが、夢叶わず、文系の大学に行くことになりました。在学中に洗礼を受け、将来の自分に夢膨らませ、祈りつつ就職活動をしていました。順調に内定を貰い、更に第一志望の企業を目指し活動していた矢先、内定先から「年齢制限」を理由に内定取り消しの連絡が次々にありました。同様に第一志望先にも落とされ、就職先が決まらず、まさに「お先真っ暗」な状況でした。神さまに祈りながら、活動してきたのに何で……やり切れない気持ちで、牧師を訪ね、一緒に祈って頂いた時に、読んで下さった聖書の箇所です。今でも、力強い神さまのこの言葉に、励まされる毎日です。

(H.K. 60代)




2021年9月12日日曜日

神様がおられるなら、なぜ

神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。

旧約聖書 コヘレトの言葉 3章 11節


若い頃、教会の仲間と、身体に障がいのあるお嬢さんのいるご家庭で集会を持っていた。

ある時、聖書の話を聞きながら、お母様が「神様がおられるなら、なぜこの子はこんな状態なのでしょうか」と訴えられ、答えに窮した。思い悩みの中で、このみ言葉が示され、後日、お母様にこのようにお伝えした。「きっとその答えは、天国で神様が直接、お嬢さんにお話しされると思います」。

受け入れがたい様々な現実の前で、すべてのことが解き明かされる時を信じ、この聖書のみ言葉を聞いてゆきたい。

(K.O. 70代)

前を向いて生きることができる根拠

わたしは主、あなたの神。
あなたの右の手を固く取って言う
恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。

旧約聖書 イザヤ書 41章 13節


私は怖がりです。そして、いろいろなことを心配してしまいます。けれども、世界を統べ治めておられる神さまが、怖がりで不安になりやすい小さな存在である私に目を留めてくださり、「わたしは主、あなたの神」とおっしゃってくださるのです。そして、私の右の手を固く取って「恐れるな、わたしはあなたを助ける」といつも声をかけてくださっています。なんと力強い御言葉でしょうか。神さまが私を助けてくださるという約束があるからこそ、苦しい日々を通ることがあっても、私は前を向いて生きてくることができました。

(K.T. 40代)


2021年9月5日日曜日

心の底から安心します

地の果てのすべての人々よ わたしを仰いで、救いを得よ。 わたしは神、ほかにはいない。  

旧約聖書 イザヤ書  45章 22節


これは神様からの呼びかけの言葉です。神様からの招きの言葉であるといってもいいでしょう。礼拝の冒頭の「招詞」(招きの言葉)でも読み上げられることがあるので、今まで、何度も何度も耳にしてきた言葉です。私はこの言葉を聞くと、心の底から安心します。神様の方から、「あなたのことを救うよ。」と声をかけてくださっているからです。私は私を救うことはできません。ただ神様だけが私を救ってくださるお方です。その神様を、私は心から信頼します。

(M.T. 80代)

祖母からの贈り物

しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を
神よ、あなたは侮られません。

旧訳聖書 詩編 51編 19節


この聖書の言葉は、私がイエスさまを信じる決心をして、洗礼を受けた時に、クリスチャンの祖母からお祝いに贈られたものです。神さまからの恵みによって洗礼を受け、新しくされた自分自身の門出の喜びと感謝に満ち満ちている時に、この聖書の言葉を贈られ、その時にはその意味がよく理解出来ませんでした。

クリスチャンになってからも、日々の生活において、度々イエスさまに背を向けて、傲慢に自分中心の生活を繰り返している私です。

毎週の礼拝の中で「罪の告白」、悔い改めの祈りとして、詩編51編が交読されます。一週間の歩みを振り返り、改めて神さまの前で、傲慢でかたくなな心を打ち砕いて頂き、悔い改めることの大切さを痛感させられる時間です。この祈りの時間を通して、祖母がこの聖書の言葉を、贈ってくれた意味に気付かされました。

神さまから離れて自分勝手な生活をしている私をも、神さまは許して下さり、あたたかい眼差しで見守っていて下さいます。この恵みに感謝し、日々悔い改めつつ、神さまと人とに、謙虚に誠実に仕える者でありたいと願っています。

(H.K. 60代)

2021年9月2日木曜日

全てを備えて下さる神様

神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。

旧約聖書 コヘレトの言葉 3章 11節


家族の中で、父だけがクリスチャンではありませんでした。その父が癌を患い、ターミナルな段階に入った頃、教会に何度か誘ったのですが「まだいい。」と断られました。自らの信仰について家族の思いを越えたところで考えていたのでしょうか、近所の方に「心の中で信じていれば良いのですよね」と語ったと後に知りました。病状が深刻になってから、母・妹が属する三軒茶屋教会の先生に来て頂き、自らの信仰を告白するに至ったのは、全てを備えて下さる神様の大いなる御計画、「神様の時」と感謝で一杯でした。「どこに居ても毎晩10時に父の為に祈る」ことを始め、祈りの輪は、家族を超え、親戚にまで広がりました。仕事一筋に生き、信仰とは無縁と思われた父が、神様に捕らえられたことは、私達の拙い祈りに対する神様の応答と受け止め、更に神様の深い愛に対し感謝が溢れました。

(H.K. 60代)

主は与え、主は奪う

わたしは裸で母の胎を出た。
裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ。

旧約聖書 ヨブ記 1章 21節


私が受洗したのは30代半ば。早くから興味はありましたが、なかなか教会に足が向きませんでした。それでも受洗に導かれたのは、大学や仕事で知り合ったクリスチャンの、尊敬できる人柄・生き方・仕事のしかたに接したからです。

聖書のこの言葉は、まだ教会に行けなかった頃に参列した恩師の葬儀で知りました。有名な一節ですが、私にはキリスト教の葬儀自体が初めてで、今も忘れられない衝撃でした。

その後受洗し20年ほど経った今、私が最も大切にしているのはこのうちの一行、「主は与え、主は奪う」。私たちは時に、受け入れがたい悲劇に出会います。神のなさることは、人間にははかりがたい。ただ厳粛に受け止めて前に進む。神からくる希望の灯を胸に。それを忘れないでいたいです。

(F.K. 50代)