2022年1月30日日曜日

神さまに守られてきた歩み

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。

旧約聖書 詩編 23編 1節~3節

羊は羊飼いがついていれば安心していられます。私も、羊飼いである神さまがついているので安心していられます。もちろん、生きていると大変なことがありますが、その度に、神さまが休ませてくださり、魂を生き返らせてくださるので、私はしあわせに歩んできました。

思い返してみますと、私は人生で大きなことがある時はいつも祈ってきました。結婚、出産、病気で手術を受ける時、夫が病気の時、子どもが大変な時などです。そして、祈っていたからこそ、私は神さまに守られて、穏やかな心で大変なことにも直面できたのではないかと思っています。神さまは必ずよい方向に導いてくださいました。心から感謝しています。

(M.T.  80代)



ミニバイブル

神はそのひとり子を賜ったほどに
この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、
永遠の命を得るためである。

新約聖書 ヨハネによる福音書 3章16節 (1995年改訳)

私が初めて神様に出会ったのはと、思い浮かべた時、数十年前の事を突然思い出しました。10歳位の時、友達が小学生のためのバイブルクラスに誘ってくれたのです。アメリカ人の宣教師の方が日本語で話して下さいました。
その時の先生の名前、お顔、声、その部屋の様子など70年たった今でもはっきり覚えています。

初めて行ったその時渡された暗唱聖句がヨハネ福音書3:16でした。この聖句はミニバイブルと言われており、聖書に書かれていることは全てここに要約されているそうです。ですからこの時10歳の私にすでに一冊の聖書が渡されていたのです。そして長い間私の心の中で早く出して欲しいと叫んでいたのだと思うのです。これからも日々この聖句を覚え、歩んでいきたいと思います。

(S.T.  80代)



2022年1月23日日曜日

神の霊によりて

權勢(いきおい)によらず能力(ちから)によらずわが神の霊によりて 

旧約聖書 ゼカリヤ書 4章6節(文語)

私は社会福祉の現場で働いています。頻繁に支援の限界を感じています。所詮は人間の仕業、と思いながら、現場は日々多様で複雑な課題に向かい続けています。とにかく、出来ることを一つひとつ行動していくことで解決したりしなかったり。この聖句は、現場の先輩が好んだ言葉ですが、「最後は神頼み」という意味で私の支えでもあります。教会や聖書で知った言葉は多く、身についたものは無いという情けなさですが、困ったときは嵐が過ぎ去るまで、神様に身を投げ入れることの繰り返しをしているようです。人間の生活は喜びと悲しみの表裏一体。社会福祉の現場は駆け込み寺でもあります。職員としての限界に直面すれば、「神様なんとかしてください」と言わざるを得ません。信者冥利でしょうか。

(H.T.  50代)


互いに忍び合い、赦し合いなさい

互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 

新約聖書 コロサイの信徒への手紙 3章13節

イエス様の教えの根幹は「愛」ですから、聖書には主の愛を説いた箇所がたくさんあります。(この前後の12節~15節もそうです。)ですが、数ある「愛の教え」の中でも、この部分が一番、易しそうでとても難しいと私自身は感じています。

あるできことがきっかけで、たまたまその時の礼拝で読まれたこの聖書箇所にずっと栞を挟んで、折に触れ心に留めていますが、私は心が狭いのでしょう、すぐ人に対して不満や批判がましい気持ちを持ってしまいます。いつも自分の未熟さを思わされる御言葉です。

それでも、こんな私をも主は赦し、愛の交わりに加えてくださいます。その主の愛に信頼し、「主が私を赦してくださったように」同じように愛をもって人と接することができるようにと、祈り続けたいと思います。

(N.N.  60代)



2022年1月16日日曜日

内に働かれる神

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 12章9節

3年前、がんになりました。入院、手術、抗がん剤治療と続けられました。実は今も、3回目の再発ということで治療のまっただ中にあります。自分の弱さを日々実感しています。自分自身、何も出来ないからこそ、神様に守りささえられていること、まさに神様の力が発揮され、励まされ、心おだやかに過ごせています。

(R.M.  60代)




心躍る老後

終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。 

旧約聖書 ダニエル書 12章13節

2022年3月で70歳になる私は、かつて、はみ出し者で、友を求めず、エキセントリック人間と見られ、しかし、個性と常識とのはざまで ”to be or not to be”と自問していました。妻の理解と、祈りと、後押しとがなければ、私の人生は狂っていたはずです。60代になった私を、神様はハムレットの呪縛から解放し、遠慮なくドン・キホーテパワー全開で生きられるようにして下さいました。作曲家の息子とコラボして、コンピューターによる楽曲制作と英国市場向け販売とを目指しています。天国の憩いにつくまでいくばくか知れぬ今、努力では得られぬ「自分らしさ」で、心躍る老後の日々、召される日に向かって歩んでいます。

(N.M.  60代)



2022年1月9日日曜日

渡航の不安を払拭した聖句

エホバ(主)は汝のいづると入るとをまもりたまわん。 

旧約聖書 詩編121編 8節(文語訳)

1970年代の後半、インドシナ動乱で発生した大量のカンボジア難民を支援するためにキリスト教の援助団体の募集に応じて短期のボランティアに行きました。渡航にあたり、義務付けられたのが幾つもの予防接種です。難民キャンプは非常に不衛生で、また暴動も起こっているということでした。

さて、出発の当日の成田空港でのこと、同行するボランティアの中に牧師がおられました。その方が「祈りましょう」と言って私たちを集め、代表して祈りを捧げたのです。その祈りの中で引用されたのが「主は汝の出ずると入るとを守り給わん」(文語訳聖書)の聖書の言葉です。この言葉を耳にした瞬間、「ああ、自分は無事に帰ることができる」と直感しました。不安が払拭され、平安が与えられました。

クリスチャン同士でよく、「み言葉(聖句)が与えられる」という言い方をします。私にとっては、初めてみ言葉が与えられる経験となりました。まるで「外から」私の心に届けられたような気がしました。不思議な経験でした。

十数年後、カンボジアに平和が実現して私たちが訪問したカオイダンキャンプが閉鎖されるニュースがテレビで流されました。あの、ジャングルに囲まれた過酷な国境の難民キャンプに十数年も暮らさざるを得なかった人々の困難を改めて思わされたのでした。

(M.I.  60代)



御言葉に支えられて

わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。 

新約聖書 ヨハネによる福音書 8章12節

結婚後十ヶ月という頃…昔々の話になりますが…。

その朝、仕事で、夫は静岡に車で出かけて行きました。ほどなくして私を強く呼ぶ声に、忘れ物?と、玄関に出ましたが、夫はいません。

私を呼んだ時刻に、夫は東名高速で事故に遭っていたのです。大雨の中、足柄の病院に向かう途中、私は大破した夫の車を見、震えました。

意識の無い三日間、それからの手術、そして長いリハビリ生活と続いていきました。

私はベッドサイドの椅子で、退院までの一か月を過ごしました。朝、部屋に差し込む光は、主が差しのべてくださる御手でした。

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

光に祈った日々は、辛かった思い出を変えました。今は大切にしたい宝物のような時となっています。

(M.Y.  70代)



2022年1月2日日曜日

逆境も順境も御手の内

順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ
人が未来について無知であるようにと
神はこの両者を併せ造られた、と。
 

旧約聖書 コヘレトの言葉 7章14節

約15年前に洗礼を受けた私。そのときはこれで多くの苦難から解放されるのではないか、という思いもありました。しかし、キリスト者であることと、苦難が訪れないこととは同じではありませんでした。むしろ、キリスト者ゆえの苦難(人にどこまで仕えるかなどの心の葛藤)が訪れることもありました。この苦しみはいつまで続くのかと苦悩することもありました。

そのような中、出会ったのがこの聖句です。順境も、先が見通せない逆境も神様が造られたと。今の逆境を造られたのも神様であれば、安心です。その先には必ず「命に通じる道」があるのですから。苦難をも楽しめるほどの境地には達していませんが、この聖句と出会えたことで逆境でも安心して祈ることができるようになりました。

(R.K.  40代)



辺縁に働かれる確かな力

家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。 

新約聖書 マタイによる福音書 21章42節

2018年の夏、六本木の国際文化会館で、壇上の芸大の教授がパソコンを操作するとスクリーンに僕の名前が現れ、彼が分類した日本の芸術家達のとあるカテゴリーの中にはめ込むのでした。そのカテゴリーは、社会でタブーとされる問題を扱う少数の作家たちのカテゴリーで、会場には美大生や美術関係の人々が集まっているのでした。その頃、僕は韓国の光州という場所で二年に一度開催される世界五大芸術祭の一つに画家として招待されていて、日本人として初めてとなる本格展示を始めさせてもらっていました。そんな立場で僕もそのトークイベントのパネリストとして壇上にいて、ただ、その頃まだ洗礼を受けていない身として確かに、

(—不思議だ)

と思っていたのでした。僕は一度も美術教育を受けたことがないのです。ただ現代の日本の世の芸術家たちが扱わないと容易に理解される、困難に陥った人々の話を聞きに行き、それを下手な絵にし続けていたら、そんな風になっていたのでした。ただ、この世にはそんな風な<辺縁に差し伸べる手に働かれる力>が存在することを洗礼を受けるずいぶん前からなぜか確信していて、それが故にそんなことを続けていたのでした。後に聖書を読み、このイエス様のある意味ではラディカルとも思える御言葉によって確かに私も生かして頂いたことを知り、洗礼を受ける大きなきっかけになりました。

周りの人からも不思議に思われていたと思いますが—。

(A.T.  40代)

<連作祭壇画 無主物>「朝日」