家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。
新約聖書 マタイによる福音書 21章42節
2018年の夏、六本木の国際文化会館で、壇上の芸大の教授がパソコンを操作するとスクリーンに僕の名前が現れ、彼が分類した日本の芸術家達のとあるカテゴリーの中にはめ込むのでした。そのカテゴリーは、社会でタブーとされる問題を扱う少数の作家たちのカテゴリーで、会場には美大生や美術関係の人々が集まっているのでした。その頃、僕は韓国の光州という場所で二年に一度開催される世界五大芸術祭の一つに画家として招待されていて、日本人として初めてとなる本格展示を始めさせてもらっていました。そんな立場で僕もそのトークイベントのパネリストとして壇上にいて、ただ、その頃まだ洗礼を受けていない身として確かに、
(—不思議だ)
と思っていたのでした。僕は一度も美術教育を受けたことがないのです。ただ現代の日本の世の芸術家たちが扱わないと容易に理解される、困難に陥った人々の話を聞きに行き、それを下手な絵にし続けていたら、そんな風になっていたのでした。ただ、この世にはそんな風な<辺縁に差し伸べる手に働かれる力>が存在することを洗礼を受けるずいぶん前からなぜか確信していて、それが故にそんなことを続けていたのでした。後に聖書を読み、このイエス様のある意味ではラディカルとも思える御言葉によって確かに私も生かして頂いたことを知り、洗礼を受ける大きなきっかけになりました。
周りの人からも不思議に思われていたと思いますが—。
(A.T. 40代)