2025年3月30日日曜日

神さまに導かれる歩み

恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。
たじろぐな、わたしはあなたの神。
勢いを与えてあなたを助け
わたしの救いの右の手であなたを支える。

旧約聖書 イザヤ書 41章 10節

大学も最終学年となり、私は希望していた金融機関に内定を貰い、新社会人になることに夢を膨らませていました。ところが、ある日バイトを終え下宿に帰ると、その会社から、「勝手ながら内定を取り消したい」と一方的な連絡が来ました。突然、頭を殴られた様な事態に、茫然自失。

既に、金融機関の採用活動は、ほぼ終わりに近づいていたので、この先自分はどうなってしまうのだろうと、大きな不安に押しつぶされそうになりました。居ても立っても居られず、翌朝牧師館を訪門し、牧師に辛い状況を話したところ、牧師からこの御言葉を示され、二人で祈る機会が与えられました。祈りながらも涙が止まりませんでした。

状況は何も変わりませんが、少し心が落ち着き、前に向かって進む気持ちに変えられました。改めて祈りのうちにスタートした就活を進めていくうちに、神さまからの導きで他の金融機関から内定を頂くことが出来ました。就職した金融機関では、融資業務の希望は叶わず法人の不動産仲介業務に従事することになりました。

何度も自分の思いを超えた結果となりましたが、この不動産業務の経験が、定年を迎え、第二の人生に於いても活かされ、今に至り、いきいきと仕事が出来る感謝の毎日です。

私たちを愛し、いつも共にいて下さり守り導いて下さる神様を信頼し、心の内を打ち明け、祈ることが出来ることは、私たちクリスチャンにとっての特権、大きな恵みです。 

(H.K. 60代)


2025年3月23日日曜日

神様のお恵み

ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方にくれても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ばされない。

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 4章 7節~9節

いくつになっても、試験のときは、緊張します。私は、数年前、施設認定要件に必要な新規資格取得のため、数年の研修、実務経験を積み、書類審査に合格しました。いくつかの行程を経て、最終試験は、筆記試験、面接試験でした。面接試験(東京)は、受験者の帰路を優先され、遠方から始まり、私は最終組になりました。面接後、泣きながら帰る受験者もいると聞く中、面接試験までの数時間、ひたすら待ちました。

私は、最後のひとりになりました。しかし、焦っても仕方ないので、ラジオ体操みたいなストレッチをしていた時、このみことばが浮かび、私を勇気づけてくれました。

私は、私の行いや努力でいま、ここにいるわけではない。すべては、神様のお恵みによるものであったこと。これまでも神様がお導きくださったのだから、これからの行く道も、神様がお導きくださること。これからの道も、どうか神様が良しとされる道を導き、用いて下さいとお祈りしました。

これまでも神様がともにいてくださり、この瞬間も、これからも、神様がともにいてくださると改めて思えたとき、神様の大きな御手のなかにおゆだねできる喜びを感じました。

私は、とっても口下手ですが、(ラジオ体操と?)みことばに支えられて、意外にハキハキと面接試験を終えることができました。

神様が導いて下さり、与えて下さったいまの役割を、神様が良しとされるその時まで、果たして行きたいと思っています。

清弘先生が、以前、お話下さいました。「人生は、神様の宝物探しですね。みことばを求めて歩んでいきましょう。」と。日々の生活のなかに、聖書のみことばのなかに、神様の宝物がたくさんあります。私のような器でも、用いてくださることを感謝し、楽しみながら宝物探しをしていきたいと思います。

(E.O. 40代)


2025年3月16日日曜日

ぶどうの木の枝が結ぶ豊かな実

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かな実を結ぶ。

新約聖書 ヨハネによる福音書 15章 5節

ジョン・ストット著『日毎の聖書』(いのちのことば社、2017年)から、上の聖書箇所について大切なことを学びました。次のような事柄です。

「実に多くのクリスチャンが、実を結ぶとはできるだけ多くの人々にキリストを信じさせることだと考えているのには、驚かされる。そして伝道こそが、救われてクリスチャンになった者の重要な役割であると考えている。しかし、聖書によって聖書を理解するならば、神のぶどう園で結ぶべきぶどうの実とは、公義や正義のことである。一方、新約聖書で御霊の実というとき、それはキリストに似た性質のことである。イザヤ5章、ガラテヤ5:22~23、そしてコロサイ1:10を参照のこと。」(同書373頁下段)

伝道がクリスチャンの重要な役目ではない、と言うのではありません。冒頭の聖句をほかの聖書箇所と関係づけて読むときに言える「豊かな実」とは、愛・喜び・平安・……といった、キリストに似た性質のことだというのです。

そして伝道への思いや行動は、単なる実践の積み重ねや人間的努力ではなく、神様のぶどう園にとどまることで得られる実を育み成長させることによって溢れ出す、ということではないでしょうか。どうやって育み成長させるのか、……それは神様に直接聞いてください。

(H.M. 70代)


2025年3月9日日曜日

キリストの愛に留まる

だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章34節

神さまの前で、今まで犯してきた罪を悔い改めて、クリスチャンになっても、神さまに喜ばれないことをしてしまうことはあります。罪を犯してしまうのです。でも、神さまが望んでおられることは、私がそんな自分を責めることではなくて、キリストの愛に留まることなのです。

 イエスさまは、繰り返し罪を犯してしまう、弱い私のために執り成してくださるお方です。私が罪を自覚して、なによりも、父なる神さまに「ごめんなさい」と謝ることができるように、イエスさまが導いてくださり、助けてくださいます。そして、神さまに喜ばれる歩みができるようにと、日々、聖書の言葉によって導き、上よりの力によって、助けてくださるのです。言ってみれば、イエスさまは、私のコーチであり、そして、全面的な味方です。とても心強いとともに、慰められ、励まされます。

 イエスさまがそのように私たちを執り成すことができるのは、イエスさまが十字架で死なれ、神さまの力によって復活させられたからなのです。イエスさまは私たちの罪を担って死んだだけではないのです。復活したのです。それは、罪と死に対する勝利でした。だから、私たちもキリストの愛に留まることにより、日々、罪に打ち勝つことができる道が開かれたのです。

(K.T. 50代)


2025年3月2日日曜日

御心のままに

父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。

新約聖書 マタイによる福音書 26:39

父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。

新約聖書 ルカによる福音書 22:42

わたしの心の中にいつもあるイエス様の祈りです。自分本位になりそうなとき、怖くてたまらないとき、心が暗闇に襲われるとき、この祈りがわたしの光となっています。

ちょっとこれ嫌だな、憂鬱だな、なんていうレベルではなく、心身が壊されるような辛苦に耐えなければならないとき、イエス様のこの祈りがわたしの支えでした。

友に裏切られ、十字架に釘付けにされる前の夜、神の子であるイエス様は「できることなら、この杯(苦しみ)を取り除けてください」と祈られました。イエス様でさえ、苦しみを取り除けてくださいと祈られた、このことがどんなにわたしに力を与えてくれたか。今、現在苦しみを強いられることも辛いです。しかし、そのような日が先の未来に必ずあるとわかっているときもあります。「大切な人の死」はその一つかもしれません。「その日が来ませんように」、「できるならば、この苦しみを取り除けてください」、誰もがそう願うと思います。

イエス様の祈りは続きます。「わたしの願いではなく、御心のままに」。

苦しみに引き裂かれていたわたしの心を守り、支えてくれたのは、イエス様のこの祈りです。今日も明日もいつもこの祈りがわたしの心を導き、守ってくださると信じています。

(Y.S. 30代)