2025年11月29日土曜日

喜び待つアドベント

その日には、人は言う。
見よ、この方こそわたしたちの神。
わたしたちは待ち望んでいた。
この方がわたしたちを救ってくださる。
この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。
その救いを祝って喜び踊ろう。

旧約聖書 イザヤ書 25章 9

クリスマス前のアドベントの時となると、教会も家庭も街中も、クリスマスの飾り物で、美しく賑やかになります。

毎年、同じように忙しく迎えていたアドベントでしたが、ある年、アドベントの原点に立たされました。

この時期、教会学校では、聖誕劇の練習で大忙し、次週はクリスマス本番、ガンバロウと別れた翌日、教会員の一婦人が、自宅で何者かに殺害されたのです。テレビニュースで知って、牧師や教会員数名が駆け付け、衝撃の中にも葬儀の備えがなされました。

夫人の夫も教会員であり町内会の副会長でした。自宅で町内会長夫妻が彼を慰め支えていました。

葬儀の直前に犯人が自首しました。犯人は町内会長の息子でした。自首する前に犯行を知らされた両親は、悲痛にも即、自死したのです。悲しみと嘆きの渦巻く中で、迎えるクリスマス。暗い雲に覆われた気持ちで、ご降誕を喜んで祝えるだろうか。

しかし、子ども達は笑顔で溢れています。ハッと気づかされました。御子は暗い世に誕生してくださった。悲しみ、嘆き全てを引き受けて下さるために。

アドベントは忙しいと呟くのでなく、喜び待つ原点に立つ時と!

(M.I. 80代 )


2025年11月22日土曜日

競争を走り抜く

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。

新約聖書 ヘブライ人への手紙 12章 1

ヘブライ人への手紙は全体に熱い内容ですが、12章は特に熱いです。

日本人は温和な民族なのは良いですが、信仰も「柔和」「謙遜」「平安」が中心のようです。競争であれば、「参加出来るだけで十分」「後ろからついてくだけ」みたいなものを感じます。

そのためか、現代日本のキリスト教美術や音楽ではワーシップソングに触れても、下手ではないけれどサークル活動の発表会のようで、何だか心に響かない事が多いです。

キリスト教の芸術ってそんなものかと思っていた所、最近、YouTube で海外(特にアメリカ)のワーシップソングを聴いて「何だこれは!」でした。プロが歌っていると思いますが、超人的な歌の上手さと、英語があまり得意でない私が聴いても感動で涙する表現力に圧倒されました。キリスト教国、半端ないと思わされました。

日本のクリスチャンはただでさえ少ない上、更に減少傾向だそうですが、これは、日本特有の「この程度で十分」信仰も影響してるんじゃないかなと思います。

もちろん、カルトのような、収入の大半を献金したり、人の迷惑顧みず布教したりの洗脳の熱さとは違います。

自分はどうだろう、定められた競争を全力で走っているか、「この程度で十分」になっていないか、考えさせられる日々です。

(K.O. )


2025年11月15日土曜日

神様が与えてくださること

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 5章8

暑い夏が過ぎ、やっと秋になりました。秋というと、幼少期から文化や趣味に関することに集中していたことを思い起こします。最近は、「推し活」が流行り、季節を問わずに個人が好きなことに集中できることは、良いことだと私は捉えています。私の「推し活」は、もう数十年前からになります。ヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」です。この本や・ミュージカルが持つ精神性は、「赦し」と「愛」がテーマになっています。主人公ジャン・バルジャンは、パンを盗んだ罪で19年の厳しい刑に服し、世の憎しみに満ちた状態で仮釈放されます。そんな彼を、司教は温かく受け入れます。しかし、バルジャンは司教の銀の食器を盗んで逃走し捕まります。この時、司教はバルジャンをかばい、銀の食器だけでなく、銀の燭台まで彼に与えました。この司教の行為は、神様の恵みであると受け止めています。

聖書では、私たちが罪人であるにもかかわらず、一方的な神様の愛と赦しによって救われると教えられています。バルジャンは、この司教の無条件の愛と赦しによって、「古い自分」を捨て、「新しい自分」として生きる決意をしました。まさにイエス様によって新しく創ってくださる私たち人間の姿を映していると思います。この場面は、何度みても感動の涙なしに見ることはできません。(レ・ミゼラブルの話を書き出すと止まらないのでこのあたりで止めておきます。詳しい方がいたらぜひ、共有させて頂きたいです。)

「レ・ミゼラブル」は、日本語訳では「あわれな」「みじめな」という解釈ですが、悲劇だけのお話ではないと思っています。私たち一人ひとりが神様の前に弱く罪深い存在であること、しかしそれでもなお、神様の愛と赦しによって新しく生きる望みを与えられていることを教えてくれる、希望の物語であると私は信じています。

(E.O. 40代)


2025年11月8日土曜日

異なる訳を比較することから見えてくるもの

神の霊があなたがたのうちに宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章9節前半

上の箇所を礼拝説教でとりあげた際(信徒が誤解しないように?)牧師は、この箇所のギリシャ語原文の意味は「神の霊があなたがたのうちに宿っているのだから」だとおっしゃいました。重要な指摘です。

原文通りに訳していないのが新共同訳聖書だけなのか気になり、他の聖書の該当箇所を開いてみました。
<新改訳>もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら
<口語訳>神の御霊があなたがたの内に宿っているなら
<リビングバイブル>もし神の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら
<フランシスコ会訳>神の霊があなたがたに宿っているかぎり
<現代訳(尾山令仁・個人訳)>神の御霊は、あなたがたのうちにおられるのだから

現代訳が牧師の説明に最も近く、フランシスコ会訳が新共同訳と類似。他は「(もし)~なら」を採用しているため、「~かぎり」以上に誤解を招きそうに思いました。同様のことは、ローマの信徒への手紙8章31節後半にも言えます。新共同訳ではここを「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか」と訳しているのですが、ある説教書では、ギリシャ語原文に触れつつ、次のように説明しています。

「……『もし、神がわたしたちの味方であるなら』というのは、味方でない場合もありうるということをふくんでいるのではありません。神がたしかに味方なのだから、ということであります。……」(著者は口語訳聖書を使用)

念のため、この箇所の他の訳を以下にご覧に入れましょう。
<新改訳>神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
<口語訳>もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれが私たちに敵し得ようか。
<リビングバイブル>神様が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。
<フランシスコ会訳>神がわたしたちに味方してくださるなら、誰がわたしたちに逆らうことができますか。
<現代訳>神が私たちの味方である以上、私たちに敵対できる者などあるはずがない。

ふだん自分が利用している聖書に違和感を覚えたら、異なる訳や英文の聖書にあたってみるのが有益であると、改めて知らされた一日でした。

(H.M. 70代)




2025年11月1日土曜日

ひっかかる言葉

互いに災いを心にたくらんではならない。

旧約聖書 ゼカリヤ書 7章 10節

聖書の言葉は落ち込んでいる時に寄り添ってくれたり、順調な時に高慢にならないように戒めの言葉があったり、その時々で私を助けてくれている。最近聖書を開き、目に留まった言葉が、この聖句だ。

「悪いことをたくらむなんてことしないよねぇ。」と読みながら思ったが、何故かその言葉が心に引っかかる。

翌朝出勤途中に「今日は、あれをやって、これをやって…今日はあの人が来る日だった。苦手だなあ。一緒の業務でないと良いなあ。」と思った時にハッとした。災いを心にたくらむとはこのことか。相手を苦手だと思う気持ちから私の心は「一緒の業務ではありませんように」という災いをたくらむのだ。

災いをたくらまないためには相手を苦手と思わないことなのだと気づかされる。心に引っかかった言葉は新しい自分へと導いてくれる。

私はこれからも苦手だと思う感情になることはあると思う。でもその感情をこの言葉が思いとどまらせてくれると思う。

聖書の言葉に頼ると、新しい自分がちょっとずつ見えてきてちょっと面白い。

(K.O. 50代)