2021年10月31日日曜日

叔母からのハガキ

 「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 

新約聖書 マルコによる福音書 9章  24節後半

 

叔母が認知症と診断されました。毎晩「叔母の認知症がこれ以上悪くなりませんように」と祈りました。

何ヵ月かが経って、姉が「見て、これ!」と、一枚のハガキを見せてくれました。それは叔母から届いたハガキでした。とてもきちんとした内容と、整ったきれいな文字で、一時の叔母の状態では考えられないものでした。叔母は良くなったのです!

私は自分を恥じました。「これ以上悪くならないように」と祈っていたのは、「まさか良くなんかなりっこない」と決めてかかっていたからです。

神さまは私の思いを越えて、良いものを与えてくださるお方なんだ、と改めて示されました。 

(M.H. 50代)




主イエスが共にいる

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 

新約聖書 マタイによる福音書 11章 28節


結婚してまだ1年もたたないころ突然、金銭的な問題が私たち夫婦に起こりました。私はまだクリスチャンではありませんでした。精神的にも弱く、その問題に心が占められてしまいました。不安から抜け出して何とか心を安定させたいと思い始めたころ、実家の母の本棚で、羽仁もと子著作集の中に人生相談をまとめた本を見つけて、読んでみました。

クリスチャンであり教育者である彼女が、誠実に真摯にそれぞれの悩みに答えていましたが、その答えの根底には共通しているものがあるように思いました。それは、その問題が解決するための導きを神に祈り求め、愛と誠実さをもってその問題に向き合うことです。

1人で考えているときは悪い方に考えてしまい、恐怖に囚われていましたが、イエス様と共に歩むとき、安心感とプラス思考へと変えられました。                           

 (S.O. 60代)

2021年10月24日日曜日

お父ちゃん!と呼べる神さま

あなたがたは……神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章 15節


神さま、と言ったら、どういう方を思い浮かべるでしょうか。厳しい方、近寄りがたい方、想像も出来ない方でしょうか。

イエスさまは、わたしの味方になって下さるやさしい方、と思えるのに、神さまは、はるか彼方におられるように思えていました。

しかし、わたしたちは、神の子なのです。「アッバ、父よ」と呼んで良いのです。「アッバ」は、当時のユダヤのことばで「お父ちゃん」の意味です。神さまを「お父ちゃん」と呼ぶと、グッと身近になります。

イエスさまも、十字架に架かられる前、ゲッセマネでの苦しい祈りの時、「アッバ、父よ」と祈られました。

わたしは、神さまを見上げ、片目をつぶって、祈る時があります。口に出せば、「お父ちゃん!良いでしょ!」と、聴いて頂きます。

頼り切って祈ることばは、聴いて下さっていると、確信しています。
結果は、わかりません。神さまのみ心がなりますように祈ります。

(M.I. 70代)

心の幹

いかに幸いなことか 主を畏(おそ)れ、主の道に歩む人よ。

旧約聖書 詩編 128編 1節

 

健康のため、スポーツを楽しむために、「体幹を鍛える」などとよく言われます。毎日なにかしら運動をして、体を鍛えている人も多いのではないでしょうか。 

でも、生きていくためには、体とおなじくらい心も大切……「心幹を鍛える」のも大切で、それも、毎日すこしずつのトレーニングが必要のようです。 

信仰は、なにか利益や効能があるからすることではなくて、ただただ、すべての命の源(創造主)である神を畏れ敬い、その素晴らしい恵みに感謝することです。でも、折にふれて聖書の言葉を味わい、定期的に礼拝の場に身をおいていると、心にしっかりとした幹ができてくるのを感じます。

何があっても、この幹を支えに乗り切れる。信仰をもつことは、そのような強さと、そして心の自由も、与えてくれるように思います。 

(F.K. 50代)



2021年10月17日日曜日

父なる神のあたたかさ

まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

新約聖書 ルカによる福音書  15章 20節

 

洗礼を受けてからもしばらくの間、私は「父なる神さま」がどこか厳しい方に感じられ、親しみを持つことができないでいました。ある時、この聖書箇所を詳しく学ぶ機会がありました。ユダヤ人の社会では、この父親のように地位のある人が、人前でなりふり構わず走ったりすることは恥ずかしく、みっともない行為だと。それを聞いて、はっとしました。放蕩の限りを尽くして、みっともない姿で帰って来た息子。その姿を見つけたとたん、人目も構わず、息子と同じみっともない姿をさらして走り寄る父親の姿こそ、イエスさまが教えてくださった父なる神さまの姿なのだと。

やがて、失敗でもしようものなら厳しく罰する父なる神さまのイメージは、私の中から静かに消えていきました。幾度となくやってくる困難に、心がうつむきがちになる時は、その私を憐れに思い、なりふり構わず走り寄ってくださる、あの父なる神さまの姿を思い起こします。

(H.K. 50代)

祈りの時

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。

新約聖書 ヨハネによる福音書 15章16節

 

クリスチャンになり、心掛けていることは、「振り返りの祈り」です。就寝する前に、神さまの前に沈黙し、神さまと共にその日一日を振り返る時間を持つようにしています。その時に、「何故あの時あの様な行動に出てしまったのか?」「あの様な事を口にしてしまったのか?」と思うようなことが、多々あります。一日を振り返る時、自分がそのような言動をしない立派な者だから、それが認められ神の子とされたのでもなく、ましてや聖書の「十戒」に書かれている様な教えを忠実に守り行った報いとして、神さまが、「私とあなた」という親しい関係に招かれたのではないことを改めて思い知らされます。「神さまからの一方的な恵みによって、神さまが私を選んで下さった!」一方的な恵みによって救われ、神の子とされていることを真摯に受け止め悔い改める毎日です。この祈りの時に、次第に心は朗らかさを取り戻し、神さまへの感謝と喜びが心の中に広がります。

(H.K.  60代)

2021年10月10日日曜日

禅寺の聖句

神は愛なり

新約聖書 ヨハネの手紙一  4章 16節(文語訳) 

 

コロナで仕事を失ったシングルマザーが役所で支援を求める場面を報道番組で見ました。担当者が「あなたは(支援の)要件を満たしていません」と答えると、「ここに来たら助けてもらえるんじゃないんですか?ダメなんですか?」と泣き崩れました。衝撃でした。そして、「この人を救うものは何か?」と切実に考えさせられました。自分自身も人生の荒波にもまれていたからです。 

そんな私が書店で偶然手にした本がありました。その中に、著者が不治の病に冒されて救いを求めて禅寺に行く場面が出てきます。その禅寺に、不思議なことに聖書の一句「神は愛なり」が掛かっていたのです。この一句と禅僧の「今を生ききれ!」の言葉によってこの著者は死の淵から生還しました。「神が愛であるなら、この世界は悪いものであるはずがない」。そう思ったそうです。 

私もその本を読んで、「神が愛なら私が経験している苦難も良きことなのだ」と覚悟が決まりました。救われました。あのシングルマザーにも知ってほしいことでした。

(M.I. 60代)

主イエスのまなざし

そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ鶏が泣いた。ペトロは、「鶏が泣く前に、あなたは三度私を知らないというだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

新約聖書 マタイによる福音書 26章 74-75節       

 

ユダは裏切り者の代名詞のように言われていますが、もう一人一番弟子のペトロがいます。ペトロは自分の裏切りがイエスに知られていたことに気が付いた時、激しく泣いた、としるされています。しかし、この気づきでペトロは絶望から立ち直ることが出来ました。 

私たちは多くの弱さや罪を抱えて生きています。その弱さや罪が誰に知られているかが大事なことだと思います。僕はペトロと同じように、自分の弱さや罪が主イエスに知られていることで、大きな慰めをいただいています。この気づきによって、キリストの十字架が自分のためだと素直に思えるようになりました。

(K.O.  70代)

2021年10月3日日曜日

言葉は大切に

はじめに言葉あり、言葉は神と共にあり、言葉は神なりき。

新約聖書 ヨハネによる福音書 1章 1節(文語訳)


昭和12年(1937年)当時、私は父の勤務地、今は中国となった大連に住み、嶺前小学校の3年生でした。夏はプール、冬はスケートと、お転婆で伸びのびとした毎日でした。

伸びのびしすぎて、思うことをそのまま口にして大事な友達を傷つけたことを思い出します。しばらく不登校になった友だちの原因が、私の言葉にあったと後悔して、先生と母に告白しました。

その時、母が示してくれた聖句が上記です。それまでも日曜学校には通っていましたが、以来幼い私を教会に導く聖句となりました。

(S.O. 90代)

 

心にかけていてくださる神さま

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。
神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

新約聖書 ペトロの手紙一  5章 7節

 

かつて私の父がガンの末期だった時のことです。だんだん弱っていく中で懸命に闘病する父を見ているのは、私も家族としてとても辛かったです。そんな中、この聖書の言葉をよく思い出しました。人間にはどうにもならないことがあるのです。そのことが父の闘病を通してよくわかりました。しかし、神さまが私たちのことを心にかけていてくださるというのです。今の苦しみも、この先の不安も、そして、やがて死を迎えることについても、神さまにお任せするしかないのだと思いました。そして、私たちがどうすることもできない思い煩いを神さまに投げかけ、神さまに手渡した時、神さまが私たち家族を平安で包んでくださいました。

(K.T. 40代)