2022年6月26日日曜日

続けることの大切さ

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

新約聖書 マタイによる福音書 7章 7節

通っていたキリスト教学校では、当番制で生徒が行うクラス礼拝があり、担当の2人のうちどちらが司会でどちらがお話をするか、などを決めながら礼拝を守りました。

この聖句は、“生徒礼拝”で選ばれることが多い、聖句の一つで、何度も耳にし、私もよく覚えている聖句の一つです。聖書の箇所を決めて、お話を考える際、意味も何となく分かりやすい、話しやすいから、生徒が選びやすいと感じる聖句だったと思います。

でも今思えば、その時その時だけの願いや思いだけでは、叶えられないものもあり、大切なのは、求め、探し、門を叩き続けることだと気づいたのです。続けることの難しさを知り、けれども続けることによって与えられるものがある、そう神さまから示されている聖書箇所だと思います。

(R.M. 40代)



天国に住む場所がある

心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。

新約聖書 ヨハネによる福音書 14章 1節

洗礼を受けるきっかけになったのが友人の早すぎる死でした。洗礼と、この聖書の箇所によってこれまでの死に対する考え方が変わり、死を恐れずに神様のもとへ行くという考え方ができるようになってきたと思います。

未だにきちんとした教会員としての生活ができていないと思いますが、礼拝に行くたびに讃美歌は心地よく、もっと聖書の内容を知りたいと思っています。

(S.K. 30代)



2022年6月19日日曜日

お前の怒りは正しいか

主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」

旧約聖書 ヨナ書 4章 4節

聖書の中には、心に葛藤を覚える箇所がいくつかあります。このヨナ書もそのひとつです。ヨナの預言を聞いて罪を悔い改めたニネベの人々。神さまからの罰がニネベに降ることを願うヨナはそれを喜べず、怒りをあらわにします。そのヨナに、神さまはこの言葉を問いかけます。私が、許すこと、理解することが難しい人や出来事と向かい合うとき、怒り続けるヨナの姿に自分自身が重なります。怒りや口惜しさに飲み込まれ、まるで子どものように自分の正しさを握りしめて離さない私は、ヨナのように「怒りのあまり死にたいくらいです!」と神さまに叫びたくなるときがあります。ヨナ書は、そのような私の頑なさを、鏡のように映し出すのです。

怒り続けるヨナに繰り返し問いかける神さまは、「ニネベの人々が悔い改めたのだ。この喜びを、一緒に喜んでくれないか?」そんな願いをヨナに伝えているように感じます。だからヨナ書は、「私の思いは、神さまの思いと一緒だろうか?」と、自分と神さまに問いかけることへと、繰り返し向かわせてくれる書でもあるのです。

(H.K. 50代)


霊の体

自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 15章 44節

何十年も前の話です。高校生の時、学校帰りに知り合いの家に寄り、三才の坊やと遊びました。赤ちゃんが生まれて、お母さんが忙しかったからです。ある日、電話をすると、「もう来なくていいのよ、車にはねられ死んじゃったの」と…。駆けつけると、坊やはそこに寝かされていました。触れた時、衝撃が全身を打ちました。深い闇のような冷たさ…。

冷たさは指先に記憶され煩雑に思い出され、その度に切なさと恐怖を覚えました。死に対してか、幼い命を思ってか、忘れたいのか、自分の気持ちをどう扱えばよいのか、わかりませんでした。

学生時代、休んでいた教会に導かれるように、又通うようになりました。聖書の御言葉を求める思いも強くなりました。霊の復活、私たちの命は朽ちるのではない…この箇所は光でした。そして受洗…忘れようとしてではないけれど、氷が溶けていくように思いました。

(M.Y 70代)


2022年6月12日日曜日

主御自身が建ててくださるのでなければ…

主御自身が建ててくださるのでなければ
家を建てる人の労苦はむなしい。

旧約聖書 詩編 127編 1節

30歳で受洗し、救われた喜びに有頂天になっていた頃、次の課題は「如何に主に全てを捧げて生きられるか」だった。この御言葉から、「主に建てられた」生き方って何だろう?とずっと考えていた。金と欲しか価値が存在しない仕事をして生活を続けるのは、虚しさしか感じなくなっていた。 

そこで、今から考えると、大バカと言うか無謀と言うか、とにかく「主の召命を待つ」、その生活に入った。フリーターを続け、後はひたすら聖書を読み、祈る。貯金はほとんどゼロ、風呂もエアコンも無いアパート生活、不安は全く無かった。

しかし神様は、そこまで無謀そのものの、両手を上げて崖から飛び降りるような困った我が子を見捨てたりはされなかった。あれから30年余り、キリスト教団体の会員誌編集と、HIV/AIDSの電話相談、2つの仕事をこなし、日々、人の弱さと向き合う生活をしている。また、アーティストとしても経験を積んで来た。 

何より、「主が建てられた」、「自分のものは何も残していない」、「今の人生は私のものではなく全て主のもの」、確かにそう言える喜びは何ものにも変え難い。 

(K.O. 60代)




私は主のしもべである

今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。

新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙 1章 10節

「私はキリストのしもべである」
 こう高らかに宣言する人たちを多く見てきた。そしてその度に劣等感と自己憐憫に悩まされてきた。小心者の私には、人に取り入らなければやっていけない部分が尚色濃くあるからだ。じゃあ私は逆立ちしたってキリストのしもべになどなれないではないか。終末の希望とは?信仰生活とは?
「ちょっと待ちなさい。自力でそうなろうとしていないか?」
え?
「信仰は私の十字架と復活で繋がれるものだろう?行いで誇らないためにそうしたって言ってるのに」
あぁ。
「さ、立ち返りなさい。私に繋がっていなさい」
はーい、そうしまーす。
日々、これの繰り返し。

(R.I. 30代)



2022年6月5日日曜日

神は愛なり

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛するものは皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 

新約聖書 ヨハネの手紙一    4章 7~8節

 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト-イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一   5章 17~18節

私のイエス様との出会いは、キリスト教の幼稚園に通っていた時で、「かみはあいなり」と書かれた卒園アルバムに、幼かった私は、理解できず、なんで紙は愛なりなのかたずねたとき、神様は愛で貴方を導いてくださるとお聞きしました。その後娘が初等部に入学した時、部長先生が聖書に書いて下さった聖句が、「絶えず祈りなさい」でした。それから時がたち、受洗させていただきました。日曜礼拝でのお説教は心に響くものでした。数年前、手の関節切除手術を受け、不安な気持ちでいた時、この二つの言葉が浮かんで来て、手術中ずっと神様が共にいて下さり、終わるまで、賛美歌を、心の中で歌っていたように思います。本当に、不思議なくらい、幸せな時でした。今思うと、私の人生の折々に、この二つの聖句が私を、支え、導いて下さったとおもいます。

(F.S. 70代)


祈りの日々

人は心に自分の道を考え計る。しかし、その歩みを導くのは主である。

旧約聖書 箴言 16章 9節(聖書協会口語訳)

私の受洗は、1966年のクリスマスでした。お祝いに叔母(母の妹)が、この聖句を裏表紙に書いて聖書を送ってくれました。

叔母は、戦後の混乱の中で結婚をして、男児誕生後、間もなく夫婦で結核療養を余儀なくされ、生まれた子供は、私たちの兄弟として育ちました。2歳になったばかりで父親が亡くなり、母親と暮らしたのは半年足らずで、17歳という短い命でした。

独りになってしまった叔母は、カリエスとリュウマチにも苦しみ、耳が聞こえなくなっていましたが、療養生活10年目のクリスマスのこと、病室の窓から讃美歌が聞こえてきたのです。感染を恐れて見舞いに訪れる者少ない日々を、信仰によって支えられ、祈りつつ、体調が良い時には手芸や短歌を楽しみ、沢山の本を読む時間も与えられた、50年以上に及ぶ療養生活でした。

私が生まれる前から傍にいてくれた叔母です。「いつも祈っているからね。」と励ましてくれました。私の受洗からの長い年月は、順調な信仰生活を続けられたとは言えませんが、振り返ればいつも必要な試練を与えられ、道は見えなくても導かれていることを思います。

(K.S. 80代)