2022年7月31日日曜日

私の道しるべ

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。
花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。
砂漠はレバノンの栄光を与えられ
カルメルとシャロンの輝きに飾られる。
人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
弱った手に力を込め
よろめく膝を強くせよ。
心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。

 
見よ、あなたたちの神を。
 敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
 
神は来て、あなたたちを救われる。」
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主に贖われた人々は帰ってくる。
こしえの喜びを先頭に立てて喜び歌いつつシオンに帰り着く。
喜びと楽しみが彼らを迎え
嘆きと悲しみは逃げ去る。

旧約聖書 イザヤ書 35章

聖書はどこを読んでも私の道しるべです。58歳の時、苦難の道のりで、この聖句を与えられました。すべてがイザヤ書35章によって命を与えられ解放された今は感謝の日々を暮らしております。

神様は一人一人に役割を与えられ地上に送られました。髪の毛一本一本までご存じでいらっしゃるのです。「なぜ神は黙っておられるのか」と苦しい時は「神さま、いつまでですか、いつまでですか」と訴え、毎日祈り続けました。イエス様は共に歩いていて下さったのです。

その時は来ました。失う物は多かったですが、神様はちゃんと用意して下さったのです。信じきって祈ること。救いは与えられました。

(C.T. 80代)



いつも共にいて下さる神様

神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。」

旧約聖書 創世記 21章 17節

自身の信仰生活を振り返るたび、その不真面目さが嫌になります。祈ることができなくなり、神様をとても遠くに感じます。そのようなとき、神様が奴隷ハガルとその子イシュマエルとずっと共にいて、彼らが跪いて祈ったわけではないときにも、その泣き声を祈りとして聞いていてくださったことを思い出します(主日礼拝説教ブログより「泣く声さえも祈りとなる」http://shoeichurch.blogspot.com/2013/07/)。

先日、愛犬を亡くしました。この子は、私が最も孤独なときに出会い、犬を飼うことは絶対に禁止であったにも関わらず、家族となりました。たくさんの幸福な時間を過ごし、年老いてからは、「この子が眠りにつくときには、どうか私の腕の中で」とずっと願ってきました。亡くなる日、幾つもの偶然が重なって腕の中で看取ることができました。今となっては、神様がそのようにしてくださったのだと思います。

(A.S. 20代)



2022年7月24日日曜日

最も重要な掟

第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。

新約聖書 マルコによる福音書 12章 29節~ 31節

「主を愛し、隣人を愛す。」言葉にすれば、単純で簡単に思えますが、実際はなんと難しいことでしょうか。

困っているときや苦しいときは、神様に真剣に祈り求めますが、それが過ぎれば当初の感謝を忘れてしまいます。遠くで起こる争いごとをニュースで見れば、愚かしく思いますが、自分の近くにいる人との小さな諍いや利害に、いつまでも恨んだり根に持ったりしています。「人間は自分では変えることはできない。主に変えていただくのだ」と聖書に書かれています。「心を尽くして主を愛し、隣人を愛する人に変えてください」と、祈り求めたいと思います。

(S.O. 60代)



幼な子

だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこに入ることは決してできない。

新約聖書 マルコによる福音書 10章 15節(口語訳)

お父さんが牧師である友達が10才位の頃小学生のための日本語のバイブルクラスに誘ってくれました。毎回み言葉カードが渡され、次回まで暗記し一人ずつ立って言わなくてはならず、それがイヤでやめてしまいました。中学生になるとその友達が今度は英語のバイブルクラスに誘ってくれましたが、全部英語で全くわからず、すぐやめてしまうと、彼女は今度はお父さんの教会に誘ってくれました。それから私は教会にいくようになったのです。

後に彼女と再会した時にどうして何度も私を誘ってくれたのと聞くとお父さんが友達を誘いなさいといったからといいました。もし彼女が大人だったら集会、教会に一度誘って断られたら2回目がないのが普通です。誘われた私も大人だったら一回行っていやだったら2〜3回目はありません。いろいろ口実を作ったでしょう。友達も私も幼い故に純真でそのまま素直に受けとめていたのです。忘れている幼な子の心を今一度持ちたいものです。「心をいれかえて幼な子のようにならなければ天国に入ることは出来ないであろう」(マタイによる福音書18章3節)

(S.T. 80代)



2022年7月17日日曜日

見えないもの

見わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 4章 18節

教会に通い始めた時、教会の階段は急に感じられた。一歩登るごと自分自身に訝りつつ「見えないもの」を見たいとも願っていた。

信仰はバンジージャンプに似ていた。期待と怖さの中、飛んだ。否、飛ばされた。景色が反転し、常識を上下に揺さぶられるうち、ポケットに仕舞ってあった何かが落下していくよう感じた。

背中を押した力が体や心を握ってくれている。安心感の中、今も私は「見えないもの」に目を注ぐため教会の階段を登っている。今もポケットが軽くなったと感じる瞬間がある。その度少し見い出すことがある。明日にはまた何か見せていただけるかもしれぬ。そう思うと新しい日も悪くないように感じる。

ブログを読むあなたといつか共に祈る時が来るように祈っている。今通信のため繋ぐWi-Fiが視覚化できないよう祈りも見えないが、お祈りは容量制限なし、高速通信、時間無制限。確実に繋がること。それは階段を登り続け見えてきたことの一つである。

(K.M. 50代)


祈りに支えられて

苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む

新約聖書 ローマの信徒への手紙 5章 3~4節

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 4章 6節

原因不明、治療法なしという病気で入退院を繰り返していた夫に付き添い、自分も壊れてしまいそうな日々を過ごしていた時、受洗準備の指導を受けていた時に出会った聖句です。

苦しさと絶望の中で、一体本当に希望にたどり着けるのか半信半疑の毎日で、私にできることは、神様にお祈りすることだけでした。そのうちいつしか心が楽になって行き、私にとってうれしい奇跡のようなものでした。神様に感謝し、信じて祈ることの大切さがよくわかりました。

そして今一番の聖句は「いつもよろこんでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケの信徒への手紙一 5章16節、17節)です。

(Y.T. 70代)


2022年7月10日日曜日

すべては益に

神を愛する者たち……には、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章 28節

自分の人生を振り返って、一つの扉が次の扉につながっていた不思議さに驚きます。大学進学で下北沢に下宿しなければ教会に来ることはなかったし、教会に来なければ就職先は違っていたでしょう。就職先が違えば今の妻とは出会っていなかったし、その後の転職もなかったでしょう。一つの出会い、決断が次の出会いにつながりました。さらに、20代で週刊新聞、30代で書籍の編集をしなければ、転職後に月刊誌の編集をすることはなかったでしょうし、なおかつ経営危機を迎えた会社のために4千万円を単独で売り上げることもできなかったでしょう。

すべてつながって一つの不思議な物語を造っています。ただし、この聖句にある「すべて」には病気、事故、トラブルなども含まれます。これらは渦中にあるときは「益」とは思えません。でも、長い時間を経て振り返ってみると、きっと、「ああ、あの経験も次のステージへの扉だったのだ」と気づくのではないかと思います。

(M.I. 60代)



あこがれの言葉

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。

新約聖書 マタイによる福音書 22章 37節

この言葉を最初に目にしたのは、出張先のビジネスホテルの部屋でした。備え付けの机の引き出しに白い表紙の小冊子が入っていて、ぱらぱらとめくるうちにこの言葉が目に留まりました。「何て良い言葉なんだろう。いつか、こんなふうに生きられたらいいな。」―人を超えた偉大な「誰か」を信じて生きたい――その言葉は、わたしの「あこがれの言葉」として、心の奥深くに沈んでいきました。

それから数年後、わが命と信じていた仕事につまずき、私は教会に導かれました。自分で聖書を読むようになり、再びあの「あこがれの言葉」と出会ったのです。そこでようやく、これは神さまの言葉であり、あの時手にした小冊子は聖書だったことを知りました。

神さまの言葉は種にたとえられます。あの時私の心に蒔かれた種を、神さまは忍耐強く、大切に育んでくださったのだと信じています。今もこの言葉は、「このように生きていきたい」と、心から切望する「あこがれの言葉」です。

(H.K. 50代)



2022年7月3日日曜日

主よ、私を憐れんでください。

主の慈しみは決して絶えない。
主の憐れみは決して尽きない。

 旧約聖書 哀歌 3章 22節

自分の内側の悪を思います。それは人の目からは見えないものもあります。または、それらの思いは、人にはわからないように隠してしまうこともできるかもしれません。それでも、何でも知っておられる神さまの目には私の内側の悪は明らかだという事実があります。

クリスチャンになる以前の私だったら、そのことはとても恐ろしいことでした。しかし、神さまの慈しみと憐れみを知る今は、神さまが私の内側を全部知っておられるということに慰めを感じます。だから、私は、日々祈ります。「主よ、このことはやらない方がいいことなのに、またやってしまいました。」「主よ、ほんの気晴らしのつもりでやっていたのに、その悪いことにとらわれてしまっています。」そして、祈りをこのように締めくくります。

「主よ、どうかこんな私を憐れんでください。」

私たちが正直に自分の罪や弱さを告白するとき、赦しを与えてくださり、悪の力のとりこから解き放ってくださる主がついていてくださることは、何よりの助けです。

(K.T. 40代)


天国へ嫁いだ娘

あなた方を襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。 神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 10章 13節

結婚を予定していた娘が、急性リンパ性白血病になりました。その日から私は一日一日を大切にして行こう、すべては神様の手に委ね、病は恐れず、医療は医者に、心は天にお委ねした生活をする事にしました。それからは 気が楽になり、あきらめではない、充実した生活をするように努力しました。娘の27年の生涯は神様が与えて下さった大切な時間でした。こうして一日一日を大切にして、3年10カ月は過ぎ去りました。私はその時、娘を天国に嫁がせる母親の心境で、用意していた花嫁衣裳を着せて母校礼拝堂から天国へと嫁がせました。

(K.I. 80代)