2025年6月29日日曜日

お捧げ

自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 12章 1節

あるシスターからお聞きした話です。年老いて、また病床にあるシスターを見舞った時のこと。痛みに耐える姿を見て慰めの言葉をかけたところ、「お捧げ」と一言、応えたのだそうです。ベッドに横たわり、痛みに耐える姿そのものが、そのシスターにとって神さまへの「捧げもの」であり、礼拝なのでしょう。病身であっても、そのようにして自分自身を捧げ、この世界のために祈っている方々によって、私たちは支えられているように思います。

辛い日常の中にあっても、仕事でへとへとになっている時であっても、そして、どうしても愛し合う関係を築くことが難しいと感じる時であっても、その姿と心そのままを日々、神さまにお捧げし、礼拝する者でありたいと願っています。

(H.K.60代)


2025年6月22日日曜日

自分を迫害する者のために

あなたがたも聞いている通り、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

新約聖書 マタイによる福音書 5章43~44節

私は、学生の時、この聖書の箇所に初めて出会い、とても驚きました。こんなことが本当にできるのかと思いました。大人になり何十年も経ちましたが、私はほとんど変わっておらず、やはり、どのようなシチュエーションでも苦手な人がいる、嫌な感情が出てしまう、という現実は何も変わりません。そんな弱い私です。ただ、最近ほんの少しだけ気づいたことがあります。

「隣人を愛する」、当たり前に過ごしている毎日の中に、相手を少しでも思いやる気持ちをもつことが、神様が私たちひとりひとりを愛して下さっていることへの「応答」が大事なのではないかということです。

また、苦手な人が自分にどのような態度を取ろうとも、神様が御創りになった大切な存在として見ること、これは私たちの力だけでは決してできないことであり、神様からの「恵み」によって初めてできるようになるのだということです。神様にお祈りはしても、私だけでどうにかしようと思っていたことが大きな間違いでした。

相手のために祈り、その思いを神様に明け渡し、憎しみを手放し、祈りを通して、私たちは自分だけの視点から離れ、神様の大きな視点から状況を見つめ直すことができるのだと思います。相手のために祈ることは、すぐに赦しに繋がらなくても、赦しへと向かう大事な第一歩だと思います。神様はその祈りを聞き、弱い私たちに良い道を与えてくださると信じています。

(E.O. 40代)




2025年6月15日日曜日

盲学校の卒業生を励ますオルゴール

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。

旧約聖書 イザヤ書 41章10節(新改訳聖書)

朝のニュースで盲学校の卒業式のシーンが流れました。数人の学生が先生から小さなオルゴールを受け取っています。この時期になると毎年、誰かからその盲学校に電話があり、卒業する生徒の数を聞いてくるそうです。途中から見たので正確ではありませんが、これまでに600個以上が同じ人から匿名で贈られたようです(曲は毎年違うとのこと)。

ニュース後半に、盲学校卒業後スーパーで働きだして2年目の男の子が登場します。店のチラシを手に「これ、どこ?」と尋ねる客。見えない目をチラシに近づけても商品棚の場所がわからず、彼は他の職員に聞いて回り、バタバタしながらの接客でした。

帰宅後その日の苦労を母親と分かち合いながら、なんとか客の要望に応えられて満足げな彼は、卒業式でもらったオルゴールを手に取り、ねじを巻きます。流れてきた「星に願いを」に耳を傾けながら、オルゴールに入っているカードをいつものように両手で触り、目を近づけるのでした。

そこには「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。イザヤ書41章10節」ときれいな手書きの文字が記されていました。これを見て、私の目から涙があふれました。男の子の喜び、贈り主のやさしさ、聖書の言葉、それが一体となって私の心を打ったのでしょう。ちなみに、イザヤ書41章10節は上記のあとに、「たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」と続きます。多くのクリスチャンを励ましてきた言葉です。

伝道とは人を神様の前に連れて来る、あるいは、その人を神様に知っていただくようにする、ことだと思いますが、オルゴールの贈り主は、こんな形でそれを実践されておられるのです。私も何か、こんな伝道ができないものかと思わされた幸福なひとときでした。

(H.M. 70代)





2025年6月8日日曜日

祈りの輪の中で

あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

新約聖書 マタイによる福音書 18章19節

毎晩まじめに聖書を読んで祈り、自分でも努力したのに願いどおりの結果とならなかったとき、私たちは神様に期待した分、大きな失望を感じるのではないでしょうか。

以前そのような経験をした私は、祈った分また期待してしまうのが怖くなり、そのことについてはすっかり祈ることをやめてしまいました。

数ヶ月が経ったある日、いつも私のことを気にかけてくれるある方とお話しする機会がありました。それまで私は、本当の祈り課題を人に話すことはあまりなかったのですが、時間をかけて信頼関係ができていたその方から心の内を探られた私は、思わず自分の状況を話してしまいました。

すると、それはぜひ祈りましょう、と言って、その場で一緒に祈ってくれました。そのときから私は、一人でも再び本当の祈り課題を神様へ打ち明けることができるようになりました。

祈ったからといって、望んだとおりの結果が得られるとは限らないし、再び落ち込んでしまうことへの怖さもありましたが、そのときはまた、祈りの仲間に素直に話して一緒に祈ってもらおう、そうすれば神さまが支えてくれるだろう、と思えるようになりました。祈りの輪の中にいることの安心感が、一人で祈るときにも恐れから解放してくれることを思わされた出来事でした。 

(M.K. 30代)



2025年6月1日日曜日

愛のあるところに神あり

はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。

新約聖書 マタイによる福音書 26章40節(口語訳)

子供たちと、ロシアの文豪トルストイ著「靴屋のマルチン」の絵本を読みました。マルチンは妻と息子を亡くし寂しい思いをしていた靴屋です。ある日マルチンは「わしが行くから往来を見ておれよ」との声を聞きました。寒いロシアの冬です。マルチンはサモワール(給湯器)に火をいれシチューをこしらえ、靴屋の仕事をしながら往来に目を配っていました。すると店先には極寒の中、雪かきをするおじいさん、赤ちゃんを抱えた夏服姿のお母さん、りんごを盗んだ子供を叱るおばあさん、が次々と現れました。これらの誰もが靴を買いにきたわけではありません。マルチンは、それぞれに温かい食べ物や上着を差し出し、叱られた男の子を優しく諭しました。マルチンはまた声を聞きました。「わしがわからないかね?わしだよ。」マルチンは毎日聖書を読んでいました。イエスさまが「飢えている時に食べさせ、裸の時に着させ、牢にいた時訪ねてくれた。」と言っておられたのに気づきました。別名「愛のあるところに神あり」で知られるこの民話は、何気ない日常の中で、愛の使者として人に仕え、社会に送りだされる私たちへのイエス様からの励ましのようであります。 

(E.I. 60代)