2022年9月25日日曜日

この町には、わたしの民が大勢いる

恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。(略)この町には、わたしの民が大勢いるからだ。

新約聖書 使徒言行録 18章 9b~10節

地方都市の教会にいた時、高校生が洗礼を受け、教会員となりました。ところが、その多くは、大学受験で土地を離れました。折角、育ってきたのに、地方都市の教会は、「苗床」なのでしょうか。引っ越し先で信仰生活を励んでくれれば良いけれど。

そんな思いで悶々としていた時、この聖句に出会い、目が開かれました。この町にも人は大勢いるのだ。この町の方々へ語っていかなければならないのだ。と、気付かされ、祈りが変わりました。

数日後、老婦人と娘さんが牧師を訪ねて来ました。お母様を信仰へと導いていただきたい。との事でした。その老婦人は、いつも教会の前を通っている方でした。神様は祈りを聞いて下さっていました。

(M.I. 70代)




2022年9月18日日曜日

神様の資本

金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。

新約聖書 ヤコブの手紙 5章 3節

70歳の男性です。昔から「シンプル&ニート」(簡潔&こざっぱり)がモットーです。必要な物は祈り求め、与えられれば神様に感謝し、与えられなければ、むしろ良かったか、さらに良い物が与えられると信じます。約50年キリストを信じて来て、不足を感じたことはありません。逆に、物の管理と、リスク対策とから解放されて楽です。昨年、NHK大河ドラマを通して「社会資本」という概念を学びました。今、祈り求めているのは「社会資本」ならぬ「神様の資本」増強のために、より積極的に投資できる力です。

(N.M. 70代)


2022年9月11日日曜日

日ごとの糧を今日も与えてください

見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。
民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。

旧約聖書 出エジプト記 16章 4節

このみ言葉は、イスラエルの民がエジプトから脱出後、荒れ野で食糧もなくなり、神さまに向かって不平不満を呟いた時に、神さまが約束したものです。神さまは約束の地カナンに到着するまで毎日マナ(パン)を降らせましたが、次の日の分まで多く集めた人が多く出ました。ところが多く集めたマナは、夜中に虫が付き食べられなくなりました。そして「彼らは朝毎に必要な分を集めた」と記されています。

自分に必要な聖書のみ言葉(糧)は、その日その日神さまから頂くものです。
昨日の糧は、今日の信仰の歩みを支える糧にはならないのです。今日を生きるために、今日与えられる新鮮なみ言葉の糧が必要です。イエスさまは、「日ごとの糧を今日も与えて下さい」と祈るように教えて下さいました。毎日身体の栄養を摂るように、心を守り育てるみ言葉の糧を祈り求め、忙しい中にあっても毎日聖書を開きたいと願います。

(H.K. 60代)



2022年9月4日日曜日

これが行くべき道だ

あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け 右に行け、左に行け」と。

旧約聖書 イザヤ書 30章 21節

小学生だった娘のたっての願いは、「犬が飼いたい」だった。神さまへの祈りもそれだった。共働きの上に犬の世話までとても無理。だがとにかく保護犬施設まで足を運び出会った仔は「あんず」という名前だった。飼ってやりたいが無理、神さまどうしましょうと思案しつつ、祖師谷公園でふと見上げた木に掲げてあった樹名札には「あんず」とあるではないか。調べると広大な園にあんずの木はわずか。まさに背後どころか真正面から選択肢の答えを神さまからいただき進むべき道を示された。幸いとよんでいいのかわからないが、コロナ禍でリモートワークの日々、家族で犬の世話ができている。家族の楽しみも増え、なにより未信者の家族が神さまの御働きを体感できた。神さまに「行くべき道」を先導される私に迷いや不安はない。

(E.I. 50代)



2022年8月28日日曜日

光の子として歩める幸い

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。

新約聖書 エフェソの信徒への手紙 5章 8節

聖書は、人が神さまと共に生きていない状態を暗闇と表現しています。たしかに、クリスチャンになる前の私は、自分の中のなくそうとしてもなくせない悪い思いをもてあまし、私の心の中のどのような思いをも知っておられる神さまの裁きを恐れていました。なぜなら、私は幼い頃から教会に通っていて、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(新約聖書 ヘブライ人への手紙9章27節)ということを知っていて、死というものが果てしなく落ちていく暗闇のように感じていたからです。

しかし、18歳の秋のことです。私は突然知りました。イエス・キリストが十字架にかかって死なれたのは、本来は私が受けるべき罪の裁きを身代わりに受けてくださったのだということを。キリストの十字架は私の罪を赦すためであり、私が神と和解して、神と共に生きるようになるためであったのだと知りました。もう死後の裁きを恐れなくてよくなりました。

クリスチャンになって私が変えられたことはたくさんありますが、その中でも大きなことは、神さまが喜ばれない思いを神さまの前に包み隠さず告白できるようになったことです。

そうすると、神さまが私の中の暗闇を取り去ってくださいます。今は主イエスに結ばれて、光の子として歩める幸いを感謝します。

(K.T. 40代)


人に何かを与えるという意識

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。

新約聖書 マタイによる福音書 7章 12節

この個所が「私を支える聖書の言葉」です。

なぜなら、この聖書の個所は私が通っていた中学・高等学校で一番大切にされ、何度も伝えられてきた聖書の言葉だからです。「人にしてもらいたくないこと、嫌だと思うことは他の人にもしないようにする」ではなく、「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい」だという点がポイントだと思います。「人にしてもらいたいと思うことを人にもする」というのは、自分が「人に何かを与える」という行為を、前向きに、積極的にやろうという意識がなければできないことだと思います。この聖書の個所からは、相手を不快にさせない必要最低限のマナーだけでなく、それを超えた、相手にとってプラスになることをしようという意識を思い出させるため、これからもこの聖書の言葉を支えにしていきたいです。

(M.T. 20代)


2022年8月21日日曜日

まっすぐに考える

ただし見よ、見いだしたことがある。
神は人間をまっすぐに造られたが
人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。

旧約聖書 コヘレトの言葉 7章 29節

20代のころ、私は常に悩んでいました。「なぜ、人は身勝手なのか。いや、自分の方が身勝手なのか。」、「こんなに生きにくい世の中ならば生きる意味はあるのか。」。思考は深く沈み、答えが出ないまま、深夜の私の頭をぐるぐる巡ります。

私は、救いを求め手当たり次第、本を読み漁りました。そして、三浦綾子さんの自伝(「光あるうちに」)に導かれ、単身で教会に訪れ、30歳のときに洗礼を受けました。勿論、洗礼を受けても、悩み自体がなくなるわけではありません。それでも神様はおっしゃってくださるのです。「『複雑な考え方』は、私は望んでいないんだよ。まっすぐに私を求めてくれさえすれば、うまく計らうよ。」と。私は悩みをすべて神様に預け、安心をして眠りにつけるようになりました。

(R.K. 40代)