2024年6月16日日曜日

いつも喜んでいなさい

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 5章16~18節

喜べ、祈れ、感謝せよ。

日々の歩みの中で、喜べない事、祈れない時、感謝どころか恨みことを言いたい時はしょっちゅうあります。それでも、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。と言われるのです。

10年前に我が家を開いて、コミュニティハウスにしたときに名前を「笑恵館」と付けました。喜べたら笑いが起こるでしょう。誰でもどんな気持ちで来ても、笑って出ていける様になったらいいなと思って、笑いの恵みに満ちた館としました。10周年を迎えて、その通りになっていることに感謝あるのみです。

(Y.T. 70代)


2024年6月9日日曜日

潤うこと

気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う。

旧約聖書 箴言 11章 25節

初めにこの句の後半部分を知り、後に前半があることが分かったが、この箇所については他にも解釈があり、前半が「物惜しみしない者は富み」となっているものもある。

潤うとは渇きの反対語だと思うが、聖書において、渇きとは足りていない、満たされていないことを表わす。だからこそ潤うためにどうすればいいか、その一つとしての例がこの聖句だと思う。人の体が水分を求めるように、また人の心にも程よい潤いが必要である。

コロナ禍、人と人との接触が多分に制限された中で重苦しい気分になった人は多い。生活の中で自分以外の誰かと会話したり、共に行動する中で持ちつ持たれつの関係がある。人との関わりの中で、人は与え、受ける。受けるばかりでなく、与える者でいなさいと示される聖句である。

(R.M. 60代)





2024年6月2日日曜日

どんな時もみ言葉を

見よ、私の見たことはこうだ。神に与えられた人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。

旧約聖書 コヘレトの言葉 5章17節~19節

私の父は72歳で他界しました。戦中戦後をがむしゃらに働き続けた人生でした。
ある程度の財をなし、70歳で退職し、それからは自分の好きなことをして生きる予定でしたが、癌を患い1年間の闘病生活を送り、納得できない思いで亡くなりました。
「やりたいことが沢山ある。」が口癖でした。
この聖句を父に読んであげたかった!み言葉には、癒し、安らぎ、愛と喜びがあります。
今、私は聖書を読む度に、過去の経験や、未来への不安や期待をみ言葉に合わせて楽しんでいます

(F.T. 70代)



2024年5月26日日曜日

神は愛です

神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。

新約聖書 ヨハネの手紙一 4章 17節

40年程前、まだ、20代に入った頃、人間は死んだらどうなるのだろう?当時では、まだ珍しい拒食症になった時に、死を意識し始めた。幸いにも、小学生まで教会学校に時々行っていたので、母が聖書をクリスマスにプレゼントしてくれていたので、部屋の奥にあった。聖書の中に答えがあるかも知れないと思い、最初から読み始めた。しかし、神が誰なのかわからなかった。父なる神、聖霊なる神、子なる神…三位一体に躓いていた。しかし、この聖句を読んだ瞬間に、目から鱗が落ちる経験をした。神様がわかったのです。嬉しくて、リビングにいる家族に聖書を見せ神は愛なんだよと伝えた事を今でもしっかりと記憶しています。神は私の内にとどまってくださいっている。今もこれからも感謝です。

(S.K. 60代)



2024年5月19日日曜日

心の貧しい人々は

心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。
へりくだった人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。

新約聖書 マタイによる福音書 5章 3~5節

私は、最初、「心の貧しい人々」の意味が理解できずにいました。
はて?心が貧乏とはどういうことなのだろうかと思いました。
そして、貧しい心が何故幸いなのだろうかと思いました。
貧しいといえば、少ないとか乏しいとか、とても幸いとは思えません。
ですがある時、それは心の支えのない人々を意味するのだと聞き、なるほどと納得しました。心の支えのない孤独な人々に居場所が与えられるのです。
そして、悲しむ人々が慰められ、へりくだった人々が大切にされるのです。暖かいことばに包まれる思いがしました。

悲しく、弱く、へりくだることしかできない立場の人々に、目を向けてくれる存在があるということに幸いを感じます。

(H.K. 60代)



2024年5月12日日曜日

羊飼いの信仰

羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

新約聖書 ルカによる福音書 2章 20節

救い主にお会いした羊飼いたちが「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」という姿は、聖書を読み始めた頃は、少し不思議な思いがしました。救い主にお会いしたのなら生活が一変して劇的な人生を歩むはず…なのに、あっけなくこれまでの生活に「帰って行った」からです。でも信仰生活を続けていくうちに、自分も羊飼いと同じなのだ、と感じるようになりました。洗礼を受けても、日常生活は変わりません。日曜日に礼拝を捧げても、月曜日からはこれまでと同じ仕事、同じ生活を送っています。あの羊飼いたちも救い主に出会ったあと、これまでと同じ過酷な羊飼いの生活に戻って行きました。でも、その生活は「救い主が共にいてくださる」、その永遠に変わらない喜びと確信に支えられる生活へと変えられたのだと思います。

日常の生活の中で不平や虚しさ、徒労感を感じることがあります。そんな時、あの羊飼いたちの姿を思い起こします。私も、羊飼いたちと同じ「救い主が共にいてくださる」という喜びの信仰を共有しているのだということを思い起こします。

(H.K. 50代)





2024年5月5日日曜日

『ベン・ハー』はクリスチャンになってから観る映画……かな

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

新約聖書 ルカによる福音書 23章 34節

『ベン・ハー』をご存知ですか。ウィリアム・ワイラー監督、チャールトン・ヘストン主演で1959年に公開された名作です。同年のアカデミー賞を11部門(!)で受賞しています。

初めて観た中学生の時はノンクリスチャンだったので、奴隷船と海賊船の激戦、馬を束ねた多数の馬車による競走などがおもしろかったのですが、クリスチャンになって観返すと、この映画のテーマは「赦し」ですね。

舞台はローマ帝国に支配された1世紀初頭のユダヤ。誕生から十字架上の死に至るまで、イエス・キリストが時々登場しますが、ドラマ本体は母と妹を重い皮膚病(字幕では「らい」)にさせた宿敵メッサラに対するベン・ハーの憎悪を中心に展開します。

ドラマ終盤、十字架上のイエスを見入るベン・ハーは、自分を十字架につけたユダヤ人を「父よ、彼らをお赦しください。何をしているかわからないのです。」と弁護するイエスの深い愛に感動し、それとともにメッサラへの憎悪が消えてしまったことに気づきます。帰宅したベン・ハーを皮膚病から癒された母と妹が待ちうけます。そして三人が激しく抱き合うところで大団円。

パンフレットには、「……彼の悲劇が始まった家へと帰った。すると不思議や、母と妹の不治の病がいつの間にか癒えていた。そして、ベン・ハーもまた、今まで握りしめていた怒りと憎しみの剣が消え失せ、……」とあります。怒りと憎しみは三人の再会前に消え失せていたと私は受け止めました。最後の場面、あなたの目にはどう見えるでしょうか。

(H.M. 70代)

ベン・ハーのポスター

左からメッサラとベン・ハー