2024年9月15日日曜日

欲しいものと、与えられるもの

願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。

新約聖書 ヤコブの手紙 4章 3節

「あれが欲しい」「これが欲しい」、欲しいものは尽きません。何かを手に入れれば、次のものが欲しくなる。その繰り返しをしながら生きてきた、と改めて感じます。欲しいと願っても、手に入らないことも多々あります。“モノ”ではない、技術や能力もそうです。また、願ってもいないものが手に入ることもあります。思いがけない苦労や、悲しみなどです。

この聖句を読むと、自分の欲だけを願い求めてしまっていることを感じさせられます。神さまが与えてくださるのは、私にとって必要なもの。時には、あまり欲しくない、願ってもいないものが与えられるかもしれません。けれども、それらは神さまが必要だと思い、与えられるもの、そこには意味が必ずあると信じて、受け取っていきたいと思います。

(R.M. 40代)


2024年9月8日日曜日

力と勇気を与えて下さる神様

だから人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

新約聖書 マタイによる福音書 7章12節

今も私にはテサロニケ5章17~18の絶えず祈りと感謝が必要な日々ですが、最近歳をとり、ストレスや思うように動けなくなってきました。そんな時、歳をとったらお互い助け合いよ、と言ってくれる幼い頃からの友人達、教会の友人達、多くの友人を与えてくださった神様に感謝です。私がしてもらいたい事と言うより、自分だったら大変で嫌だな、と思うことを出来る範囲で、支え会う事ができれば、幸せだなと思う日々です。

(F.S. 70代)


2024年9月1日日曜日

主の御手の中で

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 10章13節

私は元々精神的に弱く、変化に弱い性質です。そんな私に立て続けに、父の突然の闘病と召天、家族同然だった愛猫の死、母が難病になり暮らしが立ち行かなくなる、という出来事が起こりました。その時はなぜ?と悲嘆に暮れながら必死で対応していました。今、振り返るとコロナの前に父と愛猫を直接看取る事ができた事は恵みだったのだなと。コロナ禍の中で母の面倒をみていた時も、私自身の健康は守られ、適宜助けが与えられ、進む道が備えられていました。今は母と夫と三人家族で暮らしています。本当に逃れの道は用意されています。

(Y.S. 40代)


2024年8月25日日曜日

地の塩、世の光 

あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、なんの役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は隠れることができない。

新約聖書 マタイによる福音書 5章 13~14節

この言葉を選んだのは、高3の自分が、とある大学のサイトで見つけたのがきっかけです。地の塩、世の光はそのサイトで見つける前から読んだことはあるのですが、深く考えたことはありませんでした。これを機にちょっとどういうことかと調べてみました。

地の塩、地はこの世のことだそうです。塩と聞いて最初に浮かぶのは調味料です。調味料がメインになることはありません。「何か」に味をつけるんです。わざわざ塩自体が美味しいとはあまり言いませんよね。だから目立たないながら人や社会を支えるようなものだと私は思いました。

世の光は人々が歩けるよう導くような光だと思いました。イルミネーションのような見てすごい、ではない、これも誰かのためのものです。

私はこれを自分の夢に当てはめられるな、と思いました。私の夢はマーケターです。人が当たり前に望むものを提供する地の塩、そして自分が先立って望みを越えるような新しいアイデアを出して社会を先導する世の光。そのために何をするかはまだ自分の課題ですが、この役割を下さったのは神様です。歩くべき道を用意して下さいました。この聖句はその道をどのように進むか、楽しみに思わせてくれた聖句です。

(S.I. 10代)

2024年8月18日日曜日

イジメられた相手のための祈り

敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

新約聖書 マタイによる福音書 5章44節後半

昨年(2023年)の秋、大阪で開かれた小・中学校の同窓会に出席しました。集まったのは二人の恩師と二十数名の仲間。十代前半の昔と古希の今との風貌の違いに驚きつつも、懐かしさに浸れたひとときでした。

残念なのは“ガキ大将”が現れなかったこと。当時、野球に似たキックボールをよくしたのですが、自分が蹴ったボールが受けとめられアウトになると怒り出す変な奴で、私もののしられ嫌な思いをしたことが何度かあります。60年経ってどんな爺さんになったか確認したいし、何より昔の無礼を詫びてもらわなければなりません。しかしそれは、喜寿同窓会に持ち越されたのでありました。

上記と関係して、私がキリスト信仰をもった四十数年前、とても感動した話があります。ドラえもんのジャイアンのようなガキ大将A君にいじめられるので学校に行きたがらない息子に、クリスチャンの父親が「いっしょに祈ろう」と言います。すると息子は「今日A君に会わないようにしてください」とか「A君が病気になりますように」と祈りだします。これを聞いた父親は、「A君と仲良くなれますように」と祈ったらどうだろうと諭すのです。

話を読みながら冒頭のイエスの言葉が頭に浮かびました。他の福音書の並行箇所では「……敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(ルカによる福音書6章27節後半)とあります。社会情勢が変化し悲惨なイジメ事件が頻発する世の中ですが、クリスチャンの祈りの基本姿勢として、上記の逸話は今も心に残っています。

(H.M. 70代)


2024年8月11日日曜日

扉を打ち砕いてくださる神さま

主は青銅の扉を破り 鉄のかんぬきを砕いてくださった。

旧約聖書 詩編 107編 16節(口語訳)

「絶望などしない」などと強がりを言っている自分ですが、どうしても不安や心配が先に立って、目の前に立ちはだかるものを乗り越えられない時があります。そのような時には、壁を乗り越えるというより、乗り越える先につながっている、この扉を主が打ち破ってくださる、という力強いみ言葉に救われています。主は慈悲深く、扉を内側から優しく開けてくださる時もありますが、このように、鉄のかんぬきを砕くかのように私を鼓舞してくださる時もあります。そうして私は幾多の困難を乗り越えてきました。乗り越える必要がない、と主が思われるときは、扉はそのままです。それでいいのです。主は私の全てを知っておられ、私は主にお任せしているのですから。

(E.I. 60代)

2024年8月4日日曜日

恵みを数えて

わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。

旧約聖書 詩編 103編 2節(口語訳)

私たちを、いつも温かい眼差しで見守り、愛して下さっている神さまは、日々の歩みを守り導いて下さっています。

日々たくさんの恵みを与えられているにもかかわらず、その事を忘れ、他人と比べて自分にないものを羨んだり、物事がうまくいかないと、不平・不満をもらすことも少なくありません。

一日の終わりに、その日を振り返ると、神さまから与えられた恵みの数々に気が付きます。神さまに守られ導かれ、愛されている現実を感謝し、神さまを賛美せざるを得ません。

(H.K. 60代)