2026年6月6日土曜日

イエス君はいとうるわし

あなたは人の子らのだれよりも美しく あなたの唇は優雅に語る。あなたはとこしえに神の祝福を受ける方。

旧約聖書 詩編 45編 3節

讃美歌166「イエス君はいとうるわし」は私の大好きな讃美歌です。歌詞もメロディも素朴であると思いますが、なんの飾り気もないような歌曲がイエスさまを崇高に歌い上げ高らかに賛美しています。「花より美しく、月よりさやけし、風より香し、雪より清けし」とあるとおりです。

初めてこの賛美に出会ったのは、教会に通い始めて間もない中学1年生の時でした。私は教会学校でゲームをするよりも、賛美を歌ったり、説教を聞いたりすることに関心があり、この賛美に出会ったときも、「あめつちの主、神の御子で、人の子」であるイエスさまとはいったい何者なのだろうか、と大いに興味を持ちました。それは今でも変わりありません、いや、むしろますますわからなく、深く知りたいと思うようになりました。

イエスさまについて研究することは専門の方に譲るとして、私は詩編45編で歌われているように主を私の冠として、日々感謝をもって歩んでいけることに喜びを感じます。同じ思いが人々にいきわたり、栄光を自らにではなく主において謙虚と正義を駆って進軍することで平和が築き上げられることを祈ってやみません。

(E.I. 60代)


2026年5月30日土曜日

福音を届けるパイオニア

信仰とは、望んでいる事柄を確認し、見えない事実を確認することです。

新約聖書 ヘブライ人への手紙 11章 1節

1937年、「福音商会電機製作所」という、一風変わった社名の企業が誕生しました。「福音」と「電機」。全く異なる世界の言葉のようですが、創業者でありキリスト者の松本望さんは「製品の目的は、音を出すことではない。音によって人に喜びを届けることだ」と経営の理念をかかげました。音を通して、心に光と希望を届けたい。それは、まさに聖書が語る信仰者の姿です。

後に社名は「パイオニア(開拓者)」へと変わりました。その時、松本望さんはこう考えたそうです。「信仰者とは、道のないところに道を造る者である。」その象徴的な出来事として、世界で初めてレーザーディスクを開発した時の話が残っています。製品は全く売れず、社内に不安が広がりました。しかし彼は言いました。「全くの新製品なのだから、売れなくて当たり前だ。慌てるな!」彼には『まだ見えない可能性』が見えていたのではないでしょうか。(「回顧と前進」パイオニア(株)HPより)

それはまさに、ヘブライ人への手紙11章で語られる信仰者達の姿そのものです。

アブラハムは、行き先を知らずに旅立ちました。ノアは、雨一滴降っていない時に箱舟を造りました。信仰とは、今見えている状況が可能性を示しているかどうかではなく、「神は可能にしてくださる」と信じる歩みです。松本望にとって事業とは、信仰を『見える形』にした証でした。まさに信仰とは、心の中にしまい込んでおく理念ではなくて、生活の中に宿り、働きの中に現れ出てくるものです。神さまが与えてくださる、目には見えない心の喜び・希望・平和を形にしていくことです。目には見えないけれど、確かに与えられている神の愛を『福音の担い手、道を切り拓く者(Pioneer)』として、届ける者でありたいと思います。

(H.K. 60代)


2026年5月23日土曜日

AIでどこまで聖書が学べるか

どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。

自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。

新約聖書 ルカによる福音書 12章 15節, 21節

冒頭に一部を示した「愚かな金持ちのたとえ」全体をAIの助けを借りて説明するとこうなります。「ある金持ちの畑が豊かな収穫を得ました。彼は、収穫物をしまう場所がないため、古い倉を壊して新しい大きな倉を建てようと計画します。そして、『これで何年分もの蓄えができた。安心して食べて飲んで楽しもう』と自分自身に言い聞かせます。しかし、神は彼にこう告げます。『愚かな者よ、あなたの魂は今夜、あなたから取り去られる。そうしたら、あなたが用意した物は、いったい誰のものになるのか』。結果として、彼は富を蓄えただけで、神の前に豊かな者ではありませんでした。」

じゃ、富を蓄えることと神の前で豊かな者であることとは、どういう関係なのか。AIの答えはこうです。「この話は、富そのものが悪いのではなく、富に対する人の心構えと生き方を問題にしています。 どれだけ財産を築いても、命が終わればこの世の富は無意味になります。明日の命は誰にも保証されていません。重要なのは、この世で自分のためだけに富を蓄えることではなく、神が喜ばれる形で富を用い、神との関係を築くことです。聖書では、地上の所有物は神からの預かり物であり、私たちはその管理者であると教えています。このたとえ話は、人々が物質的な富に心を奪われず、『神の前に富む』こと、すなわち神の御心に従って生きることの重要性を説いています。」

深い学びができますね。聖書を学ぶ上でAIに限界はないのでしょうか。AI自身に答えてもらうとこうなります。「 AIはテキストを分析し、パターンを認識することは得意ですが、人間の深い感情、共感、霊的な経験を理解することはできません。聖書には人間の苦悩、喜び、希望といった感情的な側面が多く含まれており、これらを真に理解するには、人間特有の感情的なつながりが必要です。聖書は特定の古代の歴史的、文化的、地理的背景の中で書かれました。AIは膨大なデータから情報を抽出できますが、その時代の複雑なニュアンス、口承の伝統、象徴的な意味合いを完全に把握することは困難です。解釈には深い文脈理解が不可欠であり、解釈によって意味が大きく変わる場合もあります。聖書の理解は、個人的な信仰、霊的な探求、啓示といった主観的な体験と密接に結びついています。AIはデータに基づいて動作するシステムであり、人間のような信仰心や意識的な体験を持つことはできません。AIは倫理的なガイドラインや法的枠組みに基づいて動作するよう設計されていますが、聖書が提示するような複雑な善悪の判断や道徳的なジレンマに対して、人間のような深い洞察や責任ある判断を下すことはできません。AIによる解釈のプロセスは複雑で、その判断の根拠が人間にとって完全に理解できないブラックボックスになることがあります。聖書の解釈においては透明性と説明責任が重要ですが、AIではこれが保証されにくい場合があります。 結論として、AIは聖書研究のための強力なツールとして、例えばテキストの執筆者特定の分析や情報検索などに役立ちますが、聖書の全体的な意味合いや霊的な真理を完全に理解し、解釈することには限界があります。最終的な解釈と判断は、人間の役割として残ります。」(下線と太字は本記事作成者による)

すごいですね。冒頭の「愚かな金持ち」よりAIのほうが賢い。自分の限界をこれだけ理解しているわけですから。AIが示してくれた限界に心をとめ聖書の学びに取り組みたいと思わされたしだいです。

(H.M. 70代前半)


2026年5月16日土曜日

終末の徴

「人に惑わされないように気をつけなさい。・・・」

新約聖書 マタイによる福音書 24章 4節以下

マタイ・マルコ・ルカ三福音書が多くの言葉を使って、「終末の徴」について記録しているのは、弟子をはじめ当時の人達の大きな関心事であったからだと思います。現代の世界においても、各地に天災が起こり、地球上で戦争が絶えない現況に、同じような緊張を感じます。

誰でも恐怖を感じると冷静でいられなくなります。しかし、どうして良いかも分かりません。ただ、それに続くマタイ25:31~46のみ言葉に希望をみます。

人の子(イエス様)の裁きは、「さぁ、わたしの父に祝福された人たち」と、呼びかけ「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と、永遠の命に預からせてくださる道が告げられているからです。

どのような時にも、人に惑わされる事なく、主を見上げ、祈りつつみ言葉に生かされて行きたいと思います。

(M.I. 80代)


2026年5月9日土曜日

恵み多き劣等生

弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。

新約聖書 ルカによる福音書 8章 24節

人生には「おぼれそうになる」時があります。多忙、災難、失敗、etc.風吹きすさび荒波となる時がある。

イエス様と一緒に船出する人生、湖は自分が暮らしていく世の中、その世の中を渡るについて荒波となれば人生沈没かと危うくなる。そんな時、イエス様は風と荒波を叱り凪にして下さる。しかし、それだけならただのご利益信仰、自分に都合のいい益を得るだけ。それは恵みではない。

凪になった後、イエス様は「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(ルカによる福音書8章25節)と従う厳しさを問われる。しかし、神様に完璧、完全に従う、あるいはそのように日々努められるほど立派な優等生にはなれない。

そんな劣等生にさえ、振り返れば、神様の備えがあった。辛くて、逃げもし、放り出しもし、でもその時の経験が後に与えられた人生の役割にあって自らが意図していない支えになっている。

救われて、救われて、でも神様に完全に従い生きることができない。この繰り返しが救い主イエス・キリストが在ることを揺ぎ無く確信させてくれます。このことこそ神様の恵みと受けとめています。

(T.M. 70代)


2026年5月2日土曜日

恐れで身動きがとれなくなるとき

あなたを造られた主は 今、こう言われる。
恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。

旧約聖書 イザヤ書 43章 1節

私は他者に対する恐怖に蝕まれ、どうしていいかわからなくなってしまうことが度々あります。しかし、神さまはそんな私に何度も「恐れるな」と語ってくださいます。

以前、仕事のプロジェクトに参加するかどうか、とても悩んだことがありました。参加者の中に、私に冷たい態度をとる年上の方がいたからです。顔を合わせるたびにきつい言葉を受け、次第にその方が怖くなり、「自分はいない方がいいのでは」と思うほど心が疲れていきました。

それでも、プロジェクトに参加すれば私に与えられた役目があり、本当は挑戦してみたい気持ちもありました。けれど、その方に対する恐怖に打ち勝てず、参加の有無について返事をできずにいました。

最終的に、そのプロジェクトには参加しました。参加を決めた理由は、「神さまは恐れによって導く方ではない」この確信にたどり着いたからです。

誰がどう言おうと、私は神さまのもの。役に立つかどうかではなく、神さまが名を呼んでくださる、この私。恐れを抱いている自分を認めながら、しかし、恐れから生じる感情で選択するのではなく、神さまが私を呼ばれる方へ歩いて行ける私になりたいです。

( 30代)


2026年4月25日土曜日

「The Terrible Twos」と「善悪の知識の木」

主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

旧約聖書 創世記 2章 16~17節

数年前、知り合いの家族と車で出かけました。その家族には2歳くらいの女の子がいました。寒い冬の日で、ちょうど家に帰ろうとした頃に雪が降り始めました。女の子のお母さんが娘に「さあ、外に出るわよ。コートを着なさい」と言いました。すると女の子は「コートなんていらない!」と答えたのです。

2歳児はとても手がかかるものです。自分が親よりも自分のことをよく知っていると思い込んでいるのです。親は子どもが安全で健康に過ごすために何をすべきかをよく知っているにもかかわらず、子どもは親の言うことを聞こうとしないことがあります。日本ではこれを「反抗期」と呼び、英語では “The Terrible Twos”と呼びます。

私たちは皆、2歳児のようなところがあると思います。神は私たちが健康で平和な人生を送るための最善の方法をご存知です。人生に必要な基本的な原則はすべて聖書に書かれています。しかし私たちは、自分たちの方が神よりも物事をよく知っていると思い込んでいる。私たちは神が何を言おうとも聞こうとしない。

創世記に記されているアダムとエバの物語は、その理由を説明しています。神はアダムとエバをエデンの園に置き、「園にあるどの木の実も自由に食べてよい。しかし、善悪を知る木の実だけは食べてはならない」と告げました(創世記2:16b-17a)。蛇はエバを誘惑し、「神は、あなたがたがそれ(善悪を知る木の実)を食べると、目が開けて、善悪を知るようになり、神のようになることを知っている」と言いました(創世記3:5)。

アダムとエバは善悪を知る木の実を食べることを選びました。そうすることで、彼らは神に「私たちは自分たちで神になりたい。何が自分たちにとって良いことで、何が悪いことかを自分たちで決めたい。あなたのやり方ではなく、自分たちのやり方で物事を進めたい」と告げたのです。言い換えれば、彼らは2歳児のように振る舞うことを選んだのです。アダムとエバ以来、人類は2歳児のように振る舞い続けています。それが、歴史の始まり以来、世界に苦しみが存在する理由です。私たちが神の道が私たちの道よりもはるかに優れていると認識するまで、その苦しみは続くでしょう。

(C.M. 70代)