2024年11月24日日曜日

洗礼に導かれた御言葉

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 10章 9節~10節

両親の反対で、しばらく教会へ毎週通わせてもらえない時期がありました。でも、イエス様を信じてさえいれば、いつか自分が死ぬまでに、両親の了解を得て洗礼を受けられれば良いのかな。と、その時はのんびり思って過ごしていました。ところが、ある日突然『やはりまず自分だけでも洗礼を受けよう!』『今、受けなければ、急に死ぬことになった時にきっと後悔する!』と、いてもたってもいられない気持ちにさせられた御言葉は、正にこの言葉でした。

心の中で信じていれば、イエス様はきっと解っていて下さるだろう、という思いだけでは何かが足りないのかもしれない。反対されていた為にいつも心に隠していて、私は人前できちんと、『イエスは主である』と公に言い表す行動をしていないから、まだ救われていないのだ。それが〈洗礼を受ける〉ということなのかもしれない。と気づかされて衝撃を受けたのでした。

無事に洗礼を受けさせて頂き、その時からようやく私は、神様に罪を許して頂いて救われました。それから27年経ち、父は今年の7月に97歳で亡くなりました。教会には通いませんでしたが、神様に救われて感謝と平安の内にあった私をずっと見ていて、内心は許してくれていたように思います。来年90歳になろうとしている母も、私が毎週教会に行くことを、父と同様に以前ほどあまり反対しなくなってきました。残された母が、やがて神様を信じて『イエスは主である』と公に言い表して私と同じ様に救われる日が訪れることを祈りつつ、日々神様の御言葉を求めていきたいと思っています。

(50代)


2024年11月17日日曜日

神さまがともにいてくださる

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。

新約聖書 ヨハネによる福音書 15章 12節

神さまは、どれほどわたしたちを愛してくださったのでしょう。イエスさまをこの地上にお与えくださり、そのお方は、わたしたちの罪のために十字架におかかりになり、ご自分の命を捨ててくださいました。これほどの大きな愛がほかにあるでしょうか。とうていことばでは表しきれません。本当に本当に感謝です。わたしの心の中にはいつもこの聖句があり、支えです。そして自分にできることはお返ししなければと思います。人はひとりでは生きていくことはできません。いつも神さまがとなりにいてくださいます。助け合い、思いやりあい、自信をもって日々過ごしていきたいと思います。

(H.K. 60代)


2024年11月10日日曜日

望みを抱く

重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。

新約聖書 マルコによる福音書 1章 40節

イエス様に願う。絶望の底にいる人が「願い」をもつことができるのか。

願ってもかなえられることはない――願うことすら愚かに思える。そんな境遇に置かれたことが幾度となくあります。

病のせいで汚れているとみなされ、蔑まれ、社会から排除されたところで生きていたこの重い皮膚病の人。人としての尊厳と権利をことごとく奪われていたこの人は、イエス様のところに来て「願った」。わたしが当時の社会で重い皮膚病を患っていたら、この人のように「願う」ことはできない気がします。イエス様と出会えず、「願う」こともできず、地上の生を終えた人々がいたこともまた想像するに難しくありません。

「イエス様」の噂をこの人はどこかで聞いたのだと思います。その「御名」が「望む力」を与えたようにわたしは感じます。希望する力、生きようとする力、交わりを求める力、自分は神に見捨てられていないと信じようとする力。

わたしが日々生きるこの街にも、希望を失っている人がたくさんいると思います。わたしもその中の一人です。

イエス様の御名が、望みをもてないすべての人の耳に届きますように。

そして、イエス様の御名の力を共に知ることができますように。

(Y.S. 30代)


2024年11月3日日曜日

思い悩むな

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

新約聖書 マタイによる福音書 12章 34節

20年くらい前の礼拝説教で、クリスチャンは長生きする人が多い。頌栄教会も、元気な高齢信徒が多いと言われたことを覚えている。その時の礼拝出席者を眺めまわすと、80歳代、90歳代の人が姿勢も良く説教に聴き入り、立ったり座ったりして唱和したり賛美歌を歌ったり、かなりの運動量をこなしておられる。健康を維持していくためには、長い積み重ねがあってのことではあるが、肉体的なことばかりではない。心の健康に聖書のどの部分を読んでも教えられ、気づかされることが多い。

この聖句は取り越し苦労しやすい自分の性格に警鐘を鳴らし「私が一緒にいるのに、何を心配しているの? 」と言ってくださっていることに気がついた。それ以来、私に必要なものは神様が御存知で、神様が用意して整えてくださると信じているので、この言葉に支えられて、日々歩んでいくことが出来ている。 

(H.K. 70代)



2024年10月27日日曜日

不思議な言葉

わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。

新約聖書 ヤコブの手紙 1章 2節

なんとも不思議な言葉です。私たちの通常の考えでは、試練は喜びにはつながりません。しかし、聖書は、「いろいろな試練に出会うときには、この上ない喜びと思いなさい。」と勧めるのです。

なぜなら、試練によって信仰が試されることは悪いことではないからなのです。信仰が試される時、私たちは忍耐をしなければならないのですが、神さまはその忍耐を尊いものと見てくださいます。そして、試練によって培われる信仰による忍耐を通して、神さまは私たちに素晴らしいものをくださいます。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」(ヤコブの手紙1章12節)

試練を喜びと思うことは、試練の先に神さまが用意してくださっている祝福を見て、希望を持つことなのかもしれません。この聖書の言葉は、人間の常識にはない不思議な言葉ですが、苦しい時に私が慰めを感じた言葉でした。この言葉によって私は、試練の意味を信仰によって捉える次元があるのだということを示されました。 

(K.T. 40代)


2024年10月20日日曜日

立ち上がらせてくださる方

怠け者よ、いつまで横になっているのか。いつ眠りから起き上がるのか。

旧約聖書 箴言 6章 9節

この聖句をいつも手帳の最初のページに書いています。新しい手帳に変わる時も、まず最初にこの聖句を書き写します。

いつも自分のことばかりで、気がつくと天の神さまではなく、自分中心の生活をしてしまう私です。しかも、体調を崩すと、休むのはいいと思うのですが、だんだんと本当に体調が悪くて横になっているのか、それとも単に怠け者の性格によるものなのか自分でも判断できなくなってくる時があります。自分自身を疑いながらも、つい自分に甘く弱さに目をそらせて過ごしてしまいます。

そんな時、改めてこの聖句を目にするといつもドキっとします。真実を見る主のまっすぐな目を感じるのです。

主に隠し事はできません。なんでもご存知で、私のずるさや弱さもすべてご存知の方の目は、意識するともう避けることはできません。

主のまなざしと声を感じながら、次第に冷静に自分を見ようと、自分の姿勢をきちんと正したいという意識が戻ってきます。この聖句によって、何度弱い自分を直視し、「立ち上がろう」という気力を与えられたことでしょう。

私を「支える」というよりも「叱咤激励し、手を引っ張り、背中をぐっと押して起き上がらせてくれる」大切な聖書の言葉です。

(N.T. 50代)


2024年10月13日日曜日

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。

新約聖書 ヨハネによる福音書 1章 16節

教会員の方から、一冊の本を頂きました。『みことばの糧 日々新たに』(O.ハレスビー著 日本キリスト教団出版局)という本です。

聖書を読むことさえできないときがありました。それは、洗礼を受けた後、自分の罪深さを実感する、私にとって大きな出来事がいくつかあったからです。そんなとき、この本の最初に書かれていた御言葉が目に留まりました。

このような私にも、神様は、恵みを与えて下さっています。教会員の方を通して。本を通して。礼拝のお話を通して。様々な方法で、神様は手を差し伸べて下さっています。

恵みの上に、更に恵みを受けた。

たとえ、人間が失ったと感じる時でさえも、絶え間ない恵みを神様は与え続けて下さっている(過去も、今も、未来も)と語りかけて下さっています。それにふさわしいから受けるのではなく、神様が日ごとに新しい恵みと慈しみを運んでくださいます。神様のなさることを信じ、ゆだねて歩んで行きたいです。

(E.O. 40代)