2022年12月11日日曜日

私に届いた神の愛

 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

新約聖書 ルカによる福音書 2章11節(新改訳)

私が初めて教会でのクリスマスを過ごしたのは、1950年、中学一年生の時でした。当時、八戸に住んでおり、母と妹たちと雪の降る中を教会へ行ったことは、懐かしい思い出です。戦後の色のない世界に暮らしていた私にとって、外国の教会から届いたクリスマスカードの絵の世界は、とても楽しいものでした。

その後、父の転勤、結婚してからは夫の転勤で教会のない土地に暮らしましたが、娘が小学校に上がる頃に、私は再び教会に通えるようになりました。そして、犬養道子著『旧約聖書物語』と『新約聖書物語』を読みました。神がひとり子を賜るほどにこの世を、そしてこの私を愛してくださったこと、その神の愛が圧倒的に心に迫ってきました。

そして迎えたクリスマス、娘が散らかしていた聖句カードを見た時、今まで知っていた聖句でしたが、本当にその通りであったとハッとさせられ、感謝いたしました。。

(M.T. 80代)





2022年12月4日日曜日

新しい希望

 見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。

旧約聖書 エレミヤ書 23章 5節

神さまは私たちに新しい希望を与えてくださいました。それは、逆転した新しい希望でした。ユダの王たちへの審判の言葉。その結びに記されていた、ダビデの王座につく者はもはやいないという言葉。しかし、その日、若枝が起こるのです。切り株から新しい芽が芽吹くのです。

その日とは、イエス・キリストがお生まれになった日のことです。神の御子なるキリストは王として正義と恵みをもってこの地を治めるために来られました。それゆえ、クリスマスは私にとって大きな慰めです。希望をもって生きることのできる根拠です。この世界には悲しいことや心を痛めることがあまりにも多いです。しかし、この世界は神さまから見捨てられた世界ではありません。神の御子キリストが来られた世界なのです。

キリストはやがて再びこの世界に来られます。その日を待ち望みつつ、今、私たちは安心して王なるキリストの支配に身をゆだね、希望と慰めの中に憩うことができるのです。

(K.T. 40代)







2022年11月27日日曜日

「受容」すること

キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 15章 7節

「受容」とは、社会福祉の基本原則である。「受容」、そして「共感」は、学生の頃に叩きこまれ、現場で働き始めて以来、常に意識するよう努めてきた。

十数年前、耳鳴りがひどくなった。耳鼻科では特に異常はなく、安定剤が処方された。服用しても耳鳴りは治らなかった。原因として思い当たることがあった。相談業務で2時間近く利用者の方の話を聴いてから、ひどく疲労を覚えていた。その方にとっては切実な相談であった。私はひたすら傾聴し「受容」に努めた。私の耳鳴りは、どうもその翌日から始まったらしかった。さらに良くないことには、相談を聴くたびに吐き気をもよおすようになった。その時はじめて、私は(もうこれ以上は受容できない)と思った。キリストには出来ても、人間の出来ることではない、と私は思った。  

私は自身の限界を知り、無力を知ってからも、傾聴し続け「受容」に努めているが、以前よりも、「謙虚」ということを少しは意識するようになった。そして、どこか相談の質が違ってきた気がすると同時に、気持ちにも余裕が生まれたように思う。いつのまにか、耳鳴りも吐き気もどこかへ消えていた。おそらく、神様は最初からわかっていたのだろう。人間の無力をわかったうえで、あえて「相手を受け入れなさい」と言われたにちがいない。

(H.T. 40代)



2022年11月20日日曜日

心の糧

あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。

旧約聖書 詩篇 119編 105節

私(87歳)の日課は朝起きて、初めににぼしを5,6本40秒チンしてカリカリにし、前の晩に水につけておいたコンブと一緒にその水を飲みながら食べます。30年くらい続けています。元気で一人暮らしです。娘が「わたしもお母さんのようにまねしてみたけど、まずくて三日しか続かなかった!」と言っています。

もう一つの日課は一日の家事の始まりの前に、旧・新約聖書を1日1章(全部読み終わるのに約3年くらいかかります)、1990年から読み始めて今年で11回目になりました。読み返すたびに日付と赤線の引いてあるところが増えてゆきます。悲しかったこと、うれしかったことが短く書いてあり、こんなことがあったのだと思いだされます。このあと何回読み返すことができるのかと思いつつ聖書の言葉を心の糧に、にぼしを体の糧に残り少なくなった人生を感謝しつつ過ごしています。

(K.N. 80代)



2022年11月13日日曜日

愚かな者になりなさい

 本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 1章 18節

私にはこの言葉が単に知恵をひけからさず謙虚であれという諭しには聞こえてこないのです。もちろん謙虚さに欠け反省しきりです。一方、この言葉で『愚かな者』になればいいのだとほっとします。どう愚かかというと、キリストの十字架と復活を愚直に信じることに決めたのです。このことを知恵で納得や論破するのは辛いです。確かに知恵は生きていくのに欠かせません。が、続く19節には『神は、知恵のある者たちを/その悪賢さによって捕らえられる』とあります。知恵は使い方次第で自分を『悪賢さ』へ向かわせます。また自分が『悪賢さ』に騙されるのもいけない。いずれにせよ手前で止まることができたとき、それは自分の内に住んでいる神の霊が引き止めた証です。それを救い主がともにあることへの愚直な信仰が気づかせてくれています。

(T.M. 60代)



2022年11月6日日曜日

真理とはイエスなり

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 8章 31~32節

国立国会図書館に「真理がわれらを自由にする」という銘が掲げられている。求道中に知り、「国会図書館に聖書の言葉!」と感動したものだが、信仰が与えられてから該当箇所を読むと、明らかに誤用とわかる。和食レストランが「人はパンだけで生きるものではない」と看板を出すほうが、まだ罪がないというか、ジョークとして好ましい。

聖書が言う「真理」とはイエス御自身である。この御方は「道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6a)。それゆえ、聖書を読む際はイエスを念頭に、十字架と復活の福音と関連づけて理解する必要がある。信仰の道に迷ったら常にここに立ち返り、イエス御自身に支えられて再出発したいものだ。

(H.M. 60代)


2022年10月30日日曜日

未来を握っておられるイエスさま

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 4章 6節~7節

かつて私が将来について、とてもとても不安がっていたとき、あるクリスチャンにこんなことを言われました。「人間は、過去を見れば後悔し、未来を見れば不安になる。でも、未来を握っておられるのはイエスさまなんだよ。」と。それを聞いて、ほっと安堵しました。

私たちはただ、いつも共にいてくださる神さまに、どんなことについても、感謝を込めて祈り、願い、求めているものを打ち明けていけばいいのだと、この聖書の言葉は語りかけます。生きていると立ち向かえないんじゃないかと思うような出来事も起こりますが、それでも、毎日毎日、神さまに祈りながら歩んでいくときに、たしかに天からの平安によって守られた、という経験をしてきました。これからも、未来を握っておられるイエスさまに信頼して、明日も生きようと思います。

(K.T. 40代)