2026年4月18日土曜日

主の前に静まる

恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。

旧約聖書 出エジプト記 14章 13

長い人生で順境もあれば逆境もあります。いざ逆境に至れば、思い悩み、未来に対する恐怖が生まれます。私も数々の逆境で心を乱し、未来に対する恐怖にさいなまされてきました。しかし、私が味わったものなど遥かに凌駕する恐怖を味わった人々がいました。エジプトを脱出したイスラエルの民です。

エジプトで奴隷のような生活をしていたイスラエルの民はモーセに率いられてエジプトを脱出し、新たな土地に向かいました。しかし、エジプト王の追っ手に追いつかれ、前は海、後ろは敵の軍勢という逃げ場のない絶体絶命の状況に陥りました。このときに、主は言われたのです。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」と。そして、有名な「葦の海の奇跡」(モーセが海の水を割った奇跡)を見ることとなります。こんな誰もが絶望するような状況でも、神は「恐れるな」、「落ち着け」と言ってくださり、そうすれば、主の救いを見せてくださると宣言されたのです。

この聖句に出会ったとき、私の未来への恐怖は、大きく緩和されました。忙しい日々の中、あえて神の前で静まり、神が私に起こそうとしている救いを落ち着いて見つめる。これこそが私にとって、五里霧中でも一歩踏み出す原動力となっています。

(R.K. 40代)


2026年4月11日土曜日

イースターのグリーティングカード

イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 11章 25

今年のイースターを前に、ポストの中に一通の懐かしい風景のハガキを見つけました。それは、かつて私が信仰の基礎を学んだ母校から届いたイースターのグリーティングカードでした。

カードに記された力強いみことばを読み返しているうちに、私は学生のときを思い出しました。教会で「復活と命」の約束を初めて知った時の感動がありました。そのときの記憶が、あたたかい春の光とともによみがえってきたのです。

卒業以来、環境は変わり、時間の流れの中でたくさんのうれしいこと、大変と感じることも経験してきました。しかし、主が与えてくださる「命」は決して色あせることがないと教えて下さっています。むしろ、日々の生活の中で何度も立ち止まり、弱さを覚えるその度に、この「復活」の力によって新しく生かされ、今日まで運ばれてきたのだと感じます。

母校からのカードは、私にとって、神様の変わらぬ愛を再確認させてくれる、神様からの温かいプレゼントだと思います。今年もイースターを共にお祝いできることを神様に感謝致します。 

(E.O. 40代)





2026年4月4日土曜日

キリストの体と、その部分

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一  1章27

私たち人間が「キリストの体」って…??若い頃に初めて読んだ時には何かピンときませんでしたが、年を経て、人間関係においてもいろいろな経験を積むうちに、「ああ、こういうことなのかな」というのが少しずつ見えてきた気がします。

直前の12節~26節にあるように、私たちは目鼻口や手足など働きの異なる各部分が集まって一人の体を構成しているのと同様、一人一人それぞれ個性豊かな人間が集まって社会を構成しています。体を構成する部分はそれぞれ大きさも形も働きも異なっていて、どれ一つとして「なくてもよい」部分がないのと同様に、私たち一人一人もまた、見た目はもちろん性格も能力も皆異なっているけれども、誰一人として「いなくてよい」人はいません。しかも体の各部分がそうであるように、それぞれが協調して働かなければ、主の教えを具現化する「体」としての社会が機能しない、ということなのでしょう。そして「体」の一部である私たち一人一人が、キリストによって「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(13節)

世界を見渡せば人種や文化や宗教が異なる多様な人たちがおり、また地球全体を見れば数えきれないほど多様な生物がいて、誰にも(どの生物にも)かけがえのない役割や働きがあります。私たちはキリストによって皆一つに結ばれ、それぞれの賜物を生かして与えられた恵みをお返しするため共に働くことによって、神の国が実現するのですね。

今でいう「インクルーシブ」などという概念がおそらくなかった2000年も前に、主の恵みについてこのようにわかりやすく手紙に書いてくれたパウロさんにも心から感謝です。 

(N.N. 60代)


2026年3月28日土曜日

クリスタルのような空気

生き物の頭上には、恐れを呼び起こす、水晶のように輝く大空のようなものがあった。

旧約聖書 エゼキエル書 1章 22

日々のつまらないストレスや心がズタズタになるような出来事にさいなまれ、心に嵐が荒れ狂った時、ふと神様の持っておられる、より崇高な目標、より偉大な目的、より高い使命を思った。その瞬間に、そこに水晶のようにクリスタル・クリアな、どこまでも澄んだ、全く微塵の風もない清涼な世界があるのを感じた。それは私の近くに存在し、そこにいることが可能なのだということを感じた。

そのピュアすぎるほどにピュアな空色の空気はそこにあり、全く揺るがされない。それ以来、それまであまり好きでなかった水色や空色が少し好きになった。神様のもとに心を上げ、神様の持っておられる壮大なご計画、高い召し、栄光に心を留め、その高度に生きられることを思い出させてくれるから。

(A.O. 40代)


2026年3月21日土曜日

季節ごとの神様の恵み

神のなされることは、すべて時にかなって美しい。

新約聖書 伝道者の書 3章 11節 (新改訳)

日ごとに暖かさが増してきました。ふと気づいたら、冬の時期、一見して枯れていたように見える紫陽花に、新芽が顔を出していました。この季節になると、自然と心に浮かんでくる歌があります。讃美歌21の575番「球根の中には」です。冬の間、何も起こっていないように見えます。しかし、土の下では神様が私たちのしらない間に、静かに、やさしく準備をして下さっていました。

私たちは、時として、冬のように動きが止まって感じる時期があると思います。しかし、新芽のように、神様は私たちの「目に見えない時間」の中に、様々なやさしい準備をして下さっています。

私たちがこうして新芽に目を留めることができるのも、神様の慈しみの中に生かされているからだと思います。 歌詞の中に「いのちのおわりは いのちのはじめ」ということばがあります。私たちが何かの限界を感じる時にこそ、神様は良いものを準備して下さっていると思います。目に見える花だけでなく、その下にある神様の深い準備に感謝したいと思います。

(E.O. 40代)


2026年3月14日土曜日

逃れる道の温かさ

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一  10章 13

今までの歩みを振り返ると、苦しい時期というのは幾度かありました。その都度、心はだいぶ痛みました。「一体、なぜ、そのようなことが起こるのか」と、苦しみの意味がわからず、そのことがまた苦しみとなったりしました。苦しみの中で、「神さまは私を守ってくださらなかったのではないか」という思いになったこともありました。神さまを見失ってしまったのです。それでも、神さまはいつも人を備えてくださり、どんなに苦しくても私が生きていけるようにしてくださっていました。だから、今があります。

ある人は、その時の私に必要な言葉をかけてくださいました。また、別の人は、とにかく私の怒りや悲しみに耳を傾け、混乱した私を受け止めてくださいました。そして、一緒に祈ってくださいました。または、何かを私に言ったりはしなくても、私と一緒に心を痛めてくださっていることが、その存在から伝わってくる人もいました。私の知らないところで、私のために祈っていてくださっていた人も何人もいたことでしょう。神さまは確かに、試練に耐えられるように逃れる道をも備えていてくださいました。

また、ある時は、天からの平安としか言いようのない平安で包まれたこともあります。天の喜びを垣間見せてくださったこともありました。不思議なことですが、苦しみのさなかにおいても、このような平安や喜びは与えられるのでした。今、見えていることがすべてではなく、神さまにはすべてのことが見えていることも、深い慰めとなりました。そして、聖書の言葉から、希望をもって待ち望むことを教えられました。

これらの経験から、苦労することは悪いことではないことを知りました。私は試練を通して、まわりの人々の愛に支えられていることを知り、神さまの愛を知りました。

(K.T. 50代)



2026年3月7日土曜日

愛し、究めてくださる方

主よ、あなたはわたしを究め
わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り
遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け
わたしの道にことごとく通じておられる。
わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに
主よ、あなたはすべてを知っておられる。
前からも後ろからもわたしを囲み
御手をわたしの上に置いていてくださる。

旧約聖書 詩編139編 1~5

天の神様は、私が生まれる前から私を知り、守り愛して導いてくださっています。

これまで、数えきれないほど多くの願いを祈り求めてきました。

祈りは必ず聞かれています。すぐに神様からのお返事がいただけるもの、しばらく待たされるもの、忘れた頃にようやくお返事をいただけるもの、様々ありますが、すべての祈りは聞かれています。

かなり前から祈り求めていた祈りで、そのお返事がよくわからなものがありました。最近になってあらためて思い返し、もしかしたら私の努力が足りないのか?何か私の方に要因があるのでは?と思いめぐらしていました。

そこで気づいたのです。主は私のもっと奥底の、私自身認識していなかった、ずーっと奥深いところにくすぶっていた、私の「真の願い」の方を見ていらしたことを。

もともとの私が願っていた通りになっていたら、きっと、この「真の願い」に気づかず、いつまでたっても、得体のしれない、ドロ沼にはまったままのような、重く暗いものを胸に抱えたままだったかもしれません。

正に、天のお父様はわたしを究めてくださっていました。そして、私が意識していなかった「真の願い」へと私を導いてくださいました。そのことに気づいてから、いつも振り子時計の大きな振り子が左右に揺れるように不安定だったわたしの心に小さな芯ができたように感じました。

祈り求めるとき、いつも思うのは、わたしがベストだと思っていることが本当にベストとは限らない、主は常に主のベストをわたしに与えようとしてくださっている、ということです。

結果が思い描いていたものと違っていたとしても、私を私自身よりも究めてくださっている主を信じてゆだねていけることを幸せに思います。日々、主の愛を感じるたびに、感謝と讃美が心からあふれてとまりません。ハレルヤ!

(N.T. 60代)