2026年6月27日土曜日

伴ってくださる神

神御自身、『わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました。

新約聖書 ヘブライ人への手紙 13章 5節

イスラエルの民は神の恵みを受け喜びの生活をしているうちに自分たち人間中心の生活に陥り神から離れ裁きを受け、また悔い改め神中心の生活へと導かれる。そしてまたしばらくすると神から離れる。旧約聖書を読むとそれの繰り返しの記事で時々うんざりすることがあります。

翻って自分の信仰生活はどうか。日々聖書のみ言葉に聞き祈る毎日を過ごしながら、一方でいつの間にか自分の思いのままに過ごして行き詰ってしまう。そしてまた神さまに向かう。これの繰り返しをしている。まさに僕自身もイスラエルの民そのものではないか。こんなことで神さまを信じていると言えるのか、救われるのかと思い悩む。

そのような中で冒頭の聖書のみ言葉に出会いました。僕のような罪深くいい加減な信仰者をも神さまは見捨てられることなく、どんな時にもそばにいてくださると言われます。ずっとこのみ言葉に支えられています。

教会の交わりに加えられ多くの兄弟姉妹に支えられている現実はそのことなのだとしみじみと思わされています。

(K.O. 80代)


2026年6月20日土曜日

朝ドラの力・福音の力

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 1章 18節

NHK連続テレビ小説(通称「朝ドラ」)のファンで、最新のものと旧作の再放送を夫婦でよく見ます。昨年再放映された『カーネーション』の主人公(役名=小原糸子)のモデルは、ファッションデザイナーであるコシノ三姉妹の母親で、その晩年を夏木マリが好演しています。活気あふれるドラマの中で、以下の場面が特に印象深いです。

自分が通院する大阪・岸和田の病院から糸子は、患者を楽しませるために企画中の看護師ファッションショーを助けてくれないかと相談されます。興味を抱いた糸子は、看護師だけでなく患者もショーに出演させてはと持ち掛けますが、患者が体調をくずしては大変と看護師長は申し出を断固拒否します。そこで糸子は、次のように話して彼女を説得するのです。

「おたくらは医療の力信じて毎日仕事してはるやろ。うちは洋服の力信じて仕事してきましたんや。洋服には、もの凄い力があるんですわ。ほんまにええ服には人を慰めることも、勇気づけることも、元気づけることもでける。うちは自分の洋服でおたくらの力になりたいだけや。患者さんにええ服着て、ライト浴びて歩いてほしい。それをほかの患者さんらに見てほしい。医療と何の関係もないと思うかもしれへん。けど、ほんなことが人に与える力を、うちはよう知ってるんですわ。半分、いや三分の一、いや一人でもええわ。希望する患者さんを参加させちゃってください。このとおりや(と糸子が深々と頭を下げるところにエンディングテーマが流れ、<つづく>のテロップが出る)」。

糸子の堂々たる“演説”を聴きながら私は、クリスチャンは何の力を信じて生きているのだろうと思いました。それは、冒頭に記した「十字架の言葉」ではないでしょうか。子供用のリビングバイブルではこの聖書個所を次のように訳しています。「『イエス様は私たちを救うために死んでくださった』ということばが、滅びゆく人々にはどんなに愚かに響くか、私(=伝道師パウロ)にはよくわかっています。しかし、救われた私たちは、これが神の力そのものであると認めるのです。」

糸子が「洋服」の伝道師なら、クリスチャンは「十字架の言葉」の伝道師です。その伝道が力を発揮するには、「十字架の言葉」に神の力があることを体験的に知り、心底それに信頼している者として語る必要があります。上に引用した朝ドラの一場面が改めてこのことに気づかせてくれました。

(H.M. 70代前半)


2026年6月13日土曜日

帰り道の電車で祈ること

ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください
わたしが清くなるように。
わたしを洗ってください
雪よりも白くなるように。

旧約聖書 詩編 51編 9節

帰りの電車では、最寄り駅に着く4駅ほど前から、ほぼ確実に座ることができます。ホッと座席に腰を下ろすと同時に、心の中で最初に祈るのは「わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように」。その後、詩編51編全体を静かに祈ります。

頌栄教会の日曜日の礼拝では、前半に「罪の告白」として詩編51編を牧師と会衆が口語で唱えます。私にとっては、日曜日だけでなく、最寄り駅までの4駅が、毎日「罪の告白」の時間です。

「言わなくていいことを言ってしまった」「上から目線の態度をとってしまった」「人より自分を優先してしまった」「自分の苛立ちを人のせいにしてしまった」・・・。電車の椅子に腰を下ろすとき、体の重さだけでなく、心についた泥の重さも一気にのしかかってきます。

幼い頃、東北に住む祖父母との雪遊びを毎年楽しみにしていた私は今でも「雪」が好きです。「雪」に憧れます。

東京では、あまり歓迎されない「雪」ですが、それでも、雪に覆われた景色を見ると、神さまの創造はなんて美しいのだろうと思います。

幼い頃に祖父母と一緒に見た、美しく清らかで、楽しかった雪景色を思い出しながら、毎日毎日、真っ白な心になりたい、軽やかな心になりたい、切実にそう祈る私の帰り道の電車です。

(30代)



2026年6月6日土曜日

イエス君はいとうるわし

あなたは人の子らのだれよりも美しく あなたの唇は優雅に語る。あなたはとこしえに神の祝福を受ける方。

旧約聖書 詩編 45編 3節

讃美歌166「イエス君はいとうるわし」は私の大好きな讃美歌です。歌詞もメロディも素朴であると思いますが、なんの飾り気もないような歌曲がイエスさまを崇高に歌い上げ高らかに賛美しています。「花より美しく、月よりさやけし、風より香し、雪より清けし」とあるとおりです。

初めてこの賛美に出会ったのは、教会に通い始めて間もない中学1年生の時でした。私は教会学校でゲームをするよりも、賛美を歌ったり、説教を聞いたりすることに関心があり、この賛美に出会ったときも、「あめつちの主、神の御子で、人の子」であるイエスさまとはいったい何者なのだろうか、と大いに興味を持ちました。それは今でも変わりありません、いや、むしろますますわからなく、深く知りたいと思うようになりました。

イエスさまについて研究することは専門の方に譲るとして、私は詩編45編で歌われているように主を私の冠として、日々感謝をもって歩んでいけることに喜びを感じます。同じ思いが人々にいきわたり、栄光を自らにではなく主において謙虚と正義を駆って進軍することで平和が築き上げられることを祈ってやみません。

(E.I. 60代)


2026年5月30日土曜日

福音を届けるパイオニア

信仰とは、望んでいる事柄を確認し、見えない事実を確認することです。

新約聖書 ヘブライ人への手紙 11章 1節

1937年、「福音商会電機製作所」という、一風変わった社名の企業が誕生しました。「福音」と「電機」。全く異なる世界の言葉のようですが、創業者でありキリスト者の松本望さんは「製品の目的は、音を出すことではない。音によって人に喜びを届けることだ」と経営の理念をかかげました。音を通して、心に光と希望を届けたい。それは、まさに聖書が語る信仰者の姿です。

後に社名は「パイオニア(開拓者)」へと変わりました。その時、松本望さんはこう考えたそうです。「信仰者とは、道のないところに道を造る者である。」その象徴的な出来事として、世界で初めてレーザーディスクを開発した時の話が残っています。製品は全く売れず、社内に不安が広がりました。しかし彼は言いました。「全くの新製品なのだから、売れなくて当たり前だ。慌てるな!」彼には『まだ見えない可能性』が見えていたのではないでしょうか。(「回顧と前進」パイオニア(株)HPより)

それはまさに、ヘブライ人への手紙11章で語られる信仰者達の姿そのものです。

アブラハムは、行き先を知らずに旅立ちました。ノアは、雨一滴降っていない時に箱舟を造りました。信仰とは、今見えている状況が可能性を示しているかどうかではなく、「神は可能にしてくださる」と信じる歩みです。松本望にとって事業とは、信仰を『見える形』にした証でした。まさに信仰とは、心の中にしまい込んでおく理念ではなくて、生活の中に宿り、働きの中に現れ出てくるものです。神さまが与えてくださる、目には見えない心の喜び・希望・平和を形にしていくことです。目には見えないけれど、確かに与えられている神の愛を『福音の担い手、道を切り拓く者(Pioneer)』として、届ける者でありたいと思います。

(H.K. 60代)


2026年5月23日土曜日

AIでどこまで聖書が学べるか

どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。

自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。

新約聖書 ルカによる福音書 12章 15節, 21節

冒頭に一部を示した「愚かな金持ちのたとえ」全体をAIの助けを借りて説明するとこうなります。「ある金持ちの畑が豊かな収穫を得ました。彼は、収穫物をしまう場所がないため、古い倉を壊して新しい大きな倉を建てようと計画します。そして、『これで何年分もの蓄えができた。安心して食べて飲んで楽しもう』と自分自身に言い聞かせます。しかし、神は彼にこう告げます。『愚かな者よ、あなたの魂は今夜、あなたから取り去られる。そうしたら、あなたが用意した物は、いったい誰のものになるのか』。結果として、彼は富を蓄えただけで、神の前に豊かな者ではありませんでした。」

じゃ、富を蓄えることと神の前で豊かな者であることとは、どういう関係なのか。AIの答えはこうです。「この話は、富そのものが悪いのではなく、富に対する人の心構えと生き方を問題にしています。 どれだけ財産を築いても、命が終わればこの世の富は無意味になります。明日の命は誰にも保証されていません。重要なのは、この世で自分のためだけに富を蓄えることではなく、神が喜ばれる形で富を用い、神との関係を築くことです。聖書では、地上の所有物は神からの預かり物であり、私たちはその管理者であると教えています。このたとえ話は、人々が物質的な富に心を奪われず、『神の前に富む』こと、すなわち神の御心に従って生きることの重要性を説いています。」

深い学びができますね。聖書を学ぶ上でAIに限界はないのでしょうか。AI自身に答えてもらうとこうなります。「 AIはテキストを分析し、パターンを認識することは得意ですが、人間の深い感情、共感、霊的な経験を理解することはできません。聖書には人間の苦悩、喜び、希望といった感情的な側面が多く含まれており、これらを真に理解するには、人間特有の感情的なつながりが必要です。聖書は特定の古代の歴史的、文化的、地理的背景の中で書かれました。AIは膨大なデータから情報を抽出できますが、その時代の複雑なニュアンス、口承の伝統、象徴的な意味合いを完全に把握することは困難です。解釈には深い文脈理解が不可欠であり、解釈によって意味が大きく変わる場合もあります。聖書の理解は、個人的な信仰、霊的な探求、啓示といった主観的な体験と密接に結びついています。AIはデータに基づいて動作するシステムであり、人間のような信仰心や意識的な体験を持つことはできません。AIは倫理的なガイドラインや法的枠組みに基づいて動作するよう設計されていますが、聖書が提示するような複雑な善悪の判断や道徳的なジレンマに対して、人間のような深い洞察や責任ある判断を下すことはできません。AIによる解釈のプロセスは複雑で、その判断の根拠が人間にとって完全に理解できないブラックボックスになることがあります。聖書の解釈においては透明性と説明責任が重要ですが、AIではこれが保証されにくい場合があります。 結論として、AIは聖書研究のための強力なツールとして、例えばテキストの執筆者特定の分析や情報検索などに役立ちますが、聖書の全体的な意味合いや霊的な真理を完全に理解し、解釈することには限界があります。最終的な解釈と判断は、人間の役割として残ります。」(下線と太字は本記事作成者による)

すごいですね。冒頭の「愚かな金持ち」よりAIのほうが賢い。自分の限界をこれだけ理解しているわけですから。AIが示してくれた限界に心をとめ聖書の学びに取り組みたいと思わされたしだいです。

(H.M. 70代前半)


2026年5月16日土曜日

終末の徴

「人に惑わされないように気をつけなさい。・・・」

新約聖書 マタイによる福音書 24章 4節以下

マタイ・マルコ・ルカ三福音書が多くの言葉を使って、「終末の徴」について記録しているのは、弟子をはじめ当時の人達の大きな関心事であったからだと思います。現代の世界においても、各地に天災が起こり、地球上で戦争が絶えない現況に、同じような緊張を感じます。

誰でも恐怖を感じると冷静でいられなくなります。しかし、どうして良いかも分かりません。ただ、それに続くマタイ25:31~46のみ言葉に希望をみます。

人の子(イエス様)の裁きは、「さぁ、わたしの父に祝福された人たち」と、呼びかけ「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と、永遠の命に預からせてくださる道が告げられているからです。

どのような時にも、人に惑わされる事なく、主を見上げ、祈りつつみ言葉に生かされて行きたいと思います。

(M.I. 80代)