2026年1月17日土曜日

今、世界が必要としているものは

どうか、主があなた方を、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなた方を愛しているように。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 3章 12節

私の大好きな曲に、”What the World Need Now is Love/ Burt Bacharach”があります。タイトルはこの曲からとったものです。歌詞を読んで、「世界と愛」について、感じたことを少し書いてみます。歌詞の一部を抜粋しますね。

 Lord, we don't need another mountain,
・・・Enough to last 'til the end of time.

そして、次のように続きます。

What the world needs now, is love, sweet love,

神さまに試練を語るときには主語が「私たち」、しかし、愛を語るときには主語は「世界」に変わっています。

そしてわたしも皆様にたがわず、日頃から初めて会う方々や、周りの方々の愛を沢山感じています。

欠点も失敗も受け入れられた時、ある時はお月さまの下でふうっと息をついて安らぎを感じる時。

時には「世界中を愛で満たしてください」とお祈りすることがあります。

神さまとお話をするとき上に書いたような、わたしたちが世界の一部であり、それぞれの人の愛、普遍的な愛に包まれていることを「一瞬で」強く意識することができます。

この歌詞で「今、世界が必要としているものは」も、テサロニケで先に引用した箇所「互いの愛とすべての人への愛で満たされること」も、どちらも等しく日常を丁寧に過ごす中で育まれるのでしょう。

タイトルにある「今、世界が必要としているもの」は、神さまの愛だと思います。

しかしその愛が私たちの中で満ちあふれるためには、受け取る器である私たち自身の心が整えられる必要があります。

この歌詞が問いかけるように、外側にある山や海(試練)は私たちの周りに十分にある一方、世界に足りないのは「優しい愛」です。だからこそまず静かに心を開いて、愛を受け取り、受けた愛をおのずと他へ返していく器になりたいと思った次第です。

(Y.T. 50代)


2026年1月10日土曜日

神様の愛を受け取ることについて

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 5章 8節

彼らの苦難を常に御自分の苦難とし御前に仕える御使いによって彼らを救い愛と憐れみをもって彼らを贖い昔から常に彼らを負い、彼らを担ってくださった。

旧約聖書 イザヤ書 63章 9節

先日友人から、祈りの時間のためにとキャンドルをプレゼントしてもらいました。

クリスチャンというと、熱心に聖書を読み、祈り、礼拝は欠かさないというような姿を思い浮かべる人もいるかと思います。私はまったくそのようではなく、日々の忙しなさにいつも流されています。しかし、このキャンドルをきっかけに、神様に心を向ける時間をもちました。

ふと「愛を受け取るって、何を思い起こせばいいんだろう」と思いました。私はつい嬉しかったことなどを思い浮かべてしまいますが、それでは良いことがなかったときにはどうしたらいいのでしょう。

思うべきは、イエス・キリストが十字架にかかってくださったことであり、幸福な時も苦悩の時も、神様がともにいてくださっているということなのだと思います。

自身の生活だけでなく、国際情勢をみるにつけ、「神様、なぜ黙っているの」という思いが止まらなくなることがあります。しかし、神様は無関心でおられるのではなく、いつも必ずともにおられるということを改めて思い起こしました。

(30代)


2026年1月3日土曜日

希望をもって忍耐する

あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 1章 3節

パウロは、聖書に登場する人物で、イエス・キリストの教えを世界中に広めた人です。彼が書いた手紙は、当時の教会や人々に宛てた、励ましと助言に満ちた心温まるメッセージでした。

当時の人々は、深刻な迫害の中で暮らし、来週また生きて会えるかどうかも分からない、不安で先の見えない日々を送っていました。パウロは、そんな人々を心に留め、温かい励ましの思いを寄せています。

私たちの歩みにも、困難や忍耐が求められる時がこれからもあるかもしれません。しかし、希望を持って一日一日を過ごすことで、少しずつでも道が開かれていくと信じることができます。神さまは私たちにすべてを委ね、希望をもって生きることを許してくださり、私たち一人ひとりを変わらず深く大切に思ってくださっています。

そのことを心に刻み、希望を胸に抱きながら、力強く歩み続ける者でありたいと思います。

(R.M. 40代)


2025年12月27日土曜日

素直に嬉しい?

また、あなたの子孫があらゆる国々の人々を祝福するようになる。それは、あなたがわたしの言葉に素直に従ったからである。

旧約聖書 創世記 22章 18節(現代訳聖書)

ウクライナ出身のお相撲さん、安青錦(あおにしき)が九州場所で初優勝を果たしました! 来場所から大関になることも確定し、日の出の勢いです。優勝後のインタビューで「今のお気持ちを」と促され、「すなおに嬉しいです」と答えていました。

素直に嬉しい? 日本人も頻繁に使っていますが、どうも不自然です。先生の言うことを素直に聞く、与えられた課題に素直に取り組む、素直に白状する、……。動詞が続くと自然ですね。形容詞が続くとダメなのか? 素直に嬉しい、素直に悲しい、素直に楽しい、素直においしい、……。どうやらそうみたい。

こんなことを考えていた時、少し前に読んだ冒頭の聖書個所を思い出しました。アブラハムの信仰姿勢を神がよしとし、祝福してくださる場面です。「素直に従った」から神の祝福を得たのです。いやいや従っただけなら、どうなっていたのでしょう?

よく利用される新共同訳聖書ではここは「~。あなたはわたしの声に聞き従ったからである」です。他の訳もほぼ同様で、「素直に」を加えてあるのは現代訳だけのようですが、とても明快です。なぜなら、世の中には、「形だけ従う」ことがいくらでもあるからです。素直に従ったから神の祝福を得た、としっかり認識することは重要なことではないでしょうか。

上記と関連して、私が大事にしている聖句「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言えない」(コリントの信徒への手紙一 12章3節後半。訳は新共同訳)のことにも触れておきます。昔、キリスト信仰を理解できない友人が、そんなこと普通に言えるよと、「イエスは主である」と私の面前で言い放ったことがあります。だから聖書は変だと付け加えて。これは曲解ですが、どうしてそんなことが起こるのか考えてみるのも一興です。私が知る限り、この部分が最もわかりやすいのはリビングバイブルで、「聖霊様の助けがなければ、だれも、ほんとうの意味で、『イエスは主です』と告白できない」となっています。子供用の聖書ながら、あっぱれではないでしょうか。聖書の中には「ほんとうの意味で」とか「心から」を補った方が理解を促進する個所がいくつもあると私には思えます。

(H.M. 70代前半 )



2025年12月20日土曜日

受洗後初めてのクリスマス

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光がまわりを照らしたので彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

新約聖書 ルカによる福音書 2章 8~12

私のクリスマスのイメージは北欧や北アメリカの真っ白な雪景色、暖かい暖炉の前のもみの木に飾られたクリスマスツリー、その周りに置かれたプレゼントの数々そして現実にはあり得ないトナカイに乗ってプレゼントを配るサンタクロースでした。50年以上前の雪深いカナダでのクリスマスの体験は絵本で知っているクリスマスそのものでした。

クリスマスは救い主イエス様の誕生をお祝いする日。

でもイエス様がお生まれになったのはヨセフとマリアが住民登録をするためにガリラヤの町ナザレから上って行ったベツレヘムのダビデの町でした。およそ雪景色とはほど遠い砂漠のような荒れ野。

ルカによる福音書によるとイエス様誕生の喜びの知らせを一番に受けたのは野宿をしながら夜通し羊の番をしている羊飼でした。この知らせを聞いた羊飼いたちは主が知らせて下さったこの出来事をすぐに見に行こうと出掛けました。

そしてマリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てその光景を見て羊飼いたちは、その幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせました。神様が私たちのためにお遣わし下さった救い主御子イエスキリストは馬小屋の飼い葉桶に寝ていらっしゃいました。両親であるヨセフとマリアが住民登録をするための旅の途上でしかも泊まるところもなくておそらく馬小屋で初めての子を出産しなければならなかったマリアはどんなに不安だったことでしょう。

天使からイエス様誕生の知らせ「あなた方のために救い主がお生まれになった」というこの喜びを知らされたのは一番貧しい羊飼いでした。またイエス様は一番貧しい弱い状態でお生まれになられました。

クリスマスはすべての人々に与えられた大きな喜びでありイエス様が人として一番貧しい弱い状態でお生まれになった事に大きな意味があると知りました。

今年のクリスマスは私にとって特別のクリスマスになりました。

(S.K. 80代 )



2025年12月13日土曜日

クリスマスの思い出

いと高きところには栄光、神にあれ。
地には平和、御心にかなう人にあれ。

新薬聖書 ルカによる福音書 2章 14

私がものごころついた頃のクリスマスの思い出は、戦後4年ぐらいだった頃だと思う。東北の田舎の冬は北風が強く、もと米倉だったといわれている教会の建物は時々ギシギシと音をたてていた。そんななかでもクリスマスは本当に楽しかった記憶として残っている。特に今まで見たことがなかったきれいなクリスマスカードにびっくり、これらのカードはアメリカの教会からメッセージの部分は切り取ったカードだったそうだ。そしておみやげは赤い色で、取っ手のついた小箱の中に入っていたおやつだった。中身は覚えていないが今まで食べたことがないおやつだったと思う。両親がキリスト者だったせいもあるが、とにかくイースターの卵や、卵のカードを開くとひよこが出て来るカード等がうれしくて、私の宝箱は、教会学校のカードでいっぱいになっていた。

しかし、中学生になると両親にも反抗し、いつのまにかその宝箱も捨ててしまったと思う。高校三年生になった頃は商店街もクリスマスセールで明るくなり、我が家でもショートケーキが食べられるようになったし、友達とも仲良く過ごしていた日々だったが、なぜか虚しさを感じ始め再び教会へ通うようになった。もうその時には、強い北風にギシギシという音がしない会堂だった。

♪私たちが 暗闇にとどまることのないように キリストは光として世に来られた♪

(I.I. 70代 )


2025年12月6日土曜日

初めてのクリスマス祝会の思い出

いと高きところには栄光、神にあれ。
地には平和、御心にかなう人にあれ。

新薬聖書 ルカによる福音書 2章 14

私は大学1年の時、学生ホールでのクリスマス祝会担当を任されたことがあります。礼拝とはまた違う、学生同士が集まってクリスマスを楽しむ時間です。1年生だった私は、係の先輩たちと一緒にいろいろな企画をしました。その年の祝会は今でも心に残る大切な思い出です。準備することは山ほどありましたが、ワクワクした気持ちがありました。祝会の準備は、決して一人ではできませんでした。忙しい授業の合間をぬって、先輩たちと一緒に企画しました。祝会は学生に一任されていたので、「この讃美歌にしましょう。」「このみことばはこういう意味なんだよ。カードの御言葉はこれにしましょう。」「当日のクリスマスプレゼントの買い出しに行きましょう」。と、先輩たちと話し合い、選び、作成し、過ごした準備の時間は、本当に神さまがくださった大切な交わりでした。その先輩のおひとりは、クリスチャンホームで育った方で、何も知らない私に教会のことや聖書のことを教えて下さった方です。大学卒業後の今でもお付き合いがあります。その時の神様のお導きに感謝しています。今でもクリスマスが近づくと、あの学生ホールのあたたかな光景を思い出します。あれは確かに神様が共にいてくださった時間でした。天使たちの歌った言葉は、今も変わらず私の心を励ましてくれています。「地には平和、御心にかなう人にあれ。」その平和が、今年もまた私たちの歩みにそっと注がれますように。

(E.O. 40代 )