2022年5月8日日曜日

絶えず祈りなさい

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 5章 16節~18節

この聖書のことばに何度も何度も元気づけられました。苦しかったり、困ったときばかりではなく、うれしかったときもそうでした。教会学校の牧師先生は、「神さまはいつもとなりにいてくださる。」と教えてくださいました。わたしたちを守ってくださる神さまにすべてを委ね、迷ったときも祈ることにより、神さまはすすむべき道を与えてくださいます。祈りをきいてくださいます。

喜び、感謝の祈りをささげる。これからもそのような日々を過ごしていきたいと思います。 

(H.K. 60代)


試練と共に逃れる道も

神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 10章 13節

この聖書のみ言葉に支えられて生きてきました。私は満州で生まれ、母は栄養失調の私と姉を連れ、やっとの思いで引き揚げてきました。その後は健康にも恵まれました。長い人生の中、いろいろありました。結婚後すぐ家を与えられ、私は3人の子供を保育園に預け、十年間共働きをしました。子供が小学校に通うようになり、会社を辞めた時、4人目の妊娠を知り、「また子育てをするのですか?」と神にすがる思いでした。父が脳梗塞で倒れ、商売をしていましたので、従業員の事、事務所の後始末、借金、母の引っ越し。神が不思議な力を持って解決させてくださったことを証しすることができます。その後大きな試練はありませんが、日々神が恵みと励ましを持って導いてくださっていることを感謝いたしております。 

(M.T. 70代)


2022年5月1日日曜日

神は私を光に導かれる

たとえ倒れても、わたしは起き上がる。
たとえ闇の中に座っていても
主こそわが光。

旧約聖書 ミカ書 7章 8節

私はかつて、ある人によって深く傷つけられたことがありました。その相手が一方的に悪いことをしたという出来事でした。その影響で私は何年間も悲しみと怒りを抱えながら生きてきました。その経験を通して気づいたことがありました。それは、人は傷つくといろいろな反応をしてしまうのですが、そのような反応の中で、私は罪ある反応や行動もしてきてしまったということでした。まさに傷は傷を再生産し、痛みは連鎖するのだと思います。

しかし、それでは、悪に負けてしまうことになります。その出来事によって倒れたまま、闇の中に座り続けたままになります。そうではなく、それらの罪を神さまの前に悔い改めた時、私の心は自由にされました。神さまが私を光に導かれました。

(K.T. 40代)



ゆだねて進む

心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。

旧約聖書 箴言 3章 5節~ 6節

この箇所は、大学の聖書研究会で未信者の方々を導く際の御言葉の1つとして示されました。私達が置かれている最近の困難な状況において、改めていま自分自身でかみしめています。

転勤の多い家庭に育ち、環境が度々変わる中、自分の考えや価値観が問われる場面が今日まで多々ありました。

そんな中、移動した先々の教会で、その時にふさわしい神様の励ましと支えが与えられてきました。どこにいてもどんな時にも目指すところはただ一つです。そこに向かってこれからも歩んでいきたいと思っています。 

(R.M. 60代)


2022年4月24日日曜日

導きたもう神

光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。

新約聖書 ヨハネによる福音書 12章 36節

今から16年前、未信者であった私は、教会員のCさん宅で、小冊子を使い、キリスト教の学びを受ける事になりました。

Cさん宅に伺ったある日、壁にかかった日めくりカレンダーに目が留まりました。そのカレンダーには、冒頭の聖句が書かれてありました。

この聖句の意味を知りたくなりました。この様な、ちょっとした興味から少しずつですが、神様を知る様になっていきました。そして、神様のお導きで、クリスチャンになりました。

神様は、私が興味を持つ事柄をよくご存じで、あの日、絶妙なタイミングで日めくりカレンダーに現されたと思います。神様のお導きに感謝致します 

(M.T. 60代)



こんな価値観が世の中にあるのか!!

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

新約聖書 マタイによる福音書 5章 3節~ 10節

このような価値観の世界がこの世の中にあるのか!!唯々、驚きとパッと何かから解放され何とも表現できない戦慄に似たものを感じたのがこの聖句だった。1961(昭和36)年8月、当時大学の1年生だった夏休みのことである。

地方の古い檀家・仏教徒の家に育った者にとって、キリスト教には何の縁もなかったが、大学生活に生きがいを見出したい一心で入ったのがキリスト教関係のサークルだった。その夏に、お世話になった方のキリスト教の葬儀の後で書斎からいただいた本が、冒頭の聖句をわかりやすく説いた「山上の垂訓(さんじょうのすいくん)」(由木康著:当時、国立教会牧師)という本であった。

自宅に帰って、もう何も言葉が出ないまま、電流に打たれた感じで一字一句に感動しながらこの本を一気に読んだ。何という価値観なのか、同じこの世にこんな価値観があるなんて。身も心も解き放されて、なんとも不思議な感覚で夏休みを終えたことを今でも鮮明に覚えている。 

(Y.Y. 70代)


2022年4月17日日曜日

沈む心が出会った言葉

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。

新約聖書 マルコによる福音書 4章 35節

私には目標や目的がわからない時期がありました。仕事や人との関わりに自信を失くしていました。表面的には、人と関わり、時には笑い、変わらずに過ごしていましたが、心のなかでは「何をやってもダメだ。何もかも中途半端な私だ。」と毎日思っていました。「周囲の人たちは人生の中で何かを得ているのに私には何もない。」情けない惨めな自分しかありませんでした。「今まで何をしてきたのだろう。」と、愚かな自分を感じるばかりでした。何処に向かって行けばよいか何をしていけばよいか、すっかりわからなくなっていました。そのような毎日のなかで、「向こう岸に渡ろう」という言葉に出会いました。「渡れ」ではなく、「渡ろう。」

一緒に渡ってくださるその言葉に私は、「主が一緒に居てくださる。安心して歩きだそう。」と思うことができました。今もこの言葉は、私に勇気を与えてくれています。 

(K.O. 50代)