2024年2月25日日曜日

きょうを生き抜く勇気

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

新約聖書 マタイによる福音書 6章 34節

ポーランドの国境から、夜行列車で約13時間。厳寒の大地を抜けて、着いたのはウクライナの首都キーウでした。昨年11下旬から12月初めにかけて9日間、同国を訪れる機会がありました。

現地で出会った人たちの多くは、親族や友人が戦地に赴き、中には命を失った方も少なくありません。そんな話を聞いていると、「訪問者」でしかない自分への後ろめたさに胸が痛むとともに、戦争がもたらす悲しみや怒り、絶望に打ちのめされそうになりました。その時に思ったのが、この聖句です。どんな状況下にあってもイエスは必ず近くにいて一日の疲れや悲しみをいやし、明日への糧を用意して下さる。ウクライナの人々とも、いつも一緒におられる。そんな祈りとともに、すごした9日間でした。

(H.A. 50代)



2024年2月18日日曜日

何事にも時がある

何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

旧約聖書 コヘレトの言葉 3章 1節

今から3ヶ月ぐらい前のことです。ある事で悩んでいて祈っていましたが叶わず鬱々としていました。ある朝日課にしているウォーキングの途中で体の中から力が湧いてくるのを感じました。私は思わず「神様ありがとうございます」と、心の中で感謝しました。私の祈りが届いていると感じたからです。

今は願いが叶わなくても、ふさわしい時に助けてくださると信じて歩んでいける信仰を与えてくださった主に感謝します。

(M.A. 60代)









2024年2月11日日曜日

わたしがあなたがたを選んだ

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。
あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと。

新約聖書 ヨハネによる福音書 15章 16節前半

20歳の頃、ある出来事がありました。その中で自分は偽善者だと感じてしまうことがあり、どうしようもない苦しい時期がありました。中学の時から教会に通っていた私は、高校生の時に受洗していました。神様の愛に満たされて私はクリスチャンとして生活をしているつもりでいたのですが、その、あることがあってから私は本当にクリスチャンなのか?と、自問自答が続き、悩み、苦しみ、何故、私は洗礼を受けてしまったのだろうと思うようになりました。つまり、自分の本当の姿、自分の醜い内面を知ってしまった気がしたのです。クリスチャンでいることが辛く、重荷に感じていました。その出来事は、私にとって人生初めてで最大の出来事、まさに試練の時だったのです。そんな日々を送っていましたが、ふとした時にこの聖書の言葉に出会うことができました。

「わたしがあなたを選んだのだ」のみ言葉に心が解放された感覚でした。私は思いあがって、自分がクリスチャンになることを選んだと思い込んでいたのです。神様は人間の心の中に何があるかを全部ご存じでいらしたのです。私に与えられた試練もその後、いろんなことを乗り越えてゆく礎のようになりました。

(M.N. 70代)







2024年2月4日日曜日

時代を経ても変わらないもの

草は枯れ、花はしぼむが
わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

旧約聖書 イザヤ書 40章 8節

人間の世界には、はやりすたりがあります。その度に私は、時代に置いて行かれていないか不安になっていました。時代や流行の考え方に追いつこうとするあまり、今度は自分自身を見失って。。。そんなことを私は繰り返してきました。

「これだけ価値観が多様化する中、確かなものなどあるのであろうか?変わらないものがないのであれば、自分は何を軸に生きていけばいいのか?」

この私の中の葛藤を氷解させたのが、この聖句です。被造物(神様に造られた物)には、当然、栄枯盛衰があります。それは、若さであっても難しい哲学であっても変わらないはずです。なぜなら、所詮、それらは造られたものでいずれうつろうのですから。そこに、本当の生き方の軸はおけないのは当たり前です。

それでも、それでも、なお、変わらないものがあります。それが「神の言葉」、そして「その神が私たちを愛してくださっているという事実」です。ここに生き方の軸を置くようになってから、どれだけ心が揺さぶられても、戻ってくるところができました。なぜなら、「神の言葉はとこしえに立つ」、いかなる時代も変わらないのですから。神の言葉を軸にしてそこからスタートすれば、途中、自分がどれだけ曲がろうとも安心です。曲がったことに気づいたら、またスタートに戻ってくれば良いだけなのですから。

(R.K. 40代)





2024年1月28日日曜日

赦すことは忘れること

わたし、このわたしは、わたし自身のために
あなたの背きの罪をぬぐい
あなたの罪を思い出さないことにする。

旧約聖書 イザヤ書 43章 25節

衝撃的な御言葉です。神に背を向けても、立ち返る者へ、背を向けたことを忘れて赦すと神様は語られている。「えっ!忘れてくれるんですか」という驚きです。日常の生活の中で幾度も神に背を向ける、神を忘れ、神に祈り語りかけることをせずに過ごす。それでも「背きの罪を思い出さない」、「立ち返りなさい」と語りかけて下さる。神の愛は計り知れないほど忍耐強い。

そして、赦すことは忘れること、これは神様にはできるが人間には難しい。無理やり忘れろと言われてもできない。ただ、この御言葉が冷静になることに導いてくれます。たとえ了解不能だとしても相手の言葉や行動の背景や思いを知ろうという冷静です。特に人間関係で「そういうことだったのかなあ?」と思えれば、やがて「もう忘れたよ」と相手に言える機会を与えられるかもしれません。事によるでしょうが、この御言葉から「忘れること」は和解への道筋を進む力の一つだと思えるのです。「忘れる」という力を人間に与えて下さったことを神様に感謝しています。

(T.M. 60代)



2024年1月21日日曜日

敵を愛しなさい

敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

新約聖書 マタイによる福音書 5章 44節後半

「隣人を愛し、敵を憎む」のならごく普通のことですが、神様は何とその逆、「自分を迫害する者」あるいは「あなたがたを憎む者」(ルカ6:27)を愛するようにと言われます。そんなことができるものでしょうか。何だか不合理に思えますよね。

確かに旧約聖書には「目には目、歯には歯」をもって償え(出エジプト21:24)と書いてあるのですが、神の子としてこの世に来られたイエス様は、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)とまで言われます。そうして「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6:36)と。

実際、神の子であって何の罪もないイエス様が、ご自身を迫害した人間の代わりに十字架にかかられました。では私はというと……とてもとてもできそうにありません。そんな自分自身の罪深さを自覚すると同時に、イエス様のとてつもなく深い愛と憐れみを思わされる御言葉です。世界で繰り返される殺戮を主導する為政者たちの心にも、ぜひこの御言葉が届いてほしいと切に祈ります。

(N.N. 60代)



2024年1月14日日曜日

主のなさる「復讐」に信頼し、安らいで愛する

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 12章 19節

私は母に感謝しつつも、「許せない」という強い気持ちを抱いていました。なぜ、幼い私に父や祖父母の悪口を吹き込み続けたのか。なぜ、目の前で喧嘩を繰り返したのか。なぜ、いつも苛立っていたのか。なぜ、なぜ、と怒りは溢れるばかりです。その頃の私が毎日不安だったこと、父や祖父母の目を見れなくなったこと、今も苦しいこと。これらを母に思い知らせてやりたいと感じるようになりました。母への態度が冷たくなってしまうことへの罪悪感もありましたが、どうしようもなく腹立たしかったのです。

そうした思いの全てを祈りのうちに主に伝えましたが、あるときふと、母の大きな苦労を深く実感し、「もう、許そう」とストンと思ったのです。母の苦しみは、頭では分かっていたことでしたが、実感したのはそのときが初めてでした。

選んだ聖書箇所にある「復讐」は、人がするのならば残酷なものでしょう。しかし、全てを見ておられる主は、母も私も愛し、それぞれの愚かしさや苦しみを戒め、癒しと救いを与えてくださる方です。そのような主のなさる「復讐」の行き着くところは主の平和なのではないでしょうか。自力ではなく主の助けによって怒りを手放した私は、主のなさる「復讐」に信頼し、安らいで母を愛していきます。