2025年5月25日日曜日

丸太のたとえ

あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。

新約聖書 マタイによる福音書 7章 3~4節

「貴女は自己憐憫ばかりだ、神様はこんなに私たちを愛してくださっているとどうしてわからないんだ!」
「神様は全てをよいものにしてくださるのにどうして信じられないの?」

決して穏やかな「信仰生活」を送ってきていない私に、何度となくかけられた言葉だ。言われるたびに「またか」という気持ちと、「余程ご自分の目が澄んでいるとお思いなのだな」と思うのももう慣れた。人を裁くなと聖書にはある、裁いている自覚もある。最早自分は神のしもべではないと思うことの方が多い。
(やはり信仰に目に見えて燃えている人を神は選ぶのだろう)
(私の目には丸太が刺さっている。でもそう言ってくる人にはおが屑はないのだろうか)
(神の平等って、何なのだろうか)

 神様、私の目には丸太があります。でも引っこ抜いたらきっと他の人のおが屑が気になります。どうすればいいんでしょうか。

あー、この繰り返しが私の信仰生活なのか。 

(R.I. 40代)


2025年5月18日日曜日

信仰と結婚の共通点

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 8章 31節

妻がアメリカ人なので、英語話者の友人が何人かいるのですが、彼/彼女らと話していて興味をひかれた英語表現のひとつが冒頭の聖句と関係します。読む前に言っておきます。英文法が嫌いな方は、どうぞこの記事をスキップしてくださいませ。

さて、日本語では「私は43年前にクリスチャンになった/クリスチャンになって43年だ」と言いますが、これが英語だと “I’ve been a Christian for 43 years.”となります。むかし苦労して覚えた「現在完了形」(過去から現在まで<切れ目なく>続いている状態・動作を説明するための時制)です! <切れ目なく>という点がミソなので、何をもって「クリスチャン」と言うのかが重要になります。

冒頭の聖書箇所に触れた今日(2024年9月1日)の礼拝説教を(真剣に!)聞きながら、クリスチャンである(あり続ける)ことと結婚している(し続けている)ことの二つの状態が頭に浮かびました。なぜなら、「42年前に結婚した/結婚して42年だ」も“We’ve been marrying for 42 years”と現在完了(進行)形を用いるからです。

イエスが言う「わたしの言葉にとどまる」とは、イエス(その核心がイエスの言葉)と継続的な交わり・結びつきを保ち続けることで、ここで言う「とどまる」は、ぶどうの木と枝のたとえでイエスが用いた「つながっている」と同じ言葉だそうです。

そうすると、クリスチャンであること、すなわちキリスト信仰を持っていることと、結婚していることの両者の継続には、その対象(信仰の場合はイエス、結婚の場合は結婚相手)に捧げた最初の純粋な思いと関係を保ち続けることが求められているということになりますね。信仰の場合、自分が<いま>クリスチャンだと言えるには、聖書に記されたイエスの言葉にとどまり続けているかどうかにかかっているわけです。

結婚の場合はどうなるか、……それは自分で考えてみてください。

(H.M. 70代)


2025年5月11日日曜日

すべての国のすべての民と共に

すべての国よ、主を賛美せよ。
すべての民よ、主をほめたたえよ。
主の慈しみとまことはとこしえに
わたしたちを超えて力強い。
ハレルヤ。

旧約聖書 詩編 117編 1~2節

神さまは、すべての国々のすべての民を顧みて、愛してくださっています。神さまは、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださいます。(新約聖書 マタイによる福音書5章45節) 神さまの私たち人間への慈しみと真実は、私たちの想像を超えていて、とても大きなもの、力強いものなのです。

だから、私は祈ります。今、神さまを信じている人々と共に祈ります。世界のすべての国々のために、世界のすべての民族のために、神さまの慈しみと真実にすがって祈ります。実際、どんな人でも、神さまの愛と憐れみがなければ生きていけないのですが、そのことに目が開かれることを願い、とりなして祈ります。神さまは私たち人間を大切なものとして造ってくださり、愛していてくださり、どこまでも善い神さまなのです。本当に素晴らしいお方です。その偉大な神さまを、世界中の人々と共に仰ぐことができたらと願います。

(K.T. 50代)


2025年5月4日日曜日

最近気づいたこと

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 5章 16~18節

以前の私はこの言葉を思い浮かべると、平静でいる時は「そうだな。そのようにしていこう。」と思うのですが、不安になると感情で心がいっぱいになり、祈ることはしていても喜ぶことも感謝することもなくなっていました。

そして、「結局、不安や心配事があると聖書の言葉が吹っ飛ぶなあ」と、自己嫌悪。自分が穏やかな時は言葉を信じて、心の状態が悪くなると言葉は吹っ飛び、感情優先。そのような気持ちを繰り返す日々でした。

ところが、最近、「言葉通りにはなかなかなれないけれど、だからこそ、この言葉があるのかもしれない。喜びも感謝もすぐに忘れてしまう私だからこの言葉が必要なのだ」と思うようになりました。

心の引き出しに入れて誰かと一緒にいる時も、一人でいる時も引き出しからこの言葉を出して自分の気持ちとこの言葉を照らし合わせてみる。そのようなことをしていたら以前より心が柔らかくなったような気がしています。

言葉通りに成れる、成れないではなく、言葉と一緒に歩んで行くことに気づかされました。

(K.O. 50代)


2025年4月27日日曜日

祈れる恵み

よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。

新約聖書 マタイによる福音書 18章 19~20節

感謝な事に、私の家庭はクリスチャンホームです。自分がクリスチャンである事を友人達にまたSNSでも伝えています。

自分や家族の事もそうですが、我が家には、祈らなければならない事が伝えられると必ず一緒に祈ります。もちろん自分一人で祈る事もありますが、緊急事態を知らされた時などは、必ず夫と2人で祈りそののち家族皆でその課題を祈り続けます。海外の友人からも祈って欲しいと連絡をいただくと、細かに誰がどのような状態なのかを聞いて、すぐに夫に共に祈りを求めます。

祈れる特権を私たち信仰者は与えられています。主は尊い命を差し出してまで私たちに、イエス様の御名を通して神様に祈れる特権を与えてくださいました。私は罪深い貪欲な人間だけど、2人で心を合わせるなら、と主は仰っています。だから、信じ続け祈ります。祈れる恵みを感謝しています。

(S.K. 60代)


2025年4月20日日曜日

職業人として

深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。

旧約聖書 詩編 130編  1節

讃美歌をオルガンで弾いていると、「なるほど!!」と、思うことがあります。50代に突入し、最近仕事や私生活で、よく読み違えたり言い間違えたりします。認知機能も衰えワーキングメモリも低くなっているのに、最近、定年が先延ばしにされ、徒競走のゴールテープが見えてきたのに取り上げられた気分で嫌気が差していました。

60歳で定年したら今まで支えてもらっていた先輩方のように再任用で後輩に仕える予定だったのに、「責任が重いまま働き続けるなんて!」と嘆いていました。でも、この聖句の讃美歌258を弾くと、『おのれの業には少しも頼らず、ひたすら恵みの力をたのみて〜のぞみてゆるがじ。』とあります。

「そうかぁ、自分はだめでも、いいのか!」、むしろ「そんな事気にしないで働けってことか!」と納得することが出来ました。

確かに、私の職場は優秀な人材に囲まれて私はいつもフォローされています。 なんて私は幸せなんだと気付かされました。

(M.E. 50代)


2025年4月13日日曜日

二人で

どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二入または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。

新約聖書 マタイによる福音書 18章19~20節

何故二人が願い求めるならなのでしょうか。何故二人または三人が集まるところなのでしょうか。願い事は、人に知られたくないと思う場合もあるし、独りで問題を解決しなければならないという場合もあるはずです。それでも二人または三人なのは、独りでいてはいけないということなのだと思うのです。

独りでは、気持ちのゆとりが持てず、身勝手な思いに駆られてしまうかもしれません。「孤独に悩んでいないで、誰かと語り合って、前向きになりなさい。」ということなのだと思えるのです。

教会では、教会員のお互いを兄、姉と呼び合います。教会に集う家族として、話を聞き祈ってくれます。それが心強い支えとなることは確かです。

(H.K. 70代)