2026年3月21日土曜日

季節ごとの神様の恵み

神のなされることは、すべて時にかなって美しい。

新約聖書 伝道者の書 3章 11節 (新改訳)

日ごとに暖かさが増してきました。ふと気づいたら、冬の時期、一見して枯れていたように見える紫陽花に、新芽が顔を出していました。この季節になると、自然と心に浮かんでくる歌があります。讃美歌21の575番「球根の中には」です。冬の間、何も起こっていないように見えます。しかし、土の下では神様が私たちのしらない間に、静かに、やさしく準備をして下さっていました。

私たちは、時として、冬のように動きが止まって感じる時期があると思います。しかし、新芽のように、神様は私たちの「目に見えない時間」の中に、様々なやさしい準備をして下さっています。

私たちがこうして新芽に目を留めることができるのも、神様の慈しみの中に生かされているからだと思います。 歌詞の中に「いのちのおわりは いのちのはじめ」ということばがあります。私たちが何かの限界を感じる時にこそ、神様は良いものを準備して下さっていると思います。目に見える花だけでなく、その下にある神様の深い準備に感謝したいと思います。

(E.O. 40代)


2026年3月14日土曜日

逃れる道の温かさ

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一  10章 13節

今までの歩みを振り返ると、苦しい時期というのは幾度かありました。その都度、心はだいぶ痛みました。「一体、なぜ、そのようなことが起こるのか」と、苦しみの意味がわからず、そのことがまた苦しみとなったりしました。苦しみの中で、「神さまは私を守ってくださらなかったのではないか」という思いになったこともありました。神さまを見失ってしまったのです。それでも、神さまはいつも人を備えてくださり、どんなに苦しくても私が生きていけるようにしてくださっていました。だから、今があります。

ある人は、その時の私に必要な言葉をかけてくださいました。また、別の人は、とにかく私の怒りや悲しみに耳を傾け、混乱した私を受け止めてくださいました。そして、一緒に祈ってくださいました。または、何かを私に言ったりはしなくても、私と一緒に心を痛めてくださっていることが、その存在から伝わってくる人もいました。私の知らないところで、私のために祈っていてくださっていた人も何人もいたことでしょう。神さまは確かに、試練に耐えられるように逃れる道をも備えていてくださいました。

また、ある時は、天からの平安としか言いようのない平安で包まれたこともあります。天の喜びを垣間見せてくださったこともありました。不思議なことですが、苦しみのさなかにおいても、このような平安や喜びは与えられるのでした。今、見えていることがすべてではなく、神さまにはすべてのことが見えていることも、深い慰めとなりました。そして、聖書の言葉から、希望をもって待ち望むことを教えられました。

これらの経験から、苦労することは悪いことではないことを知りました。私は試練を通して、まわりの人々の愛に支えられていることを知り、神さまの愛を知りました。

(K.T. 50代)



2026年3月7日土曜日

愛し、究めてくださる方

主よ、あなたはわたしを究め
わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り
遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け
わたしの道にことごとく通じておられる。
わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに
主よ、あなたはすべてを知っておられる。
前からも後ろからもわたしを囲み
御手をわたしの上に置いていてくださる。

旧約聖書 詩編139編 1~5節

天の神様は、私が生まれる前から私を知り、守り愛して導いてくださっています。

これまで、数えきれないほど多くの願いを祈り求めてきました。

祈りは必ず聞かれています。すぐに神様からのお返事がいただけるもの、しばらく待たされるもの、忘れた頃にようやくお返事をいただけるもの、様々ありますが、すべての祈りは聞かれています。

かなり前から祈り求めていた祈りで、そのお返事がよくわからなものがありました。最近になってあらためて思い返し、もしかしたら私の努力が足りないのか?何か私の方に要因があるのでは?と思いめぐらしていました。

そこで気づいたのです。主は私のもっと奥底の、私自身認識していなかった、ずーっと奥深いところにくすぶっていた、私の「真の願い」の方を見ていらしたことを。

もともとの私が願っていた通りになっていたら、きっと、この「真の願い」に気づかず、いつまでたっても、得体のしれない、ドロ沼にはまったままのような、重く暗いものを胸に抱えたままだったかもしれません。

正に、天のお父様はわたしを究めてくださっていました。そして、私が意識していなかった「真の願い」へと私を導いてくださいました。そのことに気づいてから、いつも振り子時計の大きな振り子が左右に揺れるように不安定だったわたしの心に小さな芯ができたように感じました。

祈り求めるとき、いつも思うのは、わたしがベストだと思っていることが本当にベストとは限らない、主は常に主のベストをわたしに与えようとしてくださっている、ということです。

結果が思い描いていたものと違っていたとしても、私を私自身よりも究めてくださっている主を信じてゆだねていけることを幸せに思います。日々、主の愛を感じるたびに、感謝と讃美が心からあふれてとまりません。ハレルヤ!

(N.T. 60代)


2026年2月28日土曜日

向こう岸へ渡ろう

神は言われた。「私は必ずあなたと共にいる。この事こそ私があなたを遣わすしるしである。」

旧約聖書 出エジプト記 3章 12節

2/15の礼拝説教で、マルコによる福音書4章35~41節が読まれました。有名なところなのに、なぜ私は気が付かなかったのか?と思っています。35節でイエス様は「さあ、今から向こう岸へ渡ろう」と言うのです。

豚を飼っているゲラサ人、つまり異邦人の土地、ユダヤ人にとっては汚れた豚のいる土地、そこへ今から行こうというのです。もう夕方なのに、船に乗るというのです。おそらく天気もどうだろう?

弟子の中には数人漁師がいるので、海のプロ、つまり風や、天気を見て良いか悪いか分かるはず。つまり状況が悪い方へ今から行こうと言うのです。普通なら「はぁ?今からですか?あそこへ?」って言いそうなものだ。

でも、ここでYesと言ってついていくか、Noと言ってついていかないか、道が分かれます。出エジプト記で、神はモーセに「私は必ずあなたと共にいる、この事こそ私があなたを遣わす、しるしである」と言われました。この時も、普通なら「イスラエル人は、とんでもない人数ですよ。あの大勢の人々をどうやって連れ出すの?!無理でしょう!」って言いそうなもの。でもモーセは、主が導くなら、状態が悪く見える時でも、主の言葉に従い、ついていきました。なぜなら、主がなされる時、主があなたを導く時、遣わす時は絶対に普通じゃ起こり得ない主の助けが、大きな力が働くからです。そこに信仰が見えるようになります。ハレルヤ主を讃えます。

(Y.S. 40代)


2026年2月21日土曜日

黄金比と呼ばれるもの

あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。 月も、星も、あなたが配置なさったもの。

旧約聖書 詩編 8編 4節

天地創造主なる神がすべてをお創りになったことは理解していたつもりでも、恥ずかしながら「そうなんだ」くらいの感覚であった私が、まことに神の御業だと信じたのはほんの小さなきっかけからでした。それを思い出したのは、今開催されている冬季オリンピック開会式の解説で誰かが言っていたのを聞いたからです。芸術の宝庫と言われるイタリアでの開催だけに、様々な芸術作品を彷彿とされる仕掛けがありました。その中で「黄金比」という美しい数列があって、それはフィポナッチというイタリア人が発見したものだということを聞きました。黄金比は絵画や建造物、花の並びにもみられるということです。

そこで思い出したのは、私が犬の散歩途中で植え込みや花壇の花をよくみると実にうまく花びらや葉が並んでいることに感心したことでした。ひまわりの種の並びや様々な花びらや葉が見事に調和され「これは人間が考えてできることではない」とシンプルに思ったことで神の御業と信じるに至ったのです。月も星も神が配置されたもの、花びらひとつとってもこれほどの美しさを醸し出すのは神の指の業であるに違いありません。神の創造された自然の中で、このフィポナッチという人が秩序と調和を見出し、それに数学的見地から黄金比というものに気がついたのだろうな、と思いました。難しいことはわかりませんが、これからも神さまのお創りになった美しいものに気がつくことのできる感性を磨きたいです。

(E.I. 60代)


2026年2月14日土曜日

弱いところに働いてくださる神様

弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」 

新約聖書 ヨハネによる福音書 9章 2節~3節

私はずっと自分の弱い所を自分自身に責め続け、また母が私の悪いところばかりを指摘するから自分に自信が持てなくなったと、母まで心の中で責めていました。       

 先日、教会の礼拝後の勉強会で「教会には神様の働きが現わされるために弱い人たちも集められています」というお話がありました。その言葉を聞いた時、私がクリスチャンになったのは、神様が私の弱いところに働いてくださることを、私にも回りの人にも示してくださるためかもしれないと思いました。

 祈れない日があったり、他のことに気が散ったり、何もする気がおきなかったり、神様から離れそうになる時もあるのですが、その度に神様は私を引きもどし、離れないようにしてくださっているように感じています。私の中に頑なな心や思い込み、見えていない真理がまだまだたくさんありますが、神様が私に働いてくださることを信じ楽しみにして、神様に向き合う心を失くさずに生きていきたいと思います。

(S.O. 60代)


2026年2月7日土曜日

元気を出しなさい

しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。

新約聖書 使徒言行録 27章 22節

「元気を出しなさい」それはパウロの力強い言葉でした。

パウロは逮捕され囚人としてローマに向かう航海の途中、激しい暴風に巻き込まれました。船は揺れ、積み荷を投げ捨て、誰もが「もう助からない」と感じていました。そのような極限状況で、囚人であるパウロが船の中央に立ち上がり「元気を出しなさい」と告げます。不思議な言葉です。自由を奪われた身で、しかも船を動かす権限もないパウロが、なぜ、人々を励ますことができたのでしょうか。それは、彼の拠り所が状況ではなく、「神の約束」にあったからです。パウロは語ります。「神が私と共におられる。乗っている者は誰一人失われない」。彼の信仰は、乗組員の命を飲み込もうとする嵐の中で、静かな灯のように人々の心を照らしました。

パウロは特別だから励ませたのではありません。彼は恐れない人ではなく、神に信頼して立ち続けた人でした。彼の内側にあったのは、「神が共におられるなら大丈夫だ」という確信です。だからこそ囚人という弱い立場でも、人々の支えとなり、嵐の船を導く声となれたのです。

人生にも嵐があります。病、喪失、失敗、人間関係の行き詰まり・・・。そんなとき、私たちは自分の弱さを責め、励ますどころか落ち込んでしまいます。しかし嵐の中のパウロは語ります。「弱いからこそ、神の力が働く」と。私たちも欠けがあってもいいのです。囚人のパウロが希望を語ったように、どんな立場でも、神さまの約束に支えられて生きるなら、誰かに光を届ける人へと神さまは、導いて下さいます。「元気を出しなさい」という言葉は、私たちにも向けられています。神さまは共におられ、失われる者は一人もいません。「主が共におられるから大丈夫だ」と神さまにより頼む信仰を与えて下さいと祈る毎日です。

(H.K. 60代)