2025年9月27日土曜日

み言葉に助けられ

おのれの心を治むる者は城を攻取る者に愈る。

旧約聖書 箴言  16章 32節(文語訳)

1948年、恵泉女学園に入りました。入園式の折、河合道園長先生が、お祝いの言葉として、「この聖書の言葉を皆さんに差し上げます。おぼえて下さい」とおっしゃいました。私は、何を意味する言葉か、理解出来ませんでしたが、「おぼえなくては!」と思い暗記致しました。

現在の新共同訳聖書には、「自制の力は、町を占領するにまさる」と書いてあります。あの頃の私は、何の意味かわかりませんでしたが、年を重ねるにつれ、このみ言葉にどんなに助けられ、今まで生きてこられました事を心から感謝しております。                               

(K.N. 90代)


2025年9月20日土曜日

導かれるままに

何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

旧約聖書 コヘレトの言葉  3章 1節

毎晩床につく前に今日も一日無事に終えられてよかったと感謝する日々ですが、それはその日一日も神様に守られていたということ。

毎日の生活では落ち込むことも多々あります。その逆に小さな喜びも沢山あり、何事もなく過ごせている時はその有り難さを感じます。

そしてそのすべてが神様が私たちに与えてくださっているこの世での生の中で起きています。私たちは何一つ自分たちの力で何かを行ってはいません。

この大きい世界の中で自由にその時々を味わわせていただいているのだと、そして何も心配することはないのだと。

すべてを神様に委ねて、神様が示してくださる道を、信頼して歩みを進めればいいのだと思います。

神様が良しとされている世界の中で…。                               

(R.M. 60代)



2025年9月13日土曜日

主によって変えられる希望

互いに忍び会い責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主が貴女方を赦して下さったように、あなたがたも同じようにしなさい。……またキリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。

新約聖書 コロサイの信徒への手紙 3章13節、15節

朝は一日笑顔で、穏やかに過ごせますように、夜は一日の感謝で、お祈りと聖書の御言葉に耳を傾けています。

 しかし、年もとり、体のつかれもあり、何度注意しても、聞き入れられないと、ストレスと怒りがこみ上げて、ついきつい口調になってしまう自分が嫌になります。

 自分のなかにいる悪魔よ、出ていけと思いながら、この箇所を思い起こすのですが、又同じ事を繰り返している・・・でも、いつの日か、キリストの言葉があなたがたの内に豊に宿るように・・・と祈りの日々です。                                

(F.S. 70代)


2025年9月6日土曜日

主に委ねる

「私は主のはしためにすぎません。何もかも主のお言いつけどおりにいたします。どうぞ、いま言われたとおりになりますように。」マリヤがこう言うと、天使は見えなくなりました。

新約聖書 ルカによる福音書 1章 38節(リビングバイブル)

「確かにあの祈りは聞かれた」と思うことも多々ありますが、「あの祈りのせいで、逆にこうなってしまった」と思う事も何度もあります。

その度に、神さまを信頼し、神さまに身を委ねる信仰の基本的な事が実は出来ていないと思います。

このルカによる福音書の「受胎告知」の箇所を読んだ時に、マリヤの言葉に、信仰の深さを初めて感じました。聖書の中では、石打ちにより殺される事がよく出てきます。彼女自身も例外ではないのです。それも分かったうえで、あのセリフを言えたマリアは、「やはり神さまに選ばれた信仰者なんだなぁ」と思います。

私もしっかりと信仰の土台を据えたいと思いました。                                

(Y.S. 40代)


2025年8月31日日曜日

羊を感じた日

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

旧約聖書 詩編 23編 1節

私にとって、この箇所は思い出があります。その思い出はつい最近できたものです。それは大学受験のこと。面接で、面接官が聖書の特定の場所を読み、私たちはその場所を開いて、どういうことを言っているか説明する、というものがあります。場所は旧約聖書も新約聖書もあらゆるところから出ます。しかし過去の情報を見ていると旧約聖書は創世記か出エジプト記だし、どれも超有名なところ。新約聖書も同じように有名なところ。詩篇はまぁ出ないだろうと思って私はほとんど対策をしていませんでした。それで、この箇所がタイトルになっているということはまぁ...出たという事なんですね。

それは面接の待ち時間のこと。かなり待ち時間が長く、初めて会う受験生たちと話すようになり、どこ対策した?なんて話になりました。そこで一人の子がここ有名だよね!とこの詩篇23篇を出してきたわけです。私はえ?どこそれ?と場所を教えてもらい一応頭に入れておきました。そしてそのあと丁度そのあと面接でそこが出て、答えられたわけです。羊飼いは当時最も階級が低い人の仕事で、常に羊を守っています。神様は手の届かない存在ではなくて、ずっとそばで見守って、助けてくださったんだなと思った瞬間でした。                                

(S.I. 10代)


2025年8月24日日曜日

「盲学校の卒業生を励ますオルゴール」掲載後のできごと

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。

旧約聖書 イザヤ書 41章 10節

私はこの記事が教会のHPに載った直後に、NHKに手紙を書きました。記事を読んだ教会員のひとりが「(ニュースの中で)匿名の贈り主のことも取り上げてほしかった」と言ったからです。手紙には、ニュースに感銘を受けたこと、オルゴールの贈呈はどんな方が(個人? 団体?)実践されているのか、私もこの働きの仲間に加えてもらえないか等、匿名の贈り主と連絡をとりたい旨を記し、簡単な自己紹介と連絡先をつけておきました。

一カ月以上何の音沙汰もなく手紙のことを忘れかけていた7月24日の夜、Eさんという方から突然メールが届きました。ニュースを制作されたNHKのディレクターです。驚きながら中身を読むと、Eさんもオルゴールの贈り主をご存知ありませんでした。盲学校もその方の意志を尊重し、あえて交流は持っていないとのことです。そして最後に、私から手紙を受け取ったことは盲学校に伝えるとありました。肝心のことがわからず残念でしたが、わざわざ連絡してくださったご親切に感謝し、すぐさまEさんにお礼のメールを差し上げました。

すると翌日、Eさんからふたたびメールが来ました。私が見たニュースは、4月20日にNHKで放送された別の番組「Dearにっぽん 心をつむぐオルゴール」で紹介できなかった卒業生のケースをニュースにしたものだそうです。

オルゴールが贈られるようになったきっかけは、61年前(1964年)の新聞記事とのこと。盲学校高等部の生徒が「心の友」としていたクラリネットを公衆電話に置き忘れ、探しても見つからず困っているという内容で、記事を読んだ人が学校に真新しいクラリネットをプレゼントしてくれたそうです。同じ人が翌年の3月、この学校の卒業式に合わせて20人の卒業生にオルゴールを贈ったのがオルゴール交流の始まりです。以後毎年、卒業の時期になると卒業生の数を確認する電話が盲学校に入り、今年を含めてオルゴールを手にした卒業生は670人以上になるということでした。

匿名の贈呈者と盲学校のオルゴール交流が末永く続いてゆきますように。オルゴールを受けった卒業生とご家族の将来に神の特別な守りがありますように。そして、このような素敵な番組をお作りになったEさんはじめNHKの方々が、これからも充実したお仕事をお続けになりますように。                                

(H.M. 70代)


2025年8月17日日曜日

まだ赦せない、でも、赦せたら楽だとは理解している

七の七十倍まで赦しなさい。

新約聖書 マタイによる福音書 18章 22節

マタイによる福音書18章21~35節の聖書の言葉を心にかけています。

ペトロが「兄弟が私に罪を犯したら、何度まで赦すべきでしょうか。七度までですか」と尋ねたとき、イエス様は「七度どころか、七の七十倍まで」と答えられました。

「私には無理だな」と思ってしまいます。私は昔から、変なことにこだわり、固執しやすいです。「赦したほうが楽になれる」「自分のためにも手放したほうがいい」のかもしれませんが、追いつきません。

すごく親しい人との関係で許せないことが起きました。イライラしたり悲しくなったりします。今後の関係性も悩ましいです。

このたとえ話の後半に出てくる「赦された者が赦せなかった話」もまた、興味深いです。

神さまに何度も赦されてきたのに、人に対しては一度の過ちすら赦せずにいる――それでも尚、「赦せました!」とはとても言えず、「赦せたらいいのかもしれないね」程度です。

この正直な気持ちを神さまに隠さず、いつか「赦すことを喜べる心」をいただけるように。

お祈りしながら、歩んでいきたいと思います。                                 

(S.K. 30代)