2024年8月18日日曜日

イジメられた相手のための祈り

敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

新約聖書 マタイによる福音書 5章44節後半

昨年(2023年)の秋、大阪で開かれた小・中学校の同窓会に出席しました。集まったのは二人の恩師と二十数名の仲間。十代前半の昔と古希の今との風貌の違いに驚きつつも、懐かしさに浸れたひとときでした。

残念なのは“ガキ大将”が現れなかったこと。当時、野球に似たキックボールをよくしたのですが、自分が蹴ったボールが受けとめられアウトになると怒り出す変な奴で、私もののしられ嫌な思いをしたことが何度かあります。60年経ってどんな爺さんになったか確認したいし、何より昔の無礼を詫びてもらわなければなりません。しかしそれは、喜寿同窓会に持ち越されたのでありました。

上記と関係して、私がキリスト信仰をもった四十数年前、とても感動した話があります。ドラえもんのジャイアンのようなガキ大将A君にいじめられるので学校に行きたがらない息子に、クリスチャンの父親が「いっしょに祈ろう」と言います。すると息子は「今日A君に会わないようにしてください」とか「A君が病気になりますように」と祈りだします。これを聞いた父親は、「A君と仲良くなれますように」と祈ったらどうだろうと諭すのです。

話を読みながら冒頭のイエスの言葉が頭に浮かびました。他の福音書の並行箇所では「……敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(ルカによる福音書6章27節後半)とあります。社会情勢が変化し悲惨なイジメ事件が頻発する世の中ですが、クリスチャンの祈りの基本姿勢として、上記の逸話は今も心に残っています。

(H.M. 70代)


2024年8月11日日曜日

扉を打ち砕いてくださる神さま

主は青銅の扉を破り 鉄のかんぬきを砕いてくださった。

旧約聖書 詩編 107編 16節(口語訳)

「絶望などしない」などと強がりを言っている自分ですが、どうしても不安や心配が先に立って、目の前に立ちはだかるものを乗り越えられない時があります。そのような時には、壁を乗り越えるというより、乗り越える先につながっている、この扉を主が打ち破ってくださる、という力強いみ言葉に救われています。主は慈悲深く、扉を内側から優しく開けてくださる時もありますが、このように、鉄のかんぬきを砕くかのように私を鼓舞してくださる時もあります。そうして私は幾多の困難を乗り越えてきました。乗り越える必要がない、と主が思われるときは、扉はそのままです。それでいいのです。主は私の全てを知っておられ、私は主にお任せしているのですから。

(E.I. 60代)

2024年8月4日日曜日

恵みを数えて

わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。

旧約聖書 詩編 103編 2節(口語訳)

私たちを、いつも温かい眼差しで見守り、愛して下さっている神さまは、日々の歩みを守り導いて下さっています。

日々たくさんの恵みを与えられているにもかかわらず、その事を忘れ、他人と比べて自分にないものを羨んだり、物事がうまくいかないと、不平・不満をもらすことも少なくありません。

一日の終わりに、その日を振り返ると、神さまから与えられた恵みの数々に気が付きます。神さまに守られ導かれ、愛されている現実を感謝し、神さまを賛美せざるを得ません。

(H.K. 60代)


2024年7月28日日曜日

12弟子のユダでさえ

しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。

新約聖書 ルカによる福音書 22章 3節

イエスの弟子のひとりとして選ばれたユダの中にサタンが入った、という衝撃的なことが記されています。12弟子という主イエスに最も近くにいた者さえ、サタンの誘惑に落ちています。歴史的にユダは裏切り者の代名詞のように言われていますから、そのような先入観で何の抵抗もなくこのところを読んでしまいますが、冷静に考えるとこれは驚くべきことではないでしょうか。

主イエスに彼ほど近くにいなく、むしろ遠くにいる自分などはもっとサタンが攻略しやすいところに置かれていることに改めて気づかされ、身も心も引き締まる思いをしています。このことをいつも心にとめていなくてはならない、と日々思わされています。

(K.O. 80代)


2024年7月21日日曜日

恵みと慈しみに包まれた生涯

命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。

旧約聖書 詩編 23編 6節

私の母はクリスチャンで、主と共に歩み、85歳でその生涯を終えました。母の人生、特に晩年の姿を思うたびに、私は聖書のこの言葉を思い起こします。いつも穏やかで、神さまに信頼して歩んでいた母は、どんな時も、私の心の支えとなってくれる存在でした。つらいことや苦しいことがあっても、神さまに委ねて前向きに生きている母を見ていると、私の心も安らぎました。神さまの恵みと慈しみの中に、私も憩うことができました。

やがて時が移ろい、老いや病を経験するようになっても、信仰によって恵みのうちに生きる母の姿は変わりませんでした。晩年の母は車椅子の生活となりました。不自由なことも増えました。最期の病においては痛みと闘いました。けれども、母は不平やつぶやきに陥ることはなく、日々の歩みの中に与えられている主の恵みと慈しみを感謝していました。そして、母は、これ以上ないくらい平安のうちに、神さまの御許へと召されていきました。このように母の生涯を恵みと慈しみで包んでくださり、天国へと迎え入れてくださった神さまは、なんとも優しいお方だと思います。

(K.T. 40代)






















2024年7月14日日曜日

私を強くする力

わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 4章 13節

数年前、定年にあたって私は後事を信頼する女性の後輩に任せて管理職を退き、定年後再雇用職員となりました。後輩は才能豊かなやり手であり、それゆえにとんがっているところがあって仕事に厳しい人でした。それが災いしたのでしょう、1年後、部局の責任者がこれみよがしのパワハラを始めました。私が現場に居合わせた時はその都度、違法性を指摘してパワハラ行為を止めました。ところが、時間が経つとまた繰り返すという確信犯で、他の管理職も見てみぬふりでした。思いあまった私は仕事で知り合った弁護士に相談。違法性がはっきりしていると確信して後輩と共に組合に告発しました。

当時の私は最末端の職員です。上に逆らってその後どうなるかわかりません。しかし、元部下の苦衷を見過ごすことはできませんでした。そんな決断を支えたのはこの聖句にあるように、私を支えてくださる神さまがおられると信じていたからです。

幸い私と後輩の告発は組織の最高責任者の耳に届き、彼の英断でパワハラ上司は処分されました。かろうじて組織の健全性が保たれた事件でした。

(M.I. 60代)



2024年7月7日日曜日

苦しい時ほど

悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ。

旧約聖書 コヘレトの言葉 7章 3節

この箇所を読むと、「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマの信徒への手紙 5章3-4節)を思い出す。わたしたちの精神が常に穏やかで、悩みもなくて、その生活が常に笑いに満ちたものであったら、この世界はどんな風になっていたのだろうか。ちょっと想像がつかない。

わたしたち人間のこころには常に両極的な働きがある。善があれば対極に悪があって、愛があれば対極に感情に麻痺して無感情になってしまうかもしれない。そう考えると、感情、思考、感覚、直観の振れ幅が人間のこころを形作っているのかもしれない。

わたし自身は悩み苦しみのなかで神様に出会った。神様は、わたしたち人間のこころが相対的、両無関心があって、幸せがあれば対極に不幸がある。もし、わたしたちが常に笑いの中にあったら、喜びという極的であるのとは違って絶対的な存在で、全てを知っている方である。

それからは、苦しい時ほど全てを神様にお任せして、こころを楽にして生きられるようになった気がする。

ちょっと逆説的に感じる聖句だが、(悩み、苦難をこれからもいっぱい経験していけたらなあ)と思ってしまうのは私だけだろうか。

(Y.T. 50代)