2024年12月22日日曜日

イエス様の光

 傷ついた葦を折ることなく
 暗くなっていく灯心を消すことなく
 裁きを導き出して、確かなものにする。
 暗くなることも、傷つき果てることもない。

旧約聖書 イザヤ書 42章 3~4節

私がこの聖書の御言葉に出会ったのは、大学生のときでした。この時期になると、街中にクリスマスソングが流れ、ライトアップされ、明るい気分になりました。23歳のこの時期に入院するまでは。病室で、何気なく点けてみたテレビには、クリスマスソングや、ライトアップされた画像がありました。しかし、当時の私には、はるか遠い世界のように感じられました。そんな時、病棟クリスマス会、先生サンタ登場、ナースのキャロリング。夕食は、メッセージカード付きのクリスマスメニューでした。

まだ病気を受け入れられていなかった私は、平静を装っていても、闇の中を沈み続けているような時期でした。聖書の御言葉は、支えでした。それでもまだ闇の中にいるような感覚があったのです。病棟クリスマス会、夕食を食べながら涙が止まりませんでした。私は、悩んでいたけれども、まわりを見渡せば、こんなにもたくさんの方々が支えてくださっていること、そして、孤独を感じていたけれど、それは、自分勝手な考えであったこと、わたしが心を開けていなかったからだよと、神様が私に気づかせ、そっとやさしく教えて下さったのです。このクリスマスプレゼントは、私の人生で大きなプレゼントのひとつと思っています。

神様は、このような私にさえも、いつも共にいて歩んで下さっています。クリスマスの時期になると、あの時の様々な思いがよみがえります。

今年も、私の心に光を与えて下さるイエス様のご誕生、クリスマスを待ち望むことができることに心から感謝します。

(O.E. 40代)



2024年12月15日日曜日

神様からの私たちすべてへの贈り物

見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。だれかわたしの声を聴いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

新約聖書 ヨハネの黙示録 3章 20節

子供の頃は、クリスマスには家族でケーキとごちそうを食べ、プレゼントをもらえる日として毎年楽しみにしていましたが、クリスチャンになって、イエス・キリストがこの世にお生まれになったことは神様の、深い人間への愛ゆへの壮大な救済計画であることを知りました。  

私は神様の前に出られるような人間ではないと思っていました。しかし、そのような人々のためにイエス様は人間となりこの世に来てくださいました。私たちは身も心も罪もゆだねイエス様を信じれば許され変えられ救われるという良き知らせは、神様から私たちへの素晴らしい贈り物であることを知りました。  

しかし、イエス様は贈り物をもって戸の外に立ってノックしてくださっているのに、私はまだ扉を全開にして迎え入れられず、恐る恐る少しだけ開けたような状態です。子供のように素直にイエス様からの贈り物を受け取れたらどんなに素晴らしいことでしょう。私を含め多くの人がクリスマスの本当のプレゼントを受け取れますようにと祈りたいと思います。

(S.O. 60代)



2024年12月8日日曜日

忘れられないクリスマスの歌

神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。

新約聖書 ヨハネによる福音書 3章 16節

昔、娘が通っていた保育園でクリスマスにキリスト生誕オペレッタが披露され、その中で園児たちが次の歌を歌ってくれました。

1 夜空に星がなくっても あなたの瞳は星のよう
  神さまの光を受けたから
  <クリスマス おめでとう ハレルヤ!>  *2番以降も最後にこの部分を歌う。

2 ろうそくの灯りがなくっても あなたの胸にともしびが
  神さまの愛に触れたから

3 まっしろな雪がなくっても あなたの心は雪のよう
  イエスさまの血潮で清められた 

4 なんにもプレゼントなくっても あなたに素敵なプレゼント
  神さまがひとり子を与えられた 

5 あなたの心にイエスさまが この夜お生まれになさったら
  素晴らしい 素晴らしい クリスマス 

あどけない歌声を耳にしながら、冒頭の聖書の言葉が心に迫って来たものです。私にとってはかけがえのないクリスマスの一曲です。 

イエス様を心にお迎えするとき、イエス様の十字架の血潮で私たちの心は変えられ、神様と和解できるようになります。そのあともずっと、復活されたイエス様の霊が私たちの内に住んでくださり、進むべき道に導いてくださいます。神様のこの大きな愛、それをこのクリスマスの時期に改めて心に刻みたく思っています。 

あなたの心にイエス様が生まれてくださいますように!

(H.M. 70代)



2024年12月1日日曜日

神の大きな計画に用いられる喜び

わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者というでしょう、
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。

新約聖書 ルカによる福音書 1章 47~49節

ある日、イエス・キリストの母となるマリアのもとに天使が来て、「あなたは身ごもって男の子を産む」と言いました。マリアはまだ結婚していなかったのに、神さまの力によって、男の子を身ごもるのです。大変不思議なことですが、このことのゆえに、マリアは神さまをほめたたえました。その言葉の一部を冒頭に掲げました。 

これは、「マリアの賛歌」という歌として伝えられています。「マリアの賛歌(マニフィカート)」は、J.S.バッハなど、いろいろな作曲家が曲にしています。私はパイプオルガンを習っているのですが、「マリアの賛歌」を弾いたことがあります。大きな喜びを表す、生き生きとした曲です。

では、なぜマリアは神さまをほめたたえ、神さまを喜んでいたのでしょうか。それは、神さまがナザレという小さな村に住むマリアを顧みてくださったからです。マリアを通して、イエス・キリストの誕生という、神さまの大きなご計画を実現してくださるからなのです。マリアは、神さまが小さな私に目を留めてくださって、神さまの大きなご計画のために用いてくださることがわかり、大きな喜びで満たされていたのでした。

私にとっても、神さまが小さな私に目を留めてくださっていることを日々知ることは、深い安心感とともに大きな喜びです。また、神さまの大きなご計画のために、この私が用いられることは、不思議さを感じるとともに大きな喜びとなります。このような喜びは、すぐに消えてなくなるような喜びではありません。永遠に残る喜びです。そして、永遠に残る喜びは神さまから来るのです。

(K.T. 50代)


2024年11月24日日曜日

洗礼に導かれた御言葉

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 10章 9節~10節

両親の反対で、しばらく教会へ毎週通わせてもらえない時期がありました。でも、イエス様を信じてさえいれば、いつか自分が死ぬまでに、両親の了解を得て洗礼を受けられれば良いのかな。と、その時はのんびり思って過ごしていました。ところが、ある日突然『やはりまず自分だけでも洗礼を受けよう!』『今、受けなければ、急に死ぬことになった時にきっと後悔する!』と、いてもたってもいられない気持ちにさせられた御言葉は、正にこの言葉でした。

心の中で信じていれば、イエス様はきっと解っていて下さるだろう、という思いだけでは何かが足りないのかもしれない。反対されていた為にいつも心に隠していて、私は人前できちんと、『イエスは主である』と公に言い表す行動をしていないから、まだ救われていないのだ。それが〈洗礼を受ける〉ということなのかもしれない。と気づかされて衝撃を受けたのでした。

無事に洗礼を受けさせて頂き、その時からようやく私は、神様に罪を許して頂いて救われました。それから27年経ち、父は今年の7月に97歳で亡くなりました。教会には通いませんでしたが、神様に救われて感謝と平安の内にあった私をずっと見ていて、内心は許してくれていたように思います。来年90歳になろうとしている母も、私が毎週教会に行くことを、父と同様に以前ほどあまり反対しなくなってきました。残された母が、やがて神様を信じて『イエスは主である』と公に言い表して私と同じ様に救われる日が訪れることを祈りつつ、日々神様の御言葉を求めていきたいと思っています。

(50代)


2024年11月17日日曜日

神さまがともにいてくださる

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。

新約聖書 ヨハネによる福音書 15章 12節

神さまは、どれほどわたしたちを愛してくださったのでしょう。イエスさまをこの地上にお与えくださり、そのお方は、わたしたちの罪のために十字架におかかりになり、ご自分の命を捨ててくださいました。これほどの大きな愛がほかにあるでしょうか。とうていことばでは表しきれません。本当に本当に感謝です。わたしの心の中にはいつもこの聖句があり、支えです。そして自分にできることはお返ししなければと思います。人はひとりでは生きていくことはできません。いつも神さまがとなりにいてくださいます。助け合い、思いやりあい、自信をもって日々過ごしていきたいと思います。

(H.K. 60代)


2024年11月10日日曜日

望みを抱く

重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。

新約聖書 マルコによる福音書 1章 40節

イエス様に願う。絶望の底にいる人が「願い」をもつことができるのか。

願ってもかなえられることはない――願うことすら愚かに思える。そんな境遇に置かれたことが幾度となくあります。

病のせいで汚れているとみなされ、蔑まれ、社会から排除されたところで生きていたこの重い皮膚病の人。人としての尊厳と権利をことごとく奪われていたこの人は、イエス様のところに来て「願った」。わたしが当時の社会で重い皮膚病を患っていたら、この人のように「願う」ことはできない気がします。イエス様と出会えず、「願う」こともできず、地上の生を終えた人々がいたこともまた想像するに難しくありません。

「イエス様」の噂をこの人はどこかで聞いたのだと思います。その「御名」が「望む力」を与えたようにわたしは感じます。希望する力、生きようとする力、交わりを求める力、自分は神に見捨てられていないと信じようとする力。

わたしが日々生きるこの街にも、希望を失っている人がたくさんいると思います。わたしもその中の一人です。

イエス様の御名が、望みをもてないすべての人の耳に届きますように。

そして、イエス様の御名の力を共に知ることができますように。

(Y.S. 30代)