2021年12月26日日曜日

終戦後、再会した父の祈り

あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。 

新約聖書 ヨハネによる福音書 16章33節

 
太平洋戦争が始まった昭和16年(1941年)は、私が台湾の高等女学校に入学した年でした。緒戦の勝利は徐々に逆転、敗色が漂う昭和19年の春、父は仕事で単身、インドネシアに赴任していきました。台湾も連日の爆撃におびえる日が続き、やがて終戦の日を迎えました。蒋介石の軍隊が進駐してきて、50年に及んだ日本の台湾統治も終わり、在留日本人の引揚げが始まりました。私たちも昭和21年3月、許されたわずかな物をリュックに入れ、着ぶくれて帰国しました。やっと辿りついた大分の父の実家で「父がすでに帰国し、東京本社で残務整理をしている」と聞かされ安心し、大喜びしたのを覚えています。

3か月後、父が迎えに来てくれ、上京し社宅に移ったその晩、泥棒が入って、引き揚げ時に持ち帰ったほとんどの衣類をリュックごと持っていってしまいました。
呆然としている私たちに父が示してくれたのが、この聖句でした。「あの戦争で亡くなった人は大勢いる。我が家は皆元気で再会できた。これ以上の感謝はない」と言って、祈ってくれました。

こうして我が家の戦後は0からの出発となりましたが、あの日を昨日のことのように懐かしく思い出しています。

(S.O.  90代)




心の重荷をイエスさまに告げる

この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。 

新約聖書 ヘブライ人への手紙 4章15節~16節

 

イエスさまは、私たちの罪のためにご自身の命を犠牲として献げて、神の御前に立って私たちのために執り成してくださる大祭司です。イエスさまは神の御子であられるのに、弱さを身にまとうひとりの人間として生き、自らは罪がないのに罪人と同じところに立ち、あらゆる点において試練に遭われました。悪い方へと誘う力に満ちたこの世界において、限界のある人間の体をもって生きるということがどれほど大変であるのか。イエスさまはその肉体をもって味わってくださいました。

それゆえ、私たちは自らの弱さと罪に対する悲しみで心がいっぱいになる時も、恐れることなくイエスさまに近づくことができます。イエスさまに心のすべての重荷を告げることは、私の慰めであり、再び歩み出すための力の源なのです。

(K.T.  40代)




2021年12月19日日曜日

本当のキリスト生誕日

言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 

新約聖書 ヨハネによる福音書 1章14節

 

「キリスト、ベツレヘムに()れたもうこと千たびに及ぶとも、キリスト、()が心に()れたまわずば、()が心は永遠(とこしえ)に失われてあり」。『イエス伝詩集』という小冊子に掲載されていたこの詩が心に残っています。私の心にキリストが生まれてくださったのは12月25日ではなく、6月3日でした。直前まで、自分がクリスチャンになるとは思ってもいませんでした。興味本位で出かけた教会の伝道集会から下宿に帰った直後の回心でした。50年前のこの日から人生が全部変わりました。私にとっての運命のキリスト生誕日です。その夜見上げた夜空を今でも覚えています。

(M.I.  60代)




イエスさまにつながっている喜び

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 

新約聖書 ヨハネによる福音書 15章5節

 

イエスさまがぶどうの木で、私はその枝である。どんなときもずっと私を愛してくださっているイエスさまにつながっているということは、とても安心なことです。そのうえ、イエスさまと共にあるならば、私は豊かな実を結ぶというのです。私には特に目立った才能や特技もありませんが、イエスさまの必要とされる豊かな実が私の人生にも実っていることを思うと、嬉しくなります。私の弱さや足りないところなど、イエスさまは全く問題にされず、「わたしにつながっていればいいのだよ」と声をかけていてくださるのです。このイエスさまに私の全存在を委ねたいと思います。 

(M.T.  80代)



2021年12月12日日曜日

闇を照らす光

その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 

新約聖書 ヨハネによる福音書 1章 9節

 

母校のクリスマス礼拝で、イエス誕生の場面が演出されました。この礼拝の最後は、暗い会場の中、ろうそくを持った聖歌隊が讃美歌を歌いながら退場するのです。中学1年生の私は、その光景や讃美歌の美しさに心を奪われました。
「くしき星よ 闇の世に」
讃美歌118番です。4節まである歌詞に、イエスの誕生の場面が全て描かれています。なかなか耳にすることがないのですが、とても美しいメロディーで、心から歌ってみたいと思った讃美歌はこれが初めてかもしれません。

暗闇の中でこそ、光が輝く。クリスマスの時期は色々な場所でイルミネーションが輝きます。私たちの心の中も、神さまという光が照らしてくださっていると信じています。

*頌栄infoの「賛美のページ」に讃美歌118番の音源が掲載されています。よろしければお聴きください。

(R.M.  40代)



神様の目には

わたしの目にあなたは値高く、貴く
わたしはあなたを愛し…
 

旧約聖書 イザヤ書 43章 4節

 

新型コロナウィルスの世界的な大流行により、それまでの自分の生活や周りの環境、夫婦それぞれの家族の状況などが一変しました。 

それまで自分が心の拠り所としてきた大切な場所や人間関係、立場などを一旦全て手放さざるを得なくなり、もう私には何もない、何もできない者なのだと、自分の価値を見失っていたときに、上の聖書の言葉に慰められました。

人間の価値は功績や所有物ではなく、どんな状況でも私のことを高価で尊いと言い、愛して下さる神様のもとにあることを思い起こすことができました。そして無力な自分でも、ただ神様を慕い求めることを、主は何よりも喜んで下さるのだと知った時に、再び一歩ずつ前へ進む力が与えられました。

(M.K.  30代)


2021年12月5日日曜日

神の優しい眼

畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。 

旧約聖書 レビ記 23章 22節

 

聖書には神が人間に与えた「教え」(律法と訳されています)がたくさん書かれていて、これはその一つです。初めてこの言葉に出会ったとき、神はなんと優しい方だろう、と心を打たれました。
 
収穫作業が終わると、こぼれた穂や刈り残しの穂を集めようと、貧しい人たちが畑に入ってくる。それを、泥棒とみて追い払う人たちもいたのでしょう。しかし神は、落ちた穂はそのままに、それどころか、隅々まで刈り尽くさずに残しておきなさい、と言われます。
 
努力して稼いだ金を、努力しない(ように見える)人に使われたくない。そう思ってしまうのは、古くから変わらない、人間の心情なのかもしれません。でもそれでは、幸せでいられないよ、と神は言っておられるのだと思っています。

(F.K.  50代)



天の国に属する者として

しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 3章20節

 

クリスマスに向けて準備を始める時期になりました。私にとっては、生まれて初めて、母国であるメキシコ以外で迎えるクリスマスになります。そこで今年は特に、上に記した使徒パウロの言葉を心に留めながらクリスマスまでの期間を過ごしたいと思っています。

私は今年から日本で生活しています。その中で日本に住む外国人、またクリスチャンとして、このパウロの言葉の意味をより深く思い巡らせるようになりました。母国から遠く離れた地に住むメキシコ人として、故郷の家に帰りたい、そして幼なじみや学生時代の友人に会いたいと強く願う気持ちもあります。私のように外国生活を送る者の多くは、このようにいつか母国に帰れる日を待ち望みながら、そのための準備をしているのではないでしょうか。 

イエス・キリストを通して罪を赦され、神の子とされた私たちは、この世ではなく天の国に属する者とされました。そのため私たちクリスチャンはこの世界に生きながらも、天の国に国籍があることを覚え、そこからイエス・キリストが再び来られる日を待ち望みながら歩んでいるのです。私が生まれ故郷のメキシコへ帰る日を待ち焦がれながら自分を整えていくように、この世界では「外国人」である私たちが、いつか本国である天の国に迎えられることに思いを馳せながら、今年もクリスマスを感謝してお祝いしたいと思います。

(C.S.  30代)


 



2021年11月28日日曜日

クリスマスの手袋


 「求めなさい。そうすれば、与えられる。」

新約聖書 マタイによる福音書 7章 7節

 

クリスマスの近いある日、デパートの手袋コーナーで、美しい藤色の手袋を見かけました。そのとき、教会の友人の顔が思い浮かびました。彼女に似合いそう!と、買い求めました。

教会で渡した数日後に、彼女から、こんなハガキが届いたのです。

「実は、あなたからのプレゼントを開けずに帰宅して、帰り道で手袋をなくしたと気づき、探したけれどなかった。がっかりしてプレゼントを開けてびっくりしました」

神さまは必要なものを与えてくださるのですね。

(M.H.  50代)



賜物を生かして

あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。 

新約聖書 ペトロの手紙一 4章 10節

 

自分のおかれている場で、努力した成果が、思うように得られず、そればかりか、自分の望まない展開になってしまうこともあります。その原因は自分の中にあり、何とかしなければと考え行動します。しかし、思い通りにならない現実に、自分の弱さや限界が露呈し、他の人と比較し、劣等感を覚えたり、自己嫌悪に陥ってしまうことがありました。
 
そんな時に、出会ったのが、この聖句です。自分を人と比較して、落ち込んだり、悩むことはない。神さまから与えられた賜物を日々の生活の中で、精一杯発揮すればいいのだと思うと、気が楽になりました。日々の生活において自分らしく振舞うことの大切さを実感出来るようになりました。弱さ・欠けの多いこんな自分を神さまは憐れんで下さり、ありのままの私を受け入れ愛して下さっていることを覚えて感謝致します。神さまから与えられた賜物を生かし、神さまと人とに仕えて行きたいと願います。

(H.K.  60代)



2021年11月21日日曜日

空虚さからの解放

上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。 

新約聖書 ヤコブの手紙 3章 17節

 

教会に来る以前、私が熱望していたのは「知恵」を得ることでした。劣等感が強く、いつも不安だった私は、「知恵」に満ちていれば幸せになれると、本気で信じていました。だから、何か良いものが得られそうな本を片っ端から読んでいました。でも、読めば読むほど不安は深まり、そこに空虚さまでも加わりました。

そんな時、読んでも訳が分からず、放り出したままの聖書を思い出しました。むしょうに、聖書に何が書いてあるのか知りたくなりました。「教会に行けば教えてくれるかもしれない」そう思って日曜日に教会の礼拝に行ってみました。牧師さんに「聖書に何が書いてあるのか教えて欲しい」とお願いしました。そして、神さまのことを一から教えていただきながら、自分で聖書を読み始めました。書かれていることの意味は、ほとんど分かりませんでした。でも、憑かれたように読み続けて一か月が過ぎたとき、あの心の不安、空虚さが消えていることに気付きました。

知識に富み、賢くあることで武装することを、もう目指さなくていいのだ。「上からの知恵」である神の言葉が、私を解放してくれたと信じています。

(H.K.  50代)




罪なき者が打て


 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 8章 7節     

 

宗教指導者たちがイエスを試そうとして、姦通の現場で捕えられた女性を連れてきました。彼らは「法律では姦通者は石で打ち殺せ、となっていますが、どうお考えですか。」とイエスにいった。それを聞いてイエスが発せられたのが冒頭の言葉です。このイエスの言葉を聞いて年寄りから立ち去り始め、そして誰もいなくなったと書かれています。これまでの自分の人生を振り返る時、石を投げられずに去っていった人たちに自分が重なって見えました。むしろ、自分はこの女性と同じように、罪を問われなくてはならない者であることを思い知らされました。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。」というイエスの言葉を聞いた時、彼女はどれほど感謝と喜びに打ち震えたことかと思います。僕にも向けられた、このイエスの言葉に安堵し、救われました。「行きなさい」が「生きなさい」と聞こえて、心から悔い改めるとともに、感謝の思いにあふれました。

(K.O.  70代)



2021年11月14日日曜日

すべて益となる

万事(すべてのこと)が益となる。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章 28節

 

4年前、職場の後輩に対する上司のパワハラを見かねて文書をもって告発しました。組織を相手にした個人の闘いは孤独な闘いでした。加えてプライベートでも、あるしんどいことに対応を迫られました。こうして周囲から楽しいことが消えました。

私はそれまで、人生に起こる「善いこと」と「悪いこと」を別々のものと考えてきました。ですから、「なぜこんな悪いことが続けて起こるのか」とその意味を理解しかねました。でも、その苦しみの中で、「神が愛である以上、すべて起こることは本当は善いことなのではないか」と気づきました。希望が見えました。

ある医師が医学生の時に手首をガラスで切ってしまい、外科医の道を閉ざされたそうです。やむなく精神科医の道を選び、後年、日本における終末期医療(ホスピス)の第一人者となりました。柏木哲夫先生です。その柏木先生が人生を振り返って、「不運」は実は「幸運」だったのだ、すべては益であったのだと語っています。

2年前、パワハラ上司は辞任しました。職場は後遺症に苦しんでいますが、上記の聖句のごとく、苦しかった経験が益となる日がやがて来ます。

(M.I. 60代)




へりくだって神と共に歩む

人よ、何が善であるのか。
そして、主は何をあなたに求めておられるか。
それは公正を行い、慈しみを愛し
へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。 

旧約聖書 ミカ書 6章 8節(聖書協会共同訳)

 

聖書は、私たちを神と共に歩むことへと導いています。それが私たちにとっての幸いであるからです。神が私たちに求めておられることは、そんなに多くはありません。公正(正義)を行うこと、慈しみを愛すること、そして、へりくだって神と共に歩むこと、です。

この聖書の言葉は、私が自分の歩みを振り返る時に、とても大切にしているものです。私は、神が与えてくださった人間関係を大切にしたいと願っています。しかし、自分の歩みを正直に振り返ると、他者に対しての愛が欠けることがあることに気づかされます。そんな時こそ、神の前にへりくだり、私を導き続けてくださる神と共に歩みを進めたいと思います。

(K.T.  40代)



2021年11月7日日曜日

神様はずっとそばにいてくださった

死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。

旧約聖書 詩編 23編 4節


小さい頃から教会学校に通い、そろそろ受洗の時だから受けてみたら?と言われて、信仰心もよくわからないままに洗礼を受け、その当時は、神様の啓示があって洗礼を受けたという人の話を聞くたびに羨ましいなぁと思っていました。

しかしある日、青年会のリーダーに、この聖句をのべて「もし地獄に行っても、この聖句の通りに神様がいつでも一緒にいてくださるなら、そこは地獄じゃないよね?」と素朴な疑問をぶつけたところ、リーダーは笑いながら「そういう風に思う人は地獄には行かないよ。神様と一緒に天国に行けるよ」と言いました。

これを聞いて、神様はずっとそばにいたのに自覚していなかったこと、そしてこれまで教会に通い少しずつ積み重ねてきたものが信仰心だったのだと、気付くことができました。
(K.N. 40代)


罪を取り除いて下さるイエスさま

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」 

新約聖書 ヨハネによる福音書 1章 29節

 

この聖書の言葉は、私にとって最も支えとなるものです。洗礼者ヨハネはイエス様について、「世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。そして、今、私にとっても、この言葉はイエス様に対する信仰の告白の言葉となっています。私を含めたすべての人間には罪があります。神様の前において正しい人間はひとりもいません。その昔、旧約聖書の時代においては、人々の罪のために小羊がいけにえとしてささげられていました。イエス様は私の罪を取り除く神の小羊です。イエス様が十字架にかかって死んで復活されたのは、私の罪を取り除くためでした。そのようにしてくださったイエス様に感謝します。

(M.T. 80代)


 

2021年10月31日日曜日

叔母からのハガキ

 「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 

新約聖書 マルコによる福音書 9章  24節後半

 

叔母が認知症と診断されました。毎晩「叔母の認知症がこれ以上悪くなりませんように」と祈りました。

何ヵ月かが経って、姉が「見て、これ!」と、一枚のハガキを見せてくれました。それは叔母から届いたハガキでした。とてもきちんとした内容と、整ったきれいな文字で、一時の叔母の状態では考えられないものでした。叔母は良くなったのです!

私は自分を恥じました。「これ以上悪くならないように」と祈っていたのは、「まさか良くなんかなりっこない」と決めてかかっていたからです。

神さまは私の思いを越えて、良いものを与えてくださるお方なんだ、と改めて示されました。 

(M.H. 50代)




主イエスが共にいる

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 

新約聖書 マタイによる福音書 11章 28節


結婚してまだ1年もたたないころ突然、金銭的な問題が私たち夫婦に起こりました。私はまだクリスチャンではありませんでした。精神的にも弱く、その問題に心が占められてしまいました。不安から抜け出して何とか心を安定させたいと思い始めたころ、実家の母の本棚で、羽仁もと子著作集の中に人生相談をまとめた本を見つけて、読んでみました。

クリスチャンであり教育者である彼女が、誠実に真摯にそれぞれの悩みに答えていましたが、その答えの根底には共通しているものがあるように思いました。それは、その問題が解決するための導きを神に祈り求め、愛と誠実さをもってその問題に向き合うことです。

1人で考えているときは悪い方に考えてしまい、恐怖に囚われていましたが、イエス様と共に歩むとき、安心感とプラス思考へと変えられました。                           

 (S.O. 60代)

2021年10月24日日曜日

お父ちゃん!と呼べる神さま

あなたがたは……神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章 15節


神さま、と言ったら、どういう方を思い浮かべるでしょうか。厳しい方、近寄りがたい方、想像も出来ない方でしょうか。

イエスさまは、わたしの味方になって下さるやさしい方、と思えるのに、神さまは、はるか彼方におられるように思えていました。

しかし、わたしたちは、神の子なのです。「アッバ、父よ」と呼んで良いのです。「アッバ」は、当時のユダヤのことばで「お父ちゃん」の意味です。神さまを「お父ちゃん」と呼ぶと、グッと身近になります。

イエスさまも、十字架に架かられる前、ゲッセマネでの苦しい祈りの時、「アッバ、父よ」と祈られました。

わたしは、神さまを見上げ、片目をつぶって、祈る時があります。口に出せば、「お父ちゃん!良いでしょ!」と、聴いて頂きます。

頼り切って祈ることばは、聴いて下さっていると、確信しています。
結果は、わかりません。神さまのみ心がなりますように祈ります。

(M.I. 70代)

心の幹

いかに幸いなことか 主を畏(おそ)れ、主の道に歩む人よ。

旧約聖書 詩編 128編 1節

 

健康のため、スポーツを楽しむために、「体幹を鍛える」などとよく言われます。毎日なにかしら運動をして、体を鍛えている人も多いのではないでしょうか。 

でも、生きていくためには、体とおなじくらい心も大切……「心幹を鍛える」のも大切で、それも、毎日すこしずつのトレーニングが必要のようです。 

信仰は、なにか利益や効能があるからすることではなくて、ただただ、すべての命の源(創造主)である神を畏れ敬い、その素晴らしい恵みに感謝することです。でも、折にふれて聖書の言葉を味わい、定期的に礼拝の場に身をおいていると、心にしっかりとした幹ができてくるのを感じます。

何があっても、この幹を支えに乗り切れる。信仰をもつことは、そのような強さと、そして心の自由も、与えてくれるように思います。 

(F.K. 50代)



2021年10月17日日曜日

父なる神のあたたかさ

まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

新約聖書 ルカによる福音書  15章 20節

 

洗礼を受けてからもしばらくの間、私は「父なる神さま」がどこか厳しい方に感じられ、親しみを持つことができないでいました。ある時、この聖書箇所を詳しく学ぶ機会がありました。ユダヤ人の社会では、この父親のように地位のある人が、人前でなりふり構わず走ったりすることは恥ずかしく、みっともない行為だと。それを聞いて、はっとしました。放蕩の限りを尽くして、みっともない姿で帰って来た息子。その姿を見つけたとたん、人目も構わず、息子と同じみっともない姿をさらして走り寄る父親の姿こそ、イエスさまが教えてくださった父なる神さまの姿なのだと。

やがて、失敗でもしようものなら厳しく罰する父なる神さまのイメージは、私の中から静かに消えていきました。幾度となくやってくる困難に、心がうつむきがちになる時は、その私を憐れに思い、なりふり構わず走り寄ってくださる、あの父なる神さまの姿を思い起こします。

(H.K. 50代)

祈りの時

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。

新約聖書 ヨハネによる福音書 15章16節

 

クリスチャンになり、心掛けていることは、「振り返りの祈り」です。就寝する前に、神さまの前に沈黙し、神さまと共にその日一日を振り返る時間を持つようにしています。その時に、「何故あの時あの様な行動に出てしまったのか?」「あの様な事を口にしてしまったのか?」と思うようなことが、多々あります。一日を振り返る時、自分がそのような言動をしない立派な者だから、それが認められ神の子とされたのでもなく、ましてや聖書の「十戒」に書かれている様な教えを忠実に守り行った報いとして、神さまが、「私とあなた」という親しい関係に招かれたのではないことを改めて思い知らされます。「神さまからの一方的な恵みによって、神さまが私を選んで下さった!」一方的な恵みによって救われ、神の子とされていることを真摯に受け止め悔い改める毎日です。この祈りの時に、次第に心は朗らかさを取り戻し、神さまへの感謝と喜びが心の中に広がります。

(H.K.  60代)

2021年10月10日日曜日

禅寺の聖句

神は愛なり

新約聖書 ヨハネの手紙一  4章 16節(文語訳) 

 

コロナで仕事を失ったシングルマザーが役所で支援を求める場面を報道番組で見ました。担当者が「あなたは(支援の)要件を満たしていません」と答えると、「ここに来たら助けてもらえるんじゃないんですか?ダメなんですか?」と泣き崩れました。衝撃でした。そして、「この人を救うものは何か?」と切実に考えさせられました。自分自身も人生の荒波にもまれていたからです。 

そんな私が書店で偶然手にした本がありました。その中に、著者が不治の病に冒されて救いを求めて禅寺に行く場面が出てきます。その禅寺に、不思議なことに聖書の一句「神は愛なり」が掛かっていたのです。この一句と禅僧の「今を生ききれ!」の言葉によってこの著者は死の淵から生還しました。「神が愛であるなら、この世界は悪いものであるはずがない」。そう思ったそうです。 

私もその本を読んで、「神が愛なら私が経験している苦難も良きことなのだ」と覚悟が決まりました。救われました。あのシングルマザーにも知ってほしいことでした。

(M.I. 60代)

主イエスのまなざし

そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ鶏が泣いた。ペトロは、「鶏が泣く前に、あなたは三度私を知らないというだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

新約聖書 マタイによる福音書 26章 74-75節       

 

ユダは裏切り者の代名詞のように言われていますが、もう一人一番弟子のペトロがいます。ペトロは自分の裏切りがイエスに知られていたことに気が付いた時、激しく泣いた、としるされています。しかし、この気づきでペトロは絶望から立ち直ることが出来ました。 

私たちは多くの弱さや罪を抱えて生きています。その弱さや罪が誰に知られているかが大事なことだと思います。僕はペトロと同じように、自分の弱さや罪が主イエスに知られていることで、大きな慰めをいただいています。この気づきによって、キリストの十字架が自分のためだと素直に思えるようになりました。

(K.O.  70代)

2021年10月3日日曜日

言葉は大切に

はじめに言葉あり、言葉は神と共にあり、言葉は神なりき。

新約聖書 ヨハネによる福音書 1章 1節(文語訳)


昭和12年(1937年)当時、私は父の勤務地、今は中国となった大連に住み、嶺前小学校の3年生でした。夏はプール、冬はスケートと、お転婆で伸びのびとした毎日でした。

伸びのびしすぎて、思うことをそのまま口にして大事な友達を傷つけたことを思い出します。しばらく不登校になった友だちの原因が、私の言葉にあったと後悔して、先生と母に告白しました。

その時、母が示してくれた聖句が上記です。それまでも日曜学校には通っていましたが、以来幼い私を教会に導く聖句となりました。

(S.O. 90代)

 

心にかけていてくださる神さま

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。
神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

新約聖書 ペトロの手紙一  5章 7節

 

かつて私の父がガンの末期だった時のことです。だんだん弱っていく中で懸命に闘病する父を見ているのは、私も家族としてとても辛かったです。そんな中、この聖書の言葉をよく思い出しました。人間にはどうにもならないことがあるのです。そのことが父の闘病を通してよくわかりました。しかし、神さまが私たちのことを心にかけていてくださるというのです。今の苦しみも、この先の不安も、そして、やがて死を迎えることについても、神さまにお任せするしかないのだと思いました。そして、私たちがどうすることもできない思い煩いを神さまに投げかけ、神さまに手渡した時、神さまが私たち家族を平安で包んでくださいました。

(K.T. 40代)

2021年9月26日日曜日

弱い時こそ見える、本当のこと

わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときこそ強いからです。 

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 12章 10節


聖書には謎のような言葉がたくさんあって、最初に読んだ時は意味がわからない、でも、ある時ふと、腑に落ちることがあります。ああ、これだったのか、と。もしかしたらそれは正しい解釈ではないかもしれない。でも、いつかわかる時が来るまで、小さな謎を含んだまま大切に心にしまっておこう。そう思うようにしています。 

人は、上手くいっている時は何でも楽しくて、自信に満ちて、幸せでいられます。そして、上手くいっていない人、要領が悪い人、みっともない人を軽蔑したりします。努力が足りないからそうなるんだと、社会から排除しようとすらします。でも、弱く惨めな時こそ、人や社会の本当の姿が見えてきます。

辛くて嫌な体験はできればしたくない。でもそれこそがかけがえのない財産だ。聖書のこの言葉で、そんなふうに思えるようになりました。

(F.K. 50代)

私が慰められた聖書の言葉

苦しみにあいたりしは我によきことなり。これによりて我なんじのおきてを学びえたり。

旧約聖書 詩編 119編 71節 (文語訳)

 

これは私が初めて触れた聖書の言葉です。私は10代の後半に病気をしたのですが、その頃、母が親しくしていたクリスチャンの方から頂いたお見舞いの葉書に、この言葉が記されていました。私は病床で何度もその葉書をながめ、「全くその通り」と思っていました。というのは、聖書の伝える神様は私の苦しみを知っていてくださるお方で、苦しみを通しても何かを語りかけてくださるお方だと思ったからです。私たち人間には苦しみの意味は分からなくても、神様には神様のお考えがあるということを思い、私は深い慰めを感じました。 

(M.T.  80代)

2021年9月19日日曜日

必要なことはただ一つ

マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。

新約聖書 ルカによる福音書  10章  41節


家に招いたイエス様の話に聞き入っているマリアに対し、客をもてなすために忙しく立ち働いている姉のマルタがイエス様に「マリアも手伝うように言って下さい」と頼んだ時のイエス様の言葉です。

「多くのことに思い悩み、心を乱している。」これは私の頭の中だと思いました。特に「しなければならない」と思ってしまう心の持ち方は、自分自身を縛ってきたように思います。かえって気力も萎え、本当に必要なことや、したいことが見えなくなっていました。このイエス様の言葉に立ち返り、今本当に必要なことは何かを祈り尋ね求めながら日々生活し、心の中の混乱から抜け出して、喜びの中で生きていけるようになりたいと思っています。

(S.O. 60代)


いつも共にいてくださる神さま

恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。 驚いてはならない、わたしはあなたの神である。 わたしはあなたを強くし、あなたを助け、 わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。

旧約聖書 イザヤ書 41章 10節(口語訳)


思い通りにならない山あり谷ありの我が人生、その時々は、「何故?」「どうして?」と自問し、落ち込むことの繰り返しです。しかし、後で振り返ると、その一つ一つの出来事が、神さまの導きにより、実に恵み深いものであったか、またどんな時にも神さまが共にいて下さったかを知り感謝に溢れます。

高校卒業後、医学部目指し浪人生活を重ねて来ましたが、夢叶わず、文系の大学に行くことになりました。在学中に洗礼を受け、将来の自分に夢膨らませ、祈りつつ就職活動をしていました。順調に内定を貰い、更に第一志望の企業を目指し活動していた矢先、内定先から「年齢制限」を理由に内定取り消しの連絡が次々にありました。同様に第一志望先にも落とされ、就職先が決まらず、まさに「お先真っ暗」な状況でした。神さまに祈りながら、活動してきたのに何で……やり切れない気持ちで、牧師を訪ね、一緒に祈って頂いた時に、読んで下さった聖書の箇所です。今でも、力強い神さまのこの言葉に、励まされる毎日です。

(H.K. 60代)




2021年9月12日日曜日

神様がおられるなら、なぜ

神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。

旧約聖書 コヘレトの言葉 3章 11節


若い頃、教会の仲間と、身体に障がいのあるお嬢さんのいるご家庭で集会を持っていた。

ある時、聖書の話を聞きながら、お母様が「神様がおられるなら、なぜこの子はこんな状態なのでしょうか」と訴えられ、答えに窮した。思い悩みの中で、このみ言葉が示され、後日、お母様にこのようにお伝えした。「きっとその答えは、天国で神様が直接、お嬢さんにお話しされると思います」。

受け入れがたい様々な現実の前で、すべてのことが解き明かされる時を信じ、この聖書のみ言葉を聞いてゆきたい。

(K.O. 70代)

前を向いて生きることができる根拠

わたしは主、あなたの神。
あなたの右の手を固く取って言う
恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。

旧約聖書 イザヤ書 41章 13節


私は怖がりです。そして、いろいろなことを心配してしまいます。けれども、世界を統べ治めておられる神さまが、怖がりで不安になりやすい小さな存在である私に目を留めてくださり、「わたしは主、あなたの神」とおっしゃってくださるのです。そして、私の右の手を固く取って「恐れるな、わたしはあなたを助ける」といつも声をかけてくださっています。なんと力強い御言葉でしょうか。神さまが私を助けてくださるという約束があるからこそ、苦しい日々を通ることがあっても、私は前を向いて生きてくることができました。

(K.T. 40代)


2021年9月5日日曜日

心の底から安心します

地の果てのすべての人々よ わたしを仰いで、救いを得よ。 わたしは神、ほかにはいない。  

旧約聖書 イザヤ書  45章 22節


これは神様からの呼びかけの言葉です。神様からの招きの言葉であるといってもいいでしょう。礼拝の冒頭の「招詞」(招きの言葉)でも読み上げられることがあるので、今まで、何度も何度も耳にしてきた言葉です。私はこの言葉を聞くと、心の底から安心します。神様の方から、「あなたのことを救うよ。」と声をかけてくださっているからです。私は私を救うことはできません。ただ神様だけが私を救ってくださるお方です。その神様を、私は心から信頼します。

(M.T. 80代)

祖母からの贈り物

しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を
神よ、あなたは侮られません。

旧訳聖書 詩編 51編 19節


この聖書の言葉は、私がイエスさまを信じる決心をして、洗礼を受けた時に、クリスチャンの祖母からお祝いに贈られたものです。神さまからの恵みによって洗礼を受け、新しくされた自分自身の門出の喜びと感謝に満ち満ちている時に、この聖書の言葉を贈られ、その時にはその意味がよく理解出来ませんでした。

クリスチャンになってからも、日々の生活において、度々イエスさまに背を向けて、傲慢に自分中心の生活を繰り返している私です。

毎週の礼拝の中で「罪の告白」、悔い改めの祈りとして、詩編51編が交読されます。一週間の歩みを振り返り、改めて神さまの前で、傲慢でかたくなな心を打ち砕いて頂き、悔い改めることの大切さを痛感させられる時間です。この祈りの時間を通して、祖母がこの聖書の言葉を、贈ってくれた意味に気付かされました。

神さまから離れて自分勝手な生活をしている私をも、神さまは許して下さり、あたたかい眼差しで見守っていて下さいます。この恵みに感謝し、日々悔い改めつつ、神さまと人とに、謙虚に誠実に仕える者でありたいと願っています。

(H.K. 60代)

2021年9月2日木曜日

全てを備えて下さる神様

神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。

旧約聖書 コヘレトの言葉 3章 11節


家族の中で、父だけがクリスチャンではありませんでした。その父が癌を患い、ターミナルな段階に入った頃、教会に何度か誘ったのですが「まだいい。」と断られました。自らの信仰について家族の思いを越えたところで考えていたのでしょうか、近所の方に「心の中で信じていれば良いのですよね」と語ったと後に知りました。病状が深刻になってから、母・妹が属する三軒茶屋教会の先生に来て頂き、自らの信仰を告白するに至ったのは、全てを備えて下さる神様の大いなる御計画、「神様の時」と感謝で一杯でした。「どこに居ても毎晩10時に父の為に祈る」ことを始め、祈りの輪は、家族を超え、親戚にまで広がりました。仕事一筋に生き、信仰とは無縁と思われた父が、神様に捕らえられたことは、私達の拙い祈りに対する神様の応答と受け止め、更に神様の深い愛に対し感謝が溢れました。

(H.K. 60代)

主は与え、主は奪う

わたしは裸で母の胎を出た。
裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ。

旧約聖書 ヨブ記 1章 21節


私が受洗したのは30代半ば。早くから興味はありましたが、なかなか教会に足が向きませんでした。それでも受洗に導かれたのは、大学や仕事で知り合ったクリスチャンの、尊敬できる人柄・生き方・仕事のしかたに接したからです。

聖書のこの言葉は、まだ教会に行けなかった頃に参列した恩師の葬儀で知りました。有名な一節ですが、私にはキリスト教の葬儀自体が初めてで、今も忘れられない衝撃でした。

その後受洗し20年ほど経った今、私が最も大切にしているのはこのうちの一行、「主は与え、主は奪う」。私たちは時に、受け入れがたい悲劇に出会います。神のなさることは、人間にははかりがたい。ただ厳粛に受け止めて前に進む。神からくる希望の灯を胸に。それを忘れないでいたいです。

(F.K. 50代)

2021年8月30日月曜日

信仰は主に委ねて生きること

だから、明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の
苦労は、その日だけで十分である。

新約聖書 マタイによる福音書 6章 34節


この聖書の言葉を、これまでどれだけ口ずさんできたろうか。それでも僕の抱えている日々の思い煩いは消えない。主イエスは、この言葉を語られた時、その言葉の裏には何か起こればすべて私がいるから大丈夫だよ、と言っておられるのだ。にも拘わらず、僕がいつも思い煩いを抱えているということは、結局、口では神様を信じていると言いながら、実際にはちっとも信じていないことに気づいていなかった。信仰は主に委ねて生きることだということを身をもって分らせていただいた。
K.O. 70代)



最も近い助けとなってくださる神さま

神は我らの避けどころなり、力なり。
悩める時のいと近き助けなり。

旧約聖書 詩編 46編 1節(文語)


私は高校2年生の時に不登校になりました。生きることが憂鬱で虚しさを感じていました。劣等感でいっぱいでした。将来に不安を感じていました。そんな日々の中、学校の礼拝で唱えていた聖書のこの言葉が私の支えでした。教会で幼い頃から聞いていた神さまではありましたが、この時、初めて、嵐から身を避けるように、神さまのもとに駆け込んでよいことを知りました。悩み苦しむ時に最も近い助けとなってくださる神さまを知り、どれだけ慰められたかわかりません。やがて、弱っていた私の心は回復し、神さまが道を一歩一歩備えてくださり、周囲の方たちの助けの中、私は不登校から立ち直ることができました。
(K.T. 40代)