2023年12月31日日曜日

山々が生まれる前から

山々が生まれる前から
大地が、人の世が、生み出される前から
世々とこしえに、あなたは神。

旧約聖書 詩編 90編 2節

山々が生まれる前から、大地と人の世界が生まれる前から、とこしえからとこしえまで、神さまは神さまとして存在しておられます。その神さまの永遠に比べると、人の一生は、朝は花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれて枯れていく草のようです。そんな私たちは自分の生涯の日々がどれほど残されているのかも知りません。

しかし、そんな私たちのはかなさの自覚は、神さまに依り頼む歩みへと導くのではないかと思います。つい先日、私は長年一緒に暮らしてきた大切なうさぎを守ってあげられず、その死に直面しました。どれほど悔いても、悔いても、悔いきれない。しかし、そんな悲しみの中で、この聖書の言葉が心を慰めてくれているようです。

私の信頼している神さまは、とこしえからとこしえまで神であられ、大地と人の世界を、そして、小さなうさぎのいのちをさえも慈しみ、愛してくださるお方なのです。私の小さな歩みも、私の大切なうさぎの小さな歩みも、神さまの恵みに満ちた配慮の中、確かに覚えられ、支えられてきたのだと思うのです。そして、やがて、死も悲しみもない永遠の世界へと導き入れてくださるのだと思うのです。

(K.T. 40代)



2023年12月24日日曜日

すべての人を照らす光

その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

新約聖書 ヨハネによる福音書 1章 9節

毎年クリスマスが近づいてくると街の至るところにイルミネーションやツリーが飾られ、その華やかな光景には思わず目が留まります。しかしそれと同時に、人間関係や仕事での後悔、この先のことについての漠然とした不安などが思い起こされて、クリスマスシーズンのきらびやかな世界とは対照的な、自分の中にある暗い気持ちが強調されてしまうこともあります。

世界で最初のクリスマスであるイエス様が生まれた日は、そのお誕生をお祝いするための華やかな装飾などはなく、そればかりかイエス様と両親が使える場所は馬小屋しかなかったため、生後間もないイエス様は飼い葉桶に寝かされました。きっと暗く寒い夜だったことと思います。しかし、そのような中にこそイエス様は、まことの光として生まれて下さったのだと聖書に書かれています。

今年のクリスマスも、それぞれに様々な思いを抱えながら過ごすことと思います。しかし、私たちの心の中にある暗く寒い馬小屋の中にこそ、イエス様が生まれて下さり、まことの光で照らして下さることを覚えて、感謝してこのクリスマスをお祝いしたいと思います。

(M.K. 30代)


2023年12月17日日曜日

神はいつも共にいてくださる

見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ。

旧約聖書 イザヤ書 7章 14

毎年楽しみにしていた教会学校の子どもたちによるベージェント(降誕劇)がコロナの影響により一時無くなり、昨年からは新たな形で再開できた。

今年のお手伝いに備えて過去の動画を子どもたちと見ていると、その場をただ楽しんでいる様子に爆笑したり、むくむく大きくなったことに驚いたりして楽しかった。

子どもたちは、この劇を単純に楽しむことでイエス様降誕の物語を無意識に記憶に刻んでいるが、その真の部分、神様はいつも共にいてくださること、神様は、闇を照らす光としてイエス様を与えてくださったということも分かっていて欲しいと、子どもたちが思春期のいまこそ一層強く思っている。

親には言えない悩みやつらいことがきっとあるだろうけど、自分を見失わず、信じて前を見て、光を見失わないでいてくれますように。

(M.M. 40代)




2023年12月10日日曜日

ページェントを通して・・・

「いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適う人にあれ。」

新約聖書 ルカによる福音書 2章 14

もうすぐページェント(キリスト聖誕劇)の季節がやってきますね。

頌栄教会のページェントは、見る側も演じる側も楽しくなるように、教会のいろんな人たちが携わり、その年ごとに合ったものをみんなで作り上げています。一度でも観た事がある人、演じたことがある人はページェントにそれぞれ色々な思い出があるのではないでしょうか。

クリスマスにページェントが行われるようになったのは、私が小学生の頃だったかと思います。舞台で使うような大掛かりな背景やきらびやかな衣装、おごそかな小道具、本格的な演出と台本に心が躍ったのを今でも覚えています。

それから数年後、私が教会学校の幼稚科スタッフとして奉仕を始めた時、羊役の幼稚科さんを可愛く見せるために色々と思案し、スポーツ用品店に行って赤白帽を購入。そこに綿とフェルトを付けてモコモコにしようと試行錯誤し、遅い時間まで校長先生と綿の貼付作業をしたことを懐かしく思います。

兵隊役が増えた年には、ゲームの設定集を見ながらデザインを考えて、盾を作ったこともありました。その盾をTさんが鮮やかに色付けしてくれたり、赤ちゃんイエス様が入る飼い葉おけをFさんが手作りしてくれたり…小道具を見るだけでも、いろんな人の手作業が思い起こされます。

ページェントを神様にお捧げしているつもりが、ページェントを通して、神様から様々なものを頂いていたのだなと、改めて思わされました。

(K.N 50代)


2023年12月3日日曜日

祝福を受ける秘訣

主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。

新約聖書 ルカによる福音書 1章45

私が教えている大学では毎週、木曜日の昼休みにチャペルで礼拝があります。毎週違う奨励者のお話が聞けます。話すのは教職員、学生、卒業生、退職した教職員、牧師などです。数年前の12月に、ある牧師がした話が印象に残っています。自分が救い主イエスの母になるという知らせをマリアが天使ガブリエルから受けた後に、親戚のエリザベスを訪ねるところ(ルカによる福音書1章39~45節)です。奨励者は、「この話は祝福される秘訣を教えてくれます」と言いました。その一言にとても感動しました。本当にそうです。聖書の中にある神さまの約束は必ず実現すると信じる人は祝福されるのです。

(C.M. 60代)


2023年11月26日日曜日

平和を求めて

実に、キリストはわたしたちの平和であります。

新約聖書 エフェソの信徒への手紙 2章14節

昨年2月、ロシアが突然ウクライナに侵攻し始まった戦争。今年10月、ハマスによるイスラエル襲撃から始まったガザでの紛争。その他、彼方此方での内戦、迫害。尊い命が失われ、街も自然も壊されています。暴力では、何も解決出来ない事は、過去の歴史から学んできている筈なのに・・・と、暗い気持ちになります。

世界中から停戦を望まれながらも、誰も止められないでいます。

神さまに、どうか介入して戦いを止めて下さい。と祈ります。

祈りつつ、聖書を開くと、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」と、み言葉を示されました。キリストが十字架を通して、敵意を取り除いて下さり、平和の福音を告げ知らされました。

「もはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、・・・そのかなめ石は、キリスト・イエスご自身であり、・・・」、キリストの十字架によって、差別もないと宣言されているのです。

争いの根本には、差別や偏見が発端になっている事も多いと思われます。主の十字架を見上げ、ひたすら平和を求め、平和を作っていきたいと祈ります。

(M.I. 80代)


2023年11月19日日曜日

ただ天国をめざして前進するだけ

兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 3章13-14

天命が見つからぬうちに高齢に達したところで冒頭にある聖書の言葉に出会い、実績を残すことばかり考えて大切なことを忘れていた自らの失敗に原因があるとわかりました。そして今、残りの生涯は神様の御計画に従って歩み、天国を目指して前進するだけの日々を送っています。その生活は充実し、豊かさに富んでいます。祈るうちに為すべき事はすべて神様が備えて下さり、迷いもなく、それらに集中できるのも喜びです。同世代人の死が伝えられる昨今、私の場合、結果を出せずに死んだとしても、死後に天国で拝見するイエス様の笑顔こそ、神様が私に下さる評価だと信じています。

(N.M. 70代)




2023年11月12日日曜日

阪神の日本一と聖書の祈り

求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

新約聖書 ルカによる福音書 11章 9節後半

阪神対オリックスの日本シリーズの観客席には、ピンチやチャンスが訪れるたびに祈りの姿勢をとる多くのファンの姿がありました。「ここでホームランを」「このピンチを切り抜けて」などと祈っていたに違いありません。

阪神が38年ぶりに日本一になれたのは、阪神ファンの祈りがオリックスファンの祈りより強力だったからでしょうか。聖書には「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と書いてありますが、この表現が出てくる場面や聖書全体が示す意図を無視して考えても意味はありません。聖書は、人間の自己満足を称賛するために書かれた書物ではないからです。

表題の箇所は、しつように頼めば必要なものは与えられる、神は求める者に聖霊を与えてくださる、という文脈の中で出てくる表現です。「必要なもの」も、神がその人を見て真に必要とお考えになるもの、ということでしょう。

聖書の中心はイエス・キリストです。そう思って表題の聖句を眺めると、「(私を)求めなさい」「(私を)探しなさい」「(私の)門をたたきない」とイエスが我々に語りかけておられる姿が見えてきます。そのことに考えが及ぶとき、最善をなさる神への信頼が芽生え、心に平安が与えられることでしょう。

(H.M. 70代)



2023年11月5日日曜日

右の手を覆う陰

主はあなたを見守る方
あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。

旧約聖書 詩編 121編 5節

う本当にだめだと感じていた時に歌を通して語られた言葉です。

献身して教会で仕えていた頃、自分で人を助けるいい人になろうとして、その反面プライドによって盲目になり、自分の罪が見えなくなり、がんじがらめになって罪から抜け出せない状態になりました。

救われて、新しくされたはずだったのに、そうではなかったのだろうか?!と思うような日々。まるで墜落してゆく飛行機のように絶望的でした。

そんな時、この詩編121編を歌詞にした曲を韓国の方に教えていただいて、それを歩きながらふと思い出したのです。

”主はあなたを守る方
右の手を覆う陰
日も月もあなたを打つことはない。

主はあなたを守る方
全ての災いから
あなたをとこしえに守ってくださる。

目を上げ、山を見よ
助はどこから・・・
天地を造られた主から来る。”

その瞬間、人っ子一人いない丘を下っていた私の右手には、あたたかい陽があたっていて、主が私の横にいて一緒に歩いていてくださる感覚が、肌で感じられました。

あまりにも罪に取り込まれていたために、罪深いことをすら素直に認められなくなっていた私でしたが、その時突然、こんな私でも、主は捨てないでくださる、こんな私になっていても、今でも共にいてくださるんだ、ということが信じられて、久々に心がとかされて涙が後から後から出てきました。

そしてその時初めて「主よ、私は間違っていました」ということができたのです。それはまるで新しい発見のように、落雷のように、私の目を開き、心を変え、自由にし、私の歩みを新しくしてくれました。

神様の慈しみに再度出会った、今でも心に残る大好きな歌です。

(A.O. 40代)



2023年10月29日日曜日

新しい可能性

しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。

新約聖書 ルカによる福音書 6章 27節~29節a

この御言葉と出会ったのは、10代の終わりです。当時のわたしの世界観には、頬をぶたれたら、防御するか・逃げるかの二択しかありませんでした。心身とも虚弱体質だったため、応戦するという選択肢も持ち合わせてはいませんでした。しかし、イエス様は防御するでもなく、逃げるでもなく、応戦するでもなく、自分の頬を打つ者に「もう一方の頬をも向けなさい」と言われる。なぜか「そんなことしたらもっと痛いじゃない!」「それじゃ負けてしまう」などとも思いませんでした。単純に「新しい」と感じました。わたしの中には全くなかった選択肢だったからです。

この世的に見たら、イエス様の言葉に従うならば、それは敗北であり、屈辱的なことだと思います。理不尽な目に遭えば、抗いたくなるし、自分の正しさを証明したくもなります。それでも、イエス様が示してくださった、この世にはない「新しい可能性」があることをいつも思い出します。わたしは、イエス様が歩まれた道を選び取りたい。どんなにそれが難しくとも、人間の思いを超えた仕方で平和を与えてくださったイエス様を信じ、歩んでいきたいです。  

(Y.S. 30代)



2023年10月22日日曜日

父の家

わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。

新約聖書 ヨハネによる福音書 14章 2節

愛した、愛してくれた人たちが主の御許にいる…この聖句を思うとき、希望と喜びで満たされます。

思い浮かべる一人に、10年前に召された友がいます。元気で活発な友でした。急に足に痛みを覚え、病院で調べてもらうと、言われたことは思いがけないものでした。生きられて、後数ヶ月ですと。入院、でも週末は自宅に戻り、整理、書き残すこと、用意しておきたいことに、没頭します。それができたのは3ヶ月だったでしょうか。家には帰れなくなり、さらに3ヶ月で召天しました。斎場、参列の顔ぶれなどなど、いろいろなことに指示、注文がありました。半年後の孫の七五三の着物も用意していました。彼女のこうした日々を思うと、神さまの御心を感じます。神さまは、彼女の性分を理解され、愛しみ、そのための時間を与えられたのです。彼女らしさを私たちの心に残してくださったのです。  

(M.Y. 70代)


2023年10月15日日曜日

教会にいく資格

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

新約聖書 マタイによる福音書 9章 12節~13節

「教会にいく資格」
そんなものがあるなら、私は真っ先に門を閉ざされる人間だろう。口を開けば文句やとげのある言葉が出るし、常に愛をもって接するなんてとても難しいと思っている。キラキラしている(ような?)周りを見て思わず、「あなたたちは救われたじゃないですか」(野田サトル作「ゴールデンカムイ」より)と呟く。そして一緒に上記の聖句を思い出す。

あー、そうか。病人なんだもんな。罪人なんだもんな。着飾って御前に出る余裕なんざ、これっぽっちもないんだもんな。自分ではどうしようもない、両手を挙げて認めるしかない。目にする度、耳にする度、
「何故お前のような奴がクリスチャンなんだ」
「そうだよ、資格もないし立派でもない。だから神の御心だけで引っ張り上げてもらうんだろ?」

 誰かも知らぬが脳内で、そんな会話がいつも聞こえる。  

(R.I. 30代)



2023年10月8日日曜日

弱さのゆえに

わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。

旧約聖書 ヨシュア記 1章 9節

私は、困ったり怖くなったり、とにかくいっぱいいっぱいになると、全身がピタッと止まってしまいます。まさに『停止する』という表現が合っていると思います。思考も止まってしまい、どうしたらいいのか、状況を落ち着いて理解したり、次に進むための考えも浮かんでこなかったりします。若い頃に比べ、物事への順応や適応にも時間がかかるようになっています。

そんな自分が情けなくて、鬱々と、悶々とし、さらに動けなくなってしまう時、いつも背中をぐぃっと押してくださる方がいます。

天のお父さまの力強い腕を感じながら、その腕に重い身体をゆだね、少しずつ自分の足に力がもどってくるのを感じます。

「そうだ。私には主がいてくださる。このままで良いと言ってくださる方がいる!」
こうして、また立ち上がります。
私の人生はこの繰り返しです。

私自身は心も体も弱いけれど、そのおかげで、主の力強さをこんなにも実感することができます。だからこそ、賛美と感謝が心にあふれてくるのです。ハレルヤ!  

(N.T. 50代)



2023年10月1日日曜日

さすが神様、やっぱり万事が益となる!

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章 28

息子家族に二人目が与えられたという朗報を聞いたのは、夫が余命宣告されて間もなくのことでした。私は手伝ってあげたいという思いを抑えて、お祝いの言葉だけを伝えました。それから数カ月、夫が「俺は食べるものがあれば何とかなるが、あっちは何ともならんだろう。行ってやれよ。」と言い出し、娘も協力してくれるということで、手伝いに行きました。息子からカードと鍵を渡され、少しでも母親が休めるようにと、毎日2歳になる孫を買い物や公園に連れ出し、家事全般をこなし、いつでも食べられるよう食事を用意して、精一杯のことをしたつもりだったのに、ある日公園から戻ると家には誰もいません。慌てて戻ってきた息子が探し回った結果、母子で親せきの家に家出していたことが分かりました。無事に戻ってはきたものの、彼女は上の子を私に取られてしまいそうで、鬼のように感じていたことが分かったのです。次の日曜日、最寄りの教会での御言葉がこれでした。すぐには受け入れられず、家に戻る気にもなれず、デパートを歩き回り、美味しいものと彼女へのプレゼントを買って帰りました。数日後、娘の付き添いで夫が新幹線で孫の顔を見に来ることになり、2~3日後に私も一緒に帰宅しました。帰りの新幹線の中で彼女から「親よりもよくしてもらってありがとう」というメールを受け取り、生まれたばかりの孫を抱いてから1か月余りで夫は天に召されました。

(A.N. 60代)



2023年9月24日日曜日

いつも喜んでいなさい

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 5章 16節~18節(口語訳)

私が中学生の頃、試験の成績など小さなことで一喜一憂する私に対して、母がいつもこの聖句を言っていました。今でも実家には、この聖句を書いた紙が飾っています。私にとっても、若い頃からよく聞かされていたため、とても身近で大切な聖句です。

思い返せば、受験で失敗したとき、初めての海外生活で孤独の中にいたとき、神様は救いの手を差し伸べ、いずれもとても素晴らしい経験とさせてくださいました。つらい経験や試練の中にあっても、必ず神様は見守っていてくださり、その先に大きな喜びを用意してくださるのだと実感しました。

今、つらい思いをされていたり、試練の中にある方は、なかなか前向きな気持ちになれないと思います。それでも、神様はいつも見守っていてくださいます。いつも喜び、感謝し、そして救いを求めて祈り続ければ、目の前に光が見えてくると思います。

(T.T. 30代)



2023年9月17日日曜日

必要な存在としての私

あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

新約聖書 マタイによる福音書 5章 13節~16節

子供が幼い頃、ファストフード店でフライドポテトを注文する際に、「塩抜きでお願いします。」と頼みました。塩分をなるべく控えようと思ったからです。そのポテト、子供は美味しそうに食べています。私も1本食べました。
塩が必要だなと思いました。

夜、自宅の電気ブレーカーが落ちました。一瞬で真っ暗になります。ブレーカーを復旧させるため、灯を探します。灯がなければ、復旧までに苦労します。
光が必要だなと思いました。

神さまが与えてくださった使命は、私たち1人1人にしかできない賜物です。まさに、私たちが神さまから必要とされている存在として、お示しくださっている聖書の箇所だと思います。この事を信じて、日々を歩んでいきたいと思います。塩として、光として。

(R.M. 40代)



2023年9月10日日曜日

私の宝はあなたです

あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

新約聖書 マタイの福音書 6章 21節(新改訳)

の御言葉は、いつもハッと我に返る言葉です。

私達は好きな物に沢山のお金と時間を費やします。楽しむ事は決してそれは悪い事ではありませんが、夢中になり過ぎると、神様を忘れてしまいがちになる、そんな気がしてしまうのです。

そんな時に不思議と思い出すのが、この御言葉です。この御言葉でいつも正しい位置に戻るような気がします。

神様を第一にして、色々楽しみましょう。なぜなら、神様が私達の1番の支え、守りだからです。「神様が私の宝です。」そう言い続けられる健康的な信仰状態を保ち続けましょう。

(Y.S. 40代)


2023年9月3日日曜日

帰りを待っていてくださる神

わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない。

新約聖書 へブル人への手紙 13章 5節(口語訳)

これが私を支えた聖書の言葉です。私がこの御言葉に出会ったのは小学6年生、12歳の夏ごろだったでしょうか、Twitterの投稿でした。発言の主は、私が大好きで追っていたインターネットで活動していた方です。

その方は小さい頃からの熱心なクリスチャンでしたが 途中から教会を離れ、心も荒んでいったそうです。その方が自分のしてきた事の罪深さに気づき回想するツイートの中にこの言葉はありました。絶望していた時に突然、懐かしい讃美歌が頭によぎり、なぜこんなにも罪深い私にもそばにいて下さるのかと問うたところにこの言葉が思い起こされたそうです。それを見た時に私は、罪を犯してもやり直せる、神様はいつまでも帰りを待ってて下さるんだ、と思いました。

丁度その時私も心を病んだ時期で、誰も自分を見ていないんだ、なぜ教会に行くのかと思っていましたからとてもその言葉が響きました。小さい頃の私は、今もずっと神様だけは自分の事見てるんだって思ったこともあったじゃないかと、思い出したのです。それから私はもっと聖書が知りたいと思うようになり、今では教会に自分から行きたいと思えます。行くというより帰るべき場所なのだと思います。そう思わせてくれたこの言葉は私にはとっても大切な言葉です。

(S.I. 10代)


2023年8月27日日曜日

私の神

恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。

旧約聖書 イザヤ書 41章 10節

病床で闘う親友に、神様が、牧師先生、イエス様を通じてかけてくださった御言葉です。

親友が恵みを受けた様子も見受けられ、神様にとても感謝いたしました。これからもまだ乗り越えなくてはならない障害が毎日のように続く親友が、この御言葉を信じ、神様に感謝しながら人生に光が再度灯りますように。

(S.K. 30代)


2023年8月20日日曜日

日ごとの糧

あなたの御言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯。

旧約聖書 詩編119編105節

私は今、改めて聖書の通読を行っています。今回は新約聖書から始めて、現在は新約を終え旧約聖書に入っています。まず「主の祈り」を捧げ、祈り、聖書、解説書、祈りの順に進め、1日に2章。少しずつですが聖書の御言葉を読み続けることで神様の御心、聖書全体が伝えようとしていることを受け取れるのだと思います。ただ読むだけではなく、また独りよがりの解釈をするのでなく、正しくわかりながら読むことが大事だと考えて、牧師さんの解説書を手引きとして利用している訳です。

「人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイによる福音書 4:4)という、前半部分はクリスチャンでなくても聞いたことのある有名な御言葉があります。私たちには身体を健康に維持し活動するためのエネルギーとして食物が必要です。しかし同時に、或いはそれ以上に大切なのが精神の糧、私たちの魂を生かす食物、すなわち神の言葉だと言うのです。神様の御言葉は聖書の中にあります。ですから私は日々聖書を読み、御言葉を受け取って生活の中に適用して行きたいと思っています。その励みになっているのは冒頭に掲げた御言葉です。

(70代)


2023年8月13日日曜日

私の救いの聖句

いかに幸いなことでしょう
背(そむ)きを赦され、罪を覆っていただいた者は。

旧約聖書 詩編 32編 1節

50年前、私に救いの確信を与えてくれた聖句です。その前の年の6月にクリスチャンとなり、12月に洗礼を受けた翌月の新年元旦礼拝でもらった聖句です。「もらった」というよりも、くじで引いたのです。「教会でもくじ引きがあるの?」と言われてしまいそうですが、その教会の長年の伝統でした。しかしどういう方法で与えられたものであれ、この聖句が救いの確かさを求めて渇いていた初心者の私の心を支えたことは事実です。

(M.I. 60代)


2023年8月6日日曜日

悲しくても大丈夫

悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる。

新約聖書 マタイによる福音書 5章 4節

大学一年生の頃でした。クリスチャンになったばかりの私は喜びでいっぱいでしたが、同時に失恋、バイト先でのいじめ、サークルの責任など辛いことも重なりました。そんな時にまるで紙面から飛び出してくるかのように、確かに私の心にぐさりと「語られた」言葉がありました。それはふと開けた聖書の、昔からよく知っていた言葉、でもその時全く違う光で照らされたこの言葉でした。

「悲しむ者は幸いです。」

それを読んだ瞬間、ふいに神様がわかっていてくださるという安らぎに満たされました。理屈でなく、人智を超えた平安が心にやってきたのです。そして唐突に悲しみはなくなってしまいました。

その経験があまりに鮮やかだったので、聖書は生きた本であるというのが、身に染みてわかりました。神様が語ってくださった、それだけで何もかも大丈夫になったのだと思います。

(A.O. 40代)


2023年7月30日日曜日

主に委ねて生きることは

主はギデオンに言われた。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったというであろう。」

旧約聖書 士師記 7章 2節~3節

神はミディアン人の大軍を攻め落とすにあたって、ギデオンに対し今いる32、000人の兵を300人まで減らせと命じられました。そうでないと彼らがミディアン人に勝利した時自分の手で救いを勝ち取ったとおごるからだと。ミディアン人の大軍を前に300人となった彼らはもはや神に頼らざるを得ません。

これまで人生のさまざまな場面で、神に助けを求めながら、一方でいつも思い煩いがありました。それはいつも神に助けを求めながら、どこかで自分の力で、人間的な助けを得て解決しようという思いがあったからです。神に完全に委ねて、なすべきことをなしていたら、きっと違った結果が得られていたかもしれません。たまたま上手くいった時はどこかで自分の力だと、心がおごっていたに違いありません。このギデオンのように神に委ねざるを得ない状況まで自分を追い込んだことがあるのか、と自問しています。

この士師記7章の物語を読むと神に委ねて生きることの厳しさと、そこまで委ね切れていないから喜びも得られないのだということを思い知らされています。

(K.O. 80代)


2023年7月23日日曜日

歩みを照らすともしび

あなたの御言葉は、わたしの道の光
わたしの歩みを照らす灯。

旧約聖書 詩編 119編 105節

中学生の時いじめにあっていた暗闇の3年間、この御言葉にであいたかった。光を求めること、すがることは、幼い頃から教会に行っているものの、正直わからなかった。自分の意志ではなく、なんとなく通い、リラックスできていなかった場所だったような…。そんなわたしが高校生で新しい自分と出会えてからは、前向きで、何をしても楽しかった。大人になってから度々くる暗闇では、繰り返しテゼを口ずさみ、大丈夫、大丈夫と自分自身を励ましている。

今は暗闇の中だけではなく、いつだってわたしの歩みを照らす灯となってくれている。

でこぼこ道を通ってきたからこそ、感じることも様々だけど、寄り道をしながら、足を留め、しゃがみこんで、道端の草花や虫を眺めたり、空の雲を眺めたりする日々です。

この箇所のワーシップソングも好き。

難しいことは語れない、でも、御言葉や教会のことを分かち合うことはできて、わたしの周りの人々の歩みも照らしてくれる灯です。ハレルヤ!

(R.N. 40代)


2023年7月16日日曜日

主よ、お話しください

しもべは聞きます。主よ、お話しください。

旧約聖書 サムエル記上 3章 9節(口語訳)

少年サムエルは老祭司エリのもとで主に仕えていました。神の箱が安置された主の神殿に寝ていたサムエルは、夜明け前に「サムエル」と呼びかける声に飛び起き、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行きました。そして、「お呼びになったので参りました」と言いました。しかし、エリは「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言いました。こんなことが二度くり返されました。

三度目、再び自分を呼ぶ声にサムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言いました。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに、もしまた呼びかけられたら、「しもべは聞きます。主よ、お話しください。」と言うようにと教えます。そして、四度目に主がサムエルを呼ばれた時、サムエルは、この言葉をもって主に応えたのでした。

これは、私が幼い時に初めて覚えた聖書の言葉です。私はこの言葉から、主の呼びかけに従い、主の前に素直に聞く姿勢の大切さを思います。40年以上前に心に入ってきたこの言葉は、今も私の信仰の姿勢を折にふれて正す言葉となっています。

(K.T. 40代)


2023年7月9日日曜日

光あれ!と祈る神さま

神は言われた。 「光あれ。」 こうして、光があった。 神は光を見て、良しとされた。

旧約聖書 創世記 1章 3~4節

の宇宙、世界を造られた、神さまが発した第一声は何か?ご存知ですか?

旧約聖書の創世記には、神さまが天地を創造された様子が、記されています。神さまの第一声は、「光あれ!」でした。地は混沌であって、闇が深淵の面にある中で、「光あれ」と仰って下さいました。闇の中に光を与えてくださいました。

私たちの日々の歩みは、山あり谷あり。一寸先は闇。時として出口が見えず、霧の中。真っ暗闇の出口の見えないトンネルの中で佇み、不安や恐れを感じたり、時には「お先真っ暗!」、絶望的と思える様な出来事に遭遇することもあります。しかし、神さまは、そのようなネガティブに思える様な時も、いつも私たちのことを心に留め、いつも守り支え、私たちの歩みを良い方向へと導いて下さいます。

「光あれ!」と仰る神さまは、私たちにも「光あれ!」と祈って下さっているのです。

神さまが、私たちのため、私のために祈っていて下さるなんて、何と心強い事でしょう!そんな神さまに期待して、これからも歩んで行きたいと思います。

(H.K. 60代)


2023年7月2日日曜日

幼子のような信頼

少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」

旧約聖書 列王記下 5章 3節

この「少女」は捕虜として敵国に連れて来られ、軍司令官ナアマンの妻の召使いとされていました。ナアマンが重い皮膚病を患っていることを知り、女主人にこの言葉を告げるのです。少女の一言によって奇跡が起こりました。ナアマンは預言者エリシャを通して皮膚病が癒され、同時に天地の造り主である神さまを信じる人へと変えられていったのです。

この少女の人生を思い巡らすと、神さまが救いの言葉を託して敵国に遣わした愛する我が子としての姿が思い浮かびました。幼い子どもが「私のお父さんにできないことは何もないわ」と信じて疑わないように、少女は神さまへの全幅の信頼をもってこの一言を告げたのでしょう。少女の幼子のような信頼は、特別な意思表示や際立った出来事に目を向けがちな私の意識を変えてくれました。この少女に倣うなら日常の言葉、日常の出来事はすべて神さまの愛が現わされるための道になり得る。この幼子のような神さまへの信頼を、私も求め続けていきたいと願っています。 

(H.K. 50代)


2023年6月25日日曜日

【聞くこと】と【見ること】

父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 父を見た者は一人もいない。

新約聖書 ヨハネによる福音書  6章 45節後半~46節前半

子供の頃過ごしていた福島の会津のその場所には川が流れていて、小学生だったわたしと友人二人で夜の川沿いを歩いたことがありました。夏でした。1980年代末のその場所の夜空には天の川が見えており、無数の星々が紺青の空に散っていたのです。

「あれが、さそり座。」

わたしと同じく関東から転校してきた素性の友人が突然言いました。

「あの赤い星が一等星、アンタレス。」

彼が指差す方向に微妙な赤色の点光が瞬いて眼に見えます。

アンタレスは地球からおよそ554.5光年離れた一等星。つまりは、わたしたちは554.5光年前の過去に発された光を見ていたのでした。わたしたちは今を見ているようでいて、実は今を見ることは決して出来ない、そんな視覚を持っています。

それから年を経て、東京で大学生となったわたしは死ぬことにしました。自殺するつもりだったのです。世の中というものがどうにも不可解で、おそろしく、感覚的に言うと、人間の世界の中に独りわたしという幽霊がなぜか混じっており、その幽霊であることをひた隠しにして、でもどうにか人間世界に馴染まなければならない、馴染みたい。だが、その手がかりがまるで掴めない、という感覚。20代のはじめになるとそんな不可能性にも似た困難な感覚はいよいよ昂じてつらさとなり、わたしは圧し潰され、独り部屋で睡眠薬を二瓶煽ったのです。(わたし一人が生きていることの意味は無いのだから)そのように感じて。

それが死ぬこともなく、意図せずに回復しつつある意識の中、猛烈な頭痛と嘔吐感にさいなまれる中、ぽつんと言葉を感じました。

《どうせ死ぬのなら、死ぬ前に、君がしたいと思う事をしてみてから死になさい》

自分の部屋に独りだったのです。音で聞いたのではありません。でも、それは確かにわたしの外から不意に入って来て、関わって来て、わたしに働きかける言葉でした。

それから20年後。わたしは妻との出会いから初めて聖書を読むようになりました。幾度も読みながら過ごしておりますと、やはりある日不意に、最初に挙げましたイエス・キリストの語られた御言葉がいつもと違って感じられるようになりました。

『父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。』

そして、20数年前の出来事を思い起こしました。あの時には何なのか分からなかった、不思議な言葉との関わりを。

(ああ)

(あの時にふいに関わってくださった方はあなただったのですね)

わたしはそう感じたのでした。やはり、ある日突然に。繰り返しになりますが、実はその箇所は暗記したくなって幾度も幾度も読んで覚えてすらいたのです。でも、それまでそんな風な感じ方をしたことはありませんでした。

【聞く】こと。それは、どうやら外から入ってくる言葉がこちらの深くに存在し働きかけてくる、双方の結びつきの事らしいのです。わたしたちの耳から、目から、言葉はたくさん入って来ます。では、この結びつきがわたしたちの中に常に発生するのかと言えばそうではない。この【聞く】という事は、確かに《わたし以外の何か》の働きかけがあって初めて生じるらしいのです。

目で見ることはできない、しかし聞くことは出来るー。挙げた聖書箇所で、イエスキリストは、わたしたちと神との関わりの在り方を言われていることを知りました。

世の問題は多く、生活の難題もあり、そしてまず自分の定まらなさに悩む時が多くあります。そんな時、

《わたしがあの時にあなたにしたことを忘れたのか》

《わたしが居ないと言えるのか》

こんな言(ことば)が、今ではわたしの中で働きかけてくださいます。わたしを支えてくださいます。そして、確かに、聖書へとわたしを向かわせ、イエスキリストの御言葉のもとへ向かわせるのです。

『父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。』

と語られた通りに。 

(A.T. 40代)




2023年6月18日日曜日

私は私のままでいい

三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」

新約聖書 ヨハネによる福音書  21章 17節

この聖句に「あれ?」と思った。イエスの弟子がイエスに「愛しているか」と聞かれ悲しい気持ちになるだろうか?と思った。ペトロは、「イエスのためなら命を捨てます」と言ったにもかかわらずイエスのことを3度知らないと言ったかつての自分を思って悲しくなったのか、たたみかけるように愛しているかと確認するイエスに対して悲しい気持ちになったのかは私にはわからない。だが、イエスの前にありのままをさらけ出すペトロに私は親近感を覚えるし、そんなペトロを慈しみ、「おまえのことはわかってるよ」とおっしゃるようなイエスに全幅の信頼を寄せることができる。努力はするとしても、キリストに倣うことなど、私には到底無理だ、私は私のままでいい、感謝して全てを主にお任せしようと思う。 

(E.I. 50代)
















2023年6月11日日曜日

知恵をいただきながら

あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。

新約聖書 ヤコブの手紙 3章 13節~18節

昔から世話好き、お節介やき、よく口を挟み、時には行動をもって手伝う。長い間には失敗もあり、迷惑ととられたこともありました。

このみ言葉は、そんな私に苦言を呈し、行いを自分よがりでなく、義の実の真意を理解し、主からの知恵をいただいての行動がとれるように導いてくれます。これからも謙虚に、み言葉を大切に過ごしたいです。

(F.T. 70代)














2023年6月4日日曜日

暗闇の中の光

光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は光を理解しなかった。

新約聖書 ヨハネによる福音書 1章 5節

私は、とても弱い人間です。これまで生きてきた中で、『大変だったな』と思う経験は何度もあります。人には話せないほどの辛さ・苦しさを感じ、ひとりで抱えたこともありました。

まさに、暗闇の底なし沼に果てしなく入っていくような感覚でした。そんな時、この聖書の御言葉に出会いました。

 光は暗闇の中で輝いている。

光は暗闇の中で『輝いていた』という過去形ではなく、過去も、現在も、これから先も、光は暗闇の中で輝き続けて下さっていると言うのです。

この言葉に触れた時、ひとすじの光が見えたようでした。

何か大きなものに包み込まれるように支えられているような感覚を持ちました。

私が底なし沼に入っている時も、暗闇に感じていた時も、光、つまり神様の愛は暗闇の中で輝き、注ぎ続けてくれていたのです。このことはあとになってから気付きました。大変な時は、視野が狭くなりやすいのかもしれません。素直に受け入れられない時もあるかもしれません。だからこそ、弱い自分を認め、「神様ありがとうございます」と、輝き続けている希望の光を素直に受け入れられるようになりたいと思います。

(E.O. 40代)












2023年5月28日日曜日

神様が教えてくれる

どんなことでも、思いわずらうのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 4章 6節

本当につらいとき、どちらかの道をえらばなければならないとき、ああしたらどうか、こうしたらどうか、と色々考えることがあります。そんな時神様に頭をたれておいのりします。そして、「神様ならどうしますか。教えてください」と、頭をまっ白にしてありのままをうちあけます。

おいのりをしていると、考えがはっきりしてくることもあれば、毎日の生活をするなかで自然と道がひらけてくることもあります。これって、神様にみちびかれているということだと思います。


わたしの前にある人生は、神様がつくってくれた道だと思っています。だから分かれ道に来ると、いつも立ち止まってお祈りします。

「神様ありがとうございます」といってお祈りすると、気持ちがほわっとあたたかくなっているのがわかります。

神様はいつもわたしたちのそばにいて、光をてらしてくれています。それって、神様の愛なんだと思います。

(Y.T. 50代)











2023年5月21日日曜日

自分では小さなことだと思っていても

あなたがたも聞いているとおり『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。

新約聖書 マタイによる福音書 5章 27~29節

このイエス様のことばを初めて読んだとき「厳しいなー。人間には無理じゃないの?」と思いました。しかし、マザーテレサの「思考に気をつけなさい。思考は言葉に、言葉は行動に、行動は習慣に、習慣は性格に、性格は運命をつくる。」という言葉を聞いた時に、イエス様のこのことばの重要な意味を感じました。自分では些細なことだと思いたい心の中の感情、欲望、思考の重大さにいつも気を付けていないといけないのだと知りました。そして、何が正しくて何が罪であるのか、何が真理なのかをもっと深く理解できるように聖書を読み、イエス様のことばを学んでいきたいと思いました。

(S.O. 60代)










2023年5月14日日曜日

春の庭で神の心について思うこと

自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。

新約聖書 マタイによる福音書 6章 25~27節

“14歳で身長180㎝以上・・。栄養管理士がたどり着いた・・・”これは、最近インターネット上でよく見かける広告である。若くして、人もうらやむ立派な体格に成長できるというお奨めメッセージである。

これら現代的な広告メッセージを見て思い出すのは、かつて、キリスト者の阿部光子さんが書いておられた「早く芽を出して成長した黒豆は、早々と鳥に見つかり食べられてしまったが、どうもさえないでゆっくりと芽を吹いた黒豆は、立派な木に育って実を結んだ」という話である。

私たちの目から見れば「早く成長した黒豆の芽がよい豆で、なかなか芽を出さない黒豆は役立たず」と考え勝ちであるが、良き花を咲かせ実をつけ命をつないだのは、私たちの目から見て、さえないとみられた黒豆の方だったのである。

この10年、自然豊かな環境の中で、これと同じような体験をした。それは、庭に植えた水仙の芽生えの話だが、まだ寒いうちに早々と芽を出した水仙5本は、ある日その芽がものの見事に鎌で刈られたようになくなっていた。新芽の大好きな鹿に見事に食べられてしまったのである。自分の常識では、水仙の芽・葉は人間には毒で、動物も食べないと思っていたので、最初は何が起こっているのかわからなかったのであるが、1回でなく何回もやられているうちに犯人は鹿だとわかったのである。この水仙も、遅く芽を吹いた残りの5本は、見事に生き残り4年越しに初めて水仙の花を咲かせたのである。

人の心と神の心、あなたはどちらの心を人生の拠りどころとして生きていきたいと思われるでしょうか?

(Y.Y. 80代)








2023年5月7日日曜日

絶えず祈りなさい

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

新約聖書 テサロニケの手紙一 5章 16節~ 18節

この聖書のことばに何度も何度も元気づけられました。昨日まで仲良く過ごしていた友人が原因がわからないまま離れていきました。わたしは友人に原因を確かめる勇気すらなく、心が晴れない日々を過ごした、ということがありました。また進んでいく道を決めなければならない分岐点にたったとき、どうしてよいかわからないことがありました。苦しかったり、困ったときばかりではなく、神さまは勇気や力、すすむべき道を備えてくださいました。祈りをきいてくださいました。うれしいことがあったときもそうでした。神さまが与えてくださった喜びでした。本当に感謝いたします。これからもいつも隣りにいてくださる神さまにすべてを委ね、祈り続ける、そのような日々を過ごしていきたいと思います。

(H.K. 60代)






2023年4月30日日曜日

生き生きとした希望

わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。

新約聖書 ペトロの手紙一 1章 3節~ 5節

かつて私の伯父は人生最後の病の床において洗礼を受けました。この言葉は、その洗礼式において読まれた聖書の言葉です。伯父の人生は苦労が多く、悲しみも多かったことと思います。そして、病の床において伯父は寝たきりとなっておりました。そのような中、伯父の魂は神さまを求めていました。伯父は、自分は「弱い」と言い、「洗礼を受けたい」と言うようになりました。そして、伯父の人生の残りの日が少なくなった2月のある日、伯父は念願の洗礼を受けました。洗礼を受けたその瞬間、伯父は涙を流しました。

さて、伯父の洗礼式で読まれたこの聖書の言葉ですが、「生き生きとした希望」という言葉がとても印象的です。「生き生きとした希望」とは、病によっても奪われることのない希望、死を突き抜ける希望のことです。神が伯父に「生き生きとした希望」を与えてくださったこと、そして、私も今、「生き生きとした希望」によって生かされていることを心から感謝しています。

(K.T. 40代)




2023年4月23日日曜日

信じる根拠

このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

新約聖書 マタイによる福音書 26章 56節

なんとも衝撃的な記事です。あれだけ深くイエスと共に行動し、様々な癒しの業もみてきた弟子たちがイエスが捕らえられると、なんと、皆イエスを見捨てて逃げてしまった、と記されています。しかもその後自分たちにも危険が及ぶかもしれないということで隠れます。

ここで終わっていたら、キリスト教はなかったし、僕自身もキリスト者になることもなかったわけです。しかしながら、あのイエスを見捨てた弟子たちは、今度は死をも恐れずにイエスによってもたらされた福音の宣教に生涯をささげました。何が彼らを180度変えさせたのか。聖書には彼らが復活のイエスに出会ったことが記されています。

よく、あなたがキリスト教を信じる根拠は何ですか、と問われます。聖書を読み、関連の書物も読み、信仰の先達者たちの話を聞いてもなかなか自分の信仰の確信が持てませんでした。そういうなかで、ふと気づきました。あのイエスを見捨てて逃げた弟子たちが、180度人生を変えられて、宣教に命を懸けさせたものは何か。聖書に記されているように、復活のキリストに出会ったこと以外説明するものはありません。

難しいことは何もわかりませんが、僕にはこれ以上の信ずるに値する根拠は見当たりません。またこれほど僕を支えてくれる出来事もありません。

(K.O. 70代)






2023年4月16日日曜日

新たな希望

あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない。見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる。

旧約聖書 イザヤ書 43章 18~19節(口語訳)

若い時には将来の自分を想い、夢や希望を持って、それに向かって日々努力したものです。しかし、自分の努力が報われない現実に直面することが、年を重ねる毎に多くなって来ます。更に、よりどころとしていたものや人、能力、健康等、自分を支えていたものが少しずつ失われていくことをも経験します。夢も希望も、わずかな自信をも失い、お先真っ暗!口から出てくるのは、不平・不満ばかり・・

そんな私たちに、神さまは、「新しいことをなす」と、仰って下さいます。

新共同訳聖書では、「やがてそれは起こる。」の箇所は、「今や、それは芽生えている。」と訳されています。「いつの日か?起こる」でなく、「すでに芽生えている」と仰って下さっています。この神さまに、期待し、自分の人生を委ねて生きる時、新たな希望を持って、神さまから与えられている恵みに感謝し、賛美の日々を過ごしていきたいと願います。

(H.K. 60代)




2023年4月9日日曜日

共に礼拝する恵み、喜び

見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。

旧約聖書 詩編 133編 1節

以前、あらゆることが虚しく感じられる日々が続きました。教会の礼拝には出席しました。神さまに何かを問いたい思いがありました。けれども心が動かず、神さまを賛美することも祈ることもしたくないのです。礼拝堂の中でただ座り、ただ立っていました。そして、ただ目を閉じて周囲の人たちの歌う声と祈りの声を聞いていました。後ろのほうからひときわ大きな声で主の祈りを唱える青年の声が聞こえました。いつもは突飛に聞こえてしまう彼の声が、その時は励ましの声に聞こえました。耳を傾け続けていると、美しい声で、優しい声で、どっしりと重厚な声で、讃美歌を歌う声が私を取り囲み、「支えられている」と気付きました。―私が歌えなくても祈れなくても、他の人たちがそれをしてくれるー。私は沈黙したままそれらの声に自分の心を重ね合わせるようにして神さまを礼拝しました。それ以来、讃美歌も祈りも、周囲の声に自分の声を重ね合わせるようになりました。

あの時、私に一番必要なものを神さまは与えてくださいました。詩編133:1の言葉を実際に経験できるようにしてくださったのです。

(H.K. 50代)




2023年4月2日日曜日

主がともにいてくださるよろこび

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

新約聖書 マタイによる福音書 28章 20節

讃美歌298番「信頼」やすかれ、わがこころよ、主イエスはともにいます。~主イエスのともにませば、たええぬ悩みはなし。

一番好きな讃美歌です。もともと、亡くなった父が好きな歌でありました。まだ受洗前、その父の前夜式で聞いたのが初めてでした。その後私自身もこの歌が好きになりました。主がともにいてくださるよろこび・安心・幸福、そのことへの「信頼」というメッセージがダイレクトに伝わって来る気がします。讃美歌の歌詞には難しいものが多いと感じるのですが、この298番の歌詞はとても分かりやすいと思います。メロディもとてもシンプルですし、構成も単純な3回繰り返しです。日々、多くの悩みや不安や苦しみがあります。自分自身の力不足を痛感させられることばかりです。信仰においてもまだまだ迷うことがたくさんあります。そのような私にとっても、主がいつもともにいてくださる、私達の毎日が主の祝福のうちにある、そのよろこびをこの讃美歌に感じつつ、仕事に向かう朝などに歩きながら歌っています。

(R.M. 50代)




2023年3月26日日曜日

清められるよろこび

自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。

新約聖書 ヨハネの手紙一 1章 9節

先日、父を亡くした。父はクリスチャンではなかったが、私の受洗に反対もせず、教会へ行くことを励ました。それなのに、私はキリストを積極的に父に話すこともなく旅立ちを見送ったのだ。ふと口をついて出たのは「主よ、日に日にましたまえ、罪を悔ゆるまごころを。清めらるる身の幸を。」の賛美(讃美歌508)だった。父に救い主の御業を話さなかった悔い、正しい方を十字架にかけた私の罪、それにより清め救われた自分。願わくは父も救いに与かってほしい、この讃美歌は難破船上で、死の恐怖に駆られた人々が歌ったとかを聞いたことも相まって、私は父の旅立ちに際し 逝く道の平安を祈らずにはいられなかった。私は主の慰めのうちに、主に仕える喜びと永遠の命の希望をもって過ごしていこう。そのことで父も安心して眠れることだろう。

(E.I. 50代)






2023年3月19日日曜日

キリストにより得られる自由

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。

新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙 5章 1節

ガラテヤの信徒への手紙に信仰について重要な記述があります。5章1節にパウロは次のような聖句を残しています。「この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にしてくださったのです。」

我が国においてキリスト者になることがどういう意味があるのか、高校3年生の時、明確な答えを出さずに入信し、親の召天に伴い、仏教の位牌を引き継いで現在に至っています。

パウロは得られる自由について断言します。もし割礼を受けるなら、私たちにとってキリストは何の役にも立たない方になります。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。私たちは義とされたものの希望が実現することを、霊により、信仰に基づいて切に望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

(K.N. 80代)




2023年3月12日日曜日

真理はあなたたちを自由にする

わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。

新約聖書 ヨハネによる福音書 8章 31節~32節

の真理を知り受け入れることができれば、どれ程心が自由になれるだろうと憧れ続けていますが、弱さ、頑なな心、思い込み等々から真理への道は遠く感じられる不自由な自分がいます。

しかし、神様はイエス様により、そのままの私たちを愛し、赦してくださっていることを知らせてくださいました。クリスチャンになるための洗礼を受けた日から真理を知り、よき人になれるわけではありませんが、イエス様を信じて学び、ついていこうと決心することで、今までの生き方が変わり、少しずつ変えられていくのだと思います。

長い道のりですが、「求めよ。さらば与えられん。」というイエス様の言葉をよりどころに祈り求め続けたいと思います。

(S.O. 60代)






































2023年3月5日日曜日

神の愛が示されて

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 5章 8節

神の愛はどこにおいて示されたのか。イエス・キリストが十字架にかかって死なれたことによってである、と聖書は語ります。正しい人間でもなく、弱く、罪人である私たちのために、キリストは死んでくださいました。しかし、それは2000年前の出来事であり、遠い地での出来事です。私たちのためと言っても、時間的にも空間的にも隔たりがあります。しかし、だからこそ、神の愛が私たち一人一人に示されることは当たり前ではなく、神の奇跡なのだと思います。

高校生の時の不登校を通して、自分の弱さと罪に気づかされた私は、ただ神が存在することを信じているのではない何かをクリスチャンたちの中に見ていました。それを知りたいと思いました。今思えば、それは神との平和です。罪は神と私たちの間を隔てます。しかし、神が私の罪をキリストの十字架によって赦してくださったと信じたとき、私は確かに神と和解できたのだと知りました。今日も世界中の人々に神の愛が示されて、神と人との平和、人と人との平和が実現しますように。

(K.T. 40代)




































2023年2月26日日曜日

力強い支え

主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

旧約聖書 イザヤ書 40章 31節

今では多少の距離を走ったり歩いたりするのは好きだが、学生時代の私はそれほど丈夫でもなく、気持ちも強い方ではなかった。なんとか生き長らえてきたのは、そんな私の弱さを見えない力が支え続けてきてくれたから。

自ら聖書を開くようになり、御言葉に触れると心の内に力がみなぎり、身体的にも整えられるーそんなことを繰り返しつつ、今日まで来られた。目指すところがないと前に進むことは難しいが、仰ぎ見る方を知ったことで、こんな状況下でも恐れないで歩んでいけます。

(R.M. 60代)


































2023年2月19日日曜日

心を変えられる言葉

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 5章 16節~18節

私は心が沈んだ時、この言葉を思い出します。自分自身では元気になれない時、この言葉がどういう心でいれば良いか教えてくれます。この言葉を心がけると、沈み込んだ自分、元気になれない自分から、少し喜べる自分、感謝できる自分になり心がほぐれていきます。そして祈ることで神様とつながり、安心した気持ちになります。また、どのようにして生きていけば良いのかと迷い悩む時も、この言葉が教えてくれます。「これがキリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」この言葉に倣って生きていくことを神様は私たちに求めている。

気の小さい私の背中を押してくれる神様からの言葉です。

(K.O. 50代)
































2023年2月12日日曜日

気持ちを新たに

子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。

新約聖書 マタイによる福音書 9章 2節

洗礼式で牧師が、聖水と共にかけて下る御言葉です。この時、私達の教会の先生は「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」とおっしゃいます。

「子よ」という呼びかけに、温かさと安らぎを覚えます。どんな時でも、見守って下さる方がいると思えます。見守られ、支えられているから頑張ろうと思えます。私自身は、洗礼を受けてから随分年月を経ましたが、そうだ、私もしっかりせねば と思うのです。気持ちを新たにしてくれる言葉です。

(H.K. 60代)






























2023年2月5日日曜日

平和をつくり出す人たち

平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

新約聖書 マタイによる福音書 5章 9節(口語訳)

聖句は新共同訳ではなく、あえて口語訳聖書を示しました。有名な山上の説教の1節です。

実は、この聖句は私の名前(和幸)の由来となった箇所です。新共同訳聖書では、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と訳されています。

父が生前に、私はなぜこの聖句を選んだのか聞いたことがありました。父曰く、恩師のご子息の名前が「幸平」で、その由来が文語訳聖書のこの箇所だったのだとか。文語訳聖書では「幸福(さいわい)なるかな、平󠄃和ならしむる者。その人は神の子と稱(とな)へられん。」とあります。

私が生まれた頃は口語訳聖書になっていたので、同じ聖句を用いながらも平和の「和」とさいわいの「幸」をとって「和幸」と名付けたのだそうです。

聖句のように「平和をつくり出す人たち」になれているかはわかりませんが、父がこの聖句を選び名付けてくれたことに感謝していますし、この名前に誇りを持っています。この名前に恥じないよう、またクリスチャンとして少しでも「平和をつくり出す人たち」になれるような生き方をしたいと考えています。

(K.I. 50代)




























2023年1月29日日曜日

祈りの時

わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章 26節~27節

もうずいぶん前のことですが、信じられない出来事が起こり、呆然となったことがあります。その時の自分を今、はっきりと思い出すことができます。

それまで日常的に、また何かあった時に、思いや気持ちを言葉にして祈っていましたが、その時はあまりのショックに言葉が全くでませんでした。ただ、ただ、神様、、、と、うずくまりました。なにも言葉が出ないまま長い時間立ち上がることができませんでした。

その後、だんだんそれは現実となって大変な時期を過ごしましたが、守られて何とか乗り越えることができました。そして、後になって、この聖句に出会ったのですが、その時の不思議な体験を思い出しました。忘れることができません。言葉はなくてもむしろ深く祈った自分を感じ、包みこまれるような感じがしたのを覚えています。

祈りの言葉は大事ですが、心を真っ直ぐに神様に向けることで弱い私の心のなかに神様が入ってきてくださったのだとあらためて確信いたしました。神様は私たち一人一人の心の奥をご存じなのだと思いながら祈っています。

(M.N. 70代)


























2023年1月22日日曜日

わたしのもとに来なさい

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

新約聖書 マタイによる福音書 11章 28節

46歳で受洗して聖書を読むようになった。この言葉に初めて触れたとき、なんて優しく力強い言葉だろうと心に安らぎを得た。

それまで不思議に思うこともあったクリスチャンの義母や、あの方この方の姿が少し理解出来るようになった。その人たちは小柄な姿からは想像もつかないような困難を乗り越えてこられ、いつも柔和で感謝の言葉が多い毎日を過ごしておられる。人のせいにして思い煩うことの多い私は、イエス様から学び御手に委ねて真実に生きる事の大切さを教えられた。

(H.K. 70代)