2022年12月25日日曜日

いつもほほえみを

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

旧約聖書 イザヤ書 43章 4節(新改訳)

昔、キリスト教が初めて日本に伝えられた頃、「愛」と言う言葉は使われていなかったそうです。その代わりに「ご大切」と言う言葉が使われていました。私たちはすでに神様に価値あるものとして愛されていると言う意味です。人は愛なくしては生きていく事はできません。「愛を乞う人」である私自身この聖句によって励まされ元気に生きて来ることが出来たと思っています。

カトリックのシスターである渡辺和子さんの本「愛を込めて生きる」を読むと「ほほえみ」の大切さが書いてあります。心からの尊敬と愛を持って、相手に微笑みかける時、神様からの愛が伝わり、その人は自信を持って元気に生きていくことが出来るのではないでしょうか。

神様、私たち自身が愛の泉となって、愛を伝えるものとしてください。

(K.O. 70代)











2022年12月18日日曜日

キャロリングの思い出

主の御名を賛美せよ。

旧約聖書 詩篇 148編 5節

私が、以前通っていた千葉の教会で、聖歌隊の奉仕をしていた時のことです。クリスマスイヴに行われる賛美礼拝の後、聖歌隊を中心に有志の方と共に、キャロリングを行うのが、恒例でした。住宅街にある教会でしたので、周辺の学生寮や社宅の前、団地の駐車場等で、ペンライト片手にクリスマスキャロルを賛美して回ります。キャロルを歌っていくうちに、真っ暗な部屋に明かりがひとつまたひとつと灯り、窓が開き住民の方の姿が見えるようになると、指先や足元の寒さを忘れ、一段と賛美に熱が入り、ハーモニーもピークに達します。賛美が終わると、住民の方達の温かい拍手に励まされること一時間、毎年楽しみに待っていて下さる方達との賛美を通しての交わりを今でも懐かしく思い出します。

今年もイエスさまの誕生をお祝いするクリスマスが間もなくやってきます。私たちのために神さまは、イエスさまをこの世に与えて下さったことに感謝して、コロナ渦でありますが、心からイエスさまのお誕生を賛美することを心待ちにしています。

(H.K. 60代)









恐れるな

「見よ、乙女が身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は「神は我らと共におられる。」という意味である。

新約聖書 マタイによるの福音書 1章 23節

「恐れるな」という言葉は聖書の多くのところに出てきます。クリスマスに関連していえば、マリアが天使に救い主を身ごもると告げられた時、ヨセフが未婚のマリアが身ごもったことを知り思い悩んだ時、羊飼いに救い主の誕生が知らされた時などです。

私たちが思いも及ばない出来事で恐れたり思い悩んだりするとき、聖書は私達に「恐れるな」と語ります。なぜなら「神がわれらと共におられる」いう名の救い主イエスがお生まれになるからだというのです。このクリスマスの出来事はマリアやヨセフや羊飼いだけでなく、私たちにも最初から信仰を持ってしか受け止められない出来事として語られています。

しかし、神はその後の主イエスのご生涯を通し、また十字架と復活の出来事を通して、そのことが事実であることを裏付けられました。

毎年クリスマスの時期にこの記事を読むとき、「恐れるな」なぜなら「神がわれらと共におられる」からというみ言葉の前に大きな慰めと励ましをいただき、新たな歩みへと導かれます。

(K.O. 70代)







2022年12月11日日曜日

私に届いた神の愛

 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

新約聖書 ルカによる福音書 2章11節(新改訳)

私が初めて教会でのクリスマスを過ごしたのは、1950年、中学一年生の時でした。当時、八戸に住んでおり、母と妹たちと雪の降る中を教会へ行ったことは、懐かしい思い出です。戦後の色のない世界に暮らしていた私にとって、外国の教会から届いたクリスマスカードの絵の世界は、とても楽しいものでした。

その後、父の転勤、結婚してからは夫の転勤で教会のない土地に暮らしましたが、娘が小学校に上がる頃に、私は再び教会に通えるようになりました。そして、犬養道子著『旧約聖書物語』と『新約聖書物語』を読みました。神がひとり子を賜るほどにこの世を、そしてこの私を愛してくださったこと、その神の愛が圧倒的に心に迫ってきました。

そして迎えたクリスマス、娘が散らかしていた聖句カードを見た時、今まで知っていた聖句でしたが、本当にその通りであったとハッとさせられ、感謝いたしました。。

(M.T. 80代)





2022年12月4日日曜日

新しい希望

 見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。

旧約聖書 エレミヤ書 23章 5節

神さまは私たちに新しい希望を与えてくださいました。それは、逆転した新しい希望でした。ユダの王たちへの審判の言葉。その結びに記されていた、ダビデの王座につく者はもはやいないという言葉。しかし、その日、若枝が起こるのです。切り株から新しい芽が芽吹くのです。

その日とは、イエス・キリストがお生まれになった日のことです。神の御子なるキリストは王として正義と恵みをもってこの地を治めるために来られました。それゆえ、クリスマスは私にとって大きな慰めです。希望をもって生きることのできる根拠です。この世界には悲しいことや心を痛めることがあまりにも多いです。しかし、この世界は神さまから見捨てられた世界ではありません。神の御子キリストが来られた世界なのです。

キリストはやがて再びこの世界に来られます。その日を待ち望みつつ、今、私たちは安心して王なるキリストの支配に身をゆだね、希望と慰めの中に憩うことができるのです。

(K.T. 40代)







2022年11月27日日曜日

「受容」すること

キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 15章 7節

「受容」とは、社会福祉の基本原則である。「受容」、そして「共感」は、学生の頃に叩きこまれ、現場で働き始めて以来、常に意識するよう努めてきた。

十数年前、耳鳴りがひどくなった。耳鼻科では特に異常はなく、安定剤が処方された。服用しても耳鳴りは治らなかった。原因として思い当たることがあった。相談業務で2時間近く利用者の方の話を聴いてから、ひどく疲労を覚えていた。その方にとっては切実な相談であった。私はひたすら傾聴し「受容」に努めた。私の耳鳴りは、どうもその翌日から始まったらしかった。さらに良くないことには、相談を聴くたびに吐き気をもよおすようになった。その時はじめて、私は(もうこれ以上は受容できない)と思った。キリストには出来ても、人間の出来ることではない、と私は思った。  

私は自身の限界を知り、無力を知ってからも、傾聴し続け「受容」に努めているが、以前よりも、「謙虚」ということを少しは意識するようになった。そして、どこか相談の質が違ってきた気がすると同時に、気持ちにも余裕が生まれたように思う。いつのまにか、耳鳴りも吐き気もどこかへ消えていた。おそらく、神様は最初からわかっていたのだろう。人間の無力をわかったうえで、あえて「相手を受け入れなさい」と言われたにちがいない。

(H.T. 40代)



2022年11月20日日曜日

心の糧

あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。

旧約聖書 詩篇 119編 105節

私(87歳)の日課は朝起きて、初めににぼしを5,6本40秒チンしてカリカリにし、前の晩に水につけておいたコンブと一緒にその水を飲みながら食べます。30年くらい続けています。元気で一人暮らしです。娘が「わたしもお母さんのようにまねしてみたけど、まずくて三日しか続かなかった!」と言っています。

もう一つの日課は一日の家事の始まりの前に、旧・新約聖書を1日1章(全部読み終わるのに約3年くらいかかります)、1990年から読み始めて今年で11回目になりました。読み返すたびに日付と赤線の引いてあるところが増えてゆきます。悲しかったこと、うれしかったことが短く書いてあり、こんなことがあったのだと思いだされます。このあと何回読み返すことができるのかと思いつつ聖書の言葉を心の糧に、にぼしを体の糧に残り少なくなった人生を感謝しつつ過ごしています。

(K.N. 80代)



2022年11月13日日曜日

愚かな者になりなさい

 本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 1章 18節

私にはこの言葉が単に知恵をひけからさず謙虚であれという諭しには聞こえてこないのです。もちろん謙虚さに欠け反省しきりです。一方、この言葉で『愚かな者』になればいいのだとほっとします。どう愚かかというと、キリストの十字架と復活を愚直に信じることに決めたのです。このことを知恵で納得や論破するのは辛いです。確かに知恵は生きていくのに欠かせません。が、続く19節には『神は、知恵のある者たちを/その悪賢さによって捕らえられる』とあります。知恵は使い方次第で自分を『悪賢さ』へ向かわせます。また自分が『悪賢さ』に騙されるのもいけない。いずれにせよ手前で止まることができたとき、それは自分の内に住んでいる神の霊が引き止めた証です。それを救い主がともにあることへの愚直な信仰が気づかせてくれています。

(T.M. 60代)



2022年11月6日日曜日

真理とはイエスなり

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 8章 31~32節

国立国会図書館に「真理がわれらを自由にする」という銘が掲げられている。求道中に知り、「国会図書館に聖書の言葉!」と感動したものだが、信仰が与えられてから該当箇所を読むと、明らかに誤用とわかる。和食レストランが「人はパンだけで生きるものではない」と看板を出すほうが、まだ罪がないというか、ジョークとして好ましい。

聖書が言う「真理」とはイエス御自身である。この御方は「道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6a)。それゆえ、聖書を読む際はイエスを念頭に、十字架と復活の福音と関連づけて理解する必要がある。信仰の道に迷ったら常にここに立ち返り、イエス御自身に支えられて再出発したいものだ。

(H.M. 60代)


2022年10月30日日曜日

未来を握っておられるイエスさま

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 4章 6節~7節

かつて私が将来について、とてもとても不安がっていたとき、あるクリスチャンにこんなことを言われました。「人間は、過去を見れば後悔し、未来を見れば不安になる。でも、未来を握っておられるのはイエスさまなんだよ。」と。それを聞いて、ほっと安堵しました。

私たちはただ、いつも共にいてくださる神さまに、どんなことについても、感謝を込めて祈り、願い、求めているものを打ち明けていけばいいのだと、この聖書の言葉は語りかけます。生きていると立ち向かえないんじゃないかと思うような出来事も起こりますが、それでも、毎日毎日、神さまに祈りながら歩んでいくときに、たしかに天からの平安によって守られた、という経験をしてきました。これからも、未来を握っておられるイエスさまに信頼して、明日も生きようと思います。

(K.T. 40代)


2022年10月23日日曜日

イエスよ、早く来てください!

わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。~~~~~~~~~~~~そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごととくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

新約聖書 ヨハネの黙示録 21章 1節~ 4節

歴史を振り返るまでもなく、現実の目の前に起こっている出来事を見ても、あまりにも人間の非人間的な所業に目を覆いたくなります。権力欲に支配された為政者のためにどれだけ多くの人々の尊い命が奪われたり、住むところを追い立てられたりしていることか。身近に起こる日常の小さなことにもみられる忌まわしい出来ごとも根は同じです。

毎日毎日胸が締め付けられ、「主イエスよ、早く来てください。いつまでこのような世界を放置されるのですか。」と叫びたくなります。聖書には、イエス・キリストが再び地上に来られることが約束されていて、その後、冒頭の聖書のような世界になると示されています。このみ言葉が唯一の慰めであり、希望です。「然り、私はすぐに来る」とヨハネに語られた主イエスよ、すぐに来てください。

(K.O. 70代)







2022年10月16日日曜日

イエス様の矢の一言

すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。

新約聖書 ルカによる福音書 6章 26節

数本の競争課題を追って日々繁忙だった中年時代の或る秋口、私は作業中に発熱に気付き、測れば40℃。所内の病院に行き処方戴いた薬剤を服用して帰宅就寝。だが翌朝も解熱せず重篤な薬疹併発して緊急入院。唯々点滴。病床から望める隣の仕事場の窓々を観ながら悶々。携行した聖書に上掲の御言葉に出遭いました。6人部屋にて気も紛れ、顔の腫れも引き、3週間の後、此の御言葉に伴われて退院。今も思い出深い御言葉です。

(S.K. 80代)





2022年10月9日日曜日

その場で祈る

こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。・・・

新約聖書 エフェソの信徒への手紙 1章15節~23節

私は若い頃より“気”を感じやすい質でした。子供の内面を探る、教育公務員の私にとってプラスに性分ではありましたが、職場異動の度に、困る事になります。建物の中での“気”を感じ、怖くなり、ある所では、早朝出勤や残業も怖くて出来なくなる程で、業務に支障をきたす様になりました。(世間では霊感と言うのでしょうが、その言葉は増々怖くなるので使いませんでした。)

そこで、思いきって牧師先生に相談すると、この箇所をその場で読む様にすすめられました。この聖書箇所の説明は、難しくて出来ませんが、全て詰まっている感じです。家だけでなく、その場で祈る大切さを知りました。

現在も“気”は感じます。しかし怖がるのではなく、その場で祈る事により少し怖くなくなり生活出来る様になりました。めまいが生じてしまう葬祭場にも行ける様になりました。

(M.E. 50代)



2022年10月2日日曜日

シャドラクメシャクアベドネゴ!

シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。
「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」

旧約聖書 ダニエル書 3章16節

ある年のサマーキャンプのこと。私は叔母に自分の好きな聖書の個所について、熱弁をふるったことがある。小さい頃から好きな話で、そんなにたいした理由もなかったのだが、ダニエル書に出てくるこの3人の友情や信仰心など、いかに自分が好きか、なんとか小難しい理由を見つけ出そうと言葉を探していたら、『私が教会学校にいた頃、この場面で先生が『シャドラクメシャクアベドネゴ!!』って言って片手を上げて叫んでね。何だか呪文みたいでしょ?それが面白くてこの箇所を覚えちゃったの。理由なんて難しく考えることないのよ』と、叔母は明るく笑い飛ばした。

大人になって、好きな聖書個所にもいろいろと難しい解釈しなければ…!と思っていた私は、すごく肩の荷が下りた思いだった。

聖書は普通に面白いし、理由がなくても好きなところがあっても良い。叔母と笑い合った夏の思い出。

(K.N. 40代)






2022年9月25日日曜日

この町には、わたしの民が大勢いる

恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。(略)この町には、わたしの民が大勢いるからだ。

新約聖書 使徒言行録 18章 9b~10節

地方都市の教会にいた時、高校生が洗礼を受け、教会員となりました。ところが、その多くは、大学受験で土地を離れました。折角、育ってきたのに、地方都市の教会は、「苗床」なのでしょうか。引っ越し先で信仰生活を励んでくれれば良いけれど。

そんな思いで悶々としていた時、この聖句に出会い、目が開かれました。この町にも人は大勢いるのだ。この町の方々へ語っていかなければならないのだ。と、気付かされ、祈りが変わりました。

数日後、老婦人と娘さんが牧師を訪ねて来ました。お母様を信仰へと導いていただきたい。との事でした。その老婦人は、いつも教会の前を通っている方でした。神様は祈りを聞いて下さっていました。

(M.I. 70代)




2022年9月18日日曜日

神様の資本

金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。

新約聖書 ヤコブの手紙 5章 3節

70歳の男性です。昔から「シンプル&ニート」(簡潔&こざっぱり)がモットーです。必要な物は祈り求め、与えられれば神様に感謝し、与えられなければ、むしろ良かったか、さらに良い物が与えられると信じます。約50年キリストを信じて来て、不足を感じたことはありません。逆に、物の管理と、リスク対策とから解放されて楽です。昨年、NHK大河ドラマを通して「社会資本」という概念を学びました。今、祈り求めているのは「社会資本」ならぬ「神様の資本」増強のために、より積極的に投資できる力です。

(N.M. 70代)


2022年9月11日日曜日

日ごとの糧を今日も与えてください

見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。
民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。

旧約聖書 出エジプト記 16章 4節

このみ言葉は、イスラエルの民がエジプトから脱出後、荒れ野で食糧もなくなり、神さまに向かって不平不満を呟いた時に、神さまが約束したものです。神さまは約束の地カナンに到着するまで毎日マナ(パン)を降らせましたが、次の日の分まで多く集めた人が多く出ました。ところが多く集めたマナは、夜中に虫が付き食べられなくなりました。そして「彼らは朝毎に必要な分を集めた」と記されています。

自分に必要な聖書のみ言葉(糧)は、その日その日神さまから頂くものです。
昨日の糧は、今日の信仰の歩みを支える糧にはならないのです。今日を生きるために、今日与えられる新鮮なみ言葉の糧が必要です。イエスさまは、「日ごとの糧を今日も与えて下さい」と祈るように教えて下さいました。毎日身体の栄養を摂るように、心を守り育てるみ言葉の糧を祈り求め、忙しい中にあっても毎日聖書を開きたいと願います。

(H.K. 60代)



2022年9月4日日曜日

これが行くべき道だ

あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け 右に行け、左に行け」と。

旧約聖書 イザヤ書 30章 21節

小学生だった娘のたっての願いは、「犬が飼いたい」だった。神さまへの祈りもそれだった。共働きの上に犬の世話までとても無理。だがとにかく保護犬施設まで足を運び出会った仔は「あんず」という名前だった。飼ってやりたいが無理、神さまどうしましょうと思案しつつ、祖師谷公園でふと見上げた木に掲げてあった樹名札には「あんず」とあるではないか。調べると広大な園にあんずの木はわずか。まさに背後どころか真正面から選択肢の答えを神さまからいただき進むべき道を示された。幸いとよんでいいのかわからないが、コロナ禍でリモートワークの日々、家族で犬の世話ができている。家族の楽しみも増え、なにより未信者の家族が神さまの御働きを体感できた。神さまに「行くべき道」を先導される私に迷いや不安はない。

(E.I. 50代)



2022年8月28日日曜日

光の子として歩める幸い

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。

新約聖書 エフェソの信徒への手紙 5章 8節

聖書は、人が神さまと共に生きていない状態を暗闇と表現しています。たしかに、クリスチャンになる前の私は、自分の中のなくそうとしてもなくせない悪い思いをもてあまし、私の心の中のどのような思いをも知っておられる神さまの裁きを恐れていました。なぜなら、私は幼い頃から教会に通っていて、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(新約聖書 ヘブライ人への手紙9章27節)ということを知っていて、死というものが果てしなく落ちていく暗闇のように感じていたからです。

しかし、18歳の秋のことです。私は突然知りました。イエス・キリストが十字架にかかって死なれたのは、本来は私が受けるべき罪の裁きを身代わりに受けてくださったのだということを。キリストの十字架は私の罪を赦すためであり、私が神と和解して、神と共に生きるようになるためであったのだと知りました。もう死後の裁きを恐れなくてよくなりました。

クリスチャンになって私が変えられたことはたくさんありますが、その中でも大きなことは、神さまが喜ばれない思いを神さまの前に包み隠さず告白できるようになったことです。

そうすると、神さまが私の中の暗闇を取り去ってくださいます。今は主イエスに結ばれて、光の子として歩める幸いを感謝します。

(K.T. 40代)


人に何かを与えるという意識

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。

新約聖書 マタイによる福音書 7章 12節

この個所が「私を支える聖書の言葉」です。

なぜなら、この聖書の個所は私が通っていた中学・高等学校で一番大切にされ、何度も伝えられてきた聖書の言葉だからです。「人にしてもらいたくないこと、嫌だと思うことは他の人にもしないようにする」ではなく、「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい」だという点がポイントだと思います。「人にしてもらいたいと思うことを人にもする」というのは、自分が「人に何かを与える」という行為を、前向きに、積極的にやろうという意識がなければできないことだと思います。この聖書の個所からは、相手を不快にさせない必要最低限のマナーだけでなく、それを超えた、相手にとってプラスになることをしようという意識を思い出させるため、これからもこの聖書の言葉を支えにしていきたいです。

(M.T. 20代)


2022年8月21日日曜日

まっすぐに考える

ただし見よ、見いだしたことがある。
神は人間をまっすぐに造られたが
人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。

旧約聖書 コヘレトの言葉 7章 29節

20代のころ、私は常に悩んでいました。「なぜ、人は身勝手なのか。いや、自分の方が身勝手なのか。」、「こんなに生きにくい世の中ならば生きる意味はあるのか。」。思考は深く沈み、答えが出ないまま、深夜の私の頭をぐるぐる巡ります。

私は、救いを求め手当たり次第、本を読み漁りました。そして、三浦綾子さんの自伝(「光あるうちに」)に導かれ、単身で教会に訪れ、30歳のときに洗礼を受けました。勿論、洗礼を受けても、悩み自体がなくなるわけではありません。それでも神様はおっしゃってくださるのです。「『複雑な考え方』は、私は望んでいないんだよ。まっすぐに私を求めてくれさえすれば、うまく計らうよ。」と。私は悩みをすべて神様に預け、安心をして眠りにつけるようになりました。

(R.K. 40代)



内なる宝

恐れることはない、わたしたちはあなたと共にいる神。
たじろぐな、わたしはあなたの神。
勢いを与えてあなたを助け
わたしの救いの右手であなたを支える。

旧約聖書 イザヤ書 41章 10節

日頃深いことは考えずに過ごせている私でも、不意に真剣に考えて答えを出さなければならない時がある。なかなか答えが出せない。でも本当のところ、心の奥の方では答えが出でいるのだ。なぜそれを答えとしないのか…それは、単に自信がないから。

コロナ禍にあって、これまでやったことの無い仕事をする機会が巡ってきた。挑戦してみたい。でも、でも、とにかく自信がない。悩んでいた時にふと思い出した聖句がこれであった。

大学の進学先を悩んでいた時に出会った箇所で、背中を押してもらったことを思い出し、えいっと飛び込んでみた。

飛び込んだ先はとても大変だったけど嬉しい悲鳴。とても充実した楽しい仕事ができている。

いつになっても私は「土の器」だけど、これからも内なる宝に支えられ、強めて歩んでいきたいと思う。

(M.M. 40代)




2022年8月14日日曜日

君は愛されるため生まれた

わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。

新約聖書 ヨハネの手紙一 4章 19節

「君は愛されるため生まれた。君の生涯は愛で満ちている。(中略)君の存在が私にはどれほど大きな喜びでしょう」

これは韓国のイ・ミンソプ牧師が作り世界中で歌われている歌です。私がこの歌に出会ったのは医学生の時。教会学校の先生をしていました。教会に来る子供達に届けたい、その思いで選曲していましたが、いつも勇気づけられ、励まされるのは私の方だったかもしれません。その後、小児科医となり、NICUで働いていた頃。先天的な病気で少ししか生きられない赤ちゃん達と出会いました。彼らがこの世に誕生した意味、それは周りの人から愛され、愛で満ちた生涯を送るためだと当初は思っていました。しかし、どうでしょう。赤ちゃんを通した人との関わりの中で、日々愛に触れ心が満ち足りるのは、やはり私の方だったように思います。どんなに小さな命にも、神様の愛が注がれ、周囲をも巻き込んで実を結んでいるように感じました。

その後、子どもの心の専門医となりました。周囲とうまくやれず自暴自棄になる子、虐待されて心がバラバラになってしまった子、死を選ぼうとする子等々、日々様々な子供達に出会います。自分の子どもを愛するのは簡単ですが、彼らは一筋縄ではいきません。それでも、神様が私を愛し、私の存在を喜んでくださるように、私もまた彼らを愛し、彼らが「自分は大切にされている」と思えるよう日々診療に励んでいます。

(R.O. 30代)




主がともにいてくださる

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

新約聖書 マタイによる福音書 28章 20節

新型コロナの感染が拡大し重症の方、亡くなられる方が増えているというニュースが毎日流れ続けていた時のことです。落ち込んだ気持ちで夕食の準備をしていると「やすかれ、わがこころよ、主イエスはともにいます」の讃美歌298番がふと浮かんできました。繰り返し心の中で歌っているうちに沈んでいた気持ちが徐々に取り払われていきました。

マタイによる福音書の28章20節に「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と記されています。

主がともにいてくださることでただ不安を感じたり心配ばかりしているのではなく、今私ができることをしていこうとあらためて気付かされたと同時に力づけられたひと時でした。

(M.A. 60代)



2022年8月7日日曜日

耐えられない試練はない

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 10章 13節

数年前、突然の高熱に見舞われました。検査ののち、診断されたその病気は、対処療法しかないとのことで、解熱剤を飲む日々を過ごしました。解熱剤の効き目が切れると、またすぐに高熱が出る、その繰り返しに気持ちも体力も奪われ、また、職場に戻れるかという不安も重なり、精神的に追い込まれていました。なぜこんな目に遭うのか。どうして神様はこんな試練を与えられたのか。その時の私にはわかりませんでした。

しかし、私には看病をし、祈ってくれる家族がいて、職場復帰した際には支えてくれる同僚がいました。その存在の大きさは計り知れません。

耐えられない試練はない。逃れる道として、家族や仲間を備えてくださった神様に感謝しています。

(N.Y. 20代)


パスカルの賭け

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

新約聖書 ヨハネによる福音書 3章 16節

大学時代に仲間と神の存在についていろいろ議論をした。その中で一人の友人がパスカルの賭けの論理という話をした。「神が実在するかどうかは理性的に決定することはできない。神がいる方に賭けた場合、もし神がいなかった場合でも、失うものはない。むしろ生きる意味が増す。もし神がいたら、永遠の命を与えられる。しかし、もしいない方に賭けて人生を歩んできた場合は、滅びの中に入れられる。」脅しのような言葉で、ずいぶん乱暴な話だと思ったが、妙に説得力があった。結局僕は神が実在する方に賭けて、これまで幾多の聖書の言葉に慰められ、励まされて来た。パスカルが言うように、もし神が実在しなくても失うものはない。僕は今、永遠の命の希望の中に生かされている。

(K.O. 70代)


2022年7月31日日曜日

私の道しるべ

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。
花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。
砂漠はレバノンの栄光を与えられ
カルメルとシャロンの輝きに飾られる。
人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
弱った手に力を込め
よろめく膝を強くせよ。
心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。

 
見よ、あなたたちの神を。
 敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
 
神は来て、あなたたちを救われる。」
~~~~
主に贖われた人々は帰ってくる。
こしえの喜びを先頭に立てて喜び歌いつつシオンに帰り着く。
喜びと楽しみが彼らを迎え
嘆きと悲しみは逃げ去る。

旧約聖書 イザヤ書 35章

聖書はどこを読んでも私の道しるべです。58歳の時、苦難の道のりで、この聖句を与えられました。すべてがイザヤ書35章によって命を与えられ解放された今は感謝の日々を暮らしております。

神様は一人一人に役割を与えられ地上に送られました。髪の毛一本一本までご存じでいらっしゃるのです。「なぜ神は黙っておられるのか」と苦しい時は「神さま、いつまでですか、いつまでですか」と訴え、毎日祈り続けました。イエス様は共に歩いていて下さったのです。

その時は来ました。失う物は多かったですが、神様はちゃんと用意して下さったのです。信じきって祈ること。救いは与えられました。

(C.T. 80代)



いつも共にいて下さる神様

神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。」

旧約聖書 創世記 21章 17節

自身の信仰生活を振り返るたび、その不真面目さが嫌になります。祈ることができなくなり、神様をとても遠くに感じます。そのようなとき、神様が奴隷ハガルとその子イシュマエルとずっと共にいて、彼らが跪いて祈ったわけではないときにも、その泣き声を祈りとして聞いていてくださったことを思い出します(主日礼拝説教ブログより「泣く声さえも祈りとなる」http://shoeichurch.blogspot.com/2013/07/)。

先日、愛犬を亡くしました。この子は、私が最も孤独なときに出会い、犬を飼うことは絶対に禁止であったにも関わらず、家族となりました。たくさんの幸福な時間を過ごし、年老いてからは、「この子が眠りにつくときには、どうか私の腕の中で」とずっと願ってきました。亡くなる日、幾つもの偶然が重なって腕の中で看取ることができました。今となっては、神様がそのようにしてくださったのだと思います。

(A.S. 20代)



2022年7月24日日曜日

最も重要な掟

第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。

新約聖書 マルコによる福音書 12章 29節~ 31節

「主を愛し、隣人を愛す。」言葉にすれば、単純で簡単に思えますが、実際はなんと難しいことでしょうか。

困っているときや苦しいときは、神様に真剣に祈り求めますが、それが過ぎれば当初の感謝を忘れてしまいます。遠くで起こる争いごとをニュースで見れば、愚かしく思いますが、自分の近くにいる人との小さな諍いや利害に、いつまでも恨んだり根に持ったりしています。「人間は自分では変えることはできない。主に変えていただくのだ」と聖書に書かれています。「心を尽くして主を愛し、隣人を愛する人に変えてください」と、祈り求めたいと思います。

(S.O. 60代)



幼な子

だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこに入ることは決してできない。

新約聖書 マルコによる福音書 10章 15節(口語訳)

お父さんが牧師である友達が10才位の頃小学生のための日本語のバイブルクラスに誘ってくれました。毎回み言葉カードが渡され、次回まで暗記し一人ずつ立って言わなくてはならず、それがイヤでやめてしまいました。中学生になるとその友達が今度は英語のバイブルクラスに誘ってくれましたが、全部英語で全くわからず、すぐやめてしまうと、彼女は今度はお父さんの教会に誘ってくれました。それから私は教会にいくようになったのです。

後に彼女と再会した時にどうして何度も私を誘ってくれたのと聞くとお父さんが友達を誘いなさいといったからといいました。もし彼女が大人だったら集会、教会に一度誘って断られたら2回目がないのが普通です。誘われた私も大人だったら一回行っていやだったら2〜3回目はありません。いろいろ口実を作ったでしょう。友達も私も幼い故に純真でそのまま素直に受けとめていたのです。忘れている幼な子の心を今一度持ちたいものです。「心をいれかえて幼な子のようにならなければ天国に入ることは出来ないであろう」(マタイによる福音書18章3節)

(S.T. 80代)



2022年7月17日日曜日

見えないもの

見わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 4章 18節

教会に通い始めた時、教会の階段は急に感じられた。一歩登るごと自分自身に訝りつつ「見えないもの」を見たいとも願っていた。

信仰はバンジージャンプに似ていた。期待と怖さの中、飛んだ。否、飛ばされた。景色が反転し、常識を上下に揺さぶられるうち、ポケットに仕舞ってあった何かが落下していくよう感じた。

背中を押した力が体や心を握ってくれている。安心感の中、今も私は「見えないもの」に目を注ぐため教会の階段を登っている。今もポケットが軽くなったと感じる瞬間がある。その度少し見い出すことがある。明日にはまた何か見せていただけるかもしれぬ。そう思うと新しい日も悪くないように感じる。

ブログを読むあなたといつか共に祈る時が来るように祈っている。今通信のため繋ぐWi-Fiが視覚化できないよう祈りも見えないが、お祈りは容量制限なし、高速通信、時間無制限。確実に繋がること。それは階段を登り続け見えてきたことの一つである。

(K.M. 50代)


祈りに支えられて

苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む

新約聖書 ローマの信徒への手紙 5章 3~4節

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 4章 6節

原因不明、治療法なしという病気で入退院を繰り返していた夫に付き添い、自分も壊れてしまいそうな日々を過ごしていた時、受洗準備の指導を受けていた時に出会った聖句です。

苦しさと絶望の中で、一体本当に希望にたどり着けるのか半信半疑の毎日で、私にできることは、神様にお祈りすることだけでした。そのうちいつしか心が楽になって行き、私にとってうれしい奇跡のようなものでした。神様に感謝し、信じて祈ることの大切さがよくわかりました。

そして今一番の聖句は「いつもよろこんでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケの信徒への手紙一 5章16節、17節)です。

(Y.T. 70代)


2022年7月10日日曜日

すべては益に

神を愛する者たち……には、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章 28節

自分の人生を振り返って、一つの扉が次の扉につながっていた不思議さに驚きます。大学進学で下北沢に下宿しなければ教会に来ることはなかったし、教会に来なければ就職先は違っていたでしょう。就職先が違えば今の妻とは出会っていなかったし、その後の転職もなかったでしょう。一つの出会い、決断が次の出会いにつながりました。さらに、20代で週刊新聞、30代で書籍の編集をしなければ、転職後に月刊誌の編集をすることはなかったでしょうし、なおかつ経営危機を迎えた会社のために4千万円を単独で売り上げることもできなかったでしょう。

すべてつながって一つの不思議な物語を造っています。ただし、この聖句にある「すべて」には病気、事故、トラブルなども含まれます。これらは渦中にあるときは「益」とは思えません。でも、長い時間を経て振り返ってみると、きっと、「ああ、あの経験も次のステージへの扉だったのだ」と気づくのではないかと思います。

(M.I. 60代)



あこがれの言葉

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。

新約聖書 マタイによる福音書 22章 37節

この言葉を最初に目にしたのは、出張先のビジネスホテルの部屋でした。備え付けの机の引き出しに白い表紙の小冊子が入っていて、ぱらぱらとめくるうちにこの言葉が目に留まりました。「何て良い言葉なんだろう。いつか、こんなふうに生きられたらいいな。」―人を超えた偉大な「誰か」を信じて生きたい――その言葉は、わたしの「あこがれの言葉」として、心の奥深くに沈んでいきました。

それから数年後、わが命と信じていた仕事につまずき、私は教会に導かれました。自分で聖書を読むようになり、再びあの「あこがれの言葉」と出会ったのです。そこでようやく、これは神さまの言葉であり、あの時手にした小冊子は聖書だったことを知りました。

神さまの言葉は種にたとえられます。あの時私の心に蒔かれた種を、神さまは忍耐強く、大切に育んでくださったのだと信じています。今もこの言葉は、「このように生きていきたい」と、心から切望する「あこがれの言葉」です。

(H.K. 50代)



2022年7月3日日曜日

主よ、私を憐れんでください。

主の慈しみは決して絶えない。
主の憐れみは決して尽きない。

 旧約聖書 哀歌 3章 22節

自分の内側の悪を思います。それは人の目からは見えないものもあります。または、それらの思いは、人にはわからないように隠してしまうこともできるかもしれません。それでも、何でも知っておられる神さまの目には私の内側の悪は明らかだという事実があります。

クリスチャンになる以前の私だったら、そのことはとても恐ろしいことでした。しかし、神さまの慈しみと憐れみを知る今は、神さまが私の内側を全部知っておられるということに慰めを感じます。だから、私は、日々祈ります。「主よ、このことはやらない方がいいことなのに、またやってしまいました。」「主よ、ほんの気晴らしのつもりでやっていたのに、その悪いことにとらわれてしまっています。」そして、祈りをこのように締めくくります。

「主よ、どうかこんな私を憐れんでください。」

私たちが正直に自分の罪や弱さを告白するとき、赦しを与えてくださり、悪の力のとりこから解き放ってくださる主がついていてくださることは、何よりの助けです。

(K.T. 40代)


天国へ嫁いだ娘

あなた方を襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。 神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 10章 13節

結婚を予定していた娘が、急性リンパ性白血病になりました。その日から私は一日一日を大切にして行こう、すべては神様の手に委ね、病は恐れず、医療は医者に、心は天にお委ねした生活をする事にしました。それからは 気が楽になり、あきらめではない、充実した生活をするように努力しました。娘の27年の生涯は神様が与えて下さった大切な時間でした。こうして一日一日を大切にして、3年10カ月は過ぎ去りました。私はその時、娘を天国に嫁がせる母親の心境で、用意していた花嫁衣裳を着せて母校礼拝堂から天国へと嫁がせました。

(K.I. 80代)


2022年6月26日日曜日

続けることの大切さ

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

新約聖書 マタイによる福音書 7章 7節

通っていたキリスト教学校では、当番制で生徒が行うクラス礼拝があり、担当の2人のうちどちらが司会でどちらがお話をするか、などを決めながら礼拝を守りました。

この聖句は、“生徒礼拝”で選ばれることが多い、聖句の一つで、何度も耳にし、私もよく覚えている聖句の一つです。聖書の箇所を決めて、お話を考える際、意味も何となく分かりやすい、話しやすいから、生徒が選びやすいと感じる聖句だったと思います。

でも今思えば、その時その時だけの願いや思いだけでは、叶えられないものもあり、大切なのは、求め、探し、門を叩き続けることだと気づいたのです。続けることの難しさを知り、けれども続けることによって与えられるものがある、そう神さまから示されている聖書箇所だと思います。

(R.M. 40代)



天国に住む場所がある

心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。

新約聖書 ヨハネによる福音書 14章 1節

洗礼を受けるきっかけになったのが友人の早すぎる死でした。洗礼と、この聖書の箇所によってこれまでの死に対する考え方が変わり、死を恐れずに神様のもとへ行くという考え方ができるようになってきたと思います。

未だにきちんとした教会員としての生活ができていないと思いますが、礼拝に行くたびに讃美歌は心地よく、もっと聖書の内容を知りたいと思っています。

(S.K. 30代)



2022年6月19日日曜日

お前の怒りは正しいか

主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」

旧約聖書 ヨナ書 4章 4節

聖書の中には、心に葛藤を覚える箇所がいくつかあります。このヨナ書もそのひとつです。ヨナの預言を聞いて罪を悔い改めたニネベの人々。神さまからの罰がニネベに降ることを願うヨナはそれを喜べず、怒りをあらわにします。そのヨナに、神さまはこの言葉を問いかけます。私が、許すこと、理解することが難しい人や出来事と向かい合うとき、怒り続けるヨナの姿に自分自身が重なります。怒りや口惜しさに飲み込まれ、まるで子どものように自分の正しさを握りしめて離さない私は、ヨナのように「怒りのあまり死にたいくらいです!」と神さまに叫びたくなるときがあります。ヨナ書は、そのような私の頑なさを、鏡のように映し出すのです。

怒り続けるヨナに繰り返し問いかける神さまは、「ニネベの人々が悔い改めたのだ。この喜びを、一緒に喜んでくれないか?」そんな願いをヨナに伝えているように感じます。だからヨナ書は、「私の思いは、神さまの思いと一緒だろうか?」と、自分と神さまに問いかけることへと、繰り返し向かわせてくれる書でもあるのです。

(H.K. 50代)


霊の体

自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 15章 44節

何十年も前の話です。高校生の時、学校帰りに知り合いの家に寄り、三才の坊やと遊びました。赤ちゃんが生まれて、お母さんが忙しかったからです。ある日、電話をすると、「もう来なくていいのよ、車にはねられ死んじゃったの」と…。駆けつけると、坊やはそこに寝かされていました。触れた時、衝撃が全身を打ちました。深い闇のような冷たさ…。

冷たさは指先に記憶され煩雑に思い出され、その度に切なさと恐怖を覚えました。死に対してか、幼い命を思ってか、忘れたいのか、自分の気持ちをどう扱えばよいのか、わかりませんでした。

学生時代、休んでいた教会に導かれるように、又通うようになりました。聖書の御言葉を求める思いも強くなりました。霊の復活、私たちの命は朽ちるのではない…この箇所は光でした。そして受洗…忘れようとしてではないけれど、氷が溶けていくように思いました。

(M.Y 70代)


2022年6月12日日曜日

主御自身が建ててくださるのでなければ…

主御自身が建ててくださるのでなければ
家を建てる人の労苦はむなしい。

旧約聖書 詩編 127編 1節

30歳で受洗し、救われた喜びに有頂天になっていた頃、次の課題は「如何に主に全てを捧げて生きられるか」だった。この御言葉から、「主に建てられた」生き方って何だろう?とずっと考えていた。金と欲しか価値が存在しない仕事をして生活を続けるのは、虚しさしか感じなくなっていた。 

そこで、今から考えると、大バカと言うか無謀と言うか、とにかく「主の召命を待つ」、その生活に入った。フリーターを続け、後はひたすら聖書を読み、祈る。貯金はほとんどゼロ、風呂もエアコンも無いアパート生活、不安は全く無かった。

しかし神様は、そこまで無謀そのものの、両手を上げて崖から飛び降りるような困った我が子を見捨てたりはされなかった。あれから30年余り、キリスト教団体の会員誌編集と、HIV/AIDSの電話相談、2つの仕事をこなし、日々、人の弱さと向き合う生活をしている。また、アーティストとしても経験を積んで来た。 

何より、「主が建てられた」、「自分のものは何も残していない」、「今の人生は私のものではなく全て主のもの」、確かにそう言える喜びは何ものにも変え難い。 

(K.O. 60代)




私は主のしもべである

今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。

新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙 1章 10節

「私はキリストのしもべである」
 こう高らかに宣言する人たちを多く見てきた。そしてその度に劣等感と自己憐憫に悩まされてきた。小心者の私には、人に取り入らなければやっていけない部分が尚色濃くあるからだ。じゃあ私は逆立ちしたってキリストのしもべになどなれないではないか。終末の希望とは?信仰生活とは?
「ちょっと待ちなさい。自力でそうなろうとしていないか?」
え?
「信仰は私の十字架と復活で繋がれるものだろう?行いで誇らないためにそうしたって言ってるのに」
あぁ。
「さ、立ち返りなさい。私に繋がっていなさい」
はーい、そうしまーす。
日々、これの繰り返し。

(R.I. 30代)



2022年6月5日日曜日

神は愛なり

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛するものは皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 

新約聖書 ヨハネの手紙一    4章 7~8節

 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト-イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一   5章 17~18節

私のイエス様との出会いは、キリスト教の幼稚園に通っていた時で、「かみはあいなり」と書かれた卒園アルバムに、幼かった私は、理解できず、なんで紙は愛なりなのかたずねたとき、神様は愛で貴方を導いてくださるとお聞きしました。その後娘が初等部に入学した時、部長先生が聖書に書いて下さった聖句が、「絶えず祈りなさい」でした。それから時がたち、受洗させていただきました。日曜礼拝でのお説教は心に響くものでした。数年前、手の関節切除手術を受け、不安な気持ちでいた時、この二つの言葉が浮かんで来て、手術中ずっと神様が共にいて下さり、終わるまで、賛美歌を、心の中で歌っていたように思います。本当に、不思議なくらい、幸せな時でした。今思うと、私の人生の折々に、この二つの聖句が私を、支え、導いて下さったとおもいます。

(F.S. 70代)


祈りの日々

人は心に自分の道を考え計る。しかし、その歩みを導くのは主である。

旧約聖書 箴言 16章 9節(聖書協会口語訳)

私の受洗は、1966年のクリスマスでした。お祝いに叔母(母の妹)が、この聖句を裏表紙に書いて聖書を送ってくれました。

叔母は、戦後の混乱の中で結婚をして、男児誕生後、間もなく夫婦で結核療養を余儀なくされ、生まれた子供は、私たちの兄弟として育ちました。2歳になったばかりで父親が亡くなり、母親と暮らしたのは半年足らずで、17歳という短い命でした。

独りになってしまった叔母は、カリエスとリュウマチにも苦しみ、耳が聞こえなくなっていましたが、療養生活10年目のクリスマスのこと、病室の窓から讃美歌が聞こえてきたのです。感染を恐れて見舞いに訪れる者少ない日々を、信仰によって支えられ、祈りつつ、体調が良い時には手芸や短歌を楽しみ、沢山の本を読む時間も与えられた、50年以上に及ぶ療養生活でした。

私が生まれる前から傍にいてくれた叔母です。「いつも祈っているからね。」と励ましてくれました。私の受洗からの長い年月は、順調な信仰生活を続けられたとは言えませんが、振り返ればいつも必要な試練を与えられ、道は見えなくても導かれていることを思います。

(K.S. 80代)



2022年5月29日日曜日

行く道は神様が決めて下さる

何事にも時があり 
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
(中略)
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時。

旧約聖書 コヘレトの言葉 3章 1節~ 8節

30年以上前のことです。一念発起して自宅で事業を始めようと奔走していた矢先に、高熱に見舞われて2ヶ月間の入院となり、出鼻をくじかれた思いでした。ベッドの上でもどかしい気持ちもあったのですが、家にある資料を全部持ってきてもらい、片っ端から読んではアンダーラインを引き、準備すべきものを書き出し、退院して半年後に無事スタートさせられました。

「ろくに準備もせずに突っ走ってはダメだよ。」と神様に言われたのだと思いました。それから10年間、転勤で移動するまで続けることができました。

7年前に夫を亡くし、広すぎるマンションを持て余していた頃、孫の為に何かできないか、と考え始めました。すると今度は1階を仕事場に、2階を住まいにするのに丁度いい家が手に入り、知人に預けていた道具類が手元に戻り、良い協力者も見つかって、「これは神様からのゴーサイン!」と確信して、以前と同じ事業を再スタートさせて、今に至っています。

今は、どんな形で「そろそろ辞めなさい。」というメッセージが来るのか、耳を澄ませている所です。

(A.N. 70代)


人生の導きから信仰の導きへ

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

新約聖書 マタイによる福音書 7章 7節

受洗する何年も前20代前半の頃、頌栄教会の礼拝に来ました。その日は霊南坂教会の元牧師・飯先生のお説教の日でした。そのお説教での聖句です。この箇所はよく人生訓として解釈されることが多いそうで、当時生意気にも悩んでいた私もそういった解釈をしていたのだと思います。でも、何かしら目の前が開けた気がしたのも事実です。飯先生は「必ず与えられる。必ず見つかる。必ず開かれる」と話されました。今ではこの箇所が信仰への導きであることを学んでいます。何度も何度も頭の中で思い出しイメージし、私の信仰生活を支えている聖句です。

(R.M. 50代)



2022年5月22日日曜日

インマヌエル

見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、「神は我々と共におられる」と言う意味である。

新約聖書 マタイによる福音書 1章 23節

私が全寮制の短大に入学し、そこで朝晩礼拝のある生活が始まり、日々聖書に触れながらも多くの疑問を持ったり、抵抗をしたりしていました。

聖書とは何?イエス様は何?と思っていた時に出会った聖句でした。

遠い存在と思っていた神様、そしてイエス様がお生まれになると言う不思議。
その聞きなれない「インマヌエル」と言う言葉の意味は「神は我々と共におられる」と明らかにされて、初めてイエス様を身近に感じ、心強く思えた事でした。

その1年後に洗礼へと導かれました。それから50年余り経ちますが、神様が共にいて下さると言う事にただ感謝の日々です。 

(Y.T.70代)



旧約聖書の新約聖書関連記事

彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

旧約聖書 イザヤ書 53章 5節

この聖句は表記の通り、旧約聖書のイザヤ書の聖句です。簡潔明瞭にキリスト教信仰の本質を表現しています。旧約聖書について若干間違った解釈をしていたのかも知れないのです。旧約聖書はイエス様の生まれるより以前のずっと昔のことが中心で、イエス様が生まれて活動された時代の記述はほとんどないと思っていました。
これを機会にもう一度旧約聖書に挑戦してみようかと考えています。

(K.N.80代)



2022年5月15日日曜日

見えないものに目を注ぐ

わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 4章 18節

目に見えないものって何だろうと考えた時に、子どもながらに感じたことがあったので書いてみます。

小学6年の時、国語の時間に作文を書きました。机に原稿用紙をしまいましたが、帰りがけに作文がないのに気づき担任の先生に相談しました。

次の日クラス皆で手分けして探したら、出てきました、焼却炉から。私の作文はくしゃくしゃでした。

理由は分かりませんがその作文を私は提出しませんでした。先生も提出しなさいとはおっしゃいませんでした。

後日、お友達の作文が代表で読まれましたが、それは私の書いた文章そのままでした。考えた末、結局担任の先生にだけは本当のことを話しました。

「彼女が私の作文を書き写した」ことは事実として目に見えましたが、私は彼女がそのようなことをした理由を色々考えざるを得ませんでした。

またその一方で、神様のことを考えました。神様は彼女の苦しい(人の作文を焼却炉に喜んで入れるとも思えないので)気持ちをご存じなので彼女を許すだろう。また、神様は彼女がしたことについてもご存じなのだから、私は黙って彼女を見ていようと思いました。

その直後はお互いに話しかけることもありませんでしたが、卒業式の頃には普通に喋れるようになっていました。

この出来事は、目に見えないもの、お友達の気持ちを真剣に考えたり、神様の愛について考えるきっかけになったように思います。

今でも彼女を思い出します。彼女の上に、神様からの豊かな祝福がありますように。

(Y.T. 50代)