2024年12月29日日曜日

「与える」ってなんだろう?

「受けるよりは与える方が幸いである」と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。

新約聖書 使徒言行録 20章 35節

クリスチャンとはどんな人でしょうか。神様に喜ばれる人でありたいと願い、人々のために心と時間を使うような人ではないでしょうか。つまり「受けるよりは与える方が幸いである」というみことばを胸に生きている人かと思います。

私の友人のお母様は、家族のために何年も朝5時に起きていたそうです。その話を聞いた時、すごいなあ、私も子どもを産んだらそうなれるのかしらと思ったものです。それから何年か経ち、私も母となりました。ところがどっこい、私の朝といえば、夫より子どもより遅く起き、「珈琲を淹れてくれたら起きる」「背中をかいてくれたら起きる」など駄々を捏ね、朝食の用意されたテーブルにようやく這っていく始末です。

夫に「『受けるよりは与える方が幸いである』とあるけれど、私は受けてばかりね」と謝るのですが、夫はいつも「君からたくさん与えられているよ」と言います。夫にしてあげていることが全く思いつかないのですが、このやりとりから「受けるってなんだろう」「与えるってなんだろう」と考えるようになりました。このように問いながら自分にできることを探していくことが、神様に喜ばれるようでありたいと願いながら生きることなのかな。こんなことを考えながら眠りにつく今日この頃です。

(30代 女性)



2024年12月22日日曜日

イエス様の光

 傷ついた葦を折ることなく
 暗くなっていく灯心を消すことなく
 裁きを導き出して、確かなものにする。
 暗くなることも、傷つき果てることもない。

旧約聖書 イザヤ書 42章 3~4節

私がこの聖書の御言葉に出会ったのは、大学生のときでした。この時期になると、街中にクリスマスソングが流れ、ライトアップされ、明るい気分になりました。23歳のこの時期に入院するまでは。病室で、何気なく点けてみたテレビには、クリスマスソングや、ライトアップされた画像がありました。しかし、当時の私には、はるか遠い世界のように感じられました。そんな時、病棟クリスマス会、先生サンタ登場、ナースのキャロリング。夕食は、メッセージカード付きのクリスマスメニューでした。

まだ病気を受け入れられていなかった私は、平静を装っていても、闇の中を沈み続けているような時期でした。聖書の御言葉は、支えでした。それでもまだ闇の中にいるような感覚があったのです。病棟クリスマス会、夕食を食べながら涙が止まりませんでした。私は、悩んでいたけれども、まわりを見渡せば、こんなにもたくさんの方々が支えてくださっていること、そして、孤独を感じていたけれど、それは、自分勝手な考えであったこと、わたしが心を開けていなかったからだよと、神様が私に気づかせ、そっとやさしく教えて下さったのです。このクリスマスプレゼントは、私の人生で大きなプレゼントのひとつと思っています。

神様は、このような私にさえも、いつも共にいて歩んで下さっています。クリスマスの時期になると、あの時の様々な思いがよみがえります。

今年も、私の心に光を与えて下さるイエス様のご誕生、クリスマスを待ち望むことができることに心から感謝します。

(O.E. 40代)



2024年12月15日日曜日

神様からの私たちすべてへの贈り物

見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。だれかわたしの声を聴いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

新約聖書 ヨハネの黙示録 3章 20節

子供の頃は、クリスマスには家族でケーキとごちそうを食べ、プレゼントをもらえる日として毎年楽しみにしていましたが、クリスチャンになって、イエス・キリストがこの世にお生まれになったことは神様の、深い人間への愛ゆへの壮大な救済計画であることを知りました。  

私は神様の前に出られるような人間ではないと思っていました。しかし、そのような人々のためにイエス様は人間となりこの世に来てくださいました。私たちは身も心も罪もゆだねイエス様を信じれば許され変えられ救われるという良き知らせは、神様から私たちへの素晴らしい贈り物であることを知りました。  

しかし、イエス様は贈り物をもって戸の外に立ってノックしてくださっているのに、私はまだ扉を全開にして迎え入れられず、恐る恐る少しだけ開けたような状態です。子供のように素直にイエス様からの贈り物を受け取れたらどんなに素晴らしいことでしょう。私を含め多くの人がクリスマスの本当のプレゼントを受け取れますようにと祈りたいと思います。

(S.O. 60代)



2024年12月8日日曜日

忘れられないクリスマスの歌

神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。

新約聖書 ヨハネによる福音書 3章 16節

昔、娘が通っていた保育園でクリスマスにキリスト生誕オペレッタが披露され、その中で園児たちが次の歌を歌ってくれました。

1 夜空に星がなくっても あなたの瞳は星のよう
  神さまの光を受けたから
  <クリスマス おめでとう ハレルヤ!>  *2番以降も最後にこの部分を歌う。

2 ろうそくの灯りがなくっても あなたの胸にともしびが
  神さまの愛に触れたから

3 まっしろな雪がなくっても あなたの心は雪のよう
  イエスさまの血潮で清められた 

4 なんにもプレゼントなくっても あなたに素敵なプレゼント
  神さまがひとり子を与えられた 

5 あなたの心にイエスさまが この夜お生まれになさったら
  素晴らしい 素晴らしい クリスマス 

あどけない歌声を耳にしながら、冒頭の聖書の言葉が心に迫って来たものです。私にとってはかけがえのないクリスマスの一曲です。 

イエス様を心にお迎えするとき、イエス様の十字架の血潮で私たちの心は変えられ、神様と和解できるようになります。そのあともずっと、復活されたイエス様の霊が私たちの内に住んでくださり、進むべき道に導いてくださいます。神様のこの大きな愛、それをこのクリスマスの時期に改めて心に刻みたく思っています。 

あなたの心にイエス様が生まれてくださいますように!

(H.M. 70代)



2024年12月1日日曜日

神の大きな計画に用いられる喜び

わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者というでしょう、
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。

新約聖書 ルカによる福音書 1章 47~49節

ある日、イエス・キリストの母となるマリアのもとに天使が来て、「あなたは身ごもって男の子を産む」と言いました。マリアはまだ結婚していなかったのに、神さまの力によって、男の子を身ごもるのです。大変不思議なことですが、このことのゆえに、マリアは神さまをほめたたえました。その言葉の一部を冒頭に掲げました。 

これは、「マリアの賛歌」という歌として伝えられています。「マリアの賛歌(マニフィカート)」は、J.S.バッハなど、いろいろな作曲家が曲にしています。私はパイプオルガンを習っているのですが、「マリアの賛歌」を弾いたことがあります。大きな喜びを表す、生き生きとした曲です。

では、なぜマリアは神さまをほめたたえ、神さまを喜んでいたのでしょうか。それは、神さまがナザレという小さな村に住むマリアを顧みてくださったからです。マリアを通して、イエス・キリストの誕生という、神さまの大きなご計画を実現してくださるからなのです。マリアは、神さまが小さな私に目を留めてくださって、神さまの大きなご計画のために用いてくださることがわかり、大きな喜びで満たされていたのでした。

私にとっても、神さまが小さな私に目を留めてくださっていることを日々知ることは、深い安心感とともに大きな喜びです。また、神さまの大きなご計画のために、この私が用いられることは、不思議さを感じるとともに大きな喜びとなります。このような喜びは、すぐに消えてなくなるような喜びではありません。永遠に残る喜びです。そして、永遠に残る喜びは神さまから来るのです。

(K.T. 50代)


2024年11月24日日曜日

洗礼に導かれた御言葉

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 10章 9節~10節

両親の反対で、しばらく教会へ毎週通わせてもらえない時期がありました。でも、イエス様を信じてさえいれば、いつか自分が死ぬまでに、両親の了解を得て洗礼を受けられれば良いのかな。と、その時はのんびり思って過ごしていました。ところが、ある日突然『やはりまず自分だけでも洗礼を受けよう!』『今、受けなければ、急に死ぬことになった時にきっと後悔する!』と、いてもたってもいられない気持ちにさせられた御言葉は、正にこの言葉でした。

心の中で信じていれば、イエス様はきっと解っていて下さるだろう、という思いだけでは何かが足りないのかもしれない。反対されていた為にいつも心に隠していて、私は人前できちんと、『イエスは主である』と公に言い表す行動をしていないから、まだ救われていないのだ。それが〈洗礼を受ける〉ということなのかもしれない。と気づかされて衝撃を受けたのでした。

無事に洗礼を受けさせて頂き、その時からようやく私は、神様に罪を許して頂いて救われました。それから27年経ち、父は今年の7月に97歳で亡くなりました。教会には通いませんでしたが、神様に救われて感謝と平安の内にあった私をずっと見ていて、内心は許してくれていたように思います。来年90歳になろうとしている母も、私が毎週教会に行くことを、父と同様に以前ほどあまり反対しなくなってきました。残された母が、やがて神様を信じて『イエスは主である』と公に言い表して私と同じ様に救われる日が訪れることを祈りつつ、日々神様の御言葉を求めていきたいと思っています。

(50代)


2024年11月17日日曜日

神さまがともにいてくださる

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。

新約聖書 ヨハネによる福音書 15章 12節

神さまは、どれほどわたしたちを愛してくださったのでしょう。イエスさまをこの地上にお与えくださり、そのお方は、わたしたちの罪のために十字架におかかりになり、ご自分の命を捨ててくださいました。これほどの大きな愛がほかにあるでしょうか。とうていことばでは表しきれません。本当に本当に感謝です。わたしの心の中にはいつもこの聖句があり、支えです。そして自分にできることはお返ししなければと思います。人はひとりでは生きていくことはできません。いつも神さまがとなりにいてくださいます。助け合い、思いやりあい、自信をもって日々過ごしていきたいと思います。

(H.K. 60代)


2024年11月10日日曜日

望みを抱く

重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。

新約聖書 マルコによる福音書 1章 40節

イエス様に願う。絶望の底にいる人が「願い」をもつことができるのか。

願ってもかなえられることはない――願うことすら愚かに思える。そんな境遇に置かれたことが幾度となくあります。

病のせいで汚れているとみなされ、蔑まれ、社会から排除されたところで生きていたこの重い皮膚病の人。人としての尊厳と権利をことごとく奪われていたこの人は、イエス様のところに来て「願った」。わたしが当時の社会で重い皮膚病を患っていたら、この人のように「願う」ことはできない気がします。イエス様と出会えず、「願う」こともできず、地上の生を終えた人々がいたこともまた想像するに難しくありません。

「イエス様」の噂をこの人はどこかで聞いたのだと思います。その「御名」が「望む力」を与えたようにわたしは感じます。希望する力、生きようとする力、交わりを求める力、自分は神に見捨てられていないと信じようとする力。

わたしが日々生きるこの街にも、希望を失っている人がたくさんいると思います。わたしもその中の一人です。

イエス様の御名が、望みをもてないすべての人の耳に届きますように。

そして、イエス様の御名の力を共に知ることができますように。

(Y.S. 30代)


2024年11月3日日曜日

思い悩むな

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

新約聖書 マタイによる福音書 12章 34節

20年くらい前の礼拝説教で、クリスチャンは長生きする人が多い。頌栄教会も、元気な高齢信徒が多いと言われたことを覚えている。その時の礼拝出席者を眺めまわすと、80歳代、90歳代の人が姿勢も良く説教に聴き入り、立ったり座ったりして唱和したり賛美歌を歌ったり、かなりの運動量をこなしておられる。健康を維持していくためには、長い積み重ねがあってのことではあるが、肉体的なことばかりではない。心の健康に聖書のどの部分を読んでも教えられ、気づかされることが多い。

この聖句は取り越し苦労しやすい自分の性格に警鐘を鳴らし「私が一緒にいるのに、何を心配しているの? 」と言ってくださっていることに気がついた。それ以来、私に必要なものは神様が御存知で、神様が用意して整えてくださると信じているので、この言葉に支えられて、日々歩んでいくことが出来ている。 

(H.K. 70代)



2024年10月27日日曜日

不思議な言葉

わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。

新約聖書 ヤコブの手紙 1章 2節

なんとも不思議な言葉です。私たちの通常の考えでは、試練は喜びにはつながりません。しかし、聖書は、「いろいろな試練に出会うときには、この上ない喜びと思いなさい。」と勧めるのです。

なぜなら、試練によって信仰が試されることは悪いことではないからなのです。信仰が試される時、私たちは忍耐をしなければならないのですが、神さまはその忍耐を尊いものと見てくださいます。そして、試練によって培われる信仰による忍耐を通して、神さまは私たちに素晴らしいものをくださいます。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」(ヤコブの手紙1章12節)

試練を喜びと思うことは、試練の先に神さまが用意してくださっている祝福を見て、希望を持つことなのかもしれません。この聖書の言葉は、人間の常識にはない不思議な言葉ですが、苦しい時に私が慰めを感じた言葉でした。この言葉によって私は、試練の意味を信仰によって捉える次元があるのだということを示されました。 

(K.T. 40代)


2024年10月20日日曜日

立ち上がらせてくださる方

怠け者よ、いつまで横になっているのか。いつ眠りから起き上がるのか。

旧約聖書 箴言 6章 9節

この聖句をいつも手帳の最初のページに書いています。新しい手帳に変わる時も、まず最初にこの聖句を書き写します。

いつも自分のことばかりで、気がつくと天の神さまではなく、自分中心の生活をしてしまう私です。しかも、体調を崩すと、休むのはいいと思うのですが、だんだんと本当に体調が悪くて横になっているのか、それとも単に怠け者の性格によるものなのか自分でも判断できなくなってくる時があります。自分自身を疑いながらも、つい自分に甘く弱さに目をそらせて過ごしてしまいます。

そんな時、改めてこの聖句を目にするといつもドキっとします。真実を見る主のまっすぐな目を感じるのです。

主に隠し事はできません。なんでもご存知で、私のずるさや弱さもすべてご存知の方の目は、意識するともう避けることはできません。

主のまなざしと声を感じながら、次第に冷静に自分を見ようと、自分の姿勢をきちんと正したいという意識が戻ってきます。この聖句によって、何度弱い自分を直視し、「立ち上がろう」という気力を与えられたことでしょう。

私を「支える」というよりも「叱咤激励し、手を引っ張り、背中をぐっと押して起き上がらせてくれる」大切な聖書の言葉です。

(N.T. 50代)


2024年10月13日日曜日

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。

新約聖書 ヨハネによる福音書 1章 16節

教会員の方から、一冊の本を頂きました。『みことばの糧 日々新たに』(O.ハレスビー著 日本キリスト教団出版局)という本です。

聖書を読むことさえできないときがありました。それは、洗礼を受けた後、自分の罪深さを実感する、私にとって大きな出来事がいくつかあったからです。そんなとき、この本の最初に書かれていた御言葉が目に留まりました。

このような私にも、神様は、恵みを与えて下さっています。教会員の方を通して。本を通して。礼拝のお話を通して。様々な方法で、神様は手を差し伸べて下さっています。

恵みの上に、更に恵みを受けた。

たとえ、人間が失ったと感じる時でさえも、絶え間ない恵みを神様は与え続けて下さっている(過去も、今も、未来も)と語りかけて下さっています。それにふさわしいから受けるのではなく、神様が日ごとに新しい恵みと慈しみを運んでくださいます。神様のなさることを信じ、ゆだねて歩んで行きたいです。

(E.O. 40代)


2024年10月6日日曜日

より清く

もし、私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、全ての悪から私達をきよめて下さいます。

新約聖書 ヨハネの手紙一 1章 9節

前の1:8に「もし、罪はないと言うなら、私達は自分を欺いており、真理は私達のうちにありません。」と書いてありますが、実際悪い事はしてないし、それなりに正しく生きているなぁ、と思っていました。でも実はまだ罪がある事に気がつきました。それは心の中にあるもので、ずっとずっと昔の事なのに、未だに親に対して憎しみが残っていたり、怒りが込み上げたり悪口を思ったり、嫉妬したり、他者に対してもありました。

つまり、きっと生き続ける限り、悪い話を聞けば怒りが込み上げたりするもので、一生罪がないって事はないと思ったのです。

毎日お風呂で体を洗うように、キリストの贖いは必要なのでしょう。「私は今日は外に出ていないし、汗をかいてないから綺麗なの」と1ヶ月、体を洗わなかったら、いくら外に出歩かなくてもさすがに臭いがするのでは?と思います。

私達には贖いという神の恵み、神のシャワーを浴びる特権があるので、むしろ欲張って綺麗にしてもらおうではありませんか。

神の前に立った時に、汚くて恥ずかくて立てないなんて嫌ですよね。いつも綺麗にしてもらって、堂々と立てる自分でいたい。

私達の心を洗い清める事が出来るのは、神様しか出来ないので、もう全部、心の全てを裸のように神の前にさらけ出す、私達ができるのはそれだけだし、それで充分なのです。

(Y.S. 40代)



2024年9月29日日曜日

吉永小百合さんから受けた質問を再考する

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

新約聖書 コリントの信徒への手紙 13章 4~5節

吉永小百合さんのご主人が最近永眠された記事を読み、吉永さんとお会いした日のことに思いを馳せました。2016年1月15日の昼、場所は品川のプリンスホテルのひとつだったと記憶します。

『母と暮らせば』(監督=山田洋次、主演=吉永小百合、二宮和也)の公開に先立ち、舞台となる長崎で吉永さんの原爆詩朗読会が催され、私と仕事上関わりのあった宣教師(キャロル・サック)がハープ伴奏者に選ばれたのです。上記ホテルではリハーサルがありました。私は、日本語の上手なキャロルさんの“通訳”と偽って同行を許されました。

練習後、吉永さんが私たちのテーブルにお茶とお菓子を運んでくださり、少し言葉を交わしました。ご親戚に海外でキリスト教宣教に携わっている方がいらっしゃると吉永さんがおっしゃったとき、とても親しみを覚えたものです。

話の途中に「恨み」という言葉を吉永さんが発し、外国人には難しいと思われたか、”通訳“の私に目を注がれました。咄嗟によい訳が浮かばず、「ウーン」と唸っただけでお茶を濁したのですが、今考えても、「恨み」「恨む」を一語で英語に置き換えるのは難しい気がします。

8年経った今、初心者向けの英語で有名な聖書を開くと、冒頭の「(愛は)恨みを抱かない」は”love does not keep a record of wrongs”となっています。「嫌なことをいつまでも根に持たない」という意味でしょうが、吉永さんがあの日ご使用になった「恨み」には、もっと複雑な意味が込められていたように思います。

嫌なことをいつまでも根に持たない、それを心からできるようにしてくださるのは、私のうちに住むイエスの霊以外にありません。あの時はそのことを吉永小百合さんに伝えるべきでした。また会えるならそうしたいのですが、そんな機会は二度と訪れないでしょう。来年(2025年)3月に傘寿を迎える吉永小百合さんの変わらぬご活躍を期待するしだいです。

(H.M. 70代)

長崎ブリックホールで原爆詩を朗読する吉永小百合さん ©長崎新聞社

2024年9月22日日曜日

例外の人々

主のもとに集ってきた異邦人は言うな  
    主は御自分の民とわたしを区別される、と。 
宦官も、言うな  
    見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。

旧約聖書 イザヤ書 56章 3節

洗礼を受け救われ、有頂天になっていた頃、私の次の課題は「どうしたら神様に喜ばれるクリスチャンになるか」でした。

教会生活の中で出て来る答えは、「良い学校に行き、良い仕事をして、良いクリスチャンホームを作ること」です。しかしそれは、考えれば考える程疑問でした。

本当に神様は、そのような、銀のスプーンを咥えて生まれて来たようなクリスチャンだけを愛されるのだろうか?生まれ付き他の人には無い特徴やハンディがあったり、過酷な生育環境で育って来た人は、「普通」に近付かないと神様に愛されないのだろうか?

聖書はそう言ってはいません。一般的に、旧約聖書の時代にはユダヤ人の男性ばかりが重んじられていたが、イエス様が世に来られて、サマリア人、徴税人、不貞の女など「例外の人々」にも心を留められたと考えられがちですが、そうではありません。

旧約聖書でも、宦官、他宗教の王に仕える側近、遊女など、様々な人々が神様に出会っています。特に、このイザヤ書56章3節以降の御言葉では、神様ははっきり「例外の人々」をも愛することを宣言されています。

私自身、この疑問に答えを求め、HIV/AIDS への理解と支援の活動に飛び込みました。神様は、「例外の人々」が世間で言う「普通」にならなければ愛されないなら、自分の活動もすぐに挫折すると信じました。もう20余年続けています。

私は医療従事者ではありません。だから、LGBTQ、ドラッグユーザー、セックスワーカーなどの人々と「仲間」として共にいる時、あるいは性差別や人種差別に反対する活動の時、“普通の正しさ”を重んじる人々に「徴税人や罪人の仲間だ」と言われたイエス様が「例外の人々」を愛された、その愛を感じています。

(K.O. 60代)



2024年9月15日日曜日

欲しいものと、与えられるもの

願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。

新約聖書 ヤコブの手紙 4章 3節

「あれが欲しい」「これが欲しい」、欲しいものは尽きません。何かを手に入れれば、次のものが欲しくなる。その繰り返しをしながら生きてきた、と改めて感じます。欲しいと願っても、手に入らないことも多々あります。“モノ”ではない、技術や能力もそうです。また、願ってもいないものが手に入ることもあります。思いがけない苦労や、悲しみなどです。

この聖句を読むと、自分の欲だけを願い求めてしまっていることを感じさせられます。神さまが与えてくださるのは、私にとって必要なもの。時には、あまり欲しくない、願ってもいないものが与えられるかもしれません。けれども、それらは神さまが必要だと思い、与えられるもの、そこには意味が必ずあると信じて、受け取っていきたいと思います。

(R.M. 40代)


2024年9月8日日曜日

力と勇気を与えて下さる神様

だから人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

新約聖書 マタイによる福音書 7章12節

今も私にはテサロニケ5章17~18の絶えず祈りと感謝が必要な日々ですが、最近歳をとり、ストレスや思うように動けなくなってきました。そんな時、歳をとったらお互い助け合いよ、と言ってくれる幼い頃からの友人達、教会の友人達、多くの友人を与えてくださった神様に感謝です。私がしてもらいたい事と言うより、自分だったら大変で嫌だな、と思うことを出来る範囲で、支え会う事ができれば、幸せだなと思う日々です。

(F.S. 70代)


2024年9月1日日曜日

主の御手の中で

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 10章13節

私は元々精神的に弱く、変化に弱い性質です。そんな私に立て続けに、父の突然の闘病と召天、家族同然だった愛猫の死、母が難病になり暮らしが立ち行かなくなる、という出来事が起こりました。その時はなぜ?と悲嘆に暮れながら必死で対応していました。今、振り返るとコロナの前に父と愛猫を直接看取る事ができた事は恵みだったのだなと。コロナ禍の中で母の面倒をみていた時も、私自身の健康は守られ、適宜助けが与えられ、進む道が備えられていました。今は母と夫と三人家族で暮らしています。本当に逃れの道は用意されています。

(Y.S. 40代)


2024年8月25日日曜日

地の塩、世の光 

あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、なんの役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は隠れることができない。

新約聖書 マタイによる福音書 5章 13~14節

この言葉を選んだのは、高3の自分が、とある大学のサイトで見つけたのがきっかけです。地の塩、世の光はそのサイトで見つける前から読んだことはあるのですが、深く考えたことはありませんでした。これを機にちょっとどういうことかと調べてみました。

地の塩、地はこの世のことだそうです。塩と聞いて最初に浮かぶのは調味料です。調味料がメインになることはありません。「何か」に味をつけるんです。わざわざ塩自体が美味しいとはあまり言いませんよね。だから目立たないながら人や社会を支えるようなものだと私は思いました。

世の光は人々が歩けるよう導くような光だと思いました。イルミネーションのような見てすごい、ではない、これも誰かのためのものです。

私はこれを自分の夢に当てはめられるな、と思いました。私の夢はマーケターです。人が当たり前に望むものを提供する地の塩、そして自分が先立って望みを越えるような新しいアイデアを出して社会を先導する世の光。そのために何をするかはまだ自分の課題ですが、この役割を下さったのは神様です。歩くべき道を用意して下さいました。この聖句はその道をどのように進むか、楽しみに思わせてくれた聖句です。

(S.I. 10代)

2024年8月18日日曜日

イジメられた相手のための祈り

敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

新約聖書 マタイによる福音書 5章44節後半

昨年(2023年)の秋、大阪で開かれた小・中学校の同窓会に出席しました。集まったのは二人の恩師と二十数名の仲間。十代前半の昔と古希の今との風貌の違いに驚きつつも、懐かしさに浸れたひとときでした。

残念なのは“ガキ大将”が現れなかったこと。当時、野球に似たキックボールをよくしたのですが、自分が蹴ったボールが受けとめられアウトになると怒り出す変な奴で、私もののしられ嫌な思いをしたことが何度かあります。60年経ってどんな爺さんになったか確認したいし、何より昔の無礼を詫びてもらわなければなりません。しかしそれは、喜寿同窓会に持ち越されたのでありました。

上記と関係して、私がキリスト信仰をもった四十数年前、とても感動した話があります。ドラえもんのジャイアンのようなガキ大将A君にいじめられるので学校に行きたがらない息子に、クリスチャンの父親が「いっしょに祈ろう」と言います。すると息子は「今日A君に会わないようにしてください」とか「A君が病気になりますように」と祈りだします。これを聞いた父親は、「A君と仲良くなれますように」と祈ったらどうだろうと諭すのです。

話を読みながら冒頭のイエスの言葉が頭に浮かびました。他の福音書の並行箇所では「……敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(ルカによる福音書6章27節後半)とあります。社会情勢が変化し悲惨なイジメ事件が頻発する世の中ですが、クリスチャンの祈りの基本姿勢として、上記の逸話は今も心に残っています。

(H.M. 70代)


2024年8月11日日曜日

扉を打ち砕いてくださる神さま

主は青銅の扉を破り 鉄のかんぬきを砕いてくださった。

旧約聖書 詩編 107編 16節(口語訳)

「絶望などしない」などと強がりを言っている自分ですが、どうしても不安や心配が先に立って、目の前に立ちはだかるものを乗り越えられない時があります。そのような時には、壁を乗り越えるというより、乗り越える先につながっている、この扉を主が打ち破ってくださる、という力強いみ言葉に救われています。主は慈悲深く、扉を内側から優しく開けてくださる時もありますが、このように、鉄のかんぬきを砕くかのように私を鼓舞してくださる時もあります。そうして私は幾多の困難を乗り越えてきました。乗り越える必要がない、と主が思われるときは、扉はそのままです。それでいいのです。主は私の全てを知っておられ、私は主にお任せしているのですから。

(E.I. 60代)

2024年8月4日日曜日

恵みを数えて

わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。

旧約聖書 詩編 103編 2節(口語訳)

私たちを、いつも温かい眼差しで見守り、愛して下さっている神さまは、日々の歩みを守り導いて下さっています。

日々たくさんの恵みを与えられているにもかかわらず、その事を忘れ、他人と比べて自分にないものを羨んだり、物事がうまくいかないと、不平・不満をもらすことも少なくありません。

一日の終わりに、その日を振り返ると、神さまから与えられた恵みの数々に気が付きます。神さまに守られ導かれ、愛されている現実を感謝し、神さまを賛美せざるを得ません。

(H.K. 60代)


2024年7月28日日曜日

12弟子のユダでさえ

しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。

新約聖書 ルカによる福音書 22章 3節

イエスの弟子のひとりとして選ばれたユダの中にサタンが入った、という衝撃的なことが記されています。12弟子という主イエスに最も近くにいた者さえ、サタンの誘惑に落ちています。歴史的にユダは裏切り者の代名詞のように言われていますから、そのような先入観で何の抵抗もなくこのところを読んでしまいますが、冷静に考えるとこれは驚くべきことではないでしょうか。

主イエスに彼ほど近くにいなく、むしろ遠くにいる自分などはもっとサタンが攻略しやすいところに置かれていることに改めて気づかされ、身も心も引き締まる思いをしています。このことをいつも心にとめていなくてはならない、と日々思わされています。

(K.O. 80代)


2024年7月21日日曜日

恵みと慈しみに包まれた生涯

命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。

旧約聖書 詩編 23編 6節

私の母はクリスチャンで、主と共に歩み、85歳でその生涯を終えました。母の人生、特に晩年の姿を思うたびに、私は聖書のこの言葉を思い起こします。いつも穏やかで、神さまに信頼して歩んでいた母は、どんな時も、私の心の支えとなってくれる存在でした。つらいことや苦しいことがあっても、神さまに委ねて前向きに生きている母を見ていると、私の心も安らぎました。神さまの恵みと慈しみの中に、私も憩うことができました。

やがて時が移ろい、老いや病を経験するようになっても、信仰によって恵みのうちに生きる母の姿は変わりませんでした。晩年の母は車椅子の生活となりました。不自由なことも増えました。最期の病においては痛みと闘いました。けれども、母は不平やつぶやきに陥ることはなく、日々の歩みの中に与えられている主の恵みと慈しみを感謝していました。そして、母は、これ以上ないくらい平安のうちに、神さまの御許へと召されていきました。このように母の生涯を恵みと慈しみで包んでくださり、天国へと迎え入れてくださった神さまは、なんとも優しいお方だと思います。

(K.T. 40代)






















2024年7月14日日曜日

私を強くする力

わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 4章 13節

数年前、定年にあたって私は後事を信頼する女性の後輩に任せて管理職を退き、定年後再雇用職員となりました。後輩は才能豊かなやり手であり、それゆえにとんがっているところがあって仕事に厳しい人でした。それが災いしたのでしょう、1年後、部局の責任者がこれみよがしのパワハラを始めました。私が現場に居合わせた時はその都度、違法性を指摘してパワハラ行為を止めました。ところが、時間が経つとまた繰り返すという確信犯で、他の管理職も見てみぬふりでした。思いあまった私は仕事で知り合った弁護士に相談。違法性がはっきりしていると確信して後輩と共に組合に告発しました。

当時の私は最末端の職員です。上に逆らってその後どうなるかわかりません。しかし、元部下の苦衷を見過ごすことはできませんでした。そんな決断を支えたのはこの聖句にあるように、私を支えてくださる神さまがおられると信じていたからです。

幸い私と後輩の告発は組織の最高責任者の耳に届き、彼の英断でパワハラ上司は処分されました。かろうじて組織の健全性が保たれた事件でした。

(M.I. 60代)



2024年7月7日日曜日

苦しい時ほど

悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ。

旧約聖書 コヘレトの言葉 7章 3節

この箇所を読むと、「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマの信徒への手紙 5章3-4節)を思い出す。わたしたちの精神が常に穏やかで、悩みもなくて、その生活が常に笑いに満ちたものであったら、この世界はどんな風になっていたのだろうか。ちょっと想像がつかない。

わたしたち人間のこころには常に両極的な働きがある。善があれば対極に悪があって、愛があれば対極に感情に麻痺して無感情になってしまうかもしれない。そう考えると、感情、思考、感覚、直観の振れ幅が人間のこころを形作っているのかもしれない。

わたし自身は悩み苦しみのなかで神様に出会った。神様は、わたしたち人間のこころが相対的、両無関心があって、幸せがあれば対極に不幸がある。もし、わたしたちが常に笑いの中にあったら、喜びという極的であるのとは違って絶対的な存在で、全てを知っている方である。

それからは、苦しい時ほど全てを神様にお任せして、こころを楽にして生きられるようになった気がする。

ちょっと逆説的に感じる聖句だが、(悩み、苦難をこれからもいっぱい経験していけたらなあ)と思ってしまうのは私だけだろうか。

(Y.T. 50代)


2024年6月30日日曜日

恐れるな

恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。

旧約聖書 イザヤ書 42章 10節

私は、中々の小心者で気が弱いです。朝目が覚めると「あー月曜日…がんばるかあ…ヨイショっと」と思いながら起きます。職場に行くと多くの人々にお会いしますが日々お会いしているのに一週間の始まりは緊張してドキドキします。

特に私にはハードルが高かったり未経験の業務を予定されている日は心が「あわわ~」とあたふたして落ち着きません。そのような時に思う聖書の言葉はイザヤ書41章10節の「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。」です。恐れてばかりいる私に「恐れるな」と神様は仰っています。「わたしはあなたとともにいる。」と仰ってくださる 。

出勤途中で、「『恐れるな』と仰っているから恐れない。ともにいてくださる神様にお任せしよう」と心で思いながら出勤します。

前後しますが、出勤前にはお祈りのなかで不安や心配に思っていることをすべてお伝えし「守ってください。愛のない私ですが神様のご愛を持って周りの人を愛していけますように」とお祈りしてから出勤します。

職場に到着しお仕事をしていくなかで「恐れ」はなく、落ち着いて穏やかに仕事に取り組めます。

聖書の言葉は魔法ではありません。「私」が「信じる」ことで体験のなかで私を助けてくださり、愛がある方へと導いてくださいます。

(K.O. 50代)


2024年6月23日日曜日

人にしてもらいたいと思うこと

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

新約聖書 マタイによる福音書 7章 12節

私は長年ホスピタリティに関わる仕事をしてきています。聖書にはホスピタリティのヒントになる聖句がいくつか示されています。その一つがこの聖句です。

私自身接客をする際は「人にしてもらいたいと思うこと」を人にすることを意識して心がけていました。一方で自分がされて嫌だと思った接客はしないようにしていました。この聖句も見方を変えれば「人にしてもらいたいと思わないことは、人にしてはならない」と考えることができるのではないでしょうか。自分がされて嫌なことはしない。

そして、自分が相手にしたいと思うことをするのではなく、自分がしてもらいたいと思うことをする。これがホスピタリティの基本的な考え方です。

この聖句は私にホスピタリティの基本を示してくれた大切な箇所の一つです。

(K.I. 50代)




2024年6月16日日曜日

いつも喜んでいなさい

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 5章16~18節

喜べ、祈れ、感謝せよ。

日々の歩みの中で、喜べない事、祈れない時、感謝どころか恨みことを言いたい時はしょっちゅうあります。それでも、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。と言われるのです。

10年前に我が家を開いて、コミュニティハウスにしたときに名前を「笑恵館」と付けました。喜べたら笑いが起こるでしょう。誰でもどんな気持ちで来ても、笑って出ていける様になったらいいなと思って、笑いの恵みに満ちた館としました。10周年を迎えて、その通りになっていることに感謝あるのみです。

(Y.T. 70代)


2024年6月9日日曜日

潤うこと

気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う。

旧約聖書 箴言 11章 25節

初めにこの句の後半部分を知り、後に前半があることが分かったが、この箇所については他にも解釈があり、前半が「物惜しみしない者は富み」となっているものもある。

潤うとは渇きの反対語だと思うが、聖書において、渇きとは足りていない、満たされていないことを表わす。だからこそ潤うためにどうすればいいか、その一つとしての例がこの聖句だと思う。人の体が水分を求めるように、また人の心にも程よい潤いが必要である。

コロナ禍、人と人との接触が多分に制限された中で重苦しい気分になった人は多い。生活の中で自分以外の誰かと会話したり、共に行動する中で持ちつ持たれつの関係がある。人との関わりの中で、人は与え、受ける。受けるばかりでなく、与える者でいなさいと示される聖句である。

(R.M. 60代)





2024年6月2日日曜日

どんな時もみ言葉を

見よ、私の見たことはこうだ。神に与えられた人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。

旧約聖書 コヘレトの言葉 5章17節~19節

私の父は72歳で他界しました。戦中戦後をがむしゃらに働き続けた人生でした。
ある程度の財をなし、70歳で退職し、それからは自分の好きなことをして生きる予定でしたが、癌を患い1年間の闘病生活を送り、納得できない思いで亡くなりました。
「やりたいことが沢山ある。」が口癖でした。
この聖句を父に読んであげたかった!み言葉には、癒し、安らぎ、愛と喜びがあります。
今、私は聖書を読む度に、過去の経験や、未来への不安や期待をみ言葉に合わせて楽しんでいます

(F.T. 70代)



2024年5月26日日曜日

神は愛です

神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。

新約聖書 ヨハネの手紙一 4章 17節

40年程前、まだ、20代に入った頃、人間は死んだらどうなるのだろう?当時では、まだ珍しい拒食症になった時に、死を意識し始めた。幸いにも、小学生まで教会学校に時々行っていたので、母が聖書をクリスマスにプレゼントしてくれていたので、部屋の奥にあった。聖書の中に答えがあるかも知れないと思い、最初から読み始めた。しかし、神が誰なのかわからなかった。父なる神、聖霊なる神、子なる神…三位一体に躓いていた。しかし、この聖句を読んだ瞬間に、目から鱗が落ちる経験をした。神様がわかったのです。嬉しくて、リビングにいる家族に聖書を見せ神は愛なんだよと伝えた事を今でもしっかりと記憶しています。神は私の内にとどまってくださいっている。今もこれからも感謝です。

(S.K. 60代)



2024年5月19日日曜日

心の貧しい人々は

心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。
へりくだった人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。

新約聖書 マタイによる福音書 5章 3~5節

私は、最初、「心の貧しい人々」の意味が理解できずにいました。
はて?心が貧乏とはどういうことなのだろうかと思いました。
そして、貧しい心が何故幸いなのだろうかと思いました。
貧しいといえば、少ないとか乏しいとか、とても幸いとは思えません。
ですがある時、それは心の支えのない人々を意味するのだと聞き、なるほどと納得しました。心の支えのない孤独な人々に居場所が与えられるのです。
そして、悲しむ人々が慰められ、へりくだった人々が大切にされるのです。暖かいことばに包まれる思いがしました。

悲しく、弱く、へりくだることしかできない立場の人々に、目を向けてくれる存在があるということに幸いを感じます。

(H.K. 60代)



2024年5月12日日曜日

羊飼いの信仰

羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

新約聖書 ルカによる福音書 2章 20節

救い主にお会いした羊飼いたちが「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」という姿は、聖書を読み始めた頃は、少し不思議な思いがしました。救い主にお会いしたのなら生活が一変して劇的な人生を歩むはず…なのに、あっけなくこれまでの生活に「帰って行った」からです。でも信仰生活を続けていくうちに、自分も羊飼いと同じなのだ、と感じるようになりました。洗礼を受けても、日常生活は変わりません。日曜日に礼拝を捧げても、月曜日からはこれまでと同じ仕事、同じ生活を送っています。あの羊飼いたちも救い主に出会ったあと、これまでと同じ過酷な羊飼いの生活に戻って行きました。でも、その生活は「救い主が共にいてくださる」、その永遠に変わらない喜びと確信に支えられる生活へと変えられたのだと思います。

日常の生活の中で不平や虚しさ、徒労感を感じることがあります。そんな時、あの羊飼いたちの姿を思い起こします。私も、羊飼いたちと同じ「救い主が共にいてくださる」という喜びの信仰を共有しているのだということを思い起こします。

(H.K. 50代)





2024年5月5日日曜日

『ベン・ハー』はクリスチャンになってから観る映画……かな

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

新約聖書 ルカによる福音書 23章 34節

『ベン・ハー』をご存知ですか。ウィリアム・ワイラー監督、チャールトン・ヘストン主演で1959年に公開された名作です。同年のアカデミー賞を11部門(!)で受賞しています。

初めて観た中学生の時はノンクリスチャンだったので、奴隷船と海賊船の激戦、馬を束ねた多数の馬車による競走などがおもしろかったのですが、クリスチャンになって観返すと、この映画のテーマは「赦し」ですね。

舞台はローマ帝国に支配された1世紀初頭のユダヤ。誕生から十字架上の死に至るまで、イエス・キリストが時々登場しますが、ドラマ本体は母と妹を重い皮膚病(字幕では「らい」)にさせた宿敵メッサラに対するベン・ハーの憎悪を中心に展開します。

ドラマ終盤、十字架上のイエスを見入るベン・ハーは、自分を十字架につけたユダヤ人を「父よ、彼らをお赦しください。何をしているかわからないのです。」と弁護するイエスの深い愛に感動し、それとともにメッサラへの憎悪が消えてしまったことに気づきます。帰宅したベン・ハーを皮膚病から癒された母と妹が待ちうけます。そして三人が激しく抱き合うところで大団円。

パンフレットには、「……彼の悲劇が始まった家へと帰った。すると不思議や、母と妹の不治の病がいつの間にか癒えていた。そして、ベン・ハーもまた、今まで握りしめていた怒りと憎しみの剣が消え失せ、……」とあります。怒りと憎しみは三人の再会前に消え失せていたと私は受け止めました。最後の場面、あなたの目にはどう見えるでしょうか。

(H.M. 70代)

ベン・ハーのポスター

左からメッサラとベン・ハー

2024年4月28日日曜日

自分の知識は無に等しい

知恵があなたの心を訪れ、知識が魂の喜びとなり

旧約聖書 箴言 2章 10節

最近、思い込みの恐ろしさを実感させるような体験をしました。現在放映中のNHK大河ドラマ「光る君へ」を通して、自分の思い込みとは違う「源氏物語」の世界が見え始め、調べているうちに、平安時代のイケメンプレイボーイの女性遍歴を描いただけの恋愛小説にしかすぎないと思っていた自分が恥ずかしくなってきました。そこで、原文では難しいと思って「源氏物語」の訳本と参考書を手に入れて勉強し直しています。そして学ぶうちに、この作品の奥深さがわかり始めてきただけでなく、ドラマもさらに面白く見られるようになってきました。ところで、この世は、自分の知らない事柄や、自分の認識を改めなければならない事柄などで満ち溢れているのでしょう。自分の知識は無に等しいーこの真実を悟らせて下さり、その現実と謙虚に向き合う柔軟な心を授けて下さり、学ぶ意欲を下さる神様に感謝しつつ、天国に召されるその日まで学ぶ喜びに満たされ続けながら歩みたいものです。学びを通して与えられる喜びも神様からの恵みです。

(N.M. 70代)



2024年4月21日日曜日

私は絶望しない

神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

旧約聖書 創世記 1章 31節

私は、この聖句に希望と励ましを頂いている。世界は話し合いと和解や友情の上でなく、力によって、かろうじて平和という仮の名前でバランスを保っているようにみえる。しかし、その平和は世界のそこここで、もろくも崩れ、憎しみと兵器に支配されてしまっている。自然環境もまた、取り返しのつかない様相を呈しているようにみえる。世界に目を向けるまでもなく、自分を取り巻く家庭、職場、学校、社会でもあきらめてしまいたいような現実がある。私は、神のご計画を知る由もないが、少なくとも神は、心がへこみかけている時にも限りない憐れみを注いで下さっているのを知っている。神は、その目に極めて良い全てをお造りになったのだ、そして、皆に「見よ」と高らかに呼びかけたのだ。困難や苦難の中で、忍耐を覚え、そして平和や問題解決の道を追求する誠実さを神は人に授けてくださった。だから私は、神の「見よ」の呼びかけに応え、全てを良しとされた場に希望を持ち絶望しない。

(E.I. 50代)




2024年4月14日日曜日

導き

あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。

旧約聖書 詩編 119編105節

受洗の喜びと嬉しさ、緊張で迎えた礼拝の招きの詞。

受洗までの長い道程、気づかずにも御言葉によって導き支えられてきたと思います。

悩んだり迷ったり自分一人で答えをだそうとしていたことに気づかせてくださったり、神様どうしてですか?と思う時もその時々に与えてくださる御言葉に励まされ心強く安心し支え助けていただいていると思います。

御言葉によってわたしたちの道、歩みを照らし導いてくださる神様に信頼し歩んでいかれることに感謝です。

(H.O. 60代)


2024年4月7日日曜日

恵みと慈しみはいつもわたしを追う

命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う
主の家に私は帰り
生涯、そこにとどまるであろう。

旧約聖書 詩編 23編 6節

詩編23編1節~6節全体は、さまざまな情景を絵画のように思い描けるように感じられる箇所だと思います。

神様は、私たち人間を、とても大切に思っていて下さいます。私たち人間には到底知りえないところまで、ともにいてくださいます。疲れた魂を生き返らせてくださり、私たち人間が災いと感じられる場面でも、神様はともにいて、励ましてくださるのです。

その神様は、私たちに恵みと慈しみが「私を追う」ほどに、あふれるほど与えて下さる方なのです。そのような神様のもとで、生涯、過ごすことができるとは、なんというお恵みなのでしょう。

私たち人間は、ついつい自分のことを中心に考えがちです。私もそうです。今、こうしていることも当たり前ではなく、すべて神様のお恵みなのです。神様のお恵みに感謝し、毎日を大切に、感謝して歩んで行きたいと思います。

(E.O. 40代)




2024年3月31日日曜日

からし種一粒ほどの信仰があれば

使徒たちが「わたしどもの信仰を増してください。」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」

新約聖書 ルカによる福音書 17章 5~6節

先日、7,8年前の手帳に当時の心境が思い出されるようなメモ書きを見つけました。当時の不安や苦しさと再会したようで懐かしかったのですが、懐かしいと思える今の自分を思うとき、聖書のみことばに導かれて、少しずつ物事の見方、考え方が変えられてきたのだと思いました。

信仰の弱い自分にダメ出しばかりしていましたが、自分でも気ずかぬうちにイエス様からの恵みを受けていたことに気づかされました。「からし種一粒ほどの信仰があれば」とイエス様は言ってくださいました。からし種一粒ほどの信仰を持ち続け、その種を大きな木に育てていただけるように祈り求めたいと思います。

(S.O. 60代)


2024年3月24日日曜日

御心に適うように!

「アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

新約聖書 マルコによる福音書 14章36節

この聖句は、イエスさまが、十字架に架けられる前に、ゲッセマネというところで、弟子たちから離れ、一人で神さまに祈られた聖書の箇所です。

私たちの罪を贖い、私たちに代わって十字架にかかる為でした。

イエスさまは、十字架にかかる時を前にして、「イエスはひどく恐れてもだえ始め、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈って、」とこの聖句の前に書かれているほど、恐れや苦しみの中にありましたが、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。

この場に及んで、何という神さまに対しての「信頼」でしょう!

イエスさまは、十字架の死後三日目に復活されました。十字架の死の先に、人が経験したことのない神さまによる「復活」という希望があることもイエスさまは、知っていたことと思います。

私たちは、時には、絶望的と思える様な出来事に遭遇することもあります。しかし、神さまは、そのような時にも、いつも私たちのことを心に留め、いつも守り支え、私たちの歩みを「絶望から希望」へと導いて下さっています。私たちのことをいつも愛して下さっている神さまを信頼し、自分自身を委ねて、「御心に適うことが行われますように!」と祈り歩んで行きたいと思います。

(H.K. 60代)



2024年3月17日日曜日

主のまなざし

・・・まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が泣いた。主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『今日鶏がなく前に、あなたは三度私を知らないというであろう。』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

新約聖書 ルカによる福音書 22章60節~62節

主のご受難を覚えるこの季節、いつもこの聖書の言葉に心をとらえられます。主の予告通りペテロは主を裏切った。そして主が言われた通り鶏が鳴いた時ペテロは激しく泣いたと記されています。その時ペテロはどんなに打ちのめされたことだろうかと思います。ここで聖書は「主は振り向いてペテロを見つめられた。」と記しています。ここに僕は大きな慰めと救いを見ます。まさに今主ご自身が十字架にかけられようとしている時、自分の罪に気付いて打ちのめされているペテロを主は慈しみの目をもって見つめ、見捨てられませんでした。ペテロに自分を重ねてみるとき、主の十字架はまさに僕のためであったと気づかされます。

(K.O. 80代)



2024年3月10日日曜日

勇士よ

「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」

旧約聖書 士師記 6章12節(新改訳)

これは、私が2つ前の職場の小学校の主事、年配の用務員さんが私の異動の際にチョコレートに付箋で書いてくださった御言葉です。思わぬところでクリスチャンの方と出会い、校庭の片隅で共に祈ったことは貴重な体験です。
今でも奏楽の譜面の横に貼り、見ています。
私は主に遣わされた勇士なのだと自分を奮い立たせ日々働いています。

(M.E. 50代)



2024年3月3日日曜日

私と出会ってくださる主イエス

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」

新約聖書 ルカによる福音書 19章 5節(聖書協会共同訳)

新約聖書の福音書には、イエスさまが人々と出会ったエピソードがたくさん記されています。ルカによる福音書19章1節から10節には、徴税人ザアカイとイエスさまの出会いの場面が描かれています。ザアカイは、イエスさまがどんな人かを見ようとしたのですが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができませんでした。そこで、ザアカイは、イエスさまを見るためにいちじく桑の木に上ったのでした。すると、なんと、イエスさまが木の上にいるザアカイを見上げて、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」と声をかけてくださったのでした。私は、この場面が大好きです。

 聖書によれば、私たち人間は「失われた人」です。神さまによって造られたにもかかわらず、神さまの心を悲しませるようなことをして、神さまと共に歩んでいないからです。イエスさまは「失われた人」を捜して救うためにこの世に来られました。

 「失われた人」であったザアカイに個人的に出会って、友となり、救いとなってくださったイエスさまの姿はとても慈しみに満ちていたと感じます。そして、私にも、イエスさまは個人的に出会ってくださり、日々、イエスさまと共に歩む幸いへと導き続けてくださっています。

(K.T. 50代)


2024年2月25日日曜日

きょうを生き抜く勇気

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

新約聖書 マタイによる福音書 6章 34節

ポーランドの国境から、夜行列車で約13時間。厳寒の大地を抜けて、着いたのはウクライナの首都キーウでした。昨年11下旬から12月初めにかけて9日間、同国を訪れる機会がありました。

現地で出会った人たちの多くは、親族や友人が戦地に赴き、中には命を失った方も少なくありません。そんな話を聞いていると、「訪問者」でしかない自分への後ろめたさに胸が痛むとともに、戦争がもたらす悲しみや怒り、絶望に打ちのめされそうになりました。その時に思ったのが、この聖句です。どんな状況下にあってもイエスは必ず近くにいて一日の疲れや悲しみをいやし、明日への糧を用意して下さる。ウクライナの人々とも、いつも一緒におられる。そんな祈りとともに、すごした9日間でした。

(H.A. 50代)



2024年2月18日日曜日

何事にも時がある

何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

旧約聖書 コヘレトの言葉 3章 1節

今から3ヶ月ぐらい前のことです。ある事で悩んでいて祈っていましたが叶わず鬱々としていました。ある朝日課にしているウォーキングの途中で体の中から力が湧いてくるのを感じました。私は思わず「神様ありがとうございます」と、心の中で感謝しました。私の祈りが届いていると感じたからです。

今は願いが叶わなくても、ふさわしい時に助けてくださると信じて歩んでいける信仰を与えてくださった主に感謝します。

(M.A. 60代)









2024年2月11日日曜日

わたしがあなたがたを選んだ

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。
あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと。

新約聖書 ヨハネによる福音書 15章 16節前半

20歳の頃、ある出来事がありました。その中で自分は偽善者だと感じてしまうことがあり、どうしようもない苦しい時期がありました。中学の時から教会に通っていた私は、高校生の時に受洗していました。神様の愛に満たされて私はクリスチャンとして生活をしているつもりでいたのですが、その、あることがあってから私は本当にクリスチャンなのか?と、自問自答が続き、悩み、苦しみ、何故、私は洗礼を受けてしまったのだろうと思うようになりました。つまり、自分の本当の姿、自分の醜い内面を知ってしまった気がしたのです。クリスチャンでいることが辛く、重荷に感じていました。その出来事は、私にとって人生初めてで最大の出来事、まさに試練の時だったのです。そんな日々を送っていましたが、ふとした時にこの聖書の言葉に出会うことができました。

「わたしがあなたを選んだのだ」のみ言葉に心が解放された感覚でした。私は思いあがって、自分がクリスチャンになることを選んだと思い込んでいたのです。神様は人間の心の中に何があるかを全部ご存じでいらしたのです。私に与えられた試練もその後、いろんなことを乗り越えてゆく礎のようになりました。

(M.N. 70代)







2024年2月4日日曜日

時代を経ても変わらないもの

草は枯れ、花はしぼむが
わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

旧約聖書 イザヤ書 40章 8節

人間の世界には、はやりすたりがあります。その度に私は、時代に置いて行かれていないか不安になっていました。時代や流行の考え方に追いつこうとするあまり、今度は自分自身を見失って。。。そんなことを私は繰り返してきました。

「これだけ価値観が多様化する中、確かなものなどあるのであろうか?変わらないものがないのであれば、自分は何を軸に生きていけばいいのか?」

この私の中の葛藤を氷解させたのが、この聖句です。被造物(神様に造られた物)には、当然、栄枯盛衰があります。それは、若さであっても難しい哲学であっても変わらないはずです。なぜなら、所詮、それらは造られたものでいずれうつろうのですから。そこに、本当の生き方の軸はおけないのは当たり前です。

それでも、それでも、なお、変わらないものがあります。それが「神の言葉」、そして「その神が私たちを愛してくださっているという事実」です。ここに生き方の軸を置くようになってから、どれだけ心が揺さぶられても、戻ってくるところができました。なぜなら、「神の言葉はとこしえに立つ」、いかなる時代も変わらないのですから。神の言葉を軸にしてそこからスタートすれば、途中、自分がどれだけ曲がろうとも安心です。曲がったことに気づいたら、またスタートに戻ってくれば良いだけなのですから。

(R.K. 40代)





2024年1月28日日曜日

赦すことは忘れること

わたし、このわたしは、わたし自身のために
あなたの背きの罪をぬぐい
あなたの罪を思い出さないことにする。

旧約聖書 イザヤ書 43章 25節

衝撃的な御言葉です。神に背を向けても、立ち返る者へ、背を向けたことを忘れて赦すと神様は語られている。「えっ!忘れてくれるんですか」という驚きです。日常の生活の中で幾度も神に背を向ける、神を忘れ、神に祈り語りかけることをせずに過ごす。それでも「背きの罪を思い出さない」、「立ち返りなさい」と語りかけて下さる。神の愛は計り知れないほど忍耐強い。

そして、赦すことは忘れること、これは神様にはできるが人間には難しい。無理やり忘れろと言われてもできない。ただ、この御言葉が冷静になることに導いてくれます。たとえ了解不能だとしても相手の言葉や行動の背景や思いを知ろうという冷静です。特に人間関係で「そういうことだったのかなあ?」と思えれば、やがて「もう忘れたよ」と相手に言える機会を与えられるかもしれません。事によるでしょうが、この御言葉から「忘れること」は和解への道筋を進む力の一つだと思えるのです。「忘れる」という力を人間に与えて下さったことを神様に感謝しています。

(T.M. 60代)