2025年12月27日土曜日

素直に嬉しい?

また、あなたの子孫があらゆる国々の人々を祝福するようになる。それは、あなたがわたしの言葉に素直に従ったからである。

旧約聖書 創世記 22章 18節(現代訳聖書)

ウクライナ出身のお相撲さん、安青錦(あおにしき)が九州場所で初優勝を果たしました! 来場所から大関になることも確定し、日の出の勢いです。優勝後のインタビューで「今のお気持ちを」と促され、「すなおに嬉しいです」と答えていました。

素直に嬉しい? 日本人も頻繁に使っていますが、どうも不自然です。先生の言うことを素直に聞く、与えられた課題に素直に取り組む、素直に白状する、……。動詞が続くと自然ですね。形容詞が続くとダメなのか? 素直に嬉しい、素直に悲しい、素直に楽しい、素直においしい、……。どうやらそうみたい。

こんなことを考えていた時、少し前に読んだ冒頭の聖書個所を思い出しました。アブラハムの信仰姿勢を神がよしとし、祝福してくださる場面です。「素直に従った」から神の祝福を得たのです。いやいや従っただけなら、どうなっていたのでしょう?

よく利用される新共同訳聖書ではここは「~。あなたはわたしの声に聞き従ったからである」です。他の訳もほぼ同様で、「素直に」を加えてあるのは現代訳だけのようですが、とても明快です。なぜなら、世の中には、「形だけ従う」ことがいくらでもあるからです。素直に従ったから神の祝福を得た、としっかり認識することは重要なことではないでしょうか。

上記と関連して、私が大事にしている聖句「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言えない」(コリントの信徒への手紙一 12章3節後半。訳は新共同訳)のことにも触れておきます。昔、キリスト信仰を理解できない友人が、そんなこと普通に言えるよと、「イエスは主である」と私の面前で言い放ったことがあります。だから聖書は変だと付け加えて。これは曲解ですが、どうしてそんなことが起こるのか考えてみるのも一興です。私が知る限り、この部分が最もわかりやすいのはリビングバイブルで、「聖霊様の助けがなければ、だれも、ほんとうの意味で、『イエスは主です』と告白できない」となっています。子供用の聖書ながら、あっぱれではないでしょうか。聖書の中には「ほんとうの意味で」とか「心から」を補った方が理解を促進する個所がいくつもあると私には思えます。

(H.M. 70代前半 )



2025年12月20日土曜日

受洗後初めてのクリスマス

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光がまわりを照らしたので彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

新約聖書 ルカによる福音書 2章 8~12

私のクリスマスのイメージは北欧や北アメリカの真っ白な雪景色、暖かい暖炉の前のもみの木に飾られたクリスマスツリー、その周りに置かれたプレゼントの数々そして現実にはあり得ないトナカイに乗ってプレゼントを配るサンタクロースでした。50年以上前の雪深いカナダでのクリスマスの体験は絵本で知っているクリスマスそのものでした。

クリスマスは救い主イエス様の誕生をお祝いする日。

でもイエス様がお生まれになったのはヨセフとマリアが住民登録をするためにガリラヤの町ナザレから上って行ったベツレヘムのダビデの町でした。およそ雪景色とはほど遠い砂漠のような荒れ野。

ルカによる福音書によるとイエス様誕生の喜びの知らせを一番に受けたのは野宿をしながら夜通し羊の番をしている羊飼でした。この知らせを聞いた羊飼いたちは主が知らせて下さったこの出来事をすぐに見に行こうと出掛けました。

そしてマリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てその光景を見て羊飼いたちは、その幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせました。神様が私たちのためにお遣わし下さった救い主御子イエスキリストは馬小屋の飼い葉桶に寝ていらっしゃいました。両親であるヨセフとマリアが住民登録をするための旅の途上でしかも泊まるところもなくておそらく馬小屋で初めての子を出産しなければならなかったマリアはどんなに不安だったことでしょう。

天使からイエス様誕生の知らせ「あなた方のために救い主がお生まれになった」というこの喜びを知らされたのは一番貧しい羊飼いでした。またイエス様は一番貧しい弱い状態でお生まれになられました。

クリスマスはすべての人々に与えられた大きな喜びでありイエス様が人として一番貧しい弱い状態でお生まれになった事に大きな意味があると知りました。

今年のクリスマスは私にとって特別のクリスマスになりました。

(S.K. 80代 )



2025年12月13日土曜日

クリスマスの思い出

いと高きところには栄光、神にあれ。
地には平和、御心にかなう人にあれ。

新薬聖書 ルカによる福音書 2章 14

私がものごころついた頃のクリスマスの思い出は、戦後4年ぐらいだった頃だと思う。東北の田舎の冬は北風が強く、もと米倉だったといわれている教会の建物は時々ギシギシと音をたてていた。そんななかでもクリスマスは本当に楽しかった記憶として残っている。特に今まで見たことがなかったきれいなクリスマスカードにびっくり、これらのカードはアメリカの教会からメッセージの部分は切り取ったカードだったそうだ。そしておみやげは赤い色で、取っ手のついた小箱の中に入っていたおやつだった。中身は覚えていないが今まで食べたことがないおやつだったと思う。両親がキリスト者だったせいもあるが、とにかくイースターの卵や、卵のカードを開くとひよこが出て来るカード等がうれしくて、私の宝箱は、教会学校のカードでいっぱいになっていた。

しかし、中学生になると両親にも反抗し、いつのまにかその宝箱も捨ててしまったと思う。高校三年生になった頃は商店街もクリスマスセールで明るくなり、我が家でもショートケーキが食べられるようになったし、友達とも仲良く過ごしていた日々だったが、なぜか虚しさを感じ始め再び教会へ通うようになった。もうその時には、強い北風にギシギシという音がしない会堂だった。

♪私たちが 暗闇にとどまることのないように キリストは光として世に来られた♪

(I.I. 70代 )


2025年12月6日土曜日

初めてのクリスマス祝会の思い出

いと高きところには栄光、神にあれ。
地には平和、御心にかなう人にあれ。

新薬聖書 ルカによる福音書 2章 14

私は大学1年の時、学生ホールでのクリスマス祝会担当を任されたことがあります。礼拝とはまた違う、学生同士が集まってクリスマスを楽しむ時間です。1年生だった私は、係の先輩たちと一緒にいろいろな企画をしました。その年の祝会は今でも心に残る大切な思い出です。準備することは山ほどありましたが、ワクワクした気持ちがありました。祝会の準備は、決して一人ではできませんでした。忙しい授業の合間をぬって、先輩たちと一緒に企画しました。祝会は学生に一任されていたので、「この讃美歌にしましょう。」「このみことばはこういう意味なんだよ。カードの御言葉はこれにしましょう。」「当日のクリスマスプレゼントの買い出しに行きましょう」。と、先輩たちと話し合い、選び、作成し、過ごした準備の時間は、本当に神さまがくださった大切な交わりでした。その先輩のおひとりは、クリスチャンホームで育った方で、何も知らない私に教会のことや聖書のことを教えて下さった方です。大学卒業後の今でもお付き合いがあります。その時の神様のお導きに感謝しています。今でもクリスマスが近づくと、あの学生ホールのあたたかな光景を思い出します。あれは確かに神様が共にいてくださった時間でした。天使たちの歌った言葉は、今も変わらず私の心を励ましてくれています。「地には平和、御心にかなう人にあれ。」その平和が、今年もまた私たちの歩みにそっと注がれますように。

(E.O. 40代 )


2025年11月29日土曜日

喜び待つアドベント

その日には、人は言う。
見よ、この方こそわたしたちの神。
わたしたちは待ち望んでいた。
この方がわたしたちを救ってくださる。
この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。
その救いを祝って喜び踊ろう。

旧約聖書 イザヤ書 25章 9

クリスマス前のアドベントの時となると、教会も家庭も街中も、クリスマスの飾り物で、美しく賑やかになります。

毎年、同じように忙しく迎えていたアドベントでしたが、ある年、アドベントの原点に立たされました。

この時期、教会学校では、聖誕劇の練習で大忙し、次週はクリスマス本番、ガンバロウと別れた翌日、教会員の一婦人が、自宅で何者かに殺害されたのです。テレビニュースで知って、牧師や教会員数名が駆け付け、衝撃の中にも葬儀の備えがなされました。

夫人の夫も教会員であり町内会の副会長でした。自宅で町内会長夫妻が彼を慰め支えていました。

葬儀の直前に犯人が自首しました。犯人は町内会長の息子でした。自首する前に犯行を知らされた両親は、悲痛にも即、自死したのです。悲しみと嘆きの渦巻く中で、迎えるクリスマス。暗い雲に覆われた気持ちで、ご降誕を喜んで祝えるだろうか。

しかし、子ども達は笑顔で溢れています。ハッと気づかされました。御子は暗い世に誕生してくださった。悲しみ、嘆き全てを引き受けて下さるために。

アドベントは忙しいと呟くのでなく、喜び待つ原点に立つ時と!

(M.I. 80代 )


2025年11月22日土曜日

競争を走り抜く

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。

新約聖書 ヘブライ人への手紙 12章 1

ヘブライ人への手紙は全体に熱い内容ですが、12章は特に熱いです。

日本人は温和な民族なのは良いですが、信仰も「柔和」「謙遜」「平安」が中心のようです。競争であれば、「参加出来るだけで十分」「後ろからついてくだけ」みたいなものを感じます。

そのためか、現代日本のキリスト教美術や音楽ではワーシップソングに触れても、下手ではないけれどサークル活動の発表会のようで、何だか心に響かない事が多いです。

キリスト教の芸術ってそんなものかと思っていた所、最近、YouTube で海外(特にアメリカ)のワーシップソングを聴いて「何だこれは!」でした。プロが歌っていると思いますが、超人的な歌の上手さと、英語があまり得意でない私が聴いても感動で涙する表現力に圧倒されました。キリスト教国、半端ないと思わされました。

日本のクリスチャンはただでさえ少ない上、更に減少傾向だそうですが、これは、日本特有の「この程度で十分」信仰も影響してるんじゃないかなと思います。

もちろん、カルトのような、収入の大半を献金したり、人の迷惑顧みず布教したりの洗脳の熱さとは違います。

自分はどうだろう、定められた競争を全力で走っているか、「この程度で十分」になっていないか、考えさせられる日々です。

(K.O. )


2025年11月15日土曜日

神様が与えてくださること

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 5章8

暑い夏が過ぎ、やっと秋になりました。秋というと、幼少期から文化や趣味に関することに集中していたことを思い起こします。最近は、「推し活」が流行り、季節を問わずに個人が好きなことに集中できることは、良いことだと私は捉えています。私の「推し活」は、もう数十年前からになります。ヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」です。この本や・ミュージカルが持つ精神性は、「赦し」と「愛」がテーマになっています。主人公ジャン・バルジャンは、パンを盗んだ罪で19年の厳しい刑に服し、世の憎しみに満ちた状態で仮釈放されます。そんな彼を、司教は温かく受け入れます。しかし、バルジャンは司教の銀の食器を盗んで逃走し捕まります。この時、司教はバルジャンをかばい、銀の食器だけでなく、銀の燭台まで彼に与えました。この司教の行為は、神様の恵みであると受け止めています。

聖書では、私たちが罪人であるにもかかわらず、一方的な神様の愛と赦しによって救われると教えられています。バルジャンは、この司教の無条件の愛と赦しによって、「古い自分」を捨て、「新しい自分」として生きる決意をしました。まさにイエス様によって新しく創ってくださる私たち人間の姿を映していると思います。この場面は、何度みても感動の涙なしに見ることはできません。(レ・ミゼラブルの話を書き出すと止まらないのでこのあたりで止めておきます。詳しい方がいたらぜひ、共有させて頂きたいです。)

「レ・ミゼラブル」は、日本語訳では「あわれな」「みじめな」という解釈ですが、悲劇だけのお話ではないと思っています。私たち一人ひとりが神様の前に弱く罪深い存在であること、しかしそれでもなお、神様の愛と赦しによって新しく生きる望みを与えられていることを教えてくれる、希望の物語であると私は信じています。

(E.O. 40代)


2025年11月8日土曜日

異なる訳を比較することから見えてくるもの

神の霊があなたがたのうちに宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章9節前半

上の箇所を礼拝説教でとりあげた際(信徒が誤解しないように?)牧師は、この箇所のギリシャ語原文の意味は「神の霊があなたがたのうちに宿っているのだから」だとおっしゃいました。重要な指摘です。

原文通りに訳していないのが新共同訳聖書だけなのか気になり、他の聖書の該当箇所を開いてみました。
<新改訳>もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら
<口語訳>神の御霊があなたがたの内に宿っているなら
<リビングバイブル>もし神の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら
<フランシスコ会訳>神の霊があなたがたに宿っているかぎり
<現代訳(尾山令仁・個人訳)>神の御霊は、あなたがたのうちにおられるのだから

現代訳が牧師の説明に最も近く、フランシスコ会訳が新共同訳と類似。他は「(もし)~なら」を採用しているため、「~かぎり」以上に誤解を招きそうに思いました。同様のことは、ローマの信徒への手紙8章31節後半にも言えます。新共同訳ではここを「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか」と訳しているのですが、ある説教書では、ギリシャ語原文に触れつつ、次のように説明しています。

「……『もし、神がわたしたちの味方であるなら』というのは、味方でない場合もありうるということをふくんでいるのではありません。神がたしかに味方なのだから、ということであります。……」(著者は口語訳聖書を使用)

念のため、この箇所の他の訳を以下にご覧に入れましょう。
<新改訳>神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
<口語訳>もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれが私たちに敵し得ようか。
<リビングバイブル>神様が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。
<フランシスコ会訳>神がわたしたちに味方してくださるなら、誰がわたしたちに逆らうことができますか。
<現代訳>神が私たちの味方である以上、私たちに敵対できる者などあるはずがない。

ふだん自分が利用している聖書に違和感を覚えたら、異なる訳や英文の聖書にあたってみるのが有益であると、改めて知らされた一日でした。

(H.M. 70代)




2025年11月1日土曜日

ひっかかる言葉

互いに災いを心にたくらんではならない。

旧約聖書 ゼカリヤ書 7章 10節

聖書の言葉は落ち込んでいる時に寄り添ってくれたり、順調な時に高慢にならないように戒めの言葉があったり、その時々で私を助けてくれている。最近聖書を開き、目に留まった言葉が、この聖句だ。

「悪いことをたくらむなんてことしないよねぇ。」と読みながら思ったが、何故かその言葉が心に引っかかる。

翌朝出勤途中に「今日は、あれをやって、これをやって…今日はあの人が来る日だった。苦手だなあ。一緒の業務でないと良いなあ。」と思った時にハッとした。災いを心にたくらむとはこのことか。相手を苦手だと思う気持ちから私の心は「一緒の業務ではありませんように」という災いをたくらむのだ。

災いをたくらまないためには相手を苦手と思わないことなのだと気づかされる。心に引っかかった言葉は新しい自分へと導いてくれる。

私はこれからも苦手だと思う感情になることはあると思う。でもその感情をこの言葉が思いとどまらせてくれると思う。

聖書の言葉に頼ると、新しい自分がちょっとずつ見えてきてちょっと面白い。

(K.O. 50代)



2025年10月25日土曜日

ただ一つの慰め

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り
主を仰ぎ望んで喜びを得
その宮で朝を迎えることを。

旧約聖書 詩編 27編 4節

シニア合唱団に加わり、70代・80代の方々と懐かしい歌を月2回、平日の午後に練習しています。歌が好きなら聖歌隊に入ったら、と言われそうですが、聖歌隊の練習は礼拝前に行われることが多いようで、朝に体調が整わない私には難しいのです。

シニア合唱団の発表会で「翼をください」を歌いました。私が高校生だった19712月に<赤い鳥>というグループが発表した曲です。何年かして学校の音楽教科書に採用されたことから、年代を問わず多くの人に親しまれているようです。

〽 いま私の願いごとが叶うならば、翼がほしい
この背中に鳥のように、白い翼つけてください
この大空に翼を広げ、飛んでゆきたいよ…… 〽

上の歌詞をクリスチャンの目から眺める時、二つのことが思い浮かびます。
一つはハイデルベルク信仰問答の問一と、答えの冒頭部分です。

Q:生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。
A:わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。

(出典=『ハイデルベルク信仰問答』(竹森満佐一訳、新教新書、1961年)

そしてもう一つが、冒頭に掲げた詩篇の言葉です。ここを読んで私がよくする祈りは「イエス様、あなたに救われた時に与えられた新しい命で、あなたと共に歩み、あなたを崇めることを喜びとし、これからもずっと、あなたのそばにいられるようにしてください!」というもので、口にするだけで喜びに溢れ、力が漲ります。私にとって信仰の友とは、このような思いを心の底から共有できる人のことです。

(H.M. 70代)



2025年10月18日土曜日

長く生きる意味は

死ぬことなく、生き長らえて主の御業を語り伝えよう。

旧約聖書 詩編 118編 17節

ローマの哲人セネカの言葉にこんな一文があります。「誰かが白髪であるからと言って、あるいは顔にしわがあるからと言ってその人が長生きをしたと考える理由はない。彼は長く生きたのではなく、長くいただけの事なのだ。」

80歳を過ぎ毎日をただ漫然と過ごしている自分にセネカの言葉が突き刺さります。私たちは長生きするためにいろいろなことを試みます。食べ物に気をつけたり運動をしたり時にはサプリメントを使用するなど、いろいろと努力をしています。しかし何のために長生きするのかを自らに問うこともなくただ一日でも長く生きるために努力しているように思います。

そんなことを考えている時、冒頭の詩人の言葉に出会いました。これまでも何度も読んできた言葉ですがこの年になって初めて自分への語りかけの言葉として響いてきました。 詩人の言葉は「キリスト者にとって生きる意味は神を喜ぶこと」というよりももっと具体的に今の自分の生きる意味を示してくれているように思い励まされます。

(K.O. 80代)



2025年10月11日土曜日

神さまへの信頼

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

新約聖書 ペトロの手紙一  5章 7節

職場の聖書研究会でご一緒させて頂いたOBの方から、一人のカトリック信徒のご婦人を紹介されました。職場で不動産に関わる仕事に従事していたこともあり、ご婦人の不動産活用についての相談のためでした。

必ずしも健康という方でなく、常に体調を気使う必要があり、その日その日の体調と向き合いながらも、一日一日を感謝して過ごされていました。

ご自宅を訪問の際は、不動産の話については勿論、通われているカトリックの聖イグナチオ教会のこと、神父との学び会のこと等信仰の話が中心になっていました。最後には、必ず祈りの時を持ちました。

この15年の間、ご婦人は体調や経済面で、困難が続いていたにもかかわらず、祈りのテーマは、ご自身の健康が支えられること、日々の生活が守られること、そして神さまの御心に沿った歩みができることでした。

どんな状況でも、神さまに全き信頼を寄せ、委ね、神さまと共に生きる信仰の姿に触れ、私自身も励まされ、祈りを分かち合う恵みを頂きました。

(H.K. 60代)



2025年10月4日土曜日

中村哲さんのこと

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

新約聖書 ヨハネによる福音書  12章 24節

私の尊敬する人の一人は中村哲さんです。中村哲さんがアフガニスタンで凶弾に倒れ、もうすぐ6年になります。長年、特に用水路建設では陣頭に立ち、かの地で人道支援に尽力されたことは皆さんの知るところです。

中村哲さんは登山隊の帯同医師として険しい山岳地帯に赴きますが、貧しい山麓の村に医師はなく、村人が医療と薬を求めて押し寄せたと聞きます。その様子は病を癒してもらおうとイエスさまに群がる人々を連想させます。

中村哲さんはありったけの薬を村に置きたかったでしょうが、登山隊の健康管理を任務とすれば村人に為す術もなく、どんなに悔しい思いをされたかと想像します。

中村哲さんは医療が十分に届かない地での現実を前に 病をなくすには、まずきれいな水だ、と用水路整備を始めたのです。安全な地ならいざ知らず、武装集団の活動のおそれがある地で身を守る一番の武器は無武装である、と中村哲さんは常に丸腰で活動に臨み、しかし最後には凶弾に倒れました。

イエスさまは、旅に出る弟子に、何も持って行ってはならないと諭し宣教に遣わし、そして遂には私たちの罪のために十字架にかかりました。しかし、その後に復活の希望がありました。

中村哲さんは召されましたが、蒔いた種は着実に多くの実を結びその意志はアフガニスタンの人々に引き継がれ、活動は今も継続しています。イエスさまの教えそのままを、私は中村哲さんに見ます。

イエスさまは今も生きて働いておられ、私たちも、平和の種をまき朽ちることなく広がるように、神さまのご用のために遣わされた場で生かされるよう祈ります。

(E.I. 60代)


2025年9月27日土曜日

み言葉に助けられ

おのれの心を治むる者は城を攻取る者に愈る。

旧約聖書 箴言  16章 32節(文語訳)

1948年、恵泉女学園に入りました。入園式の折、河合道園長先生が、お祝いの言葉として、「この聖書の言葉を皆さんに差し上げます。おぼえて下さい」とおっしゃいました。私は、何を意味する言葉か、理解出来ませんでしたが、「おぼえなくては!」と思い暗記致しました。

現在の新共同訳聖書には、「自制の力は、町を占領するにまさる」と書いてあります。あの頃の私は、何の意味かわかりませんでしたが、年を重ねるにつれ、このみ言葉にどんなに助けられ、今まで生きてこられました事を心から感謝しております。                               

(K.N. 90代)


2025年9月20日土曜日

導かれるままに

何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

旧約聖書 コヘレトの言葉  3章 1節

毎晩床につく前に今日も一日無事に終えられてよかったと感謝する日々ですが、それはその日一日も神様に守られていたということ。

毎日の生活では落ち込むことも多々あります。その逆に小さな喜びも沢山あり、何事もなく過ごせている時はその有り難さを感じます。

そしてそのすべてが神様が私たちに与えてくださっているこの世での生の中で起きています。私たちは何一つ自分たちの力で何かを行ってはいません。

この大きい世界の中で自由にその時々を味わわせていただいているのだと、そして何も心配することはないのだと。

すべてを神様に委ねて、神様が示してくださる道を、信頼して歩みを進めればいいのだと思います。

神様が良しとされている世界の中で…。                               

(R.M. 60代)



2025年9月13日土曜日

主によって変えられる希望

互いに忍び会い責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主が貴女方を赦して下さったように、あなたがたも同じようにしなさい。……またキリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。

新約聖書 コロサイの信徒への手紙 3章13節、15節

朝は一日笑顔で、穏やかに過ごせますように、夜は一日の感謝で、お祈りと聖書の御言葉に耳を傾けています。

 しかし、年もとり、体のつかれもあり、何度注意しても、聞き入れられないと、ストレスと怒りがこみ上げて、ついきつい口調になってしまう自分が嫌になります。

 自分のなかにいる悪魔よ、出ていけと思いながら、この箇所を思い起こすのですが、又同じ事を繰り返している・・・でも、いつの日か、キリストの言葉があなたがたの内に豊に宿るように・・・と祈りの日々です。                                

(F.S. 70代)


2025年9月6日土曜日

主に委ねる

「私は主のはしためにすぎません。何もかも主のお言いつけどおりにいたします。どうぞ、いま言われたとおりになりますように。」マリヤがこう言うと、天使は見えなくなりました。

新約聖書 ルカによる福音書 1章 38節(リビングバイブル)

「確かにあの祈りは聞かれた」と思うことも多々ありますが、「あの祈りのせいで、逆にこうなってしまった」と思う事も何度もあります。

その度に、神さまを信頼し、神さまに身を委ねる信仰の基本的な事が実は出来ていないと思います。

このルカによる福音書の「受胎告知」の箇所を読んだ時に、マリヤの言葉に、信仰の深さを初めて感じました。聖書の中では、石打ちにより殺される事がよく出てきます。彼女自身も例外ではないのです。それも分かったうえで、あのセリフを言えたマリアは、「やはり神さまに選ばれた信仰者なんだなぁ」と思います。

私もしっかりと信仰の土台を据えたいと思いました。                                

(Y.S. 40代)


2025年8月31日日曜日

羊を感じた日

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

旧約聖書 詩編 23編 1節

私にとって、この箇所は思い出があります。その思い出はつい最近できたものです。それは大学受験のこと。面接で、面接官が聖書の特定の場所を読み、私たちはその場所を開いて、どういうことを言っているか説明する、というものがあります。場所は旧約聖書も新約聖書もあらゆるところから出ます。しかし過去の情報を見ていると旧約聖書は創世記か出エジプト記だし、どれも超有名なところ。新約聖書も同じように有名なところ。詩篇はまぁ出ないだろうと思って私はほとんど対策をしていませんでした。それで、この箇所がタイトルになっているということはまぁ...出たという事なんですね。

それは面接の待ち時間のこと。かなり待ち時間が長く、初めて会う受験生たちと話すようになり、どこ対策した?なんて話になりました。そこで一人の子がここ有名だよね!とこの詩篇23篇を出してきたわけです。私はえ?どこそれ?と場所を教えてもらい一応頭に入れておきました。そしてそのあと丁度そのあと面接でそこが出て、答えられたわけです。羊飼いは当時最も階級が低い人の仕事で、常に羊を守っています。神様は手の届かない存在ではなくて、ずっとそばで見守って、助けてくださったんだなと思った瞬間でした。                                

(S.I. 10代)


2025年8月24日日曜日

「盲学校の卒業生を励ますオルゴール」掲載後のできごと

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。

旧約聖書 イザヤ書 41章 10節

私はこの記事が教会のHPに載った直後に、NHKに手紙を書きました。記事を読んだ教会員のひとりが「(ニュースの中で)匿名の贈り主のことも取り上げてほしかった」と言ったからです。手紙には、ニュースに感銘を受けたこと、オルゴールの贈呈はどんな方が(個人? 団体?)実践されているのか、私もこの働きの仲間に加えてもらえないか等、匿名の贈り主と連絡をとりたい旨を記し、簡単な自己紹介と連絡先をつけておきました。

一カ月以上何の音沙汰もなく手紙のことを忘れかけていた7月24日の夜、Eさんという方から突然メールが届きました。ニュースを制作されたNHKのディレクターです。驚きながら中身を読むと、Eさんもオルゴールの贈り主をご存知ありませんでした。盲学校もその方の意志を尊重し、あえて交流は持っていないとのことです。そして最後に、私から手紙を受け取ったことは盲学校に伝えるとありました。肝心のことがわからず残念でしたが、わざわざ連絡してくださったご親切に感謝し、すぐさまEさんにお礼のメールを差し上げました。

すると翌日、Eさんからふたたびメールが来ました。私が見たニュースは、4月20日にNHKで放送された別の番組「Dearにっぽん 心をつむぐオルゴール」で紹介できなかった卒業生のケースをニュースにしたものだそうです。

オルゴールが贈られるようになったきっかけは、61年前(1964年)の新聞記事とのこと。盲学校高等部の生徒が「心の友」としていたクラリネットを公衆電話に置き忘れ、探しても見つからず困っているという内容で、記事を読んだ人が学校に真新しいクラリネットをプレゼントしてくれたそうです。同じ人が翌年の3月、この学校の卒業式に合わせて20人の卒業生にオルゴールを贈ったのがオルゴール交流の始まりです。以後毎年、卒業の時期になると卒業生の数を確認する電話が盲学校に入り、今年を含めてオルゴールを手にした卒業生は670人以上になるということでした。

匿名の贈呈者と盲学校のオルゴール交流が末永く続いてゆきますように。オルゴールを受けった卒業生とご家族の将来に神の特別な守りがありますように。そして、このような素敵な番組をお作りになったEさんはじめNHKの方々が、これからも充実したお仕事をお続けになりますように。                                

(H.M. 70代)


2025年8月17日日曜日

まだ赦せない、でも、赦せたら楽だとは理解している

七の七十倍まで赦しなさい。

新約聖書 マタイによる福音書 18章 22節

マタイによる福音書18章21~35節の聖書の言葉を心にかけています。

ペトロが「兄弟が私に罪を犯したら、何度まで赦すべきでしょうか。七度までですか」と尋ねたとき、イエス様は「七度どころか、七の七十倍まで」と答えられました。

「私には無理だな」と思ってしまいます。私は昔から、変なことにこだわり、固執しやすいです。「赦したほうが楽になれる」「自分のためにも手放したほうがいい」のかもしれませんが、追いつきません。

すごく親しい人との関係で許せないことが起きました。イライラしたり悲しくなったりします。今後の関係性も悩ましいです。

このたとえ話の後半に出てくる「赦された者が赦せなかった話」もまた、興味深いです。

神さまに何度も赦されてきたのに、人に対しては一度の過ちすら赦せずにいる――それでも尚、「赦せました!」とはとても言えず、「赦せたらいいのかもしれないね」程度です。

この正直な気持ちを神さまに隠さず、いつか「赦すことを喜べる心」をいただけるように。

お祈りしながら、歩んでいきたいと思います。                                 

(S.K. 30代)




2025年8月10日日曜日

平和への祈り

彼は答えた。「 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とあります。

新約聖書 ルカによる福音書 10章 27節

小学生のとき、広島の「原爆の子の像」佐々木禎子さんの本を読みました。小学生だった私は、原爆を落とした国への怒りを感じました。

20代のとき、隠れキリシタンの歴史を学びたくて、大学の社会人夜間学校に通いました。その繋がりで、長崎に行った際、永井隆先生の記念館を訪れ、永井先生のことを初めて知りました。永井先生は、長崎大学の医師でカトリックの方です。永井先生は、佐々木禎子さんと同じ白血病に罹患されました。私は約60年後に同じ病気になり、いま生かされています。

永井先生の当時の治療内容、体温・採血データの推移を見て、涙がとまりませんでした。また、永井先生の信仰と、実践力に、涙がとまりませんでした。

永井先生がお書きになった本に、「平和をことさらにこわそうとたくらむ人があるように見えますが、その人々を敵にまわして憎んではなりません。相手を憎む心が起ったら、もう自分も平和を願う権利を失ったものになります。」

毎年、この時期になると、いろいろなことを思います。

聖書の隣人愛の御言葉を思います。

日々、私たちができることは、ほんのわずかではありますが、いま、この時代に生かされている役割を考え、祈りつつ、歩みたいと思います。                                 

(E.O. 40代)



2025年8月3日日曜日

登山が教えてくれた神さまの恵み

神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。

旧約聖書 創世記 1章 31節

この度、北アルプスの女王と呼ばれる燕岳に登る機会が与えられました。頂上近くには、泊まってみたい山小屋ナンバー1の「燕山荘」があり、そこに泊まるのも楽しみの一つでした。

ところが、北アルプス三大急登の一つと呼ばれる視界のきかない樹林帯の尾根歩きは、「辛いな」「きついな}「下りたいな」とネガティブな思いにさせられました。それでも自分を奮い立たせて登ること6~7時間、「燕山荘」までたどり着いた途端に視界が開け、目の前に広がる立山から槍ヶ岳・奥穂高岳まで連なる北アルプスの山々、さらに南アルプス連山、富士山まで360°の大パノラマが。また、一面に広がるこまくさの大群落、刻一刻とオレンジ色に染まっていく日没の光景、プラネタリウム以上の満天の星空、ご来光とともにピンク色に染まる朝焼けの槍ヶ岳等々。初めて見る光景に、心が豊かになっていくのを感じました。

「燕山荘」の夕食時には、「自然界では、何一つ同じものがないこと。」「魂の感動は心・身ともに即座に蘇生すること。」「感動することで細胞がリラックスしてエネルギーが全身に入ること。」等々、山登りでの小屋主自身の経験を通した講和を聞くことが出来、一層自然の懐の深さを知ることが出来ました。

今回の登山で、天地創造された神さまの偉大さを改めて実感し、神さまを崇め、賛美する機会となりました。神さまの創られた大自然に感動し、心身共に癒された山旅でした。 ハレルヤ!                                  

(H.K. 60代)



2025年7月27日日曜日

神はすべての人を愛する

あなたがたが祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置いて、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を捧げなさい。

新約聖書 マタイによる福音書 5章23~24節

神から大きな悔い改めを迫られ、私がイエス・キリストを心に受け入れた時、想像を超える大きな平安が与えられると同時に、こんな私を愛してくださる神は、私以外のすべての人も愛し、救いに導こうとされていることを理解しました。

その頃、私には大嫌いな人物、Sがいました。Sは妻の親しい友人で、私は結婚式にSを絶対に呼ばないでと妻に言ったのですが、妻は気にせずSを招待し、私とSはその日、大喧嘩をすることになります。表立って他人と喧嘩をしたことのない私ですので、Sのことがよほど嫌いだったのだと思います。

救われてから、このSと和解しなければならないという思いが私に強く迫りました。神はすべての人を愛しているからです。

どうすればできるか。電話や手紙で謝る勇気はなく毎日祈っていると、トワ・エ・モアの歌のように「ある日突然」、我々夫婦が出席したキリスト教家庭集会にSの姿があるではありませんか。Sは学生時代の私と同様、クリスチャンになるなんて考えられない人物なのに。

目が合った瞬間、私とSは歩み寄り、「あの時はすまなかった」と互いに謝り、神に感謝を捧げつつ和解の涙を流していました。Sは私と仲たがいした日に大きな衝撃を覚え、やさしさ溢れる私の妻のようになりたい一心で教会につながり、この日の家庭集会を知ったとのことでした。

以上は、私に信仰が与えられた40年以上前に起こった出来事で、それからの信仰生活の大きな励ましになった経験です。冒頭の聖書の言葉を目にするたびに、いくぶんニュアンスは異なりますが、この時のことを思い出すのです。

(H.M. 70代)


2025年7月20日日曜日

闇の力からの救い

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

新約聖書 コロサイの信徒への手紙 1章13~14節

闇の力に翻弄されていたとしか言いようのなかった時期がありました。当時、心が深く傷ついていた私は、悲しみから死にたい思いにとらわれていて、どうしようもありませんでした。

死んではいけない、生きなければ、と思うのですが、死にたい思いはぬぐえず、そして、死にたい思いがだんだんと消えてからも、闇の力が私を死なせようとしている、と感じることが多々ありました。

本当は、生きることは私の選択云々ではなくて、神さまのご意思です。神さまが私を造り、命を吹き入れ、生かしておられるのに、「私なんか要らないんだ」という私の思いと、それを私にささやく悪魔が神さまに反していたのです。苦しかったです。

私の命をめぐる戦いは激しかったけれども、神さまは、御子の支配、つまり、イエスさまの守りの御手の中に移してくださいました。なにより、罪が赦されて、神さまと共に、本当の意味で生きることができるようにしてくださいました。

(K.T. 50代)


2025年7月13日日曜日

私の背中を押してくださる神さま

恐れるな。おじけるな。明日敵に向かって出て行け。主が共にいる。

旧約聖書 歴代誌下 20章17節

特に気になることもないけれど、明日職場や学校に行くのが嫌だなぁと感じることはないでしょうか。私は日曜日の夜はそのような気持ちになることがあります。「サザエさん症候群」というのだそうです。日曜日の夕方になると明日のことを思い憂鬱になる、日曜夜にアニメ「サザエさん」が放映される時間帯だから、だそうです。仕事や勉強や人間関係において心に引っかかることがあれば、なおのこと「サザエさん症候群」が心を覆ってしまうことでしょう。そういう時は 神さまが共にいてくださる、だから恐れず、明日も出ていこう!と自分を奮い立たせます。明日、敵が職場や学校にいるわけではないのです、おじける自分の心が敵です。恐れる気持ちに打ち勝って、神さまに背中をおしていただいて、さぁ、明日も出て行きましょう。

(E.I. 60代)


2025年7月6日日曜日

他人を裁く危うさ

隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。

新約聖書 ヤコブの手紙 4章12節

ヤコブ4章12節に、「隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか」とあります。この言葉の前には「裁きを行う方は、おひとりだけです」ともあります。つまり、本当に裁くことのできる方は神のみであり、人間は誰も人を裁けないのだと言ってるのです。

会社の後輩が1年間にわたり違法なパワハラを上司から受けました。やがて後輩は心療内科に通うようになり、うつ病になるのではないかと心配する程でした。見るに見かねた私は文書をもって上司と会社を告発しました。その結果上司は処分を受け、公式謝罪と減給処分を受けました。腹立たしいのはそれからです。パワハラをした上司と、彼に加担していた仲間はそれで罪をつぐなったかのように一斉に口を閉じ、まるでパワハラなどなかったかのように振る舞い始めたのです。私の心に、深く深く彼らを裁く思いが根付きました。彼らを赦せませんでした。

しかし今、長い時間が経ってみて思い浮かぶのは表記の聖書の言葉なのです。他人を裁くお前はいったい何者だ! そう問われた時、私の中に答えがないのです。そうです。私もまた彼らと同じように自分の罪を、まるでなかったかのように振る舞っているのではないかと、この聖句によって思わされるのです。

(M.I. 60代)


2025年6月29日日曜日

お捧げ

自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 12章 1節

あるシスターからお聞きした話です。年老いて、また病床にあるシスターを見舞った時のこと。痛みに耐える姿を見て慰めの言葉をかけたところ、「お捧げ」と一言、応えたのだそうです。ベッドに横たわり、痛みに耐える姿そのものが、そのシスターにとって神さまへの「捧げもの」であり、礼拝なのでしょう。病身であっても、そのようにして自分自身を捧げ、この世界のために祈っている方々によって、私たちは支えられているように思います。

辛い日常の中にあっても、仕事でへとへとになっている時であっても、そして、どうしても愛し合う関係を築くことが難しいと感じる時であっても、その姿と心そのままを日々、神さまにお捧げし、礼拝する者でありたいと願っています。

(H.K.60代)


2025年6月22日日曜日

自分を迫害する者のために

あなたがたも聞いている通り、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

新約聖書 マタイによる福音書 5章43~44節

私は、学生の時、この聖書の箇所に初めて出会い、とても驚きました。こんなことが本当にできるのかと思いました。大人になり何十年も経ちましたが、私はほとんど変わっておらず、やはり、どのようなシチュエーションでも苦手な人がいる、嫌な感情が出てしまう、という現実は何も変わりません。そんな弱い私です。ただ、最近ほんの少しだけ気づいたことがあります。

「隣人を愛する」、当たり前に過ごしている毎日の中に、相手を少しでも思いやる気持ちをもつことが、神様が私たちひとりひとりを愛して下さっていることへの「応答」が大事なのではないかということです。

また、苦手な人が自分にどのような態度を取ろうとも、神様が御創りになった大切な存在として見ること、これは私たちの力だけでは決してできないことであり、神様からの「恵み」によって初めてできるようになるのだということです。神様にお祈りはしても、私だけでどうにかしようと思っていたことが大きな間違いでした。

相手のために祈り、その思いを神様に明け渡し、憎しみを手放し、祈りを通して、私たちは自分だけの視点から離れ、神様の大きな視点から状況を見つめ直すことができるのだと思います。相手のために祈ることは、すぐに赦しに繋がらなくても、赦しへと向かう大事な第一歩だと思います。神様はその祈りを聞き、弱い私たちに良い道を与えてくださると信じています。

(E.O. 40代)




2025年6月15日日曜日

盲学校の卒業生を励ますオルゴール

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。

旧約聖書 イザヤ書 41章10節(新改訳聖書)

朝のニュースで盲学校の卒業式のシーンが流れました。数人の学生が先生から小さなオルゴールを受け取っています。この時期になると毎年、誰かからその盲学校に電話があり、卒業する生徒の数を聞いてくるそうです。途中から見たので正確ではありませんが、これまでに600個以上が同じ人から匿名で贈られたようです(曲は毎年違うとのこと)。

ニュース後半に、盲学校卒業後スーパーで働きだして2年目の男の子が登場します。店のチラシを手に「これ、どこ?」と尋ねる客。見えない目をチラシに近づけても商品棚の場所がわからず、彼は他の職員に聞いて回り、バタバタしながらの接客でした。

帰宅後その日の苦労を母親と分かち合いながら、なんとか客の要望に応えられて満足げな彼は、卒業式でもらったオルゴールを手に取り、ねじを巻きます。流れてきた「星に願いを」に耳を傾けながら、オルゴールに入っているカードをいつものように両手で触り、目を近づけるのでした。

そこには「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。イザヤ書41章10節」ときれいな手書きの文字が記されていました。これを見て、私の目から涙があふれました。男の子の喜び、贈り主のやさしさ、聖書の言葉、それが一体となって私の心を打ったのでしょう。ちなみに、イザヤ書41章10節は上記のあとに、「たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」と続きます。多くのクリスチャンを励ましてきた言葉です。

伝道とは人を神様の前に連れて来る、あるいは、その人を神様に知っていただくようにする、ことだと思いますが、オルゴールの贈り主は、こんな形でそれを実践されておられるのです。私も何か、こんな伝道ができないものかと思わされた幸福なひとときでした。

(H.M. 70代)





2025年6月8日日曜日

祈りの輪の中で

あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

新約聖書 マタイによる福音書 18章19節

毎晩まじめに聖書を読んで祈り、自分でも努力したのに願いどおりの結果とならなかったとき、私たちは神様に期待した分、大きな失望を感じるのではないでしょうか。

以前そのような経験をした私は、祈った分また期待してしまうのが怖くなり、そのことについてはすっかり祈ることをやめてしまいました。

数ヶ月が経ったある日、いつも私のことを気にかけてくれるある方とお話しする機会がありました。それまで私は、本当の祈り課題を人に話すことはあまりなかったのですが、時間をかけて信頼関係ができていたその方から心の内を探られた私は、思わず自分の状況を話してしまいました。

すると、それはぜひ祈りましょう、と言って、その場で一緒に祈ってくれました。そのときから私は、一人でも再び本当の祈り課題を神様へ打ち明けることができるようになりました。

祈ったからといって、望んだとおりの結果が得られるとは限らないし、再び落ち込んでしまうことへの怖さもありましたが、そのときはまた、祈りの仲間に素直に話して一緒に祈ってもらおう、そうすれば神さまが支えてくれるだろう、と思えるようになりました。祈りの輪の中にいることの安心感が、一人で祈るときにも恐れから解放してくれることを思わされた出来事でした。 

(M.K. 30代)



2025年6月1日日曜日

愛のあるところに神あり

はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。

新約聖書 マタイによる福音書 26章40節(口語訳)

子供たちと、ロシアの文豪トルストイ著「靴屋のマルチン」の絵本を読みました。マルチンは妻と息子を亡くし寂しい思いをしていた靴屋です。ある日マルチンは「わしが行くから往来を見ておれよ」との声を聞きました。寒いロシアの冬です。マルチンはサモワール(給湯器)に火をいれシチューをこしらえ、靴屋の仕事をしながら往来に目を配っていました。すると店先には極寒の中、雪かきをするおじいさん、赤ちゃんを抱えた夏服姿のお母さん、りんごを盗んだ子供を叱るおばあさん、が次々と現れました。これらの誰もが靴を買いにきたわけではありません。マルチンは、それぞれに温かい食べ物や上着を差し出し、叱られた男の子を優しく諭しました。マルチンはまた声を聞きました。「わしがわからないかね?わしだよ。」マルチンは毎日聖書を読んでいました。イエスさまが「飢えている時に食べさせ、裸の時に着させ、牢にいた時訪ねてくれた。」と言っておられたのに気づきました。別名「愛のあるところに神あり」で知られるこの民話は、何気ない日常の中で、愛の使者として人に仕え、社会に送りだされる私たちへのイエス様からの励ましのようであります。 

(E.I. 60代)


2025年5月25日日曜日

丸太のたとえ

あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。

新約聖書 マタイによる福音書 7章 3~4節

「貴女は自己憐憫ばかりだ、神様はこんなに私たちを愛してくださっているとどうしてわからないんだ!」
「神様は全てをよいものにしてくださるのにどうして信じられないの?」

決して穏やかな「信仰生活」を送ってきていない私に、何度となくかけられた言葉だ。言われるたびに「またか」という気持ちと、「余程ご自分の目が澄んでいるとお思いなのだな」と思うのももう慣れた。人を裁くなと聖書にはある、裁いている自覚もある。最早自分は神のしもべではないと思うことの方が多い。
(やはり信仰に目に見えて燃えている人を神は選ぶのだろう)
(私の目には丸太が刺さっている。でもそう言ってくる人にはおが屑はないのだろうか)
(神の平等って、何なのだろうか)

 神様、私の目には丸太があります。でも引っこ抜いたらきっと他の人のおが屑が気になります。どうすればいいんでしょうか。

あー、この繰り返しが私の信仰生活なのか。 

(R.I. 40代)


2025年5月18日日曜日

信仰と結婚の共通点

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 8章 31節

妻がアメリカ人なので、英語話者の友人が何人かいるのですが、彼/彼女らと話していて興味をひかれた英語表現のひとつが冒頭の聖句と関係します。読む前に言っておきます。英文法が嫌いな方は、どうぞこの記事をスキップしてくださいませ。

さて、日本語では「私は43年前にクリスチャンになった/クリスチャンになって43年だ」と言いますが、これが英語だと “I’ve been a Christian for 43 years.”となります。むかし苦労して覚えた「現在完了形」(過去から現在まで<切れ目なく>続いている状態・動作を説明するための時制)です! <切れ目なく>という点がミソなので、何をもって「クリスチャン」と言うのかが重要になります。

冒頭の聖書箇所に触れた今日(2024年9月1日)の礼拝説教を(真剣に!)聞きながら、クリスチャンである(あり続ける)ことと結婚している(し続けている)ことの二つの状態が頭に浮かびました。なぜなら、「42年前に結婚した/結婚して42年だ」も“We’ve been marrying for 42 years”と現在完了(進行)形を用いるからです。

イエスが言う「わたしの言葉にとどまる」とは、イエス(その核心がイエスの言葉)と継続的な交わり・結びつきを保ち続けることで、ここで言う「とどまる」は、ぶどうの木と枝のたとえでイエスが用いた「つながっている」と同じ言葉だそうです。

そうすると、クリスチャンであること、すなわちキリスト信仰を持っていることと、結婚していることの両者の継続には、その対象(信仰の場合はイエス、結婚の場合は結婚相手)に捧げた最初の純粋な思いと関係を保ち続けることが求められているということになりますね。信仰の場合、自分が<いま>クリスチャンだと言えるには、聖書に記されたイエスの言葉にとどまり続けているかどうかにかかっているわけです。

結婚の場合はどうなるか、……それは自分で考えてみてください。

(H.M. 70代)


2025年5月11日日曜日

すべての国のすべての民と共に

すべての国よ、主を賛美せよ。
すべての民よ、主をほめたたえよ。
主の慈しみとまことはとこしえに
わたしたちを超えて力強い。
ハレルヤ。

旧約聖書 詩編 117編 1~2節

神さまは、すべての国々のすべての民を顧みて、愛してくださっています。神さまは、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださいます。(新約聖書 マタイによる福音書5章45節) 神さまの私たち人間への慈しみと真実は、私たちの想像を超えていて、とても大きなもの、力強いものなのです。

だから、私は祈ります。今、神さまを信じている人々と共に祈ります。世界のすべての国々のために、世界のすべての民族のために、神さまの慈しみと真実にすがって祈ります。実際、どんな人でも、神さまの愛と憐れみがなければ生きていけないのですが、そのことに目が開かれることを願い、とりなして祈ります。神さまは私たち人間を大切なものとして造ってくださり、愛していてくださり、どこまでも善い神さまなのです。本当に素晴らしいお方です。その偉大な神さまを、世界中の人々と共に仰ぐことができたらと願います。

(K.T. 50代)


2025年5月4日日曜日

最近気づいたこと

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 5章 16~18節

以前の私はこの言葉を思い浮かべると、平静でいる時は「そうだな。そのようにしていこう。」と思うのですが、不安になると感情で心がいっぱいになり、祈ることはしていても喜ぶことも感謝することもなくなっていました。

そして、「結局、不安や心配事があると聖書の言葉が吹っ飛ぶなあ」と、自己嫌悪。自分が穏やかな時は言葉を信じて、心の状態が悪くなると言葉は吹っ飛び、感情優先。そのような気持ちを繰り返す日々でした。

ところが、最近、「言葉通りにはなかなかなれないけれど、だからこそ、この言葉があるのかもしれない。喜びも感謝もすぐに忘れてしまう私だからこの言葉が必要なのだ」と思うようになりました。

心の引き出しに入れて誰かと一緒にいる時も、一人でいる時も引き出しからこの言葉を出して自分の気持ちとこの言葉を照らし合わせてみる。そのようなことをしていたら以前より心が柔らかくなったような気がしています。

言葉通りに成れる、成れないではなく、言葉と一緒に歩んで行くことに気づかされました。

(K.O. 50代)


2025年4月27日日曜日

祈れる恵み

よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。

新約聖書 マタイによる福音書 18章 19~20節

感謝な事に、私の家庭はクリスチャンホームです。自分がクリスチャンである事を友人達にまたSNSでも伝えています。

自分や家族の事もそうですが、我が家には、祈らなければならない事が伝えられると必ず一緒に祈ります。もちろん自分一人で祈る事もありますが、緊急事態を知らされた時などは、必ず夫と2人で祈りそののち家族皆でその課題を祈り続けます。海外の友人からも祈って欲しいと連絡をいただくと、細かに誰がどのような状態なのかを聞いて、すぐに夫に共に祈りを求めます。

祈れる特権を私たち信仰者は与えられています。主は尊い命を差し出してまで私たちに、イエス様の御名を通して神様に祈れる特権を与えてくださいました。私は罪深い貪欲な人間だけど、2人で心を合わせるなら、と主は仰っています。だから、信じ続け祈ります。祈れる恵みを感謝しています。

(S.K. 60代)


2025年4月20日日曜日

職業人として

深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。

旧約聖書 詩編 130編  1節

讃美歌をオルガンで弾いていると、「なるほど!!」と、思うことがあります。50代に突入し、最近仕事や私生活で、よく読み違えたり言い間違えたりします。認知機能も衰えワーキングメモリも低くなっているのに、最近、定年が先延ばしにされ、徒競走のゴールテープが見えてきたのに取り上げられた気分で嫌気が差していました。

60歳で定年したら今まで支えてもらっていた先輩方のように再任用で後輩に仕える予定だったのに、「責任が重いまま働き続けるなんて!」と嘆いていました。でも、この聖句の讃美歌258を弾くと、『おのれの業には少しも頼らず、ひたすら恵みの力をたのみて〜のぞみてゆるがじ。』とあります。

「そうかぁ、自分はだめでも、いいのか!」、むしろ「そんな事気にしないで働けってことか!」と納得することが出来ました。

確かに、私の職場は優秀な人材に囲まれて私はいつもフォローされています。 なんて私は幸せなんだと気付かされました。

(M.E. 50代)


2025年4月13日日曜日

二人で

どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二入または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。

新約聖書 マタイによる福音書 18章19~20節

何故二人が願い求めるならなのでしょうか。何故二人または三人が集まるところなのでしょうか。願い事は、人に知られたくないと思う場合もあるし、独りで問題を解決しなければならないという場合もあるはずです。それでも二人または三人なのは、独りでいてはいけないということなのだと思うのです。

独りでは、気持ちのゆとりが持てず、身勝手な思いに駆られてしまうかもしれません。「孤独に悩んでいないで、誰かと語り合って、前向きになりなさい。」ということなのだと思えるのです。

教会では、教会員のお互いを兄、姉と呼び合います。教会に集う家族として、話を聞き祈ってくれます。それが心強い支えとなることは確かです。

(H.K. 70代)


2025年4月6日日曜日

主よ、早く来てください

モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです。」

旧約聖書 出エジプト記 32章 1節

イスラエルの民は神の声を聞きに山に登ったモーセがなかなか帰ってこないので新しい神々を造るようにアロンに迫った、ということが書かれています。確かに40日も何の音さたもなく帰ってこないのでこのような気持ちになってしまうのもわかるような気がします。

自分たちは捨てられたのではないか。モーセの言う神はいないのではないか。様々な疑念がわいてきたのでしょう。

主イエスは「私はすぐに来る。」といって天に昇られました。その言葉を信じて私たちは主の再臨を待ち望んでいます。私たちの希望はそこにあります。しかし、あれから40日どころか2千年もたちましたが未だにその気配がみられません。世界の悲惨な現実を目にするたびに私たちもイスラエルの民と同じようにつぶやいてしまいそうです。

聖書には、神にとって千年は1日のようだ、とも書かれていますからもしかしてまだ2日しかたっていない計算になるのかな、と思ったりもします。信仰と不信仰の狭間で、「主よ早く来てください!」と叫んでいる自分がいます。 

(K.O. 80代)


2025年3月30日日曜日

神さまに導かれる歩み

恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。
たじろぐな、わたしはあなたの神。
勢いを与えてあなたを助け
わたしの救いの右の手であなたを支える。

旧約聖書 イザヤ書 41章 10節

大学も最終学年となり、私は希望していた金融機関に内定を貰い、新社会人になることに夢を膨らませていました。ところが、ある日バイトを終え下宿に帰ると、その会社から、「勝手ながら内定を取り消したい」と一方的な連絡が来ました。突然、頭を殴られた様な事態に、茫然自失。

既に、金融機関の採用活動は、ほぼ終わりに近づいていたので、この先自分はどうなってしまうのだろうと、大きな不安に押しつぶされそうになりました。居ても立っても居られず、翌朝牧師館を訪門し、牧師に辛い状況を話したところ、牧師からこの御言葉を示され、二人で祈る機会が与えられました。祈りながらも涙が止まりませんでした。

状況は何も変わりませんが、少し心が落ち着き、前に向かって進む気持ちに変えられました。改めて祈りのうちにスタートした就活を進めていくうちに、神さまからの導きで他の金融機関から内定を頂くことが出来ました。就職した金融機関では、融資業務の希望は叶わず法人の不動産仲介業務に従事することになりました。

何度も自分の思いを超えた結果となりましたが、この不動産業務の経験が、定年を迎え、第二の人生に於いても活かされ、今に至り、いきいきと仕事が出来る感謝の毎日です。

私たちを愛し、いつも共にいて下さり守り導いて下さる神様を信頼し、心の内を打ち明け、祈ることが出来ることは、私たちクリスチャンにとっての特権、大きな恵みです。 

(H.K. 60代)


2025年3月23日日曜日

神様のお恵み

ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方にくれても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ばされない。

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 4章 7節~9節

いくつになっても、試験のときは、緊張します。私は、数年前、施設認定要件に必要な新規資格取得のため、数年の研修、実務経験を積み、書類審査に合格しました。いくつかの行程を経て、最終試験は、筆記試験、面接試験でした。面接試験(東京)は、受験者の帰路を優先され、遠方から始まり、私は最終組になりました。面接後、泣きながら帰る受験者もいると聞く中、面接試験までの数時間、ひたすら待ちました。

私は、最後のひとりになりました。しかし、焦っても仕方ないので、ラジオ体操みたいなストレッチをしていた時、このみことばが浮かび、私を勇気づけてくれました。

私は、私の行いや努力でいま、ここにいるわけではない。すべては、神様のお恵みによるものであったこと。これまでも神様がお導きくださったのだから、これからの行く道も、神様がお導きくださること。これからの道も、どうか神様が良しとされる道を導き、用いて下さいとお祈りしました。

これまでも神様がともにいてくださり、この瞬間も、これからも、神様がともにいてくださると改めて思えたとき、神様の大きな御手のなかにおゆだねできる喜びを感じました。

私は、とっても口下手ですが、(ラジオ体操と?)みことばに支えられて、意外にハキハキと面接試験を終えることができました。

神様が導いて下さり、与えて下さったいまの役割を、神様が良しとされるその時まで、果たして行きたいと思っています。

清弘先生が、以前、お話下さいました。「人生は、神様の宝物探しですね。みことばを求めて歩んでいきましょう。」と。日々の生活のなかに、聖書のみことばのなかに、神様の宝物がたくさんあります。私のような器でも、用いてくださることを感謝し、楽しみながら宝物探しをしていきたいと思います。

(E.O. 40代)


2025年3月16日日曜日

ぶどうの木の枝が結ぶ豊かな実

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かな実を結ぶ。

新約聖書 ヨハネによる福音書 15章 5節

ジョン・ストット著『日毎の聖書』(いのちのことば社、2017年)から、上の聖書箇所について大切なことを学びました。次のような事柄です。

「実に多くのクリスチャンが、実を結ぶとはできるだけ多くの人々にキリストを信じさせることだと考えているのには、驚かされる。そして伝道こそが、救われてクリスチャンになった者の重要な役割であると考えている。しかし、聖書によって聖書を理解するならば、神のぶどう園で結ぶべきぶどうの実とは、公義や正義のことである。一方、新約聖書で御霊の実というとき、それはキリストに似た性質のことである。イザヤ5章、ガラテヤ5:22~23、そしてコロサイ1:10を参照のこと。」(同書373頁下段)

伝道がクリスチャンの重要な役目ではない、と言うのではありません。冒頭の聖句をほかの聖書箇所と関係づけて読むときに言える「豊かな実」とは、愛・喜び・平安・……といった、キリストに似た性質のことだというのです。

そして伝道への思いや行動は、単なる実践の積み重ねや人間的努力ではなく、神様のぶどう園にとどまることで得られる実を育み成長させることによって溢れ出す、ということではないでしょうか。どうやって育み成長させるのか、……それは神様に直接聞いてください。

(H.M. 70代)


2025年3月9日日曜日

キリストの愛に留まる

だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章34節

神さまの前で、今まで犯してきた罪を悔い改めて、クリスチャンになっても、神さまに喜ばれないことをしてしまうことはあります。罪を犯してしまうのです。でも、神さまが望んでおられることは、私がそんな自分を責めることではなくて、キリストの愛に留まることなのです。

 イエスさまは、繰り返し罪を犯してしまう、弱い私のために執り成してくださるお方です。私が罪を自覚して、なによりも、父なる神さまに「ごめんなさい」と謝ることができるように、イエスさまが導いてくださり、助けてくださいます。そして、神さまに喜ばれる歩みができるようにと、日々、聖書の言葉によって導き、上よりの力によって、助けてくださるのです。言ってみれば、イエスさまは、私のコーチであり、そして、全面的な味方です。とても心強いとともに、慰められ、励まされます。

 イエスさまがそのように私たちを執り成すことができるのは、イエスさまが十字架で死なれ、神さまの力によって復活させられたからなのです。イエスさまは私たちの罪を担って死んだだけではないのです。復活したのです。それは、罪と死に対する勝利でした。だから、私たちもキリストの愛に留まることにより、日々、罪に打ち勝つことができる道が開かれたのです。

(K.T. 50代)


2025年3月2日日曜日

御心のままに

父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。

新約聖書 マタイによる福音書 26:39

父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。

新約聖書 ルカによる福音書 22:42

わたしの心の中にいつもあるイエス様の祈りです。自分本位になりそうなとき、怖くてたまらないとき、心が暗闇に襲われるとき、この祈りがわたしの光となっています。

ちょっとこれ嫌だな、憂鬱だな、なんていうレベルではなく、心身が壊されるような辛苦に耐えなければならないとき、イエス様のこの祈りがわたしの支えでした。

友に裏切られ、十字架に釘付けにされる前の夜、神の子であるイエス様は「できることなら、この杯(苦しみ)を取り除けてください」と祈られました。イエス様でさえ、苦しみを取り除けてくださいと祈られた、このことがどんなにわたしに力を与えてくれたか。今、現在苦しみを強いられることも辛いです。しかし、そのような日が先の未来に必ずあるとわかっているときもあります。「大切な人の死」はその一つかもしれません。「その日が来ませんように」、「できるならば、この苦しみを取り除けてください」、誰もがそう願うと思います。

イエス様の祈りは続きます。「わたしの願いではなく、御心のままに」。

苦しみに引き裂かれていたわたしの心を守り、支えてくれたのは、イエス様のこの祈りです。今日も明日もいつもこの祈りがわたしの心を導き、守ってくださると信じています。

(Y.S. 30代)



2025年2月23日日曜日

救いの右の手

わたしは主、あなたの神。
あなたの右の手を固く取って言う
恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。

旧約聖書 イザヤ書 41章 13節

昨年7月に大切な友人を亡くした。出産後に出会ったのに、まるで姉妹のように心が通じて、ワンオペ育児を共に戦った戦友のような存在。いつも元気だったのに、原因不明の体調不良が続き、検査入院したと思ったらそのままあっけなく召されてしまった。

いろいろな後悔に襲われ、これからのことを考えて呆然となっていた時に、自分を落ち着かせようと聖書を開いた。20年ほど前のメモが挟まっていてたまたま開いたのがこの箇所で、メモにはこのようなことが書いてあった。

「私たちは、主イエス・キリストの手の中に神の御手が示されていることを自覚して、自分も他の人を支える手となるよう教えられていることを覚えておかなければ~」

友人は朦朧とするなかで私に向けて「Thanks。だいすき」とメモを残してくれた。ヨロヨロの字なのに、私には輝いてみえて宝物になった。

神のみ手と友人からの言葉、両方から支えられていることに感謝して、自分を奮い立たせ、彼女の一番の気がかりであった子ども2人と我が子たち、4人をしっかりと支えていきたいと思う。

 (M.M. 40代)


2025年2月16日日曜日

日々の生活の中で

主はあなたを見守る方
あなたを覆う陰、あなたの右にいます方

旧約聖書 詩編 121編 5節

ある日公園で行っているラジオ体操の時、どんよりした空から雨が降り出してきました。濡れないよう大きな木の近くに移り体操を始めました。途中空を見上げた時に木の葉が雨をさえぎってくれている様子に、神様もこうして大きな御手で私たちを守ってくださっていると気づきました。普段の生活の中でふとした時に主の御臨在を感じられることに感謝します。

 (M.A. 60代)


2025年2月9日日曜日

迷い出た羊

ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。

新約聖書 マタイによる福音書 18章 12節

私たち1人1人は本当に小さな者です。毎日曜に教会に通って祈りを捧げているクリスチャンというのは「品行方正で高潔な人」のように思われるかもしれませんが、そんなことはありません。人間である以上、誰もが小さな罪を心の中に抱えています。でも神様だけはそれを全てご存じです。ご存じの上で、いつも1人1人を心にかけ、いつでも憐れみと赦しをもって私たちを迎え入れてくださいます。

たとえ一時的に神様の元を離れてしまい、御心に背く生活をしていたとしてもです。この聖句にあるように、神様はご自分の群れを離れた一匹を根気よく捜し出し、見つかれば心から喜んで迎え入れてくださいます。

実は私の家族の1人も、神様の家族としていただきながら、ここしばらく教会を離れてしまっています。でも「神様だけは何もかもご存じで、いつでも喜んで迎えてくださる」ことを伝えられたら…そのためにこれを読んでくれないかな、と秘かに願い、祈っています。

 (N.N. 60代)



2025年2月2日日曜日

主の御心を知る

人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。

旧約聖書 ミカ書 6章 8節

長いこと生きていると、いろんなことがある。
人との関わりのことで考えてみれば、仕事の仲間、友人、家族とも、話し合ったりする中で、行き違いや、誤解を生じることがある。
そんな時、いやな気分になったり、思わず憤慨してしまうこともある。
自分の正当性を誇示したくなる。むしろよく考えてみれば、言わなくても心の中では、そんなふうに思う自分に気がつく。そして、私の心は落ち着かなくさ迷ってしまう。

時間が過ぎて、
祈り、やっとたどり着く。また違う方向に行こうとしていた。
大事なことは何なのか?
神の御心を知ること、「へりくだって神と共に歩むこと」に気がつく。
何度も同じことを繰り返す私なのです。

 (M.N. 70代)


2025年1月26日日曜日

倒れないように支えてくださる方

あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びを持って栄光の御前に立たせることの出来る方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。

新約聖書 ユダの手紙 24-25節(新改訳聖書)

私の長女は7歳の時に てんかんの発作が始まりました。けいれんがなく突然床に倒れるだけだったので、最初はそうだと気づきませんでした。何かにつまずいたか、バランスをくずしたぐらいに思っていたのです。でも、日を追うごとに転ぶ回数が増え、主人は医者に見せたほうがいいと言いました。

病院の先生は脳波を見て、てんかん発作だとおっしゃいました。薬を処方していただき数か月間は発作がなかったのですが、その後また発作を繰り返すようになり、薬を変えてもそれは収まりませんでした。

毎日何度も床に頭から落ちるので顎が傷つき、両目にも打撲による黒いあざができました。娘と外出するとき、私は彼女の腕をしっかり握るようにしていたのですが、発作の衝撃は強く、突然電池が切れたように彼女の体は私の手から離れ、地面に体を打ちつけていました。そんな日々の中で浮かんだのが上に掲げた聖書の言葉です。

この聖句から新しい意味をいただきました。私たちも娘と同じだということです。どんなに努力しても、自分で自分をコントロールできないのです。気がついたら人を傷つける言葉を発していたり、自分かわいさに噓をついたりします。自分の都合と安寧を大切にするあまり、周囲の人々への気配りも忘れがちです。

上の聖書の言葉は、私たちが毎日神さまの言葉に耳を傾け、助けてくださいと求めるなら、神さまは私たちが物事につまずかないようにしてくださる、と約束しています。この真理に目覚めた瞬間、私は大きな慰めを得たのでした。

 (C.M. 60代)

*1988年生まれの娘は今、関東圏にある医療センター内の療育施設で暮らしています。